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主人と下僕 2
月曜の朝は、勤め人や学生にとって一番憂鬱な時間である。
また一週間がはじまってしまった、という気鬱とだるさ。そして、一週間の中でも一番電車が遅延しやすくて朝からげんなりさせられる。
定位置から電車に乗り込み、ほぼ同じ箇所に立って網棚にお弁当袋を置いた。吊革につかまって見慣れた景色をながめていると、いつもの日常だ、と美桜はホッとしてしまった。
昨日の日曜日は駅前に自転車を置きっぱなしなのを思い出し、今日の通勤を考えて取りに出かけた。途中、着物と長襦袢をクリーニングに出し、痛い出費にトホホと泣けた。
ついでに駅前で買い物をすませ、なぜかまたトコトコと付いてきたタマが自転車の後ろにちゃっかり乗っかって、愛嬌のある光景とは裏腹に「猫だー」と近寄ってきた子どもたちに毛を逆立てて威嚇していた。
あわててとりなした美桜だったが、タマの様子はツンとすまして、「私をなでようなんて百万年早いのよ」と言っていた。
じゃあ付いてこなければよかったのに、と美桜は内心こぼした。小型犬を連れ歩く人の姿はめずらしくないが、猫がおとなしく人の後をついて歩くのは注目を浴びる。
はやく帰ろう、と自転車にまたがろうとしたそこに立ちふさがった人影だった。ぎょっとして顔を上げると、如月シュウだった。
なんで伯父もこの青年も、音も気配もなく人に近付くのか。
いや、なぜ美桜の居場所がわかったのだろう。
たずねる前にタマが荷台から降り、あとよろしく、というように尻尾でシュウの足を叩いて物陰に消えた。
タマ、と思わずすがるような声で追いかけてしまった。人前ではしゃべらない猫でも、この青年と二人っきりにしないでほしい。
シュウは美桜の様子を一瞥すると、淡々とした口調でたずねた。
「──何か、変わったことは」と。
事務的な感じだった。
それでも条件反射で彼を見るとおびえてしまう。……ありません、となんとか答えて、おそるおそるたずねた。
「なんで、わたしの居場所がわかったんですか……?」
「主人の居場所はどこにいてもわかります」
「へ……!?」
反射的に美桜はその場から瞬間移動したくなった。できるものなら。
日曜の夕方、駅前の商店街。
平均的な身長の日本人の中で、彼は頭ひとつ以上飛び抜けている。冬物のコートの上からもわかる鍛えられた体躯。周囲を寄せつけない雰囲気。その風貌といい、明らかにこの場では浮いて周囲の注目を浴びまくっていたのだ。
なのに、人目もはばからず、表情も変えずに口にした青年に、美桜ははじめて伯父をうらんだ。
もうちょっと、対人関係に配慮がある人を寄越してよ! と。
近くにいて耳にした人たちの好奇な視線にいたたまれず、「失礼しますっ」と自転車を押して足早に立ち去ろうとした。
青年はいっさい意に介した様子なく、「お送りします」と余裕の歩幅でついてきた。
自転車に乗って逃げるわけにもいかなくなり、美桜は目立つ青年を従えて、行きと同じく歩いて自宅までもどるはめになった。倍の注視を身体中に浴びながら。
「……今日は、車はどうしたんですか」
間がもたずに訊いたのは、車の方がどれだけ人目にさらされないのかをさとったためだった。
返されたのは、近くに停めてあります、と簡潔な答え。なんとなく……事務的というより規律正しい軍人のようなにおいをかいだ。
そう思って疑問がわいた。
「あの……一匠伯父さんと、どういう関係なんですか?」
投げられた視線が、美桜と隔意あるもののそれだった。
冷たいものを飲まされたような冷ややかさと拒絶。ただ一言、「自分の上官です」と返された。
それ以上は踏みこませない口振りに、美桜の勇気もしぼんだ。社交性にも問題アリ、と内心の評点をつけながら、心の中はちょっぴり傷ついた思いだった。
しかし、と美桜はまだ整理のつかない気持ちで思い直す。
実感は全然わかないが、たぶん彼は美桜の護衛をしてくれているのであり、突然彼女に生殺与奪の権をにぎられてしまった──らしい、のだから、言い足りないほどの不平不満があるのは彼の方だろう。
そう思うと、やっぱり実感はなくとも、彼に対して複雑な気持ちになった。
それで、もう一度勇気をふりしぼった。
「あの……昨日、聞きそこなっちゃったんですけど……その、契約を破棄することとかって、できないんですか?」
「できません」
ストライク、空振り。
美桜はめげずにもう一度、バッター席で迎撃の意志表示を示してみせる。
「あの、でも……なにか、方法とか」
青年の眸は静かで冷ややかだった。
「──ありません」と。
