ハルヤマフクマサのススメ

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
春山(ハルヤマ) 富久将(フクマサ)はいわゆるシンガーソングライターで俳優だ。ギターを弾いたり、自分で作詞・作曲した歌を唄ったりする彼の最大のヒット曲は「梅の橋」。桜ではなく、赤と白の梅の花弁が舞い散る陸橋で出会った男女の恋を切なく歌い上げていた。テレビドラマや映画にも出演していて、当たり役は「探偵アルキメデス」シリーズ。人気作家の原作小説さながらに風呂好きで、星を読んで推理する理科教師の水谷(キョウ)を好演し、お茶の間の人気をさらった。担任学級の生徒外山香を経由して伯父である花生警視からなにかと相談を受けるのだが、この三人の軽快なやり取りも好評を博した。ポッと出てきたアイドルとはなにか違う、いつからだか国民的に認知され人気を博してきたこの芸能人のことを私がスキになるなんて考えもしなかった。けれど、ある日、なにげなく見ていたテレビ番組で年配の女性司会者を相手にふと彼が見せた笑顔がとてもとても素敵で、私はその一瞬で彼の虜…とは言わないまでも、もう彼のことが気になって気になってどうしようもないのだった。 テレビドラマやコマーシャルで見かけるハリーは素敵だった。一般的には彼は「フクハル」と呼ばれていたけれど、ファンの間では彼の幼少期からのニックネームである「ハリー」と呼ばれることが多く、また自身もそれを好んでいるそうだった。雑誌で見かけるハリーもそれはもう素敵だった。配信サービスを見始めるとあっという間に時間は過ぎ、朝がくるのがとても早く感じられた。ラジオを聞くととてつもなく面白い人だった。たまにシモネタまで披露する意外なところがかわいいとさえ思えた。インターネットは宝庫というか、公式サイト、数々のファンサイト、ハリーのためのブログ、ハリー専用アカウント…もう、時間が無限に欲しかった。だって、もう、私の気持ちは一直線でハリーに向かっていたんだもの。そんなとき、ハリーのコンサートが開催されることを知った。チケット…取れるんだろうか。演武館…て、一万人くらい入るんだっけ?コンサートなんて…、そういえば自分でチケットを買ってコンサートに行ったことって…あったかなぁ。 思えば私は随分不毛な大学生活を過ごした。兄の下で私は大して期待されていなかった。なにかにつけて母は私に父と同じく公務員を目指したらいいんじゃないのと諭したけれど、兄とは違って事務系に入れればいいくらいにしか思われていなかった。そのために経済を勉強しておけばいいと言われ、ほかにしたいこともなくて言われるとおりにしたんだった。そこそこの成績で入れた大学では高校が一緒だった筧さんの誘いでテニスサークルに入った。テニスなんて一度くらいはしただろうか。単なる飲み会につきあわされるばかりで「友だち」と呼べるような人はできなかった。筧さんもそのうち課題やバイトで忙しいとかなんとかいう理由で会うことはなくなった。サークルの人だったか、「変な人」に声をかけられて、宗教がどうとか投資しないかとかって言われて、それ以来大学では友だちを作る気がなくなった。公務員試験はそれなりに難しかったし、そう都合よく役所に就職なんてできなかった。滑り止めのつもりと母に伝えていた大企業の中では小さい方の会社には就職できて、仕事もこなしてきた。人事異動のない中小企業で何十年も勤めるのは向かないだろうと思ったし、数年だろうと家事手伝いはまっぴらごめん。だから就職活動はそれなりに頑張ったのだった。就職面接でアピールするために始めたガーデニングだったけれど、それはいまでも続いていて、趣味らしい趣味といえばこれしかなかったのだった。 そういえば私は男性ともまともにお付き合いをしたこともないんだったなぁ。小学校や中学校では「好きな人」はいた気がする。バレンタインにチョコレートをあげたのは…、担任の先生くらいだったか。しかもお母さんにもたされたものだった。高校は女子校だったし、大学は…、「変な人」に声をかけられたのが一年生の割と最初で、それ以降はなんとなく男性を遠ざけてしまったかな。サークルの飲み会で軽く話をする程度のことはあったけれど、グループ課題を一緒に取り組むような人もいたけれど、就職してからも男性とは距離を置くようにしてきたかも。上司も、先輩も、後輩も…。ああ、同僚もか。飲み会も最低限、どうしてもってときしか出席せず、いつの間にかあんまり声もかけられなくなった。仕事もそこそこにしか取り組まないしね。影で「総合職の事務員」てみんなから呼ばれてるのも知ってる。それでいい。むしろそれになりたい。両親は揃って「最近はお見合いなんてはやらないから」と言って、私のことを持て余しているみたいだった。二つ歳上の兄が結婚したのは二年前か。三〇歳になる前に結婚したかったんだって、昭和時代の女性が言いそうなこと言ってた。大学の同級生だった由紀さんと結婚していまはマンション暮らし。