伯父との再会

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伯父との再会

 カチャリ──と金属的な音がした。  なにが彼女の顔を上げさせたのか、わからなかった。  闇色の空間も一転、都会の夜空と夜明かりと、それを切り取るように立ちはだかった青年。  おそろしいほどの長身。鍛え上げられた体躯。夜明かりに浮かぶ鋭角な顔立ち。獲物を捕らえた、獣の眸。  その手に握られた銃口が、たがわず美桜を捕らえた音だとわかった。  引き金が引かれるのを、ただ見ているしかなかった。  ~・~・~・~・~  はじまりは数日前のことだった。  表に出て、美桜はふわっと白い息を吐いた。  会社のお使いの帰り。別支店に配属されていた同期の友人に出逢って、ちょっと立ち話をしたのがいけなかった。  別れて表に出てみると、行きは止んでいた雪がちらついていた。  歩いて十分ほどの支店へ使いに出されただけなので、美桜はコートをはおっただけで傘は持っていない。  一昨日から降り出した雪は一晩たって都会の景色を一変させた。交通網も麻痺したが、今朝は快晴だったため傘の心配はしていなかった。  まいったな、とひとりごちて会社のロッカーに置き傘があったか記憶をめぐらす。足を踏み出した。  雪が降ってワクワクする気分になったのは、遠い昔のことである。  今は朝の通勤が大変になるだけで、電車のダイヤは乱れるし、道はぬかるんでビチャビチャになるし、それならまだしも、日が当たらず人通りも少ない道などは天然アイススケート状態で危なくって仕方ない。  美桜の交通手段のひとつである自転車が使えず、自宅までの道のりが歩きになるのもため息がでてしまうが、帰りの買い物もどうしよう、とため息が増えるだけの思いしか雪に対しては浮かばない。 (色々在庫が切れだしてるんだよね………)  生活必需品の要否を考えていて、川沿いの坂道にさしかかった。道半ばまで進んでからアッと、迂闊に気付いた。  少し前までは最寄りの駅から会社までの近道だったので美桜の通勤ルートだったのだが、とある事件が起きてからは怖くて避けていた。会社帰りのOLが通り魔に刺されたという物騒な事件があったためである。  美桜の務める会社は都心で交通や人通りも絶えることがないと思われがちだが、意外に盲点はある。  表通りに面した大きなビル群をはずれて裏手に回り込むと、路上パーキングや昔ながらの中小ビルが立ち並び、その間の路地など昼間でも薄暗い。  さすがにそういう道は通らないが、この近辺はショッピングや飲食店がオフィスと同居しているため、夜でも賑々しい。そんなところで起きた事件だったので、被害者と似たような境遇の美桜には他人ごとではなかった。一時期は両親から毎晩電話がかかってきたほどである。  気付いてちょっとひるんだが、もどる会社は行く手の角を曲がった先であり、事件は一月近く前で、雪が本降りになってきた事実とに、えいと思い切った。  事件の影響で避ける人が多いためだろう、雪が踏みしめられた跡がほとんどない。美桜のブーツも予想以上に沈み込んで歩くのに難儀する。  吹きつけた風と雪に目をつぶって顔をそむけて、片足がガクン、と沈み込んだ。 「きゃ………」  吹き溜まりに足がはまったのかと思った。踏みしめる底がなくて、ズブズブと全身がはまりそうな恐怖が一瞬襲う。  あわててついた両手と残った片足に力をこめて、身体を持ち上げた。と、勢いあまったのか、沈んだ足が雪の固まりを蹴って美桜の頭からなだれ落ちた。 「…………」  反対側に尻持ちをついて、犬のようにプルプル、と首をふった。  頭から雪が落ちるのがなんとも情けない。辺りに人通りはまったくなく、一面ホワイトアウト。ちょっとぼうぜんとして、美桜はあらためた。  会社のお使いで遭難しかかるのが、もっと情けない───。  