雨の夜 1

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雨の夜 1

 雨が降っていた。また雪に変わるのではないかという、冷たい雨。  晴天続きだった週の半ば。朝から止まない雨が降り続いて帰宅する人々の足を急がせた。  はぁ、と白い息を出して、美桜は自転車用の手袋をとりだした。本気で寒い。会社を出て顔見知りにあいさつをし、さて、どうしたものかと思う。  伯父から指定されたのは今日で、迎えが来る、とも聞いていたが、美桜は彼の連絡先を知らない。  月曜日、シュウは夜になって姿を見せたが、車の中で変わらぬやり取りを交わして別れた。どこのカップルだ、と美桜は自分にツッコミを入れている。  昨日はタマから、今日は来られない、と伝え聞いただけ。仕事が忙しいのだと。 (男の決まり文句……)  美桜が文句をいう筋合はいっさいないのだけれど。  白い息をもう一度はきだして、冬の夜空に溶けていくのを見、美桜は足を返した。  会社は大きな商業ビルのワンフロアを間借りしている。駅までの道はビルを出て向かったほうがはやいが、雨などが降る時は上階のビルとビルが結ばれた連絡通路を通る者が多い。少し遠回りだが信号に止められることもなく、ぬれずにすむからだ。  伯父にはあとで電話しよう、と少しだけ申し訳なさが先に立った気分で、そこにさしかかった。  他ビルからの連絡網もある駅へ開けた通路。途中の階下へつながる小さな入口から、息急き切って現れた青年だった。  美桜はちょっと、息をのんだ。  傘の存在など知らないように風雨にぬれたさまで、めずらしく息が切れた様子にも──なにより、野性味あるその迫力に。  シュウははじめから美桜を目指してきたように歩み寄ると、淡々と言葉を紡いだ。「──遅くなりました」と。 「あ……はい」  けおされた気分だった。それとも、彼がほんとうに会社近辺にまで現れた事実に、すがりついていたなけなしのリアリティが破壊された気分だったのか。  美桜をうながしてシュウは元来た入口に足を向ける。せまい歩道橋ほどの通路を降りて冬の雨の中に出た。  あわてて美桜は傘を広げ、それを持たずに先を行く青年に小走りで追いつく。 「如月さん……! 風邪引きます」  腕を上げて傘に入れる美桜の気遣いも、彼は冷ややかに一瞥した。 「自分たちは病にかかりません」  そうだった、と美桜の勇気はしぼみかかる。あの、でも! と反論した。 「雨が降っているのに傘を差さない人は、変に思われます」  しとどにぬれそぼった有様で、だがそれを気にもかけていない彼の様子は美桜には肯じかねた。  かるく瞬いたシュウが顎に伝わる滴をぬぐい、美桜の持つ傘に目をやってそれを手にした。 「──こちらです」  傘を奪われて美桜はうろたえたものの、シュウが彼女の言い分を受け容れてくれたのにホッとして一緒の傘に入った。それで気がついた。  傘を持つのとは反対の手。右腕から雨とは違う滴がしたたっていた。血だ、と気付いた美桜はビックリ仰天した。 「如月さん! 右手……どうしたんですか!?」  怪我以外にありえないが、動転していた。とっさに怪我の具合を見ようと手を伸ばして、それがサッと避けられた。  見上げたそこには冷ややかな拒絶があった。 「傷が開いただけです」  なんでもない、と拒まれて、でも、と言いかけたが、それ以上踏みこめなかった。  先日、シュウの腕には包帯が巻かれていたのを思いだした。傷が開いた、というのはそれのことだろう。傷が開くようななにかを、彼はしていたのだろうか。 (彼らは怪我をしにくい、って言っていたのに……)  建物をまわった一角、路上パーキングにシュウの車は停めてあった。美桜の駅までの通勤ルートだから、もう少し待っていればよかったのだ、と美桜は反省した。  ロックを開けてシュウは美桜を後部座席に乗せる。傘もたたんで渡され、自分は平然と冷たい雨の中で清算をして運転席に乗り込んだ。  