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 …――貴方からのキスが本当に嬉しかった。  儚げに憂いる美しい女性から言われた一言。  前に、どこかで会った事がある女性。それは分かる。分かるけどもキスってなに?  記憶の中に居る、その女性〔ヒト〕は、どこかで見た事がある、と思うのだ。しかし、いまいち記憶が曖昧でハッキリと思い出せない。キスが嬉しかったという事は少なくとも恋愛関係である事は間違いないんだけど、名前すらも思い出せない。  ハハハ。  そこまで僕は酷い奴だったのかと自嘲する。  お互いが好きで愛し合ったと思われる女性の名前が思い出せないんだから。酷い奴だと罵られても甘んじて受け入れるしかない。ともすれば刺されても仕方がない。ソッと視線を伏せて間を置き、隣に居る妻を見つめる。罪悪感を必死で隠しながら。  彼女とは結婚して7年目となる。今でも優しく頼もしい妻だ。  間違いなく愛してる。君を。迷う事もなく。 「どうしたの? あたしの顔に何か付いている? ……変な人」  ふふふ。  と無邪気にも微笑む彼女にも申し訳がない。 「ごめん。ごめん。なんでもないよ。それよりも順調なの? お腹の中の子供はさ」 「ふふふ。大丈夫。順調よ。半年もすれば会えるよ。ねぇ? パパになる気分は?」 「この僕がパパなんて今でも信じられないよ。話を聞いた時は天地がひっくり返るかと思った。でも、パパになるのも嬉しいかな。信じられないほどに嬉しいって事」 「ふふふ。良かった。君は愛されてるよ。あたし達の愛しい子」  と、妻は、いくらか膨らんだお腹をさする。  そうだ。  僕は、これから父になる。  その意味でも自分が酷い奴だと思うと、こんな男が親になっても良いものかと自問自答してしまう。いや、不倫をしているわけじゃないんだから真面目すぎるんだと言われれば反論も出来ない。が、自身が納得するのかどうかという問題なんだ。  そして、  そんな罪悪感を以て過ごしていた、ある日。 「こんにちは。前にも会いましたよね。……覚えていますか?」  一人で買い物に来ていた時。目の前に、あの記憶に残る女性〔ヒト〕が現われた。  相変わらず憂いを帯び、どこか悲しそうな瞳で僕を見つめる。  思い出せないのが申し訳なくなって、必死で思考を巡らせる。  会った事は在る。間違いなく。だが、どこで、どんな理由で会ったのか分からない。分からないからこそ答えられない。黙る。その沈黙を嫌ったのか、女性は静かに続ける。これ以上は口にしてはいけないと言葉を選びながらも、ゆっくりと。 「真面目なのは分かってましたけど、そこまで真剣に考えなくてもいいですよ。むしろ分からない方が当たり前ですから。ただ、あたしの方に言いたい事があって」  いや、でも待て。待てよ。  そうだ。  思いだした。ようやくだ。  僕は結婚する前、僕みたいな男が彼女に相応しいのか分からず、どうしても結婚に踏み切れなかった。その時、この女性〔ヒト〕と出会った。そして初対面にも関わらず、いきなり言われたのだ。あの言葉を。あのキスが嬉しかったという話をだ。  でも、その後の事は覚えてない。キスの話をしてからの記憶がまったくないのだ。  いや、記憶がないというは目の前に居る女性の事であって自分の事は覚えている。  ハッキリと鮮明にも、だ。  兎も角、  キスの話を聞いて、なぜだか心が温かくなって勇気が湧いてきて、そのまま妻の元へと走り、駆け、一気にプロポーズをしたのを覚えている。その言葉を聞いて妻は微笑み、そして、泣き、僕の手を握ってくれた。力強く。その手も温かくて……。 「あたしは貴方のキスが嬉しかった。いつも貴方が眠る前にしてくれたキスがです」  いや、そうは言われても、まったく覚えがない。そんな事をした覚えがないんだ。  僕はジッと女性の顔を見つめる。本当に知り合いなのかとだ。  どこかで見た事がある。面影がある。知っている女性〔ヒト〕だとは思う。思うが、やはり、どうしても思い出せない。どこで会ったのか、どこでキスをしたのか。憂いを帯びた表情で力なく笑い、彼女は、また静かに言った。これで最後なのだと。 「あたしは未来人です。未来から来ました。前に会った時は、貴方が、まだ結婚を迷っていた頃です。あの時は、いらぬお節介をしてしまって申し訳ありませんでした」  未来人? 「あたしは貴方からのキスが嬉しかった。キスが欲しくて、わざと夜更かしをしたりもしました。それだけを伝えたくて未来から来ました。ありがとうと言いたくて」  歴史は変えられないのだと言いたいのか大事な事は口にしてはいけないとばかり。 「もう、これ以上は規約違反になってしまいます。だから、これだけは覚えておいて下さい。あたしは本当に嬉しかったんです。キスが。ありがとう。ありがとう」  と女性は泣き崩れてしまった。そして……、彼女は僕の前から消え去っていった。  まるで、かき消えるよう。仮に幽霊という存在が在るのだとするならば、それこそ幽霊のよう雲散霧消していった。狐につままれたような気分になった僕は立ち尽くした。結局、彼女の正体を知る事もなく、彼女が何に憂いていたのかも分からず。  それから数日後、僕は父になる。無事、子供が生まれたのだ。  女の子。 「ふふふ」  そして、  それから数年経って、僕の日課は子供の寝かしつけとなった。 「あはは」  と娘だ。 「コラッ」  笑む僕。  いつも、わざと夜更かしをしようとする娘を軽く叱りながらも最後は優しく諭す。そして、おでこに軽くキス。すると喜んで目を閉じる娘。そんな愛おしい日々を繰り返して娘も大きくなって、僕も、いくらか歳をとった。そして、僕は死んだ。  なんで死んだのか、なんて話しても面白くないから割愛するけど病気とだけはね。  うんっ。  別に悲しくはないよ。僕は、精一杯、生きたし、愛娘が大きくなるのも見られた。  少しだけ心配なのは、娘が悪い男に騙されないかって事だけ。  まあ、でも、我が子だから大丈夫だろうとは思って逝ったよ。  親馬鹿だって言われれば反論の余地もないけど、きっと大丈夫だろう。だって僕と妻の子だし、なんと言っても自分が生まれる為に未来から僕の元へ来るくらいに強かな子だからね。そうなんだ。思いだしたんだよ。娘が大きくなって。ようやく。  あの僕からのキスが嬉しかったと言った女性〔ヒト〕は僕らの愛娘だったんだよ。  僕が寝る前に愛娘のおでこにするキスが嬉しかったって事さ。  僕が死ぬ事を知っていたから憂いてたんだろうね。その悲しみを癒やす事は出来なかったけど後悔してない。娘なら乗り越えられるって、そう思ってる。だから頑張ってね。これからも。僕は君から見えないけど、会えないけど、話せないけど。  ずっと君の側に居るから。  ずっとずっといつまでも。  真面目過ぎって言われも。  悲しくて切ない夜は……。  おでこにキスをするから。  お終い。
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