主人と下僕 1

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主人と下僕 1

 流れる景色をぼんやりながめて、美桜は困惑がちに何度目かわからない視線を運転席に向けた。 (聖魔も車の運転するのね……)  如月シュウという青年だった。  車は彼のものらしく、黒の四駆で、大きな車体が彼の体格に合ってはいる。ただ、ナビやETCもついている車内がなんだか違和感満載で、美桜は落ち着かなかった。  巽老人の屋敷は神奈川にあった。そこから都内にある美桜の自宅まで、二時間近くは車を走らせている。美桜が帰る、といった以上、彼がセットで付いてくるのは必然のようだった。  小さくため息を落として、美桜は伯父から渡されたメモをあらためる。  伯父の連絡先と、巽家の住所と電話番号だった。如月シュウという人のものはない。  伯父は帰り際に固く美桜に約束させた。何かあったら、必ずシュウを呼びなさい、と。主人の呼びかけにどこにいても下僕は駆け付ける──。  伯父には申し訳ないが、まったく現実味がない。 (スーパーマンかって……)  遅まきにツッコミを入れながら、美桜はスマホを取り出して連絡先を登録した。  ナビの声に目を上げると、同じく耳にした猫が美桜の隣で身を起こした。ン―、と猫そのもののしぐさで伸びをする。なぜだか同行してきたタマだった。  窓の外に目をやると、「なんか下町っぽい、しょぼいとこに住んでるわね」といらぬセリフが飛び出す。美桜は苦々しさをこらえて運転席に声をかけた。 「その先の──赤茶色の、レンガ塀の建物です」  青年は聞いているのかいないのか、無言で車を路肩に寄せて止まった。美桜のアパートの前だった。  とにかくこれで青年からも解放されると思うと美桜は安堵した。  昨夜のふるまいに理由があったのはわかったが、それでも緊張を覚えさせられる相手なのに変わりはない。  礼を言って降りようとしたそこに、タマが爆弾発言を落とした。 「じゃあ、美桜。シュウにエサやってね」 「……はい?」  なにか変なことを自分は耳にした。空耳か。 「主従契約を結ぶと、精気のやり取りをするの。なにより主人からもらわないとダメ。一匠が言ってたでしょ。欠かせないエネルギーだって」  え、と固まる美桜を置いてタマは青年に指示する。こっちに来て、シュウ、と。  エンジンをかけたまま無言だった青年だが、タマの言うことは否定せず従った。運転席を降りると美桜と反対側のドアが開いて、大きな身体が後部座席に乗り込んできた。  え? とまだ固まったままの美桜を残して。 「聖魔同士だと肌を触れ合わせるものだけど、シュウは下僕だしね。やっぱり、心臓の上がベストだと思うけど」  ちらり、と凝固している美桜に目を投げた。 「ま、お子様の美桜にはムリね。頸動脈辺りでいいんじゃない?」  そう言ってタマは助手席に移ってしまう。彼との間にさえぎるものがなくなって、美桜はうろたえた。  音がしそうなぎこちなさでタマの方に首を向ける。 「な、ナニをしろ、って……?」 「だから、精気。あんただって水飲んだり食べ物食べるのは口からでしょ。口から精気を分け与えるの。昨夜シュウがやったみたいに」  本格的に泣きだしそうになった。  タマがいうのは、昨夜この青年が美桜の傷口に口をつけて、そこから熱い奔流が身体中に走った感覚のことだろう。たしかにあの時、美桜の内を蝕んでいた病のようなものがかき消えて、力がみなぎった。あれを精気というなら納得もできるが、同じことが自分にできるとはまったく思わない。  しかも、この青年に……? とおそるおそる上げた眼差しに、彼は無表情で返した。  昨夜のような眸の鋭さは消えていたが、間近にしたその体躯の大きさと迫力に美桜は恐怖していた。  