序章【一】

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「こんな面白味のないやつの何を気に入ったのか皆目わからんが、このような天候でも、あやつは来る」 「すーはーくーっ!」  果たして、男の予測は的中した。祠堂から外へ出た途端、甲高い声が届いてきたのだ。  朱白(すはく)、と。  幼子が呼んだのは、男の名。過去、呼ぶことを許したのは両手にも満たないその名を、満面の笑みで手を振る幼子は当たり前かのように口にしている。 「すはくっ。おやつ、もってきたよ!」  その名で呼べ、と男が許した。外界との関わりを遮断していたはずであるのに、出会った日に自ら名乗っていた。 「あやつめ、家を出るのは雨がやんでからと言っておいたのに、もう来ておる。ただでさえ、今日は足元が不安定なのだぞ。止まれ! 私が行くまでそこに居ろ!」 「おいもだよ。おいもの、おもち! ぼくが、こねこねしたのーっ」 「聞こえていないのか。全く、(わらべ)はこれだから。おい、少しは足元を見ろ。岩場は滑りやすくなっ……」 「きゃあっ!」  男の注意を聞かず、ぴょんぴょんと跳ねる足取りで岩場にやってきた幼子の身体が、突如、(かし)いだ。そのまま滝壺に頭から落下していく。 「童!」  一瞬の判断だった。  幼子に向かって駆け出しながら、男の輪郭が崩れる。美丈夫のがっしりとした骨格が見る見るうちに歪な黒い霧になり、幼子の身が滝壺に沈む寸前、輝く黒鱗の妖がその場に顕現していた。
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