迎撃も敗者も意にしない無関心と──拒絶。
美桜はその時、直感的にさとった。彼とはなにかが違うのだと。自分の内に抱えた冷えた一角とも違う。覚悟とか、抱えてきたもの。
なにか、根本的なものが──違う。
氷のような拒絶。
それに返す言葉をもたなくて、自分のうすっぺらな言葉ではなにも届かないのをさとって、美桜はただ無意識に自転車のハンドルをにぎりしめていた。
そのまま黙って歩き続けて、自宅への近道の公園を横切った。ななめ掛けのバックからスマホの震動が伝わってちょっとあわてた。
自転車を止めて取り出すと、一匠からの電話だった。
「──はい」
電話に出ると、『美桜か?』と声が返る。ちょっとホッとした。一匠おじさん、と答えてちょうど目にしたベンチに腰掛けた。
この公園は住宅街の中にあって昼間でもひとけがない。駅近の商業施設の方に大きくて遊戯具も豊富な広場があるためだ。日曜日などは特にそちらの方が賑々しい。
どうしたの、と訊くとシュウと同じことをたずねてくる。何か変わりはないか、と。
「ないよ。あ……タマがどっか行っちゃったんだけど」
ああ、ここにいる、と返ってきて美桜は思わず立ち上がった。
この青年のように伯父も近くにいるのかと思った。それで辺りをふりかえってそう訊くと、伯父がかすかに苦笑する気配だった。
『いや──巽のお屋敷だ。タマたち妖には彼らだけの移動方法がある。私から精気を得たから、おまえのところにもどるよ』
それで思い出した。もうひとつの気億劫を。
「あの……おじさん」
彼には聞けないから、伯父にたずねるしかない。それでも彼の前で口にするのはためらいがあって、美桜はもう一度ベンチに座りなおした。
「えーと……あの、精気ってどうやって摂取するの?」
毎日必要? とも聞きたかったが、タマに怒られそうなのでやめておいた。
美桜の問いに伯父もあらためたように、ああとつぶやいた。
『そうだな。おまえは今まで意識していなかっただろうな』
どういうことかと首をかしげると、一匠は教え諭すようにいう。
聖魔にかぎらず、人も普通にそれを摂取しているのだと。たとえば食物の中に。清涼な水や空気の中に。それが聖魔の力に目覚めると、それとはっきりわかるようになる。ただ、と。
『こればかりは個々の感覚だからな……』
伯父の声にも少し困ったふうがあった。伯父が困れば美桜はもっと困る。
「……じゃあ、おじさんは精気をどういうふうに感じてるの?」
『私は風のように感じるな。……そうだな。自分が好きなもの、なにを一番好むかを感覚的に捉えるといいかも知れない』
好むもの? と美桜は考え込む顔になった。父方の実家が営んでいる茶園では毎年新茶の時期になるとみんなでその味をたしかめる。小さな頃からお茶に親しんでいる美桜だったが、新茶の味はまた格別だった。
あれを口にした時の感動とか……? と考えて、でもだからか、と昨日の失敗の原因がわかった。
この青年と同じものを返そうとしても、感覚が違うからムリな話だったのだ。
うーん、と思い悩む電話の向こうで、伯父が水曜日は予定があるか訊いてきた。
「今週はなにもないけど……なんで?」
『会社の帰りに来てもらいたいところがある。シュウを迎えに行かせる。──美桜。色々と戸惑っているだろうが、徐々に慣れてもらうしかない。シュウはおまえの護衛に付いている。窮屈だろうが、しばらくは真っすぐ家に帰りなさい。いいな?』
ちょっとむうっと口をとがらせた。
伯父がいうのはつまり、護衛の彼の苦労を増やさないように夜遊びや出歩くのを控えろと、そういうことだろう。美桜が望んだことではなにもないのに。
『美桜』
伯父は指導官や教師のように必ず返事を求めてくる。美桜はしぶしぶ、はーいと答えた。
『シュウに代わってもらえるか』
目を上げて近くに立つ青年を見やり、美桜はちょっと反省した。望んだ事態でないのは、彼の方が大きいだろう。
携帯を渡して、一匠おじさんからです、と告げると身体に比した大きな手で受け取り、言葉を交わしはじめた。
が、彼は口重な伯父に輪をかけた無口らしい。伯父に対しても必要最低限の言葉しか発していない。しかも堅苦しい敬語だ。上官、といっていたから、そのせいかもしれないが。
いくらも待たずに「失礼します」というあいさつで会話が終わった。スマホを返してもらい、バックにしまいながら、美桜はそうか、と思った。
伯父と同じような軍隊とかにいて、それで伯父が上官だったから、伯父の命に従っているだけなのだと。だから美桜が必要以上彼に申し訳なく思うことはないのだろう。
しかし、あれ? とも思う。
(それで命までかける……?)