んしょ、と声に出して立ち上がり、お尻の雪をはらって歩き出した。前を見ていなかった。  いつそこに人が立ちはだかったのか、美桜はまったく気付かなかった。頭から壁のような障害物にぶつかり、それと同時に彼女の視野は吹雪で埋めつくされた。  吹きすさぶ風と雪つぶて。  氷のにおい。  大きな獣が吠えているような風の音。それに巻かれて雪が渦を巻いてさらっていく。  どこまでもはてしなく広がる雪原と、白と氷におおわれた世界。  人をこばむ酷寒の風景───。  それに魅了されたのは一瞬だった。はっと我に返って、人にぶつかったのだとあらためた。 「すみません」  急いでよけて、今のなに、と目をしばたいた。ちらっと目前の人を見やる。  ほんとうに壁のように大きな男だった。影になって顔形がよくわからないほど。  美桜が頭からぶつかってもその人がたじろがなかったのは、鍛えているからだろうとわかる、コートの上からも見てとれる胸板の厚さだった。日本人離れしているように見えたが、ちらりと見た短髪は黒で、横顔も日本人っぽかった。  マッチョ系……? 思いながら彼女に一瞥もくれなかった雰囲気に冷たさを感じて、足早にその場を後にした。  吹雪の幻影はこの雪のせいだろうと、決着をつけて。  青年があの場に立ち尽くしていた理由には思いおよばなかった。  ~・~・~・~・~  雪の名残が日陰にしか見られなくなった週末。  定時に仕事を終えた美桜はロッカーでスマホのチェックをして声をあげた。 「そんなぁー」  ガーンという擬音語がまさに頭の中で響いている。  チェックしたのはスマホのアプリで、友人との会話がメールのように続けてできるものだ。そこに、休憩中に書き込んだとみられる友人からのメッセージがあった。 「どうしたの?高城さん」  近くの同僚が声をかけてきて、美桜はふりかえった。 「あー………ちょっと、友人からドタキャンが入って」  困った笑顔をつくったが、ほんとうに内心困りはてていた。声をかけた年上の同僚はあらあら、と同情気味に笑う。 「週末だもんね。飲みに行く約束?ドタキャンは困るわねえ」 「あー、ええ………」  どうしよう、どうしよう、と別の手立てを考えてみるが、まったく名案が思いつかなかった。  美桜の職場は年配の女性が多く、ほとんどの人が家庭があるので会社主催の歓送迎会でもなければ飲み歩く人はいない。第一、この会社に勤めだしてまだ三月あまりの美桜には気軽に誘える友人がいなかった。  お昼を共にするメンバーはいるが、それはあくまでも社内だけである。困りきった美桜に同僚の口ぶりはあくまで明るい。 「まあ、今日は真っ直ぐ帰りなさい、ってことじゃないの?」  じゃあね、お先に、という同僚たちの足取りは軽い。週末は会社勤めの人間にとって、一番心が浮き立つ日だ。  はーっとため息をついて、しかたなく美桜も帰り支度をはじめた。  友人にドタキャンされたのは痛いが、もともと彼女の私事に巻き込んだ自覚があるので、腹を立てるわけにもいかない。それに、友人の都合が恋人に関わるものだったので、女の友情が彼氏に負けるのは世のならいである。  まいったなぁ、と会社を出る美桜の足取りは重い。  数日前に下された母からの指令が思い起こされた。 『──はあ? 伯父さんが帰国する?』  関東圏内でも少し離れた場所に住んでいる両親は、都内にもどった娘に頻々に電話をしてくる。  還暦を迎えようとする母親の幸恵はのんびりと主婦業をしていた。その母からのいきなりの依頼だったのである。 『そう。蓉子姉さんの旦那さん、一匠さんよ。あんた覚えてる?』  呑気な口調の母に美桜はちょっとあきれた。 『二十年ぐらい逢ってないんだよ?覚えてるわけないじゃない』 『あら。あんたすごい可愛がってもらってたのよ。