誰のものでもない

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誰のものでもない

 木枯らしが吹き、道は閑散としていた。黄色の葉が舞って、何やら不穏な気配を漂わせていた。道は緩やかな下り坂となって、また緩やかに湾曲している。そこを下る人々は、自然と大股になって歩くものだった。今現れた少女も、例に漏れなかった。少女は、紐に繋がれた犬に引かれていた。飼い犬であろう。きっと、随分可愛がっているのに違いない。その証拠に、少女は仔犬の意のままに引かれている。「待て」とも言わず、少々背を反らしながら、ドス、ドスと下りるのである。  犬は横断歩道を渡る。良く良く、躾の行き届いた犬である。犬にとっては不可思議でしかないこの紋様を、きちんと『渡る』感覚でいる。大層なことで、この一事は賞賛に値する。  ああ、しかしどういった運命の悪戯であろう。今の今まで陽気に歩いていた犬は、この一刻の間に、坂を目一杯降ってきた青い車に轢かれてしまった。バチン、と紐の弾ける音がして、少女の目は大きく見開いて結膜が覗いた。犬は横向けに倒れ込んで、もうちっとも動かなかった。 「マル、マル!」と叫びながら少女は膝を折り、犬の腰に手を当てた。 「ああ、ああ」  後は呻きにも似た声を漏らすばかりである。  つやつやの車の扉が開くと、中からは髪の薄い、眼鏡をかけた小太りの中年の男が現れた。「やっちまったか」と呟いている。一メートル、少女の背後から状況を認める。子どもが泣いている。申し訳ない、と思い、この男は首の後ろをぽりぽりと掻いた。できることなら時を戻して、一時停止して、それから「危ねえな!」と怒鳴りつけてやりたいところである。けれども無論、そんなことは起こり得ない。起きてしまったことを、ただ呆然と眺めるのみである。  しかし、暫く少女を見ていると、男は何だか気分の高揚するのを感じた。一刻も早く、ここから立ち去りたいのが本心である。別段犬を轢いたとて、大した罪には問われないはずである。犬は人ではない、『物』なのだから……そんな風に考える自分に、男は驚いていた。自分がこんなに冷酷な人間だとはこれまで思いもしなかった。誰かを傷つけるなど恐れ多い、まさかそんな所業に手を染めようなどと思わないし、そういう輩は極悪人に違いないと信じていた。ところが、今度の場合は——なんてことはない、いきなり飛び出す犬の方が悪いのである。偶然のことで、故意ではない。不慮の物損事故である。ああ、なんて自分は運が悪いのだろう!  気の毒には違いない。だから、この少女に今、一言二言罵られようが、いささかも文句は言えないだろう。二十も三十も年下だろうが、幾らこの少女と犬の不注意が事故の原因だろうが、そのくらいの寛大さは備えて然るべきである。——と、男は尊大な考えを巡らせていた。その間、少女はただ声を詰まらせ、目前の事態を必死に堪えようとするばかりである。その姿に、男は言いようの無い胸の高鳴りを覚えていた。この非常時において、自身の低俗で下劣な人格・思考の成り行きを教えられるとは思わなかった。いかに平時取り繕って生きていようと、本性はいざという時隠し通せぬものである。一体いつから、自分はこうなったろう。まさか初めからこうだったはずもあるまい。とぐるぐる思案しているうちに、目の前の光景に衝き動かされるように、身体が熱くなった。  居ても立っても居られず「あのお、」と声をかけた。鋭い目つきに睨まれるだろうと思った。ところが、少女の向けたのは、あまりにか弱く潤んだ瞳であった。罪悪感、憎しみ、不安、後悔、恐怖、愛情、暴力的な衝動……その全部が等しく入り混じった目の色であった。男はその瞳に、撃ち抜かれた。 「年は幾つ?」と男は聞いていた。十二、三くらいであろうと見当つけていた。少女は一旦ぱかと口を開けたが、しかしその瞳の様相が簡単に移ろうはずもなかった。そして当然、答えなどは得られないのであった。  男は反省した。そして、もう二度と不用意に発言しないことを決めた。 「警察に電話するね」と大人らしいことを言った。少女はやはりぐすんと言って、犬の亡骸にしがみついていた。  少女はいつまでも、その場を離れなかった。それどころか、少女はゆっくりと犬の毛並みをなぞるように撫で出した。まるで自分が極悪人だと言われているようでどうにも居た堪れず……しかし、少女は男のことなどいささかも気にかけていないようだった。ただ、横たわる犬に縋っている。後ろから車が、クラクションを鳴らして抜き去った。男は目を泳がせながら、携帯電話を取り出し、110を入力する。  その時、男は何を思ったか、膝を折り畳んで目一杯しゃがみ、少女の丸まった背に視線を合わせると「君がかけな」と指図した。 「君が、被害者なんだから」  振り向いた少女の目は、漆黒に塗られていた。男から電話を受け取ると、応答を待った。  呼び出し音が僅かに聞こえる。その間、待った。たった二、三秒の内のことであったが、待った。 「もしもし」と少女は噛み締めるように、第一声を発した。