美桜はやっぱり、もう一度勇気を出した。 「……如月さん。使ってください」  美桜の出したハンカチをシュウは一瞥した。 「けっこうです」とやはり返答は冷たい。エンジンがかかって暖房が入り、その暖気を感じても美桜はちょっと泣きそうな気分だった。  シュウの顔はいつも通りの無表情で、痛そうなそぶりもなにもない。  人間じゃないみたい、ロボットだよ、と心で悪態をついた。  雨の都内を車は走り、二十分ほどで目的地に着いた。美桜も名前だけは聞いたことがある大学病院だ。  シュウの怪我の治療かしら、と思い、でもこの時間だと受付は終了しているのではないかと思う。  慣れたふうのシュウに続いて、夜間受付らしい入口であっさりと警備員と話がつく。美桜は夜の病院内に足を踏み入れた。  照明も極力落とされた病院内はちょっと怖い。薬品の臭いと知らない空気のにおい。  シュウは迷うことなくひとけの少ない病院内を進み、エレベーターを使って上階に上がった。降りたフロアは照明が広がっていて少し安堵する。いくつかある部屋のうちの一室を、シュウはノックした。 「──どうぞ」  女性の声が返ってドアを開けたシュウが美桜をふりかえる。室内をのぞきこんだ美桜は、そこに五十代ぐらいの女性と伯父の姿を見つけた。 「一匠おじさん」  ホッとして踏み込むと室内は暖かかった。診察室というより研究室のような資料だらけの部屋だった。 「美桜。悪かったな。仕事帰りに」  デスクに向かって腰かけていた女性と何かを話していた様子だった。手にしていたファイルを閉じ、一匠は女性を紹介する。 「名取先生だ。この病院の脳神経外科を担当している。──美桜。いきなりで悪いが、健康診断を受けてもらえるか」 「え……!?」 「聖魔が定期的に受けているものだ。心配ない。実験とか悪用するものではない」  突然の話に美桜はひるんだ。  実感は全然ないが、美桜が伯父と同じ種族であるというのなら、身体の隅々まで解剖されるようなオカルトチックな想像がにわかに広がった。  一匠は見透かしたように少し笑いを浮かべる。 「名取先生と少し話をするだけでもいい。検査内容はすべて、あらかじめおまえに説明する。おまえが嫌だと思ったら、受けなくてもいい」 「……ほんとうに?」  伯父がしっかりとうなずいて、美桜は思い出した。──伯父は決して美桜を裏切らない。  わかった、と了承して名取女医にかるく会釈した。  伯父はファイルを女医先生に渡して話を通してあったようにあとを頼む、と部屋を後にしようとする。美桜は思わず伯父を引き止めた。 「あの……おじさん」 「私たちは表で待っている。──どうした?美桜」  美桜は迷ったが、ドア付近でガードマンのように立つシュウを見やった。 「如月さん、怪我してるみたいなんだけど」  告げ口したような気分だったが、彼は絶対自分から口にしないと思ったし、はやく手当てしてほしかった。  一匠の視線が向けられてもシュウは動じなかった。歩み寄った伯父がうながして彼はなんでもないように右袖をまくりあげる。  検分した一匠はやはりシュウと同じことを口にした。 「傷が開いたのか。──相手は」 「四、五匹。小物です」  しかし一匠はかるく眉宇をくもらせた。そうして美桜をふりかえる。 「美桜。精気の摂り方はまだつかめないか」 「あ……うん」  申し訳なくてうなだれた。やっぱりそれが重要なのだろうか。  伯父はかるく息をつく。仕方ない、というように。 「チャコ。隣借りるぞ」 「どうぞー」  かるい了承を受けて伯父とシュウは部屋を出ていった。同様に見送った名取女医からクスクスと笑い声が出る。 「シュウ君はほんと、むかしっから一匠さんにだけはワンコロのように従順ね」  とまどって見返した美桜ににこりと笑うと、手近の椅子を引き寄せてどうぞ、と勧めてきた。室内の温度に暑くなってきた美桜はコートを脱ぎ、バックと抱えてそこに座った。  そんな彼女を親しみある医師の顔で名取女医は見つめ、ああ、と引き出しをあさって名刺を差し出した。 