一匠さん、強面だったんだけど、あんたにだけは甘くて』  言いながら、あら味醂が切れてる、などと夕食の支度中なのがわかる。会社帰りのこともあり、母の味が鼻と舌先によみがえって美桜の空腹を刺激した。 『甘い辛いはおいといて………。なんで私が伯父さんのおもてなしをしなきゃならないわけ?』 『美桜しか適任がいないからに決まってるじゃない。お母さんがそっちに行ってもいいけど、じゃあ、美桜が代わりにこっちに来て奈美の子どものお守してくれる?』  お父さんのご飯も作って、奈美の家の炊事洗濯もするのよ、とここぞとばかりに普段の自分の大変さをアピールする。  美桜はため息をついた。  奈美は五つ下の妹だが、実家に近いところに家をかまえ、同い年の旦那との間に一男一女をもうけたばかり。  共働き夫婦の子どもたちにまだまだ手がかかるのは、お正月に帰省した際にいやというほど思い知らされたが。  電車で二時間足らずの距離とはいえ、実家は頻繁に帰るのはさけたい場所だった。──いまはまだ、美桜にとって。  母親は四人兄妹で祖父母はとうに亡くなり、それぞれ家族を持って地方に散っている。たしかに都内にいて融通がききそうな母方の縁者といったら美桜ぐらいしかいない。  わかってはいるが、億劫な気持はぬぐえなかった。 『どうせ、伯母さんのお墓参りのために帰国するんでしょ?いい大人なんだから、別に案内なんていらないじゃない』 『そうはいかないわよ。数年ぶりの日本なんだから勝手がわからないだろうし、連絡が来ちゃったんだから。それに………一時帰国じゃなくて、こっちで仕事があるって言ってたから。しばらく日本にいるみたいよ。どこにどんなご縁があるかわからないんだし、伯父さんとも親しくしておきなさいよ』  よけいなお世話だ、と心がささくれ立つ娘にはかまわず、母親は立て続けに言う。 『あんた、都内のおいしいお店とか詳しいでしょ。久しぶりに日本に帰ってくる伯父さんにおいしいお店紹介してあげなさいよ。美桜の携帯の番号は伝えてあるから。あ、たいへん。お鍋。じゃあね、よろしくね』 『ちょっとお母さん………』  反論する間も与えず切られた通話に、美桜は子どものようにふくれた。  携帯の番号を伝えてある、というのはつまり、鼻から彼女に押し付けるつもりだったのだろう。  だいたい、と美桜は憤然と思う。  思い出せるかぎりの伯父の印象は、母たち親族の中では最悪だった。蓉子伯母との結婚を祖父母や兄妹は猛反対したとかで、親戚一同が集まる場でも伯父が浮いた存在だったのを子ども心に覚えている。  それだから、美桜が十歳ぐらいの時に海外で仕事する伯父に付いていった蓉子伯母が事故に巻き込まれて亡くなった時には、非難囂々の嵐が吹き荒れた。  そんな、いわば鼻つまみ者の縁者のご縁を万が一にもつかまえてきたら、絶対いい顔をされないのは目に見えている。  わかっているだろうに、月日がたてば昔のいざこざは水に流されるのかと、美桜はうらめしく思い──そういえば、と思いなおす。  母の幸恵は親族の中で唯一、蓉子伯母が結婚後も行き来をしていた仲だ。それがために美桜も可愛がられ、今回も母に連絡が行ったのだろう。  理解はできたが、やはり美桜には伯父に関する想い出がさっぱりだ。可愛がられたという記憶もさだかではない。  想い出も共通の話題も少ない義理の伯父と二十年ぶりに逢って、いったいなにを話せというのか。社交性に長けたわけではないおのれの性格とをかんがみて、げんなりとした美桜だった。  その彼女が思いついたのが、社交性に富んだ友人を巻き込んでしまえ、というものだった。そうして友人の了承を取り付けて今日に臨んだのであるが………。 (落とし穴だわ)  母によく言われる詰めの甘さだろうか。  重たい足取りで、それでもしかたなく母から伝言された待ち合わせ場所へ向かった。  なんでも、数年ぶりに帰国する伯父上は、おいしいお寿司をご所望との話である。  