子供はそろそろ欲しいみたい。ウチにはたまに、うん、季節ごとに一回は来てるかな。いつだかお母さんに言われたみたいで、由紀さんは「友だちの弟」を遠回しに私に紹介してくれたことがあったっけ。悪い人じゃなかったけれど、話はまったく合わなかった。ま、由紀さんも一回紹介すれば義理は果たしたことになるとでも思ったんだろう。 そういえば、小学校のときに兄が親しくしてた「小林くん」て人がいた。小林君はよくウチに遊びに来てて、お行儀が良かったから覚えてる。靴もいつもきちんと揃えてた。私も友人の家の玄関先で必ず自分の靴を揃えるようになったのは小林君のおかげだった。小林君は私を見かけると必ず挨拶をしてくれた。居間でお母さんがおやつを出したりすると、「敏子ちゃんも一緒に食べよう」って分けてくれた。マンガも読ませてくれたり、テレビも一緒に見たり、ゲームまで一緒にやらせてくれたりもした。小林君がしてくれる話はなんでも面白かったのを覚えてる。ハリーにちょっと似てたかな、いま思うと。あとで聞いた話だけど、小林君は一人っ子だったから私のことを妹みたいにかわいがってくれたらしい。けれど、兄の結婚式に小林君は来てなかったんだなぁ。お母さんに聞いてみたら、 「あなた、小林君のこと、お兄ちゃんの前で言わないでよ。」 って、そう言われて、結婚式当日どころか、その後もなんとなく家族の前で小林君のことを話せなくなっちゃったなんて、なんだかそんなことまで思い出してしまった。 で、コンサートのチケットってどこで買えるの?チケットカウンターとかって最近見かけないような気がするんだけど…。調べてみたところ、最近はコンサートのチケットはインターネットで買えるってことが分かった。いわゆるプレイガイドのサイトで登録が必要らしい。名前を聞いたことのある有名なプレイガイドのサイトで登録してみると、「お気に入りアーティスト」が選択できることが分かった。迷わずハリーを登録。すると「コンサート情報」が届いた。あれ。一般会員でも先行予約ができるみたい。無料だよね?プレミアム会員費用とかないよね?ふ〜ん、抽選なんだ。当選発表は二週間後くらいか…。もしかして、別のプレイガイドでも同じようなことができるのかしら。そう思ってほかの有名なプレイガイドのサイトも確認してみたら、あっちとこっちも同じ要領だった。で、合計三つのサイトで登録してしまった。登録してしまった後で気づいた。これ、三つとも当選したら、三枚チケット買わなきゃいけない…。そもそも最近のコンサートのチケット料金はなんだか高いし、チケット代のほかにサービス料もかかって、別にシステム利用料とかいうのもかかって、さらにコンビニでの店頭発券手数料までかかる。でも店頭以外で発券はできないらしい。そもそもサービスとシステムの違いってなに?で、結局、なんだかんだ国内アーティストなのに一万円くらいかかるんだよね。昔はこの値段で外タレのコンサート行けたよねって思う。当選しちゃったら…転売はできないしって思ったんだけど、なにか手はないの?と思ったら、サイト内で「リセール」できる仕組みがあるみたいだった。これで少しは安心した。まぁ、「ハルフク」のコンサートだから…友だちはいないけど会社の誰かとか、最悪でもお母さんか、お兄ちゃんはいかないだろうけど由紀さんなら…と思ってもみたけれど、「リセール」できるんならその方がいいよね。これで一安心。あとは当選の連絡を待つのみ。落選したとしても一般発売はその後だからと、なんだか余裕な気分になってしまった。それでも、当落の連絡がくるまでの二週間は長かった。 とりあえずコンサートに行く気満々になってしまった私はハリーの最新アルバムくらいは聴いておこうと思いついた。そして早速、楽曲配信サイトを見に行った。あー、でも、ジャケ写も素敵だし、歌詞カードも欲しいし…、なによりも「初回特典のクリアファイル」が素敵だって、どっかのブログに書いてあったのを思い出した。いやいや、数ヶ月前に販売開始されたハリーのアルバム、初回分はもうないでしょう…と思ったものの、販売サイトをいくつか巡ってみずにはいられなかった。最近はいろいろ便利になっていて、まとめサイトとかもあって、CDが販売されているサイトを探して巡るのなんて大した手間はかからなかった。内容をしっかり確認するのに時間は結構かかったけれど。そして初回特典付きのCDがまだ販売されているのを見つけ、なんか聞いたことない名前の販売サイトだったけれど、ちょっとだけ迷ってこれを購入した。三日後にはコンビニで受け取れるなんて、まぁ、なんて本当に便利な世の中になったものだろう。 とはいえ、私、CDプレイヤーを買わなければならない…。いや、ここはお兄ちゃんに…いや、お兄ちゃんには頼らない。いやいやいやいや、ないから。ハリーのCD、私より先にお兄ちゃんや由紀さんが触るなんて、ないから。で、通販サイトで買おうかとも思ったんだけど、あんまり自信がないので会社帰りに家電店に行くことにした。