男は息を呑む。 「犬が……マルが、轢かれました」  少女は道路にへたり込んで、男を強張った横目に見て、そう伝えた。男はその目に、その表情にぞくとして鼓動を打ちつけた。 「はい……目の前にいます」  自分のことを言っているのだと男はヒヤリとした。 「もう死にたい、一緒に……」  少女は唐突に涙ぐんだ。瞬く間に目の内には水滴が溢れ出し、幾つかぽろぽろと垂れ出した。尋常ではなかった。男が、悪者に違いなかった。  けれども、やはり男には、大して罪の意識も湧かないばかりか、開き直ることさえしなかった。少女や犬の方が悪いのだとも考えなかった。それ以前に、罪の所在がどこにあるなどといった考えが浮かばなかった。そんなものが、全部後回しになるほどに、眼前の少女に気を取られていた。  少女は、自分が死ぬと言ったのだ。殊勝である。清く正しく、美しい人格の持ち主である。しかしそんな少女が今絶望し、打ちひしがれている。人を不幸にするのが嬉しいのではない。曲がりなりにも、自身の行いによって、この少女の運命に大きな影響を与えた、そのことこそ一大事なのである。できれば、男は少女に自分を気に入られたかった。しかしそれが困難な望みであることは、分かり切っていた。  少女は電話を切った。意識朦朧としているのか、男が手を差し出すのに、そのまま携帯を地面にポトリと落としてしまった。携帯は、少女の太腿の側に落ちた。男は徐に手を伸ばし、それを回収する。  もうすぐ警察が来る。男は、いつ少女が醜い本性を覗かせるだろうとじっと見た。警官が到着した途端そいつに向かって「あいつを死刑にしてください!」と男を指差しながら言う、そんなことがあって然るべきだと男は考えた。そんなことさえあればようやく男の少女への執着は剥がれ、無事今日の出来事を反省しながら、意味も無いのに誰かに向かって許しを乞う日々を送ることができる。しかし、こう少女がしおらしいままだと、どうも通常の生活に復帰していくのは難しい。少女が延々、男にとって特別な存在であり続けることになる。  ところが、とうとう少女は飼い犬の亡骸を持ち上げた。涙を啜り上げ、えへん、えへんと泣きじゃくる。気の毒である。しかし、だからどうすれば良いと? 男は自問自答した。どうとでも、罰したいなら罰してくれ! 望むところだ。けれども、誰に自分を罰する権限がある? 俺を殺すか? 誰が? 犬を殺したから? 殺すまではないと言うなら、何年か刑務所にぶち込むか? 罰金と社会的制裁によって、家族を奪うか? 一体誰にそんなことができるというのだ。できるとするならば、この少女か、犬である。とつらつら考えた。  しかし、少女の敵意は一向に男へ向かない。もう男には訳が分からなくなった。頭がクラクラとして、暫く倒れ伏すとも知れなかった。そうして起きた時には、全部夢だったということになっていれば良い、と考えた。  少女は犬を抱え、強く目を瞑り涙を滲ませ、棒立ちしていた。すると不思議なことにたちまち空は灰色を強めて曇り出し、雨を降らせた。予報にはない、にわか雨である。男の薄い頭髪はだらしなくうねり、眼鏡は水滴に曇った。少女は懸命に泣いていた。溢れ出すものを止めようもなく泣いていた。男は一度眼鏡を外し、曇りをシャツの裾で拭って、もう一度かけた。そこに映るのは、まさに一枚の見事な絵であった。この瞬間、少女は男にとって高貴で触れ難く、永久護持されなければならない存在へと昇華した。今一思いに、この脳天を叩き割られても構わないと思い、地に手をついた。男は額を目一杯道に擦り付けて、少女の前に赦しを請うた。 「すみせんでした。この通りです」  いつまで経っても反応が無いので、男は恐る恐る顔を上げてみた。——少女はまだ、泣いていた。少女は全て悟った上で、男の謝罪を意に介さないのであった。男は平身低頭、少女の頭を超してはならないと思った。  日向の窓際で椅子に座り、男はコーヒーを啜る。あの日の一枚絵ばかりが、頭の内にこびりついている。男は、あの少女にもう一度相まみえたいと何遍も思う。そして、こう言われることを期待するのである—— 「パパ」  男を呼ぶのは七歳になった息子である。 「遊園地連れてって」と強請る。 「良いよ。行こうか」  その一言だけで、男は息子を喜ばせることができる。 「そう、こんな雨の日にはちょうど良い」  男は窓の外を眺めながら言った。息子は男のその言葉をきちんと聞いていたが、暫くぼうっとしてからくるりと振り返ると「ママ!」と呼んだ。 「いけるって!」  男は息子の去ったことを確認すると、もう一つ呟いた。 「あんな具合には、ならないかな」 「誰?」  見ると、そこには五歳の娘が突っ立っていた。今にも親指を咥えてしゃぶり、唾をつけようとしていた。 「お父さんさ」と男は答えた。娘は「ふうん」と言って男の膝に乗った。 「雨、降ってないよ」 「良く分かったね」  男は娘が愛おしくて、彼女の頭頂をぐるぐると撫で広げた。
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