「──よろしいですか」
ふりむいたすぐそこにシュウが立っていて、美桜はぎょっと後ずさった。
「え、な、なにが」
かるく眉目をよせてシュウは淡々と告げた。
「精気を分けてよろしいですか」
「え……あ、そうか。そうですね……」
彼が美桜の前にやってきたのはそういう目的があったからだ。タマに毎日、といわれた以上、一日に一回は昨日と同じ行為をしなければならない。
心は全速力で逃げだしていたが、ここでゴタゴタ言ってもしかたない、と美桜は腹を据えた。お願いします、と。
一歩で美桜との距離をつめたシュウの大きな体格に、やっぱり美桜はひるむ。美桜だって小柄なほうではないのに、彼の前に立つとその影にすっぽりおおわれて、自分が子どもみたいに頼りなく感じる。
逃げだしたい身体を押さえて、昨日されたように横を向いてぎゅっと目をつぶった。
(だれも通りがかりませんように……!)
何かにかるく息をついたシュウが、無言で美桜のマフラーに指をかけて隙間を空けた。
あ、と気付いた美桜よりはやく、顎をくすぐるパーマをかけた髪をはらい、身をかがめて昨日と同じ箇所に口をつけた。
「……っ!」
声を上げないので精一杯だった。
身体中をかけめぐる熱い奔流。冷え切っていた指先や足のつま先まで一瞬で沸騰する。その熱さに。
浮かされるほどの熱に翻弄されて、息がせり上がった。シュウが顔を上げるのと同時に力の入らない身体が膝からくずれた。
やっぱり彼に支えられ、美桜はベンチに座らされる。身体がふらついて、ほんとうに熱が出たような気がした。
この人は、精気をどういうふうに感じているのだろうと思った。
氷のような拒絶と冷たさを見せるくせに、彼から分けられる精気は目もくらむ熱さで美桜を翻弄する。
冷たさと熱さ。どちらがほんとうの彼なのだろう。
なんとか息が整うのを待って、美桜は気まずく顔を上げた。彼から精気をもらうと、こんな状態になるのが恥ずかしかった。
直立不動の彼には、美桜が立ち上がって爪先立っても、その首筋には頭のてっぺんが届くぐらいだと認める。
迷ったが、座ってもらっていいですか、と交替をうながした。
おとなしく従った青年を前に、やっぱり躾のよい猛獣を前にしているような気分を味わう。
(迫力を無駄遣いしてるよーな……)
静かな眼差しに見つめられて、気分を引き締めた。
伯父の言っていた言葉を思い出し、毎年味わうあの感動を自分の中に再現するようにつとめる。
よし、と思って彼のほうに身をかがめた。その時、笑い声と話し声が響いて、ビクッと元にもどった。
美桜と同じように公園を横切る親子連れだった。彼女たちに気づくとちょっと好奇な目が寄越される。カップルの邪魔をしたとか思われていそうな色合いに、せっかくの気合いもなえた。
シュウの感情のない声がまた美桜をへこませる。
「──次の機会でけっこうです」
明らかに美桜が精気の感触をまだつかめていないのを見透かした様子だった。……すみません、とうなだれる美桜に口調はあっさりしている。
「自分に敬語はけっこうです」
「え……あ、でも」
昨夜は極度の緊張や疲れからか、タマとの会話もそこそこに就寝したため、この青年についての前情報は一切ない。
そしてあらためた。伯父からきちんと紹介されたわけでもなく、互いに名乗り合ってさえもいないのだと。
状況が状況だったが、彼におびえっぱなしの自分にも原因があるだろうと美桜は反省した。
「えと……あの、如月さんって、おいくつですか……?」
伯父の実年齢が見かけどおりのものじゃないのなら、この青年も見かけで判断してはいけないのだろうと。
少し、彼の眸がさっきも見た冷ややかな拒絶を走らせ、かるい吐息で伏せられた。
「二十二です」
「え……!」
約十歳差。なんで彼は外見どおりなの、と美桜はひるんだ。二十代前半。三十路女にはまぶしい若さだ。
しかし、若干二十二にしてこの迫力……と感心せざるを得ない。いったい、どんな育ち方をしたらこうなるのだろう。
「何か問題がありますか」
「ありません」
彼の眸の鋭さや迫力にはそう返すしかない。
もう一度吐息をついたシュウが今度ははっきり困惑げに視線をそらし、美桜はなんとなく、彼が歩み寄ろうとしている空気を感じた。
伯父になにか言われたのだろうか。しかし、明らかに彼の得手とするところではなさそうだ。
その様子は、おびえまくる子どもを前にして、どうしたらいいかわからずにうろついている獣の姿を思わせた。