パソコンの機種ちゃんと控えていかなくっちゃ。 で、会社帰りに家電店に立ち寄った。CDプレイヤーのコーナーを探す。そこそこの値段のものを見つけ、販売員にパソコンに接続できるかを確認。ちょっと歳上のオニイサン風の店員さんは、デジタルデバイドのおばさんを扱うようにそこそこていねいに対応してくれた。パソコンを経由してCDから音楽をスマホに取り込みたい旨を伝えると、じゃああのケーブルも買わなくちゃ、あっちのコーナーだけどって案内してくれた。そしてその直後思い出したかのように、最近はパソコンを経由しなくても直接スマホに楽曲取り込みができるCDプレイヤーがあることを紹介してくれた。専用アプリの使用などは必要だけれど、販売価格も想定内だし、まぁ、こちらの方が取り扱い良さそうだし、パソコンを経由する必要は…と思ったけれど…、DVDが特典に付くことがあるのを思い出した。DVDならリビングのDVDプレイヤーで見られるし、むしろおっきいテレビで見たい。けれど、今後私はハリーのドラマや映画、ライブDVDを見ることがあるかもしれない。いや、きっとそうなる!それをお父さんやお母さんのいる居間で?…ないでしょう。部屋で一人でパソコンで見るという方が現実的だ。いや、でも、せっかくDVD見るときは大きい画面で…。 「あの、ちょっと、…考えさせてください。」 私は販売員のオニイサンにそう告げると、CDプレイヤーのコーナーをうろうろしながら自問した。オニイサンは私の方をチラ見しながらもほかのお客さんの様子も気にし、私を放置していいものか考えあぐねているようだった。もう、私の頭の中では父母のいる居間と、私一人の部屋とを考えが堂々巡りしてまとまらなかった。いっそのこと、今日は買わずに帰って明日、いや、数日先に買いに戻って来ようかとも思った。そうすると何日経っても決断できず、CDを手にしたときにすぐに聴けないのでは?なんて、そんな気までしてきた。 「これパソコンいらないんだってー。」 「マジぃ?超便利じゃ〜ん!」 即決して買って行ったのは女子高生らしき制服を着た女の子だった。私は意を決して彼女の判断に従い、数年分と思えるほどの疲労感を覚えて店を後にした。 ウチに帰って早速買ってきたCDプレイヤーの箱を開けた。ケーブルとかつないでスマホにつないでみた。アプリをダウンロードして開いてみた。ふんふん。なんかできそうな気がした。試しにCDから楽曲取り込んでみよう。…私は大してCDも持ってなかった。一枚くらいはあってもいいのにねと思いながら兄の部屋に行ってみた。ああ、CD、結構あるのね。適当に一枚持ってきた。ミセスチャイルズのCD。高校生の頃はみんな聴いてた。お兄ちゃんも持ってたのか。ふんふん。結構簡単に取り込めたし、ワイヤレスヘッドホンの設定も難しいいなんてことなく、ちゃんと聴くことができた。これで準備は万端!そして次の日、私はミセスチャイルズの楽曲をワイヤレスヘッドホンで聞きながら通勤した。なんだか景色がいつもと違って見えた。そしてこんな日に限って通勤途中で同僚に出くわした。 二年前から国際部にいるんだけど、今年から同じチームに所属してる岡野さん。二つか三つか、歳上なんだっけ。ほかの部署でも結構評判の良いできる人。割と普通に格好良い。チームは同じだけれど特にそんなに一緒に仕事を担当することもなくって、私としてはまぁ質問を受ければ答える程度。 「おはよう」と声をかけてくれたみたいだけど私が気づかなかったらしく、真横で大きく手を振ってくれているのに気がついた。私は慌ててスマホの再生停止ボタンをタップして、右側のイヤホンを外した。 「珍しいですね。酒井さん、ヘッドフォン。」 いやぁ、岡野さんと通勤途中に出くわすことの方が珍しいし、私がヘッドフォンしていようとしていまいと知らんでしょうよと思ったけれど、大人だから笑顔を返しておいた。 「どんな音楽聴くんですか?」 ちょうど入館ゲートを通り越したところでそう聞かれた。けれど、兄の部屋にあった「ミセスチャイルズ」とは答えたくなかったし、まだ聴いてもいないハリーのアルバム名を伝えたくなくって、聞こえないふりをしてしまった。タイミングよくエレベータが到着し、人の波に飲まれ、岡野さんに答えなくて済んだ。 そしてやっと今日は仕事を終えて、コンビニでハリーのCDを受け取った。えっと、このメールのバーコードの部分をレジの店員さんに見せるのね。CDむき出しで手渡されたらどんな顔すればいいんだろうって、緊張したんだけど、予想外にいつもの…よりはちょっと大きめのダンボールに入ってた。ああ、初回特典のブックレットとか付いてるから少し大きいのか。そしてなによりCDがむき出しにはなっていないことに安心した。ダンボール抱えてドキドキしながら家に帰って、自分の部屋に直行。ダンボールを開けると、ハリーの素敵なジャケ写が見えた。