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僕は、とても小さい頃に見知らぬ女性に誘拐されて、大きな家の中の小さな部屋に閉じ込められ、その誘拐犯である『先生』に酷いことをされていた。
「先生と呼んでね」と言ってきたから僕はそう呼び続けた。
先生は暴力的だったけど、穏やかな喋り方だった。
「私ね、お金持ちなの。お金持ちの中にはね、変な遊びが好きな人もいるの。私みたいな、ね」と恥ずかしそうに笑う先生の顔をよく思い出す。
きっと、その表情が怖すぎて印象的だったからだろう。
ここで書けないようなことを散々『勉強』と言われて、され続けてきたけど、不思議なことに、優しかった先生の記憶も脳裏に焼き付いている。
たまにだけど、一緒にゲームをしてくれたり、ご飯を食べてくれたり、冗談を言ってくれたり。
でも、そういうのは稀だったし、どこにも行けない僕は、いつも心が痛かった。
早く両親に会いたかった。
だけど、先生は僕が「お父さん」や「お母さん」という言葉を言うと必ず殴ってくるということを理解してからはずっと我慢していた。
お父さんとお母さんが繰り返し夢に出てきて、本当に辛かった。
先生は面倒くさがりで、好奇心旺盛だった僕が次々と質問するのを嫌がった。
だから僕は何年間も先生と一緒にいたけど、同じ年齢の子たちと比べて少ない言葉しか覚えることができなかったはずだ。
ある日のこと。
「お……おくすり……ちょうだい。私の部屋の机の……一番上の引き出し……」
いつもの勉強の最中に、急に倒れた先生が苦しそうな声で僕に助けを求めた。
どうにかしなきゃ!
先生を助けてあげなきゃと焦った。
でも、僕は『おくすり』が何なのかを知らなかった。
先生が僕の好奇心を邪魔くさく思っていたから、知る機会がなかったのだ。
だけど、おくすりを早く持って来ないと、先生が死んじゃう!
ああ、どうしよう、どうしよう、と困った。
「先生! おくすりって何なの? 何なの?」
「は? 何……言って……は……やく部屋に、開いてるから」
考える時間が長くなるほど、こっちを睨んでくる先生の顔がどんどん怖くなってきた。
僕は、人間らしい表情を徐々に失っていく先生から逃げ出したくなる衝動を必死に抑えながら、より深く考えた。
すると、急に、先生が機嫌の良い日に僕が怪我をして、「おくすりって言うのはね。痛みの原因を取り除いてくれるんだよ」と教えてくれた日のことを思い出した。
正確には、もっと、小さな僕にも理解しやすい言葉だった。
けど、どうせ訊いても殴られるだけだし、と諦めていた僕は、おくすりが何なのかを詳しく知りたいという知識欲を恐怖により奪われていたから、先生に「もっと、わかりやすく教えてくれる?」とは訊かなかった。
で、痛みの原因……という言葉を反芻して自分なりに解釈しようと頭をフル回転させた。
それで、あっ! そうだ! とハッとした。
「先生、大急ぎで、おくすり持ってくるからね」と走り出した。
これまでの人生で、その時以上に一秒の重みを感じたことはない。
閃いてから興奮状態だった僕は、気がついたら手に『おくすり』だと判断して持ってきたモノを握って先生のすぐ傍に立っていた。
先生が一瞬だけ見せた安心した表情と、直後の、とても驚いた顔は決して忘れることはないだろう。
やった! これで先生が助かる!
嬉しさが込み上げてきた僕は、「先生、これで楽になるよ! よかった! おくすり持ってくるの間に合って良かったね!」と先生の首を、辛そうな表情が消えるまで、何度も何度も繰り返しナイフで刺し続けた。
その直後から数週間後までの記憶が、どうしても思い出せない。
どうやって僕が発見されたのか、でさえ。
ただ、数年ぶりに会った両親の泣き崩れている顔は絶対に忘れることはないだろう。
(了)
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