勤め帰りの美桜に考慮して近場の駅を指定してくれたのはありがたいが、母が期待するほど美桜は飲食店に詳しいわけではない。ゆえに、頻繁に飲み食べ歩いている友人を頼みとしたのだが。  ため息を押し込めて、地下鉄の改札所に着いて時間をあらためる。約束より十分ほど早い。  一応周囲を見渡してそれらしき人がいないのを確認してから待つことにした。すると、とたんに不安が頭をもたげる。 (そもそも伯父さん、私の顔わかるわけ……?)  伯父は数年に一度、伯母の墓参りに帰国していたらしいが、美桜や母たち親戚はだれも逢っていない。  美桜も伯父の顔がおぼろげなのは、残っている写真自体がほとんどないからだ。唯一、これかな、と思われる写真も大勢が写った集合写真で顔はぼんやりと判別しがたい。  よくよく考えれば、得体の知れない伯父である。 (ま、わかんなければ連絡くるでしょ)  投げやり気分で柱にもたれて、その気配は唐突だった。 「──美桜?」  身体が跳ねるくらいビックリした。  いくらのんびり屋の母に似て、とろい、鈍い、といわれる美桜だって、自分に向かって人が近付けばわかる。柱にもたれた彼女の周囲に人はいなかったはずなのだ。絶対。  それが、まるでなにもない空間からふってわいたようにすぐそこに人影があって、美桜の心臓はとび跳ねた。  がたいのいい、美桜より頭ひとつ背の高い男性だった。短く刈り込まれた白髪に、これまた真っ白な、頬骨から続く髭。日に焼けた肌がなめし皮のようで、日本人の枠からはみ出した印象を与えた。  眼光鋭そうな褐色の眸が一瞬、猛禽類を思わせる。 「……一匠、伯父さん?」  息をのむようにたずねると、褐色の眸が少しやわらいだ。 「やっぱり美桜か。すぐにわかったよ。──昔の蓉子に似ている」  あいまいに笑い返して、まじまじと伯父をあらためた。  伯母の夫だった人なのだから、優に還暦は超えているはずなのに、会社の年配男性のようなメタボ体型など歯牙にもかけない体躯だ。  肌にしわやたるみも見当らない。正体を知らなければ、せいぜい四十代ぐらいにしか思わなかっただろう。  眸には生気がみなぎっていて、まさに働き盛りの年代に見える。唯一、白い髭と白髪が彼を年配者に見せていた。 「何年ぶりになるか……。私を覚えてるか?」 「あー……えっと、……なんとなく」  言葉は尻すぼみになる。  伯父の声は学生時代の体育教師のように野太く、大声を出して人を叱責するのに慣れた風情があった。なにより。  規律正しく、厳格なにおいが学校の怖かった教師のようだ。  知らず緊張する美桜を頭からつま先まで視線でひとなでし、伯父は気にしたふうもなくうなずいた。 「最後に逢ったのは、美桜が小学生低学年の頃だからな。覚えていなくても無理はない。──今日はわざわざ悪かったな。仕事帰りだろう」 「あ、うん。……えっと、お店、こっち」  目線で了承して伯父は美桜の横につく。その時になって、いやに周囲の注目を浴びていることに気がついた。  伯父の存在感は日本の会社帰りの景色の中で飛び抜けているのだ。ネクタイこそ締めてはいないものの、イタリア製のスーツでも着こなしたら、その筋の人間に「ファーザー!」と呼ばれそうだ。  ──いや、笑えない、と美桜はひとり青ざめた。伯父はたしか、海外で軍事関係に携わる仕事をしていたはず。それが原因で伯母との結婚を反対されたと聞いたことがあるのだから。 「あー、えっと、伯父さん。お寿司でよかったの?」  帰国した日本人の定番食だが。和食屋の方が色々と選べてよかったかもしれない。  前もって予約していたお店に案内し、週末ゆえに混雑していたがカウンター席で板前が目の前についてくれた。  店内を軽く一瞥した伯父がおしぼりを受け取りながらうなずく。 