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希少価値って知ってるかい
「エルはハードック市とプリンス・タウンへ回った後にまた交通局か。そろそろ僕も顔出ししなきゃな。ヴェラは?」
「児童絵画コンテストの打ち合わせか何か。予定表見てないので?」
「モーのリマインダーは見辛いんだよ。5泊の出張をまとめて登録せずに、一日ずつ『市長 アルバカーキ』とか入力する。そう言う指導するのも、ヴェラ辺りの仕事じゃないのか?」
「この前コピー・アンド・ペーストのショートカットキーを教えてましたがね」
まるでこの街の救急車問題についてみたいだ。誰かが何とかするだろう、と言うか自己管理しろよ、お前のそれ、そもそもそんな緊急性があるか? ありとあらゆる言い訳に託けて、徹底的に棚上げされている。
そんなことを言えば、市長は今浮かべている表向きの笑顔をあっさり瓦解させるだろう。後ろから追いついてきた副市長の存在を認めたゴードンは、半歩前を行くハリーへ囁いた。
「メリル・ストリープ襲来」
「またあそこの信号が故障してる! しかも今日は事故まで!」
「怪我人は?」
「救急車が来るまで接触車の運転手同士で掴み合いしてたって話だから、大丈夫でしょ」
共和党に鞍替えしたメリル・ストリープか、おっぱいのあるボリス・ジョンソンと言う趣の女傑。今日もブライズ・ディーンはせかせかして、フェンディのアンサンブルスーツを完璧に着こなしている。
「ここから見えるんじゃない?」
「見たくない。市民はお互いを思いやる気持ちを持つべきだ」
市庁舎の2階から議事堂へと向かうガラス張りの渡り廊下を、高所恐怖症の気があるハリーはあまり好いていない。そもそも物騒だ。ここがロサンゼルスなら、毎日の如くゲート前へ集うデモ隊の格好の標的となり、今頃『戦場にかける橋』のラストシーンみたいな有様となっているだろう。
「今日こそは通しますからね」
「55デシベルだろうが50デシベルだろうが好きにしたら良いけど、君達の方でちゃんと連携すれば一発で通るだろう。単純計算だと2対5なんだから」
イーリング市で議員として選出され、評議権が与えられているのは市長と副市長を入れて7人。MSA(アメリカ合衆国大都市統計地域)へ指定される条件、人口50万人を辛うじて突破する都市圏の中核都市として、標準的な人数だった。本当はもう何人か減らしたいところ、勿論共和党側から──来期は民主党員が増えそうだとの見込みから、今はまだ改憲案を提出してはいないが。
今日の議題の1つは、指定商業関連地域の騒音規制基準について。要するに、再開発の進みつつある地元の夜を少しでも穏やかに過ごしたいと言う、生まれも育ちの下町っ子を自認する彼女自身の願望だった。
だが人の世に3人寄れば、とはよく言ったもの。開発を進める側のマレイ多数党院内総務が執拗に食い下がるのは仕方がない。だが元来この市の共和党員は良い言い方をすれば穏当、悪く言えば事なかれ主義だ。浮遊票の多さは、ハリー達の大事なアドバンテージになっていた。
「トーニャには?」
「本人に聞けば。マレイは反対だろう」
「あの偽ドン・ジョンソン!」
ぷっと噴き出したハリーを「冗談じゃない」と副市長は睨みつけた。
「で、実際どうなんだよ」
近代的な無機質から古臭い湿っぽさへ。議事堂へ入り、大理石造りの階段を降りながら、ゴードンはディーンの後ろに従う副市長付補佐官のアダムショックに尋ねた。きっちりまとめたブルネットと大人しげな目鼻立ちに騙されてはいけない。彼女はビートルズで言うところのジョージ・ハリソン──ロックを本当に愛する人間なら、ハリソンを聞いていなければクソだ。今もアダムショックは、正面を向いたまま淡々と答える。
「そっちから1人は賛成するよね」
「いい加減他の議員に出させたら良いんだ」
「これは言っとく、例えヤンファン議員に出させたところで、駅の件は通さない。素直に駐車場作れば」
「俺だってそうしたいのは山々なんだがな」
お互い頑固な上司を持つと苦労する。片目を瞑って見せても完全に無視。全くクール。
伝統あるものが80年代以降に老朽化し、比例するようにして街そのものが一度衰退しかけて焦った都市の議事堂にありがちな雰囲気。100人ほどが入る公聴席のベンチは、座面に嵌め込まれた合皮のカバーが所々破れ、詰め物が露出したり、ダクトテープで補修してある。中央に据えられた発言台を挟む形で取り付けられ柵は木製だが新しい。その向こうに居並ぶ議席は多分、改修前の建物から持ち込まれたものだろう。その背後の壁で一際目を引く、アッシャー・デュランドの巨大で重々しい風景画と同じく。