パッケージのビニールを丁寧にはがし、特にシールがついてるところはキレイに切り取って、ビニールもちゃんと保管しようって。まずはCDを取り出した。真ん中のところが固くって、ケースを割っちゃうんじゃないかって心配したけれど力をいれないと外れそうにないし、こんなところでモタモタするなんて!って焦ったけれど、なんとかCDもケースも割らずに外すことができた。ふぅ。取り外したばかりのCDをプレイヤーにセットして、スマホと接続して、取り込みを開始。読み込んでる間に特典を確認。ブックレット…、いい写真がいっぱい。CDの回転する音が私のハートをブインブインと揺さぶる。否が応にも気持ちが高まる。ハリーの瞳の拡大写真、顔のアップ、全身、横顔、筋の通った鼻、後ろ姿、長い脚、意外に大きめの足、テレビで見たことない衣装、きらめいているのは背景なのかハリー自身なのか…。コンサートに行く楽しみがどんどんと増していった。ジャケ写を改めて眺めいった。うん。美しい。この男の人、かぎりなく美しい。そしてブックレットをざっとめくった。裏表紙の写真も美しい。そんなことしている間に楽曲の取り込みが完了した。いまにも聴き始めたいところをグッと我慢。だって、家族に邪魔されたくないもの。先にお風呂入って、ご飯食べて、その後でじっくり鑑賞することにした。 お母さんは私が一番風呂に入ることに文句を言いたそうな様子だったが、たまにはいいでしょと有無をいわさずカラスの行水を済ませた。風呂からあがるなり晩ご飯をかっくらって、お父さんもちょっとビックリしていた。ちょっと仕事で考えたいことがあるからとか適当なことを言って、早々に部屋に引っ込んだ。そしてやっと、いよいよ鑑賞。歌詞カードを眺めながら、じっくりハリーの歌声に聴き入った…。素晴らしい。私は一体いままで何年間を無駄に過ごしてきたんだろう。やっと出会えた…運命の人!って言うと大げさかもしれないけれど、ほかに表現のしようがないほどのこの気持ち!ハリーの存在を知っていながら何年彼のことをちゃんと見つめてこなかったのだろう。そんなことを考えながら約一時間、彼の最新アルバムに聴き入った。それはここ数年で感じたことのないほどなによりも充実した時間だった。聴き終わったあとも、また一から聴き始め、眠たくなるまでずっとリピートしてしまった。朝目が覚めたときも、通勤の間もずっとずっとハリーのアルバムを聴いていた。勤務中もアルバムを聴きたくてどうしようもないくらいだった。昼休みはご飯も早々にアルバムを聴いてしまった。定時を迎えたときは仕事が終わったことよりも、ハリーのアルバムが聴けることが嬉しかった。こんな風に数日を過ごし、週末は土曜日も日曜日も、朝から晩までハリーの最新アルバムを聴き続け、歌詞もすっかり覚えてしまった。 そんなこんなでまた数日が過ぎた。今日は当選発表の日。ハリーのコンサート、初めてのコンサート、どうか当選していますように!プレイガイドからの通知メールは午後六時過ぎにはくるはずだった。ちょうど通勤電車に乗っている時間帯で、もう、何度も何度もメールを確認してしまった。合格発表以来の緊張感を味わっている気がしたけれど、電車に乗っている間は通知メールは届かなかった。最寄り駅の改札口を通り過ぎて、自宅へ向かって歩き始める前にもう一度メールを確認した。件名に「抽選結果」と入ったメールがあった。私はもう無我夢中でメールを読み始めた。 …ご用意できませんでしたって。 用意してよぉ。目の前は真っ暗になった。まだ七時になってないし…。しばらくそこに立ったままだったけれど、ほかの通行人の邪魔になってるみたいだった。そして文字通りトボトボと肩を落として歩き始めた。私の周りは真っ黒に塗りたくられたようにドンヨリとしていたことだろう。それでも上を向いて歩いた。涙がこぼれ落ちないように。 その日は家に帰ってもなんのやる気も起きず、食事もほとんど喉を通らず、さっさと眠ってしまった。寝ている間に泣いてしまったみたいで、次の日目を覚ますと両目が真っ赤に腫れていた。それでも会社には行かなければならなかった。向かい合わせの岡野さんは私が席に着いてしまう前に、小さめの声で聞いてくれた。 「どうかしたの?」 「あ、ええ、っと、…アレルギーみたいで。」 思いつきとはいえ変な嘘をついてしまった。花粉の季節でもないし、猫とかも平気なくせに。ま、この日は余計なおしゃべりをふられるどころか雑用もあんまり頼まれずに済んだ。 次の日、私はまだ落ち込んだまま一日を過ごした。周りの席の人たちはなんだか私に気を遣ってくれているようだった。昼休憩はさっさと一人で出かけた。社食で食べる気がしなくって会社の外に出たけれど食欲はまだそんなになくって、軽いもので済ませようとカフェバーに入った。なんとなくスマホでメールを見ると、抽選通知が目に痛い。あ、そうじゃなくて別のがきたのか。そっか、だっていくつかのサイトで応募登録したし、プレイガイドによって通知日時は違ってたっけ。 「あ!」 私は思わず大きな声を出してしまった。