「美桜がおいしいお店に案内をしてくれると、幸恵さんが言っていた」 「え……っ」  伯父がお寿司を食べたいと言っていたのではなかったのか。お母さんったら、と心で剣突くを食らわせて美桜はあせる。 「あー、えっと、ね。私もそんなに食べ歩いてるわけじゃ……」  なにせ、勤めに復帰してまだ三月あまりだ。生活を軌道に乗せるのにいっぱいいっぱいで、会社が都内の中心部、著名な通りの近くだろうと食べ歩く余裕はなかった。  本日チョイスしたお店は友人のアドバイスと、ネットの口コミで判断した。が、メニューを開いて美桜は青ざめた。 (お寿司の値段がない………。ってことは、時価?)  飲み物や一品物の値段はある。が、お造りは要相談らしい。  本日二度目の擬音語が頭の中を飛び交い、おのれの詰めの甘さをよくよく思い知らされた。  そんな美桜の心中を知ってか知らずか、ふッと伯父が笑った気配があった。 「今日は私のおごりだ。好きなものを頼みなさい」 「あ、いえ……!」 「美桜がわざわざ私のために時間をつくってくれたからな。遠慮はいらない」  うッと美桜は一瞬、よろめきそうになった。女も年を取るとジジイ萌えに目覚めるのだろうか。  大変失礼なことを思いながら、運ばれてきた飲み物に乾杯と「いただきます」を口にしてビールを流し込んだ。 「~~~~ッ」  この一杯がどうしようもなくたまらない。  二十歳を過ぎて覚えたアルコールは、はじめまずいばかりだった。ビールは特に苦くてまずくて、こんなもののどこがおいしいのだろうと世の大人たちの味覚を疑った。が、勤めだしたとある日、仕事終わりに飲んだ一杯がたまらなく美味しかった。  ビールってこんなに美味しいんだ、と思ったのが最後。以来、ある一定の時期をのぞいて美桜の晩酌にビールは欠かせない。  板前さんにお任せで出してもらったお造りがこれまた美味で、魚貝類の新鮮さゆえに引き立つ旨みを美桜ははじめて知ったように思う。  この上なく感動して、ここに通おう、と美桜は心に決める。  次の給料日までの日にちを数えて、あ、でも今日のお会計を見てから決めても遅くないかな、と一人暮らしゆえの金銭感覚が頭をもたげる。  と、低い笑い声が隣からもれ聞こえた。見ると、お猪口を片手にした伯父がその陰で笑いをこらえている。  美桜の視線に気付いてお猪口を傾けた。 「──美桜は昔のままだな」  世にもめずらしいものを目にした気分で、美桜はオウム返す。「昔のままって、なにが?」……ですか、伯父さん、と付け足して。  手酌でつぎ足そうとするのにあわてて手を出し、あっさり制された。 「反応が素直で、興味のあるものを見つけると、とたんにそれに夢中になる」 「べつに……そんなこと、ないですよ」 「図星を指されると目が泳ぐ」  ぐっと、またしても泳ぎそうになる目線に美桜はそっぽを向いた。 「気分をそこねると、すぐに頬をふくらます。フグになるぞ、と昔言ったな」 「ふくらませてませんッ」  むきになって返して、今度は目の前の板前が小さくふきだした。  思わず上げた目にすみません、と謝罪してお詫びです、と握りを追加してくれる。……うん。サービスもなかなかだ。  美桜が今日、特に気に入ったコノシロを出してくれるところが心憎い。  口に入れるとどうしてももう、それ以上仏頂面はできない。思わずゆるむ口元、目元に、伯父と板前の視線がそそがれて、プロである板前が「ありがとうございます」と笑顔を見せた。  一匠がそっと息をついたのは、美桜の預かり知らぬところだった。  食が進んで周囲の混雑もあり、板前たちも美桜と一匠だけにかまえなくなってきた。そんな中、一匠がコン、とお猪口を卓に置いた。 「───美桜」 「ん? あ、伯父さんお代り? 同じやつ?」  ああ、と答える伯父に美桜は手を上げて注文を通す。  はじめの気億劫がなんだったのだと思うぐらい、今の時間が気分よかった。  