ムリ、ムリ……ッ! と心で叫んで、しかし、このメンツでムリ、という言葉も受け入れられないのはわかっていた。  どうしたらいいのかわからず、ただ美桜は固まっていた。  と、タマが大きなため息をついた。意外なことにすぐにキレなかった。 「シュウ。お手本見せてあげなさいよ」  え、と美桜が反応するより、タマと同じように息をついた青年がかるく眸を伏せ、行動に出るのがはやかった。  固まる美桜の腕をつかんで引きよせ、バランスをくずした彼女の顎をよそに向けると、その首筋──耳の下あたりに口付けた。 「ひゃ……ッ」  ビックリしてふりはらおうとしても、ビクともしない強さだった。  なにより───。彼が口をつけたそこから、昨夜も感じた奔流が美桜を支配した。  昨夜逢ったばかりの男性が自分の首筋に口をつけている事実とか、髪の毛が彼の鼻先にふれているとか、すぐそこに顔があって、男の人の唇の形とかその熱さとか息遣いとか──全部がふっ飛んだ。  全身をかけぬけていく、目まいのする奔流。血液のひとつひとつが逆流するような、見たこともない絶頂に追い上げられていく、その感覚。  彼が顔を上げても美桜は身体に力が入らず、ふらりと倒れかかった。心臓がいやにその存在を教えて脈打っていた。  息が切れているのもなんだか恥ずかしくて、両肩を支えられている青年から、なんとか美桜は身体を引き起こした。それでも、身体の主導権がなかなかもどらなかった。 「──同じようにやればいいのよ」  タマの口調はあっさりしている。  無茶な、と美桜は思ったし、彼もそう感じているのではないかと、すがるような思いでこわごわ目を上げた。  やはりそこには、感情のうかがえない眼差しがあった。  美桜はなんだか脱力した。彼にとって今の行為は人工呼吸的なものであって、別段、なんらかの感情や羞恥を覚えるものではないのだと。  変に意識する自分がバカみたいだ。  えーい、やりゃーいーんでしょー! となかばやけくそになって、美桜は挑むように青年を見上げた。  昨夜は怖いばかりだったが──今もその迫力が怖いが、彼の顔立ちは端正だ。いわゆるマッチョ系の筋肉質な顔立ちではなく、精悍な凛々しさがある。  だからよけいにその行為が恥ずかしいのだが。  意志の強そうな眉目と、感情の見えない鋭利な眸。喜怒哀楽が想像つかない鉄面皮。  今日はいったいなんの試練日だ、と日ごろの行いをうらめしく思う。シートに手をついて、ソロソロと彼に近付いた。  きっとだれかが外からのぞいたら、彼女の家の前で車を止め、別れを惜しんでいるカップルに見えることだろう。  だが美桜の心境としては、おとなしくしている猛獣にかみつかれないように──それこそ、決死の思いで手を伸ばしている気分だった。  日に焼けた肌と人の体温を唇越しに感じて、心臓が破裂するかと思うくらい恥ずかしかった。  あの人と違って、彼にはタバコのにおいも衣服の柔軟剤のにおいもしなかった。  どうすればいいのかわからず、ただ美桜は身体中をかけめぐった感覚を思い出し、伝わりますように、と祈るばかりだった。 「…………」  心の中で十秒ぐらいは数えた。鼓動がはやくて、止めていた息が限界だった。 「で、できまし、た……?」  離れておそるおそるたずねると、彼の目の中の自分は顔が真っ赤だった。  その眸の色がシラッと冷たく、答えを語っていた。  自分のなけなしの勇気がガス漏れしていく脱力感で、美桜はガックリ肩を落とした。タマがそれに追い打ちをかける。 「ヘタクソ」 「だって……! わかんないよ、こんなの!」 「開きなおんないでよ。シュウはご飯がもらえないと死んじゃうのよ。あーあ。カワイソ」  口振りが軽くて、それこそペットにエサをやるような口調だったからよけいに混乱した。  救いの吐息はそこで入った。 「二、三日もらわなくても、すぐにどうこうなるわけではありません」  声の主は青年だった。