ざっと見回してから、ゴードンは控え室へ入ろうとするハリーの腕を掴んだ。
「今回は反対ですね」
「どうせ通る訳ないから、賛成して取り敢えず誠意だけ見せておくのも悪くない」
「あんたの知り合い達が大挙してる」
悪い察しに苛立ちながらも、ディーンが仲間へ合流したのを確認してから、怪訝な顔を浮かべるハリーに耳打ちする。
「ゲイバーやクラブのオーナー達だ」
「あー……」
すっと部屋の入り口から離れ、ハリーは周囲に視線を走らせた。
「まずいな。トーニャは?」
「反対票です。彼女はマレイを怒らせる為なら、奴の車に使用済みのタンポンを投げ付けかねない位嫌ってるが、いかんせん今回は地元のチャイナタウンから突き上げを食らってる」
「あのじゃじゃ馬……」
「アダムショックの言い方だと、副市長は何とか1人押さえてる。今回通す期待はしていなくても、少なくとも民主党側から一人味方がいるとアピールする事で、次回に勢いをつけたいはずだ。もし遊園地が出来る前に通ったら、ローラーコースターもパレードも花火も全部諦めて下さい。許されるのはスワンボート位です」
アレキサンダー・マックィーンのパンツスーツを翻しながら階段を降りてくる時、トーニャ・ヤンファンは、足元を一切見ない。武侠映画の主人公そのものだ。足早に彼女を迎えながらも、ハリーはまだもごもごと歯切れが悪い。
「もし通ったとしても、遊園地の周辺は特例区として融通を利かせてくれないかな」
「あの女スターリンがそんな甘っちょろい訳ないでしょう」
「生爪を剥がされたくなかったら手を振るのはやめて、ハリー・ハーロウ」
「やめてくれ、マニキュアを塗ったばかりなんだ」
市長選立候補を打診したブルックス元議員は、子飼いの彼女とハリーを見比べて、後者を選んだ。年齢も政治家としての経験はとんとん、学歴も元高校教師であるヤンファンは申し分ない。ただ片方はアジア系の女性で、片方は一見異性愛者風な白人のゲイだった、それだけの話だ。
「君、騒音規制基準の採決で反対票を入れるつもりだろう」
「今回の草案に、花火の販売や使用の禁止も挙がってるの知ってるよね。あれ、うちの民族への嫌がらせ」
「そうだな、あくまでもマジョリティを喜ばせる為の法案だ」
忘れてはいけない、あのメリル・ストリープはれっきとしたタカ派なのだ。許容するのは良い子のクィアと有色人種──当然のことながら、「良い子」の定義は彼女の胸先三寸で変わる。
「とは言うものの、君は彼女に恩を売っといた方がいい。どうせ通らないんだから」
「ったく、人を優柔不断に見せかけておいて、自分だけ勇者になろうとする気?」
「そうじゃない。この案に反対する支持者が傍聴に来てるし、多分何人かは陳述もすると思う。彼女の関連者は?」
「見た感じ、いませんね。今否決されたら少なくとも数ヶ月は改正案も出てこない、その頃には誰も覚えてませんよ」
嘴を挟んだゴードンと、己より低い目線を掬い上げるようにして首を傾げるハリーを、ヤンファンは暫く睨みつけていた。
「今日はきついが、来週の議題予定は」
「第3区の街路樹、信号機の取替工事、CDVID-19の差別撤廃案」
「先行して今週中に差別撤廃声明について、君を交えた記者会見を設定する」
すかさずゴードンが羅列した内容へは、間髪入れずに答えが返される。
「もしも採択されなくても、絶対に通すから提出し続けてくれ。公共施設への空気清浄機設置予算、来年の春節の催事の確約、同郷会館と中華学校への警備員配置と周辺地域への警邏強化、全部盛り込んで」
「通らなかったら貴方から出して」
「分かった」
ヴェラスコが死ぬぞ、なんて言ってる場合ではない。足音も高く控え室に入ったヤンファンは怒っている……一辺倒では無さそうだ。安堵の息をついたハリーを見遣り、ゴードンは目を眇めた。
「今彼女にウインクを?」
「僕は男にも女にも、そうでない人間にも魅力的に見える」
控え室を通り抜けながら、そう呟くハリーの表情筋は、束の間の小休止の為だろう。完全な仏頂面を保っていた。
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