「私、名取久子といいます。よろしく。美桜ちゃん」  名刺を受け取って白衣の胸元にある身分証明とを見比べ、きちんとした肩書にとまどいが大きくなった。彼女も伯父と同じ種族の人なのだろうか。 「まずは、少しお話しましょうか」  そういってジッと美桜を興味深そうに見つめる。美桜は困惑した。 「わたしのこと、ご存知なんですか?」 「ああ、ごめんなさい。一匠さんから資料を渡されていたから。──個人情報に関しては謝るしかないわ。必要なことだったとはいえ、本人には気持ちよくないわね。ごめんなさい」  ほんとうに申し訳なさそうに謝られて、美桜は首をふった。  最近、彼女のことを蓉子伯母と関連付けて見る人が続いたため、その繋がりかと思ったのだ。 「あの、先生も……聖魔、なんですか?」  名取女医の眉が面白そうに上がった。 「私? いいえ、ノーマルよ」 「ノーマル……?」 「彼らの間で、聖魔でない人間のことをそう呼ぶの。つまり、一般的な人間のことね。──美桜ちゃんは、聖魔を見極める目は持っていないのね」  確認事項のようにうなずく。美桜はもらった名刺にもう一度目を落とし、深まる困惑をそのままぶつけてみた。 「あの……先生は、聖魔を信じているんですか?」  社会的地位もある、普通に立派な大学病院の医師が、お伽話のような生き物の存在を信じているのかと思った。  伯父の話に半信半疑……というか、美桜の目には子どもも家庭も持っていそうな一般女性が、あの闇の塊やそれを操る得体の知れない子どもや、タマたち妖の存在を認めているのかと。  名取女医の眸が瞬いた。答え方を考えているようだった。 「そうね……。美桜ちゃんには信じられないことばかりよね」  うーん、と腕組みをして背もたれにもたれた。美桜を見つめ返して、ふっと微笑を浮かべた。 「私は、聖魔ではないけれど、親戚に聖魔になった人がいるのよ」 「え……」 「私の父方の曽祖父の、そのまた父の大伯母だった人。親戚っていうより、ご先祖さまね。実年齢いくつだったかしら。聞くと怒られるし、言っても信じられない歳なんだから隠す必要ないと思うんだけどねぇ。女はいくつになっても年齢を隠したがるわね」  クスクスと親しみをこめて笑う。ふしぎそうな美桜を見返して微笑いかけた。 「美桜ちゃんと一緒なのよ。私も小さな頃、ウ……彼女に逢ってる。一度だけだったけどね。成長して医大に入って、研修医時代に再会したわ。でも──まあ、想像つくと思うけど、彼らの存在は秘されている。彼らも自ら話すことなんてないわ。私もはじめの頃はまったく気付かなかったの。教えを学んでいる目の前の教授が、自分のご先祖さまの一人だなんて」  久子はフフッと笑った。 「さっき、一匠さんが私のことチャコって呼んだでしょう。私が小さな頃にその名で呼び始めたのが彼女だったの。彼女たちの正体に気づいて、まあ──以来、私は聖魔の秘密を共有する仲間になったわ。こういう人間は多くはないけど、ゼロでもないのよ」  なんだか今度は秘密結社みたいな話になってきた。とまどう美桜の前で久子はだから、と続ける。 「私は聖魔を信じている──というよりも、聖魔という存在が実在していることを知っている、と言ったほうが正しいわね。で、彼らのことを研究しているチームの一人でもあるのよ」 「研究?」  いきなり現代的な話になって美桜はビックリした。いや、ここは大学病院なのだけれど。  久子はうなずく。 「彼らは人の間から生まれ人として育ちながら、ある日突然、そこから外れた生きものとなる。怪我や病気をしにくい体質然り、成長が遅くなること然り。──医学にたずさわる者にとっては、研究せずにはおれない対象ね。ああ、だからって心配しないで。SF小説のようなマッドドクターとかいないから。というか、チームリーダーが話した私のご先祖さまだから。非人道的なこととかも一切ないわ。お約束します」  にっこり笑いかけてきた。瞬く美桜を見て、久子は苦笑を落とす。 「まあ、こんなことをポンポンと言われても、なにがなにやら、って感じよね。