お店に居合わせた人たちほとんどからの視線を一斉に感じた。私はなにごともなかったかのように取り繕おうと、まずコーヒーを一口啜った。「ズッ」と大きな音を立ててしまって、また視線を浴びてしまった。ふん。今度こそ、深呼吸して、目を閉じて見開き、もう一度メールを読み直した。 お申し込みいただいたチケットのご用意ができました。 「キャーっ!キャーっ!!!ハリーに会えるーッ!会いに行けるーッ!」と必死に声に出さずにおいた。なにごともなかったかのようにサンドイッチを頬張った。大口で頬張った。けれどドヤ顔でニヤニヤしてはいたんだろうなと思う。その日の午後もずっと私は上機嫌だったみたい。 「なんだか楽しそうですね。」 岡野さんがそう言った。 「そうですかぁ〜?」 なんて、私らしくもない言い方をしてしまった。帰り道、もしかしたら私はスキップしてたんじゃないかと思う。もう、ほんと、天にも昇る気持ちだった。 それからしばらくはなにごともなかった。ああ、数日後にはまた別のプレイガイドから落選通知が届いたけれど、まぁ、もうすでに当選していたし、もうどうでも良かった。チケットは当選したものの、コンサートが開催されるのは三ヶ月も先。チケットが当選したからには、次は発券通知というのが届いてコンビニで発券してもらわなくちゃならない。しかもそれまで座席の位置は分からないのだ。…どんな服着ていこうと考えが過ぎった。いやいや、まだ三ヶ月も先だから…と思いつつ、ファンサイトとかブログとかを巡回し始める。 見始めるといろんなところにいろんなことが書いてある。お団子やめてとか。要するに長い髪を束ねてお団子の形にアップしてると後ろの席の人にしてみれば迷惑甚だしいと。そりゃそうでしょうね。もちろん帽子、ティアラ、バンダナもやめてだって。演武館のアリーナ席だと段差もないからなおさらやめて欲しいと。ついでにヒールもだって。前の席の人、ただでさえ背が高いのにたっかいヒールでなお背を高くされると後ろの人は見えないって…。ハリーのコンサートには男性もいるらしいんだけど、背が高いのを気にしてずっと座ってる男性を見ると、それはそれで気の毒だって…。かと思うと全然お構いなし、せっかく来てるオレ様だって楽しみたいからって後ろの席の人に気を遣いつつも立ち上がってノリノリで楽しむ男子たちもいるのか。ま、気遣いが必要…っていうか、バラード曲とかではちゃんと座らなきゃいけないってことらしい。 荷物についても多少の注意があって、さすがにキャリーバッグは会場に持ち込めないけど、けっこうおっきいバッグを持ってる人はいるみたい。ツアーグッズもあるから荷物が増えるとはいえ、両隣の人が困るほどの大きいバッグは遠慮しなくちゃってことね。それから特にアリーナ席とか、床にバッグを直置きするのが嫌な人は、ゴミ袋持参するといいとか。ふんふん。あ、でも、バッグの中を漁られることも…皆無ではないみたいだから用心するにこしたことはないと。演武館くらいの大きな会場になると遠方から参加するファンの方たちもいるし、グッズ購入のためやなんかで現金を多めに持ってたり、帰りの新幹線の切符とか持ってる人もいるから狙われやすいって…。なんか、怖くなってきたな。ま、だからこそ大きめのゴミ袋で口のところ結んじゃうとか、ゴム留めしちゃうといいみたい。 グッズはいいけどウチワも注意。大きすぎたりキラキラ・チカチカが過ぎるとNGみたい。周囲の人には迷惑なんでしょうね。ライブ用のペンライトも『いちばん星』のときだけ、色は水色に決まってるらしい。これは調べておいて良かった。コンサートでも歌ってくれる確率が高いんですって。 まぁ、いろんな記事を見始めるとあれしちゃいけない、これしちゃいけない、これは持ってた方がいいとか結構いろいろあるんだけど、要するに自分だけじゃなくて周りの人も楽しめるくらいの配慮はしましょうよってことかな。おっきい声で一緒に歌ってるファンがたまにいるらしくって、「おまえの歌聴きに来てんじゃねーよ」って書き込みには笑ったけど、私も気をつけなくっちゃ。ね。 三ヶ月が過ぎ行くのは思ってた以上に早かった。ハリーの最新アルバムを聴き込み、過去のドラマや映画作品を配信で見まくり、ファンサイトを巡回するのでまぁ、もう、大忙しだった。コンサート開催日の二週間前にはちゃんと発券通知が届き、難なく発券もできた。一階席!と思ったけれど、ネットで確認してみたところ、演武館でのコンサートはいわゆるアリーナ席が一階席になる訳だから実質的には二階席。まぁ、初めてのコンサートで、しかもプレミアム会員でもなくファンクラブ先行でもないのだから、席が取れただけでありがたいってこと、後々になってようやく理解できた。 一階席だからって訳じゃないけれど、なにを着ていったらいいのか、いよいよ迷い始めた。 「春山富久将 コンサート なにを着ていく」で検索をかけると、インターネットではいろんな回答がでてきた。