チョイスしたお店ははずれじゃなく、文句なしにおいしい。口重な伯父は自ら進んでしゃべることはないが、美桜をからかう性分からして、見かけほど取っ付きにくい人ではないのだとわかる。  それは、多分にアルコールの力も借りているだろうが──。  伯父の顔をのぞき込んで、美桜はあらためて思う。 (髭を剃ったら、ジジイ萌えできなくなるね。絶対)  もしかしたら、三十代ぐらいに見えてしまうかも。いや、はたまた、髭を剃ることによって伯父の老齢化があらわになり、真のジジイ萌えが──。 「美桜」  酔いも覚ます厳粛たる声音に、「はいッ」と背筋が伸びた。 「……おまえの家族の話は聞いた。両親ともに変わりなく、奈美も結婚して子どもが二人いると」  伯父との共通の話題で出した家族の近況だ。うん、と美桜は心なしひるむ思いでうなずく。  それで、と伯父の眼差しが一瞬、猛禽類の鋭さをはらむ。 「おまえの近況は」 「え………」  射竦められた獲物のように美桜は強張った。心の一角を占めていた氷の冷たさが、見る間に侵食して指先にまで伝わりきそうな錯覚。かろうじて、苦笑いした。 「だから、一人暮らししながら、こうして都内で働いてますってば」 「おまえが半年前に離婚して、一時期実家に戻っていたのは知っている。私が聞いているのは、ここ最近、おまえの周りで妙なことが起こっていないかだ」  妙なことって? と、頭では問い返したつもりだった。けれど、美桜の表情は最後の言葉のまま固まっていたのが、伯父のせばめた眸の中でわかった。 「…………」  ぎこちなく笑って眸をはずして、なんとか取りつくろおうと言葉を探す。  こんなこと、別にたいしたことじゃない。たいしたことじゃない。  前の職場でも話題にされた。いたたまれなくて逃げ帰った地元では、さらに好奇の目にさらされた。  ──高城茶園の娘さん、いま出戻ってるでしょ?やっぱりね、離婚したらしいのよ。都内で一流企業のお婿さんつかまえた、とても裕福な家のお坊ちゃんって、そりゃ自慢してたのに。なんでもね、旦那さんが浮気したらしいわよ。やっぱり身分の差とかあったんじゃないの。なんか、お姑さんとかあちらのご兄妹ともうまくいかなかった、って。やっぱり、育ちが違うとダメなんじゃない? 高城さんは娘さんを都内の大学にやった、って鼻高々だったけど、しょせん、そこらの女子大と変わらないレベルでしょ。やっぱり名の通った大学じゃないとねえ。  え? 浮気する男が悪い? やだ、奥さん知らないの。美桜ちゃん、子どもができなかったのよ。田村さんも高城さんの奥さんに聞かれたらしいもの。いい先生知らないか、って。ずいぶん悩んでたらしいんだけど、でも、こればっかりはねえ。  ……ここだけの話、美桜ちゃん、鬱状態になって旦那さんに暴力ふるって警察沙汰になったこともあったんですって。それで結局、向こうの家から縁を切られた、っていうのが真相らしいわよ。旦那さんの浮気もあったのかも知れないけど、でも、自分の親兄妹とうまくいかない、不妊症に悩んだあげく暴力ふるう妻なんて、そりゃ、旦那さんだって浮気のひとつやふたつ、したくなるでしょうよ。いやあね。自分の娘はそんなふうになってほしくないわ──。  何気なく立ち聞きしてしまったあの日から、美桜の耳には茶畑のあちこちからささやき声が聞こえた。  悪意のある噂話は事実と異なるものばかりだったが、しかし、たとえそれを言い立てたとしてなんになるのだろう。  美桜は結婚生活を破綻させて出戻った。それが事実だ。  このままじゃいけない、と自分で自分を追い立てるようにして、再度都会に出てきた。  結婚前と変わらず派遣社員だけれど職について、自分で自分の口を養って、単調な日々の生活を繰り返して、妹の子どもたちのエピソードに心なぐさめられて、長く一緒にいる飼い猫を湯たんぽに冬は眠りにつく。  そんな生活を取り戻した。