保証も私の言葉だけだし」  少しため息をつき、椅子を鳴らして立ち上がると、壁際に備え付けられたポットに向かった。  すぐに湯気の立ったカップが「はい、どうぞ」と渡され、受け取った美桜は香りをかいでさらに困惑した。 (なぜ梅こんぶ茶………)  美桜の困惑を見てとったように久子が苦笑する。ごめんなさいね、と。 「チームリーダーが好きでいつも飲んでいたから、私もしぜんと好きになっちゃったのよ」  はあ、と返しながらその香りと暖かさに惹かれていただきます、と口にした。  ほわり、と広がる香りと味が胃に落ちて、美桜はわかった。この人は、ご先祖さまの一人であるその聖魔のことが、とても好きなのだと。 「あの……その、リーダーさんは、こちらにいらっしゃらないんですか?」  自らもカップの湯気を払っていた久子が目を上げる。少しさみしそうに笑んだ。 「十五年ほど前に海外へ移ったわ。……彼らは長い期間、一定箇所にはいられないのよ。整形技術が進んだ現代でも、やっぱり、不審がられちゃうからね」  美桜は胸をつかれた。小さな頃別れたっきり、親族の前には姿を現さなかった伯父。美桜に逢わなかったのは理由があったらしいけれど、写真などにもほとんど自分を残さなかった。その理由。  でも、と久子は明るく続けた。 「美桜ちゃんの存在を知ったら、飛んで帰ってくるわ。絶対よ」  いたずらっぽいその笑顔の意味がわからず、美桜は首をかしげた。 「わたしのことを知っている人ですか……?」 「んー、美桜ちゃんより一匠さんの方かな」  どういうことかとさらにたずねようとして、ノックの音が響いた。久子が応答するがはやいか、ドアが開いてとうの伯父が顔を見せた。  二人を見やったその目つきが険しい。異変を察知した久子が立ち上がって伯父の元へ近寄ると、一匠は室内の隅々にやっていた目を上げた。 「チャコ。採血検査はナシだ。この天気と場所柄のせいもあるだろうが、表に集まり出した。悪いが短時間ですませてくれ」 「はい。──表の方は」 「シュウが行ってる。美桜。今日はホテルをとるから、そこに泊まりなさい」 「え……!? なんで」 「説明はあとだ。なにかあったらタマに」  言い捨てるように伯父の姿はドアの向こうに消えた。いつの間に現れたのか、ドアの内側にちょこんと座った猫を残して。  なにを聞く間もないあわただしさだった。ぽかん、と美桜は椅子に座ったままで、久子は気持ちを入れ替えるように吐息を落とした。そうしてうれしそうにしゃがみこんだ。 「タマちゃん。久しぶりねぇ」  ニコニコ──というより、ウズウズとした様子が見えた。  タマの毛並みをなでたい、けれど絶対引っかかれるのがわかっている。なによりそんな猫扱いをしたら気分を害すのがわかっている、そんな態度だった。 「タマのこと、知ってるんですか?」 「ええ。はじめて逢ったのはもうどれくらい前かしら。彼らは私たちの前には──というより、こういった場所には絶対に現れてくれないから」  まだ問いかけようとした美桜の言葉を、手を上げて久子は止めた。 「美桜ちゃん、ごめんなさいね。ゆっくり話をしたかったんだけど、どうやらそうもいかないみたい。やることすませちゃいましょう」  立ち上がってデスクにもどると、ファイルを広げて白衣の胸元からボールペンを取り出した。美桜は結局立ち上がるタイミングを逸したままだった。 「あの……なにか、起こってるんですか?」  久子と、タマにも目をやった。ここのところ事情を話してくれるのはタマと決まっていた。 「美桜ちゃんは、タマと話ができるのね」 「え……」  タマは外ではしゃべらない。美桜の家の中と、シュウの車の中と、巽家のあの面子の前でだけ。  久子は少し笑った。 「私たちノーマルは、彼ら妖と会話はできないの。話しかけられてもそれとわからないのよ。こうして姿が見えるのは、聖魔と契約しているから。使い魔にならなければ、彼らの姿もノーマルには見えないわ」  伯父の話が思い出された。  