低くて雰囲気に合った、深い静かさだった。 「ま、シュウは体力あるからね」とタマが同意する。でも、と美桜に真剣な目を投げた。 「あんたは毎日もらわなきゃダメよ。美桜」 「え。な、なんで」  あんたねえ、とタマのあきれたため息がでる。 「ちゃんと一匠の話聞いてた? あんたの周りには邪気がたかりやすいの。シュウの気配が身体にしみつけば隠れ蓑になるから、毎日もらいなさい。ってか、だいたいあんた、自分で精気の摂取のしかたもわかってないじゃない」 「わ、わたしに拒否権は……」 「あるわけないでしょ」  スパンと一刀両断され、何度目かわからず肩が落ちた。 「あ……えと、送ってくれてありがとうございました」  とにかくはやく家の中に入りたい。ペコリ、と頭を下げると、かるい吐息が落ちた。  顔を上げた美桜の前で青年は車を降りる。車体を回って美桜の側でドアを開けた。  紳士的な行動が意外で、ちょっとぽかんとしてしまった。どうも……、とぎこちなくお礼をいって草履の足でステップに踏み出す。車高もある車だから着物姿で乗る時も苦労した。  と、美桜が身体の向きを変えるのを待っていたように、シュウが手を出してひょいと彼女を外に降ろしてしまった。  美桜は一瞬、自分がぬいぐるみか子どもになった気がした。それぐらいの気軽さだった。  あぜんとする前でブーツを入れた袋が下ろされる。あわてて受け取って、もしかしたら荷物ぐらいの気安さかも、と思う。彼が見下ろしている視線に気付いた。 「──何かありましたら、必ずお呼びください」 (……何かって、ナニ)  いつもの生活圏内にもどってくると、どうしてもすべてが悪い夢か冗談だったような気分がおしよせる。  それを見越したように青年の眸が冷ややかになった。 「お約束いただけないのなら、巽家へ連れ戻させていただきますが」 「え……! あ、いえ……。えと、あの……はい──」  どう見ても外見年齢は美桜より若い、二十代前半の若者にお説教されるアラサー女性の図だった。  ぷぷッと笑いをもらしてタマが続いてくる。 「じゃあ、シュウ。しばらく美桜の住まいには私が付くから、あんたは周辺のお祓いよろしく」  えっ、と美桜は驚く。いつの間にそんな話になったのだ。チロリ、と人間くさい猫の眸が向けられる。 「あんた、私がいないと絶対、全部が夢だったとか思うでしょ」  至極ごもっともだったので美桜は黙した。  タマは周辺を見やりながらトコトコ先行している。通りがかる人がいたために声は押さえたようだが、その視線はあからさまに「セキュリティやばくない? この建物」と評していた。  美桜は急いで彼に頭を下げるとタマの後を追った。アパートの階段を上がって、バックの中から部屋の鍵を探す。  鍵を開けて、なれた芳香剤の香りが広がる家にもどって、ドッと息をはいた。  ずっと、ひどく緊張しっぱなしだった自分に気づいた。案の定、お腹を空かせた飼い猫がお出迎えしてきて、ちゃっかり上がりこんだタマが「ずいぶん年寄り猫ねえ」とあいさつしている。  美桜は内心、彼女が子どもの頃から逢っていたならどっちが年寄りだ、と思ったが、口にすれば倍の罵詈雑言が返ってくるのは学んだので口をつぐんだ。  1DKの部屋は玄関とキッチンが共同だ。草履を脱いで荷物を置き、飼い猫にちょっと待って、と声をかけながら寝室兼自室に入る。ベッドを見たとたん、吸い込まれるようにそこに突っ伏したい誘惑にかられた。  が、伯母の形見の着物を着ている事実にあやうくとどまった。 「この猫、なんて言うの?」  茶色の三毛猫はむかし知人から、殺処分になりそうな猫がいるから飼い主を探している、と話がまわってきて引き取った。去勢はしたが、けっこうなおじいちゃん猫である。 「……茶太郎」 「ふうん。独身女が猫を飼うと婚期を逃す、って話があるわよね」  ぐっと、美桜はこめかみの青筋をこらえた。