やっと。  なのに、いまさら、二十年以上疎遠だった伯父が美桜の内情を口にする。  なぜ? 彼女の離婚はそんなに醜聞ネタだったろうか。二十年ぶりの伯父が口にするほど、いまも方々で口にされているのか。  美桜の醜聞ネタは、この先一生、消えることはないのか──。 「……ごめんなさい、伯父さん。私、けっこう酔ったみたいです」  暗に切り上げたいとにおわせて、バックを引き寄せた。伯父はなにも言わずおあいそを頼むと美桜も出しかけた財布を留め、会計を済ませた。  コートを受け取って外に出、夜気に白い息が視野を染めた。  駅までの道を戻りながら、自分の態度は大人げない、と美桜はあらためた。 「あの……伯父さん。今日はいっぱい、ごちそうさまでした」 「いや」  言いつのろうとして、週末ゆえの酔っ払いの団体が美桜にぶつかりかける。強く腕を引かれて、美桜をかばった伯父が酔っ払い集団に一瞥をくれていた。  伯父の迫力と眼光には酔いも一瞬で醒める威力がある。彼らがかけていく点滅した信号に二人は間に合わず、道路の中洲に取り残された。  礼を言おうと顔を上げて、伯父の褐色の眸が美桜を見下ろしていた。 「不用意なことを口にした。……悪かった」  伯父が謝ることじゃない。変に過敏になっている美桜がいけないのだ。  首をふって否定しようとする美桜の頭に、伯父の手が置かれる。それは思いがけず、伯父が姪に向ける、やさしい仕草だった。 「おまえの傷は、まだ癒えていないんだな」  ふいに、こみ上げるものがあって、美桜は急いでうつむいた。  両親や妹、友人たちは、まるで腫れものにさわるように美桜に接した。まわりの気遣いはありがたく、感謝しなければ、と思うものの、無性にすべてを投げ出してだれも知らない世界へ消えてなくなりたい衝動にかられる時があった。  ……心身ともに、ほんとうに疲れていたのだと思う。  いまも、すべてふっきれたわけではないが、時間が癒してくれるのを待つしかないのだと、美桜も自分でわかっている。 「……すまない」  ふたたび謝られて美桜はびっくりする。目を上げた先の伯父は、剛毅果断な気質らしくなく、なにかを悔いる眼差しをしていた。 「もっと早く、逢いにくるべきだった」 「……伯父さんがいたら、あの人をコテンパンにやっつけてくれたのにね」  伯父は軍人上がりと昔聞いたのを思い出した。  ふッと目元がやさしくなる伯父に美桜は笑い返して──思い出した記憶があった。 「わたし………ヒゲのおじちゃん、って伯父さんのこと呼んでた!」  美桜の勢いに一匠は手を離した。その伯父をあらためてのぞき込んで、美桜はなぜ忘れていたのかふしぎなくらい思い出していた。  昔は黒々とした髪とヒゲで子どもたちからはクマと呼ばれ、恐れられていた。なにより、その強面の風貌といかめしい雰囲気が人を寄せ付けなかった。なのに、美桜だけがなついた。抱き上げられた時のチクチクするヒゲの感触まで覚えている。 「むかし、みんなで海水浴に行った時、わたしがおぼれて、岩場の陰で気付かれなくて……伯父さんがたすけてくれた」  思い出した記憶で美桜は興奮していた。一匠の複雑そうな眼差しの色を思いやることはできなかった。  ああ、と大きな息をはきだした一匠は視線を伏せ、心なし、そのいかめしい身体つきから覇気がうすれた気がした。 「……そうだな。潮時だ」  自身につぶやいたにしては、だれかと会話した口ぶりだった。  上げた双眸には弱った翳りなどおくびにも出さない──ありえない、強い力があった。  はじめに見た猛禽類の鋭さを思い出して、美桜はひるんだ。 「──美桜。少し付き合ってもらえるか」 「え………」 「私が日本に来た理由だ。心配ない。すぐに終わる」
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