美桜はとっさに笑いをこらえた。得手じゃないものを笑うのはとても失礼だ。──たとえ、心証が百八十度変わる可愛らしさを覚えたとしても。
「あの……如月さん。今さらなんですけど、わたし、高城美桜といいます。まだ……わからないことだらけですし、何かの間違いのような気がしてしかたないんですけど……。色々と、ご迷惑をおかけすることもあるかと思いますが、あの──よろしくお願いします」
ごあいさつは人の基本だ。迫力ある怖い鋭利な眸をひっしに見返して、美桜はぺこりと頭を下げた。
青年の反応は静かだった。沈黙になにか間違ってしまったかと、美桜はそろそろと顔を上げる。それで目にした青年の様子に、なんだか見てはいけないものを目にした気分だった。
青年は──シュウは、子どもみたいに無防備だった。
知らなかったものをもらったような、今までなかったものを目にしたような、奇妙な困惑ととまどい。
おのれに向けられている、という事実がもてあました子どものそれだった。
美桜も内心、けっこうとまどった。
彼はやっぱり伯父から命じられ従っているのだから、美桜が今さら年上の余裕であいさつしてみせたって、見当違いだったかなと。
すると、シュウが静かに立ち上がる気配があった。
「──如月シュウといいます」
低く深みのある声だった。見上げた彼に拒絶の色はなくて、静かに見つめ返してくる眼差しだった。
「一昨日は、大変失礼しました。存じ上げなかったこととはいえ、取り返しのつかないことをするところでした。──お許しください」
潔い態度だった。伏せられた眸と頭は堅苦しい軍人そのものだったが、彼の高潔な精神をも垣間見せた。
美桜もホッとして、しぜんに表情がゆるんだ。
「気にしないでください。わたしのほうこそ、たすけていただいてありがとうございました。これから──よろしくお願いします」
変わらぬ無表情なのに、年相応に見えたのがふしぎだった。
冬の夕暮れの、気温がさらに冷え込んでいく中でもちょっとだけ暖かい気分になって、自転車を押して帰宅の途についた。
アパートが見えたところで、どこからともなくタマが現れ、美桜は狐につままれた気分になった。
伯父の元にきたという話。神奈川の巽家にいるという伯父の話。
時間とか距離があやふやになる感覚で、ともかくもシュウに別れを告げて部屋に引き上げた。タマにそのことを聞くとあっさりうなずかれて、逆にそれがなに? と返されてまごついた。
どうやって神奈川までの距離をこんな短時間で往復したの、と聞いても、あんたに言ってもわからないわよ、とシュウに負けず劣らずの冷たい物言い。
タマたち妖は精気をどういうふうに捉えているか訊いても同様の答え。
むうっと、さすがに美桜も腹立たしさを覚えた。
「じゃあ──如月シュウって人のこと教えて」
「あら。男に興味持つようになったの? 昨日の今日ですごい進歩じゃない」
「そうじゃなくて……! だから──伯父さんたちと違って、あの人は普通に若いから」
「私たちのことに興味を持つようになった、ってことね。いいことじゃない」
「タマ……っ」
憤る美桜に猫はすまして、どこかやさしい口振りだった。
「その人のことは本人に訊きなさいよ、美桜。あんたなら、変に先入観がないほうがいい。一匠もそう思ったから、シュウをつけたんでしょうよ」
美桜はわからず困惑した。それにタマは静かに笑う。
「私たちのことも、別にそんな急がないでいいわ。あんたきっと、頭いっぱいになったら怪獣みたいに吠えるから」
「しないわよっ!」
明るく笑うタマに部屋は明るかった。
結局、肝心なことは訊き出せずに月曜の朝をむかえ、いつも通り時間に追われるように家を出た。なにも変わらない朝の光景にどこか違和感を覚え、同時に安堵した美桜だった。
かるく頬をつねって夢ではないことをあらため、ないよね……? とおそるおそる周囲を見回す。
通勤通学途上の老若男女。スマホを見たり、新聞を見たり、居眠りに船をこいだり、──なにも、変わらない日常。
美桜の護衛に付いているというシュウだが、あんなに目立つ人が同じ車内にいたら、一目でそれとわかる。
ゆえにナイナイ、と心で否定して、どこか物足りなく思っている気分は見ないフリで消した。
タマからも解放されると、ようやく自分を取り戻すことだけにひっしだった毎日にもどった気がした。
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