ハンガーをかけて帯を解き、着物を脱いでかけていく。  ため息をついた。 「男はもういらない」  肌襦袢姿でキッチンにもどり、茶太郎にエサをやってお風呂にお湯をためはじめた。待っている間ベッドに腰掛けてホッと息をつくと、倒れるように横になった。  昨夜から今までのすべてが目まぐるしく感じた。 「ねー、美桜。あんた男経験どんぐらい?」 「はぃ……!?」  思わずはね起きた。部屋のあちこちをチェックするように歩きまわっていたタマが美桜をふりかえる。 「あんたってさ、その外見で損してきたタイプでしょ。美人系で人目につくのに、かえって男がいそう、って思われて、コンパとかでもスルーされちゃう。あんたの性格からいって、自分から積極的にいくわけでもなし。結果、男経験も恋愛経験も少なくて、ロクデナシに引っかかるパターン」  口元がアワアワした。 「お、……おじさんが調べたの?」  とたん、タマがふきだすように笑いだした。 「やーだ。一匠だってあんたの恋愛事情までは知らないわよ。全部私の推測。ってか、なに? 大当たりってマジうけるんだけど」  大笑いする猫を見て美桜はこめかみをもんだ。  落ち着け自分。なぜに猫と女子トークをしなければならんのだ。……いや、タマは正確にいうと猫ではないらしいのだけれど。 「ま、そんなロクデナシはさっさと過去にして、次に行きなさいよ。あんた、見かけは二十代半ばで通るし。ってか、たぶん数年前から年取ってないし」 「はあ……!?」  ほんとうにこの猫は様々、爆弾を落としてくれる。  すました顔つきで美桜を見やった。 「においが三十路女のものじゃないのよね。ロクデナシ男とのゴタゴタとか離婚問題やらでなんか老けた顔しちゃってるけど、精気の取り込み方覚えればもっと若返るわよ」  自分の生活圏内にもどれば、すべてが悪い夢だったと目が覚めるんじゃないか──。  甘い期待は、そもそもタマがついてきた時点でありえなかった。 「わ、わたしも、年取るのが遅いの……?」 「あんたの場合、通常の聖魔ともちょっと違うからはっきり言えないけど。でも年相応のにおいじゃないのはわかる。──実年齢より若く見える、って言われるんじゃないの?」 「妹の奈美に若造りって言われるけど………」  子どものいる家庭と、そうじゃない家との差だと思っていた。  奈美の家には生活のにおいがあふれていて、帰宅してもシンと冷たい空気の家とは違った。そういう家しか、つくれなかった美桜とは違うのだと。 「別にいーんじゃないの? たいていの人なら、老化現象が遅くなる体質、って言われたら大喜びするもんでしょ」  美桜は内心うろたえた。 「そうだけど……」  老けた顔といったり若く見えるといったり、いったいどっちなのだ。一瞬、ちょっと喜んだものの、でも、と思いあらためた。  通常、親は子どもより先にいく。でも、妹の奈美やその子どもたちが年を取っていっても、自分はさほど変わらず周りの変化から置いていかれるだけなんて。  あらためて、美桜は聞かされた話がおのれに迫るのを感じた。  一匠伯父は、蓉子伯母は、どうやってそれを受け容れたのだろう。  考え込みそうになって、顔を上げた。すました顔で見つめているタマに、ずっと訊きたかったことを口にした。 「……ねえ、タマ。なんで、わたしのことをみんなに黙っていたの?」  見つめ返してくる眸をそらさず受け止めた。タマの返答は愛想がなかった。 「美桜。お湯、あふれてるけど」  はッと、美桜もその音に気がついた。ぎゃー、とあわててお風呂場に走った。  伯父の言うとおり、彼らはすべてを打ち明けるわけじゃないのだと、足袋をぬらしたタイルの上で気がついた。
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