美桜は小さな頃、タマたち妖を遊び相手としていた。妖と契約できるのは聖魔だけ。──ほんとうだったら、タマと会話ができなかった?  あらためてタマをマジマジと見つめる美桜に、久子が注意をもどす。 「妖の話はまた今度にしましょう。今日は日も悪いようだし、検査はまたにして、問診だけにするわ。答えられる範囲で答えてね。美桜ちゃん」  くだけた口調はそのままに、医師らしくあらたまった雰囲気に美桜ははい、とうなずいていた。  久子は形式事項だから、と前置いて美桜の名前、生年月日、年齢、出身地、学歴や職歴、交友関係等を手際よく訊いてファイルをめくり、なにかを書き足していく。身上調査というよりカウンセリングを受けている気分だった。 「交際関係は」とたずねられて、言葉につまるのもあの時と一緒だ。久子はファイルを見ながらうなずき、続けて訊いた。 「初体験は?」と。  美桜は絶句した。そんなことまで言わなきゃならないのか。同時に美桜は気付いた。交際していた男性の年齢や職業も訊かれた。これは美桜が婦人科に通っていた際にも聞かれたことだ。そう思って自分をなだめた。  久子も申し訳なさそうに目を上げて言葉を添える。 「ムリして答えなくてもいいのよ」 「いえ……」  生娘でもあるまいし、とちょっと自嘲的に思う。  ほかにも性交渉の頻度などを聞かれ、美桜はだんだんと、自分が当時の苦しかったあの時に引き戻される感覚だった。  話は不妊治療の中身にもふれていき、いやがおうにもその思いが増す。  いくら望んでも、子どもができなかった。美桜はほんとうに精神的にあせって追い詰められていた。  どうして子どもができないのだろう。身体的に問題はないといわれた。それじゃあ、なんで? 妹は普通に身籠ったのに。なぜ、美桜だけ? はやく、子どもを作らなければと。彼の姉兄、親戚、自分の親身内などからの視線もささやきも、年を追うごとにあからさまになっていった。──ムリなんじゃない? 美桜さんじゃ、ダメなのよ──。  美桜は呼吸を繰り返す。たしかめるように喉元に手をやった。  こんなこと、たいしたことじゃない。自分は、あの当時の苦しみのただ中にいるわけじゃないのだから。  でも、じゃあ、なぜこんなに息が苦しいのだろう。 「……っ」  空気のかわいた爆竹のような音が響いていた。タマの悲鳴のような叫びも。 「一匠……!」  美桜は視界に、光沢のあるタイル地の床を目にしていた。  なぜだろうと思うそこにタタッと滴が落ちる。自分の汗だ、と思うのと、床に手をついたその数センチ間際に、先日も見た真っ黒な闇の塊を見た。  それをタマが引っきりなしに蹴散らしては、近付くモノに警戒しているのがわかった。  美桜はようやく自身の状況をあらためた。おそらく──一瞬、意識が遠くなったのだろう。息が苦しくて本能的に空気を求めようとし、けれどなにかに縛りつけられて椅子ごと倒れてしまったのだと。  先生、ととっさに身近にいた人を思って顔を上げた先で、壁にへばりつく姿勢で身を引いた久子がいた。  おののくような視線の先を追って、美桜も見た。  自分の足に、いくつもの手がしがみついていた。床から生えたように持ち主のいない何本もの手。その指の形、ふっくらとしたやわらかさ。  美桜はそれを知っている。妹の子どもと手を繋いだ、その小ささも。  ──子どもの手。  ひっ、と喉がふるえた。 「や……いや」  逃げだしたいのに身体が動かない。根が生えたように。凍りついたように。  手が足下から徐々にふくらはぎ、太もも、と増えてきて美桜はたまらず悲鳴をあげた。 「いやぁ……っ!」  空気を切るような音がして、美桜の身体に影が落ちた。とたんに響く銃声のような重たい音。ふッと身体が持ち上げられて、美桜はそこに雨にぬれたシュウを見た。  それも一瞬。  顔を伏せたシュウが首筋に口付けて、美桜の身体がビクリと跳ねた。冷たい雨の滴が首筋を伝った。 「やだ……っ」  反射的に拒絶して、けれどそれはかなわなかった。