まぁ、結果的には「きれいめカジュアル」ってところだった。「きれいめ」ってところがポイント…。ま、ワンピースとか着てくほどじゃないってことと理解しようって決め込んだ。「きれいめ」ってことはきっと「Tシャツにジーパン」でもない。カジュアルすぎてもいけない。…普段は着てるものなんてあんまりどころか全然気にしてないんだな。ま、なかでもお気に入りのブラウスにキレイめなパンツでいいか…。あー、でも、スカートのがいいのかな?ま、どーせ実質二階席だし…、ハリーからは見えないだろーし…。あ、見えないって、私の方からもか…。双眼鏡…買わなくちゃ。それからやっぱりバッグもねー…。 で、「双眼鏡 コンサート 演武館」で検索かけるとこれまたいろいろ出てくる。いわゆる「まとめサイト」まであって、倍率がどうのとか、選び方とか、販売サイトへのリンクまで張ってあって、まぁ、もう、世の中本当に便利になったものだと痛感する。「コンサート用双眼鏡専門店」なんてコピーまで見かける。この倍率の双眼鏡、この会場のこの辺りの席からだとどうだとか、そんなことまでブログで紹介してくれてる人までいる。「防振双眼鏡」なるものがあって、要するに手ブレが防げるからコンサートには最適とか。で、こういう性能もあるから双眼鏡とはいえ電池が必要だったり。…まぁ、見始めるといろいろあって、たしかに良さそうなものはもちろん高額。するとレンタル店の案内まであったりする。まぁ、コンサートは行っても年に数回。そう考えると購入するよりもその都度、高品質の双眼鏡をレンタルする方が効率は良いのか。はぁ、いろいろですなぁ。で、演武館みたいに会場自体で双眼鏡レンタルを実施してるところもあるけれど、やっぱり品質や在庫を考えると、自前で用意していくのがいいみたい。 それから注意事項として最近では双眼鏡の持ち込みを禁止してるコンサート会場もあるとのこと。理由としては録画機能が搭載された双眼鏡があるからって。さすがにもう最近は録音機だの危険物だのの荷物チェックはやってないみたいだけど、双眼鏡がNGとはねぇ。こういうのってコンサート会場に聞くべきなのか、興行主に聞くべきなのか…。「双眼鏡持ち込み禁止」で検索してみると、アーティスト公式のライブページで注意書きが掲載されているのがあった。ハリーんところはなかった。だから大丈夫だと思おう。コミュニティでも言われてないし! さて、双眼鏡を持ち込んでいいのならばやっぱり購入するよりもレンタルするとして、レンタル品は自宅に届くのだなぁ。これを受け取るのは高い確率で母だ。はて、なんて言おうか。「バードウォッチングに行く」はさすがに通用しないだろう。むしろ心配されそうだ。山登りなんてまったくしたことないし。どんなパッケージで届くにしても…、送付伝票に「双眼鏡」って書いてあるんだろうな。いっそのこと、「ハルフクのコンサートに行くので双眼鏡をレンタルすることにした」って言っちゃった方がいいんだろうか。お母さんに好きな芸能人の話なんてしたことないけど…。あー、うー、どうしよう…。 今日は会社の帰りになんとなくデパートに寄ってみた。双眼鏡も入れられるようなコンサートに行くためのバッグがあればいいなと思って。デパートでバッグを買うなんて、何年ぶりのことだろう。バッグのコーナーを探しているうちに、レディース服がたくさん目に入って来た。マネキンが着用しているワンピースとか…、かわいい。ま、私には似合わない。もう一つ向こうのマネキンはパンツルック。あれ、トップのカットソーが素敵だ。七部袖でチュニック丈。首周りがモコモコっていうか、山?雲?が連なってるみたいな形で…。 「こちらのスカラップネック、最近人気なんですよ。」 さすが店員さん。見逃さないんだな。なし崩しに試着をさせていただいて、パンツも勧めていただいて、ええ、ええと、お断りする言葉が見つけられず、まぁ、手持ちのブラウスよりはいいのかも、うちに置いてあるパンツよりもきれいだし、どうせ滅多に買い物なんてしないから、会社にも着ていけそうだしと心の中で言い訳を繰り返しながらレシートが手渡されるまでぶらりぶらりと待ってしまった。 そしてバッグも買うことができた。バッグのコーナーに到着するとあんまりにもいろんなバッグが置いてあって、どこからどう見たものか、私が求めているようなバッグはないようにも思えた。店員さんはここでもターゲットを逃すなんてことはなく声はかけてくれるんだけど、まさか「コンサートに行くためのバッグを探してる」とは言えず、しどろもどろになりながら、「大きすぎず、小さすぎず、でもある程度の大きさが必要で…」って、自分で言いながら「どんなバッグだよ!」と思っていた。「双眼鏡とかペンライトとかも入れるんで」なんて言えないし。しかもこの時点で気づいたことには…、双眼鏡のサイズが分からない…。やっぱり今日は買うのやめて帰ろうか。双眼鏡のサイズ確かめてから出直そうか。