恋人は兵隊さん?

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恋人は兵隊さん?

 デスクの上のスマートフォンへエリオットが目を落とした時、画面へ浮かび上がったテキストのポップアップは5つを超えたところだった。 「少し休憩しよう。下にフラットメイトが来てるんだ、補助金の手続きで困ってるらしい」  同じく退役軍人で、苦難のセカンド・ライフを送っている仲間を山程知るからだろう。モーはこくりと頷き「ごゆっくり」と答えた。 「もう大丈夫です、後は印刷し直すだけですから……すいませんでした、手を煩わせて」 「仕方ないさ、誰だってミス位する。後で予測変換の履歴を削除しよう」  別に今日は忙しくない。何度も心の中で唱えているし、実際に脳内で整理整頓されたスケジュールは十分に余裕がある。なのにどこか憂いを帯びた気分になるのは、階段の窓の向こうがどんよりと、紡ぎ立ての綿のような雲に覆われているせいだろう。静かだと思ったら、いつの間にかぽつぽつと、粒は大きく勢いの弱い雨が、駐車場のアスファルトを黒ずませようとしていた。  まさしく浮世離れした、4階にある市長室のオフィスから、下界に降りてくると、沈んだ気分は益々募る。  ヨルゲンセンの事を嫌っている訳では断じてない。逆だ、気にかけてしまうから困る……「あんたには昔から拗らせてる感じの男ばっかり寄ってくるな」エリオットが知っている中でもトップクラスに面倒な性格のゴードンが、以前勝ち誇った顔で言ってきた時は、思わず真顔で彼の顔を見つめ返してしまった。  暫く色恋沙汰はごめん被りたいが美意識はそれなりを自認するゲイにとって、ヘテロセクシャルのハンサムな元陸軍少佐ほど、フラットメイトとしてうってつけの存在もない。家を綺麗に使ってくれるし、家事も一通り出来る。誠実で離婚した妻子に未練があるから、罷り間違って勃起したりして来ない。断酒会に通いながらホームセンターでパートタイマーとして働いている都合上、生活リズムが基本的に被らないのも気楽でいい──尤も、ここのところエリオットが家を活用する方法と言えば、睡眠ただ一つだったが。  てっきり障害局の方で待たされているのかと思ったが、ヨルゲンセンはエントランスのベンチにつくねんと腰掛けていた。エリオットの助言通りスーツにネクタイ姿。遠目から見たら、アポイントの時間より少し早く着きすぎた、やり手の営業職に見える──清潔過ぎる外面だ、アルコールの問題を抱えているようにはとても見えない。 「お待たせ」 「悪い、忙しかったんじゃ?」 「いや、丁度昼休憩に行こうと思ってたからね」  弄っていたスマートフォンから顔を上げ、床へと滑り倒れ掛けていたことに気付いたのだろう。ヨルゲンセンは、薄らと濡れているエトロの傘を掴み直した。 「君がこの前教えてくれた依存症治療者への自立支援補助について、書類を持参したんだが、窓口で追い返されたんだ。退役軍人局に行った方が良いとか」 「年金もくれない軍が? 大丈夫、こちらで何とかする」  ショッピングモールの衣料品売り場で買ったよれよれの偽ブランドジャージを着て、無精髭を生やしているれば、困窮している人間と認められたか? まさか。夜明け前が一番暗い、溺れている時よりも、何とかしようと誓ってからが辛いのだ。そこで手を差し伸べられなければ、信じて貰えなければ、這い上がる事など出来はしない。 「君も知っての通り、役所の人間なんて、可能な限り財布の紐を締めるのが仕事だと思っているからね。市民の権利なんだから、どんどん隙を突いてもぎ取りに行かないと」 「コンサルタントの君に言われたら心強いよ」  クロノール(抗酒薬)の副作用対策で出されている鎮静剤のせいか、見上げてくる空色の目は幾分覇気なく瞬かれた。その分夜は眠れているのか、隈は少しは薄れているように感じる。テキストはやり取りしているが、直に顔を合わせて会話をするのは1週間ぶり位かもしれないと思い至った。 「私が掛け合うから、君も一緒に……市長、昼食へ?」  言葉が先細りになってしまったのは、視界の端を横切ろうとしたハリーが、完全な手ぶらだったからだ。この男は傘が嫌いで、気付いた時は(その確率はせいぜい50%が良いところだったが)モーが追いかけて渡しに行く。 「エル、探してたのに。