彼の体温のように熱い奔流が身体中をかけめぐって美桜を支配した。  一日置いたからなのかはわからない。けれどそれは忘れかけていた身体にしみ込んで暴れまわるほど狂暴だった。奪われるように意識が遠退いていった。  くったりと気を失った彼女を抱えてシュウは周囲に気をめぐらす。シュウが精気をそそぎ込むと、闇の気配はパタリと絶えた。  次いで現れた一匠がかるく息を切らしてやってくる。美桜の様子をたしかめてホッと肩を落とした。 「……なんなの、今の」  ぼうぜんとした声に一匠は顔を上げた。 「チャコ。怪我は」  ない、と首をふる女性にかまわず、タマのいらついた声が出た。 「美桜の波長に惹かれてきたのよ。不注意よ、一匠。雨の日は邪気がたまりやすい。美桜にはまだシュウの気配がしみついてないわ。なのにこんな所に連れてくるなんて」  かるく、一匠は息をついた。急いていたのは事実だ。 「チャコ。どこまで話はできた」 「……不妊治療の、話をしていたのよ。まだ月経の……」  言って気がついたようにハッとした顔になった。 「私の不注意ね。美桜ちゃんは子どもができないことで悩んでいたのに……。慎重にすべきだったわ。今のは──そういうことなんでしょう?」  子どもの手が現れたのは。闇の気が久子にも見えるくらい、力を持ってそういう形を取ったのは。  久子は長年聖魔の研究にたずさわり、彼らに接してきただけあって飲み込みがはやい。もう一度一匠は吐息をついた。 「いや。私が急ぎすぎた」  フン、とタマが不満を示すように鼻をならして一匠の中にもどった。それを見届けて久子はさらに問う。 「シュウ君が美桜ちゃんに息──? をかけるようにしたら、あれらが消えたわ。どういうこと?」 「精気を分けたんだ。美桜は闇の気を惹きつける。シュウの気配が身につけば、闇の気からの隠れ蓑になる、──とタマたちは言うが」  一匠は考えをめぐらすように無造作に雨の滴をはらった。 「それは主従契約を結んだ間にしか成り立たない。私ができるのはせいぜい、美桜の周りの邪気を払うぐらいだ」 「闇の気を惹きつける聖魔なんて……この目で見ても、信じがたいわ」  シュウの腕の中で気を失っている女性に視線が向けられた。それはどこか、畏怖混じりだった。  一匠は視線を伏せ、落ちていた美桜のコートとバックを拾い上げる。 「日を改めよう、チャコ。場所も改めた方がいいな」  目を向けると、シュウは無言で美桜を抱え上げた。成人女性一人を腕に抱えてもその表情は変わらない。  部屋を辞す彼らを見送るため、久子が後についてきた。 「……一匠さん。美桜ちゃんは、自分で闇の気を祓えないんでしょう? しばらく──落ち着くまで、巽家か地方に移した方がいいんじゃないですか?」  一匠は言われるのがわかっていたように、少し厳しい顔で否定した。いや、と。 「貫成さまも同じことを案じていらしたが。美桜にはなるたけ変わらぬ生活を送らせたい。……おそらく、そう長いことではないからな」  彼女がほんとうに一匠の言う通りの人物なら、と久子もその希少性をあらためた。その身をめぐって他家がこぞって身を乗り出すだろう。  そうですね……とその時になって同じ女性としての痛ましさを覚えた。一匠は少しく笑う。 「ただそのために、シュウには不眠不休の毎日を課してしまったがな」  久子が見やった青年は相も変わらず無表情で端然としたさまだった。はじめて逢った時、彼は十歳の小さな少年だった。言葉数が少なく、周囲に対してつねに毛を逆立てた獣のようだった。  久子が見上げるほど大きくなっても、目つきの悪さと感情を表に出さない潔癖さはそのまま。  今の立場におちいったことを彼がどう思っているのかは謎だった。  むかしを思いだして久子も少し笑みを浮かべ、エレベーターの前で彼らと別れた。ご連絡をお待ちしています、とチームの一員である責任感をあらためて。
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