あ、デパートだから双眼鏡売ってるかも…なんてゴチャゴチャと考えていたところ、店員さんは私の悩みなどお構いなしに語りかけてきた。 「こちらでしたらノートパソコンも入りますし、営業の外回りでも大きすぎるってことはありませんよ。」 さすが!慣れた店員さんは顧客対応に長けている…。でも、そんな目で見られるんだよなぁ、私。 「義母が観劇に連れて行ってくれるというので、オペラグラスや扇子を入れてもかさばらない程度の手提げをプレゼントしたいんだけど。」 天の声が聞こえたのかと思った。振り向くと声の持ち主は私より少し歳上な感じの明らかにセレブなおねえさんだった。振り向いた瞬間に目が合ってしまったので、変な風に思われたかもしれないけれど、もう私はそのおねえさんに従うしかなかった。そのおねえさんがどのバッグを買うか、見届けなければならなかった。もちろん、そのおねえさんが最終的に購入したのは高級品でエレガントなバッグ。私のお給料の数ヶ月分の価格の同じそれを私が購入できるはずもない。お義母様へのプレゼントだからってていねいに包装してもらって、店員さんとも優雅に談笑したのちに軽やかに去って行かれた。その姿をしっかと見届けてから私は店員さんにこう告げた。 「あの方が購入されたのよりは少しランクが下がってもいいのだけど、もう一回り大きいサイズはないでしょうか。」 店員さんは私の希望にピッタリのバッグを持ってきてくれた。思っていたよりも値は張ったけれど、ええい、バッグなんて頻繁に買うものじゃないから!と清水の舞台からってほどじゃないし!と、思い切って買ってしまった。 家に到着すると私は自分の部屋に直行した。「珍しく買い物でもしてきたの?」なんて母に聞かれるのを面倒に感じてしまったのだ。そして自分の部屋に入るやいなや、まずはバッグを紙袋から取り出して押し入れの中へしまい、カットソーとパンツも袋から取り出してクローゼットの中でハンガーにかけた。そしてバッグが入っていた紙袋だけはきれいに畳んでから、階下のキッチンへと持ちおりて古新聞の中に混ぜた。 「お仕事また大変なの?少し晩いよね。」 「うん、まぁ。」 母はちゃんと私の夕食を準備しておいてくれる。だのにハリーの話をまだする気にはなれなくって、なんとなく後ろめたい気持ちもした。 さて、今日はレンタルの双眼鏡が届く日だ。こういうのは手短に伝えようと昨日までに決心ができた。朝、会社へと出かける直前、母にこう伝えた。 「お母さん、今日ね、お昼すぎに小包が届くから、小さめの。受け取ったら私の部屋の机の上に置いといて。」 「はい、分かったわ、行ってらっしゃい。」 玄関を出ると私はふうと息をついた。ため息のようなそれだった。余裕をもって家から出ようとすると母の話は長くなるし、なにが届くのなんて聞かれたら元も子もないと思って、朝はゆっくりめに起きて、朝ごはんもゆっくりめに食べて、準備もかなりゆっくりして、この時間に家を出れば会社にはぎりぎり間に合うくらいの時間に玄関をでるように最大限にゆっくりした。 双眼鏡が届く時間帯もかなり迷った。母が確実に家にいる日。平日、日中に父がいない日。朝早かったり夕方届いたりすると、まかり間違って父が受け取ってしまう可能性もあるから、確実にそんなことにはならない真っ昼間にしといた。父は伝票を見て「双眼鏡なんてなにするんだ?」って聞くタイプ。そんなことにはならないようにってそうしておいた。 家に帰ってみると目論見通り、小さめの小包が開かれることなく机の上に置いてあった。開けるともちろん双眼鏡。見てみた。そして、クローゼットの中に入れておいた新品のバッグを取り出し、双眼鏡を入れてみた。うん、余裕。お財布とかスマホとかペンライトとか、ひととおり入れてみた。うん、余裕。ありがとう、あのときのセレブなおねえさん!そしてまた双眼鏡のレンズに見入ってみた。うん、見える。立ち上がって、窓を開けて通りの向こうを見たのだけれど…、なにがどう見栄えがいいのか分からず、数件先のベランダにいる人に見られたような気がして、「のぞき」と間違われても困るので早々に部屋の中に引っ込んだ。で、ケースに入れて、引き出しの中に入れて、階下に降りていった。予想外に兄と由紀さんが来て、父もすでにテーブルについていて夕食は始められていた。「いただきます」と言おうとしたところ、不意に兄がこう言った。 「おまえ、双眼鏡なんてなにするんだ?」 私は真っ白になった。予想の域を越えてしまって、どう反応したらいいのか分からなかった。 「双眼鏡?」 母が聞いた。 「また、おかしなことでも始めるんじゃないだろうな?」 父が続けた。 「どんな?」 兄が合いの手を打つ。笑顔が癪に障る。もうこれ以上は聞いてられない!私は席を立った。 「私の部屋、入ったの?」 きっと私はものすごい形相をして兄を睨みつけていたのだろう。怯えている感じの由紀さんが視界に入ってきたけれど、もうどうしようもなかった。 「いいだろ、お前の部屋くらい。」 兄も私の態度が気に入らなかったんだろう。 