中央通りの角で出てたケバブの屋台、てっきりコロナで潰れたと思ってたんだが、再開したらしい」 「それは良かっだが、外は結構降ってるぞ」 「走るから構わない」  幾ら英雄的な元軍人でも、自分が住んでいる街の市長がいきなり目の前に現れたら緊張するものだ。それを理解しているから、ハリーはにーっと、懐っこい笑みを好奇心で一層煌めかせながら、ヨルゲンセンを見つめる。 「貴方はエルの友人?」 「この前言ってたフラットメイトだ。傘を取ってくるから待っててくれ」  市長のオフィスへ戻ったが、コピー機の前でおたおた、おろおろしているモーを助けてドラムユニットを交換していた分、少し時間を食ってしまった。出来る限り足早に戻ったものの、案の定市長の姿は影も形も掻き消えている。ついでに言えばヨルゲンセンの姿も。  たった10分程の間に空は暗さを増し、雨足は益々強まっているようだった。正面口から出れば、門柱の近くで特徴的なペイズリー柄をしたモスグリーン傘を見かける。趣味が悪いと前々から思っていたのだが、離婚した奥さんが結婚記念日に買ってくれたものらしいので、迂闊に言えないでいた。  どうやら待ちきれず、ヨルゲンセンに連れて行って貰ったらしい。これは人遣いが荒いと言わないでおく。市民と密接に交流し、話を聞くのも市長の務めだ。  だがそれにしたって密接し過ぎてはいないだろうか。傘の下から並んで覗く2組の脚は、今にも爪先同士がぶつかりそうな有様だった。  ヨルゲンセンは間違いなくハリーのタイプだった。幸いゲイに偏見はない男だが、ぐいぐい迫られたら困惑するだろう。特にハリーは大した策士だから。 「危なかった、僕達の4人後ろで売り切れだ」  駆け寄ってくる足音へ振り返るハリーの様子は呑気なもの。どうやらヨルゲンセンにも買ってやったらしい。傘の柄を握るのとは反対の手に、ケバブサンドが所在なく抱えられている。 「これは収賄に当たらないよな、エル」 「君が奢ったんだろう、なら大丈夫じゃないか」 「この街の退役軍人の生活について、貴重な意見を聞かせて貰っていただけなのに……これは預かるよ。ヴェラに申請させておく」  ビニール傘を受け取りざま、ハリーは書類封筒をひらりと振ってみせた。心なしか浮き浮きした後ろ姿を眺めながら、ヨルゲンセンは呟いた。 「何だかズルをした気分だ」 「そんな事ないさ。ところで、何の話をしていたんだい」 「別に、世間話」  手にしたホットミールは、肌寒さい空気の中でまだ湯気を立てている。熱かったのかソースが辛かったのか、一口齧ったヨルゲンセンの眉根は少しだけ寄せられた。 「君、ここではエルって呼ばれてるのか。彼も理由を知らない、ノリだって言ってたが」 「ああ、ここで雇われる前だから……私の祖母はカルメン・ミランダみたいなラテンの爆弾娘で売っていた場末の歌手で──本当はアルジェ生まれだったらしいがね。だからエル・エリオットなんてゴーディがふざけて呼び出して、それが縮まってエル」 「独特の感性の持ち主なんだな」 「市長の周りはみんな個性的な人間ばかりさ。さっきも秘書のモーが……今度、市の記念切手をスヌーピーの限定デザインで作るんだが、概要の中のSNOOPYの文字を、全部SNOOPIEって入力してたんだ。今頃彼は、200枚近い書類を印刷し直してるよ」 「スクービー・ドゥーと勘違いしたのかも」  ヴァレンタイン・ヨルゲンセンはハンサムな男、そんな事は百も承知た。なのに屈託なく微笑む横顔が驚くほど端正だったので、思わずじっと見つめていた。  どんな顰めっ面や泣き顔の持ち主にも、最終的には警戒心を解かせてしまう。ハリー・ハーロウは全く、大したカリスマ性の持ち主だ。そのおこぼれを頂戴するのは少し癪だと、普段あれだけ恩恵を受けている身分でありながら、エリオットは少し思った。  尤も、美徳を見れば直ちに穿ちたがる人間は、この世の中に多い。翌日「これ、取り敢えず差し止めといたけど」とヴェラスコが持ってきた地元紙の紙焼き写真、仲良くケバブを頬張ったり、軽く背伸びしながらヨルゲンセンの肩に手を置いて内緒話をしているハリーの隠し撮りにも怒ってはいけない。矛先は節制のないマスメディアへ向けるべきだ。  昨日ケバブなんか食べなくて良かったと心底思う。ピルケースから取り出して飲み込んだ制酸剤だけでは、とてもこの胃の痛みは抑制出来なかったに違いない。
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