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月が見えますか
その日からお鶴は床についてしまった。
薬師に診せても、首を振るばかりでどうしようもなかった。
「先生、娘は何の病なのですか?
薬はないのですか?」
「これといった病が見付からないのです。
ただ、生きようとする気力が失われているようです。
脈が弱く、息も浅くなっています。
気力を回復させる薬を処方いたしますが、気休めと思って下さい。」
「娘は、山に帰りたいと言っておりました。ここでは息ができないと。
生きられないと。
山里に戻せば治るでしょうか。」
「今のご様子では、動かすことは難しいでしょう。
身体が保たないと思います。」
薬師が帰った後、
お鶴の父は乳母を呼んだ。
「乳母や。正直に答えて欲しい。
山里にいた時、
誰ぞ鶴と想い合う仲の男がいたのか?」
「旦那様、お嬢様をお疑いですか?
お情けのうございます。
確かに、お丈夫になられてから、
山や川にお出かけになることが増えて、
私の身体が持ちませんので、
与ひょうという若者にお嬢様をお守りするよう頼みました。
与ひょうは、よくお嬢様の面倒を見てくれ、お嬢様も与ひょうを頼りにしておりました。
ですが、誓ってその様な間柄ではございません。お嬢様も与ひょうも自分の立場をわきまえておりました。」
「そうか、済まなかった。
隣村の庄屋に破談を伝えに行った時、あの次男が、
『お嬢様だって山里の男といい仲になってるのに、私だけを責めるんですか』
と苦し紛れに言ったのだ。
それが、気になっていたのだ。
それに、山に帰りたいと、
倒れる前に鶴が言ったのだよ。
鶴は、その与ひょうという若者を好いていたのではないのか?
山にしばしばふたりで出掛けていたという。何をしていたのだ。」
「お嬢様と墓まで持っていくとお約束したのですが、お話しなければ得心いただけないようなので、申し上げます。
お嬢様は、与ひょうに読み書きを教えていたのです。」
「なぜに。与ひょうに頼まれたのか。」
「いいえ、与ひょうは、その様な分不相応な事をしていただいては、叱られますと断ったのですが、
お嬢様が、読み書きが出来れば、
嬉しい事があったとき、書き付けておけば忘れないでいられるからと、
強いて教えたのです。
手紙も書けると。」
「与ひょうは、紙は貴重な物で、
私には紙など使うことは出来ませんと申しておりました。
これは、私の勝手な思いでございますが、
お嬢様は与ひょうを慕っていたのかもしれません。ですが、御自分は婿を取り庄屋を継がねばならぬ身。
せめて、別れの手紙を渡したかったのかもしれません。」
「誰ぞ足の速い者を呼べ。
与ひょうという若者を呼ぶのだ。
今すぐ。」
もう既に夕刻に近く、
辺りは薄暗くなってきていた。
足の速い若者を走らせたが、
山里に着いたのは夜であった。
「スミマセン、
与ひょうさんの家は、ここですか?」
「与ひょうは、私ですが、なにか?」
「庄屋のお嬢様が、お倒れになって、もう虫の息なのです。
旦那様が与ひょうを急いで呼んで参れと仰られ走ってきました。」
「おとう、庄屋のお嬢様がご病気だそうだ。
今から行ってくる。今晩は、たぶん帰れん。
あなたは、休んで後からお出で下さい。
庄屋様のお宅は存じております。」
与ひょうは、走った。
お嬢様、生きて下さい。
今、与ひょうがお側に参ります。
ああ、なぜ今日は月が出ていないのだ!
月さえ出ていれば、お嬢様に会える気がした。
与ひょうは、暗い道を何度も転びそうになりながら、走った。
お嬢様、月が、月が見えないのです。
あなたにお会いしたいのに。
お嬢様には、月が見えていますか?
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