「いい加減にしてよ!」 私は怒って部屋に戻ってしまった。夕飯にはほとんど手を付けていなかったのに。でもこれで双眼鏡の説明をせずに済んだ。ハリーのことも。あ〜あ、お腹空いたなぁ。そう思っていたら母がご飯をお盆に乗せて部屋に持ってきてくれた。バツの悪い思いをした私は、母はノックしてくれたのにドアを開けてあげられなかった。 「ちゃんと食べてね。」 母は部屋の前にお盆を残して行ってくれた。あ〜あ、なにしてるんだろうな、私。 翌朝、なんとなく気まずくって、朝食を摂らずに家を出ようとした。母が玄関まできてくれたので、「朝イチで会議があるから」と言ってそそくさと会社へ向かった。仕事を終えて家へ帰ってからも特別に何事もなくすごした。 さて、準備は万端だし、明日はいよいよハリーのコンサートだ! コンサートは五時開場、六時開演。開演ぎりぎりに席に着くというのもあれなので五時の開場を目指して出かけた。出かけるとき、母がやっぱり玄関口まで来てくれた。 「珍しいわね、今から出かけるの?」 「うん。ちょっと、知り合いと。終電までには帰ってくるから。」 努めて平静を装って話したけれど、いつもとは少し違う出で立ちだからか、母の視線がなんとなく気になった。 演武館の最寄り会場に到着すると、それらしい人がちらほら。コインロッカーにキャリーバッグを預けてる人たちも、グループで連れ立ってる人たちもいた。ハリーの名前とか、ライブタイトル入のTシャツ着てる人たちもいた。自分と同じくらいの女性を見ると安心するんだけど、もっと若い子たちも、ご年配の方たちも、えっ?と思うような男性どうしのグループもいたりした。演武館の入り口へ向かう途中にテントが張ってあって、いわゆるコンサートグッズが売られていた。ああ、ここでTシャツを買ってさっそく着てる人たちがいるのかと納得。ちょっと見たところ、Tシャツのほかにパンフレット、タオル、エコバッグ、ポーチ…なんかいろいろあるみたい。こういうの買う気はないからとりあえず自分の席へ行こうと進んで行った。入場列を見つけたけれど、結構長い。ま、入場者数も多いからしょうがないのかな。牛歩でゆっくり進む。なんとか階段を上りきって入り口をくぐる。えー…と、「南西」…?って、「南」と「西」の間…よね。「南」が見当たらない…から「西」を目指して進んだ。あ、御手洗いがある。行っとこう。あ、やっぱり…女性用は結構並んでた。あれ?向こう側の入り口からも入ってくるの?で、御手洗いを出て、えーと…「西」の方向。うん。こっち。あ、席、ん?結構上の方。まだ上に上らなきゃいけない。しかも、割と端の方。ん、ここかな?…っていうか、これ、席っていうか、「板」…だよね?ま、みんなそうだからしょうがないのか。スタンド…ね。普段は演武見るところだからね。応援席よね。荷物…は、やっぱり床に直置きね。よかった、ゴミ袋持ってきて。そしてやっぱり早めに来てよかったみたい。入り口でもたついて、席までたどり着くのにもたついて、開演まであと一五分くらい。 なんか、少しドキドキしてきた。周りには結構人がいて、一人参加っぽい人も結構見かけて…。とりあえず自分は浮いてる感じはしてない。うん。でも、会場全体がなんだかソワソワ、ワクワクしてる感じ。音楽が流れてる。ハリーがプロデュースしてきた女性シンガーの歌。ミュージックビデオがおっきいモニターに映し出されていた。なんか、チクチク、ハリーが出てないのに、ハリーが歌ってないのに、ハリーらしくって、チクチク、ドキドキする。なんか、いつもと違う環境で気持ちが変に高揚してるみたい。私のほっぺ、きっと赤くなってる。 まだ明るいのに女性のアナウンスの声が響いた。スマホは遠慮してとか、非常口はどうとかって言ってた。「まもなく開演します」って告げられると会場全体にひときわ大きな歓声と拍手が響いた。自分も思わず手を叩いてた。そして数秒後、会場全体が暗転。さらに数秒が経過して、ステージが光に包まれた。キラッキラに燦然と輝くステージ。いつの間にかギターとかドラムとか、バンドのメンバーが出てきて演奏してる。イントロが流れるなか、ギターを抱えたハリーが登場!ちっさいけど、そこに確かにハリーがいた!双眼鏡を目にあてて見入った。そこにハリーがいた。 「イェ〜イ!」とか言ってくれるのかと思ったら、「オゥ、サ〜ムっ!」て…。「Oh, Sam?」お友だちのサムさん?が来てるの?スタッフでサムとかいうあだ名の人いたっけ?ん?あ、ああ、「Awesome!」ね。素晴らしいってことね。ハワイだかに短期留学してたから英語は結構得意なんだよね。って、初めて生で聞いた歌詞でもセリフでもないハリーが発した言葉…、「オウサム」。 それからダンサーさんが出てきた。女性四人組。この女性たちのフリに合わせて鏡写しの状態で会場のみんなが踊ってる。二曲目になるとハリーはギターをローディーに手渡し、ハリーもダンサーさんと一緒にサビの部分とか踊ってたりする。ハリー…こんなに踊る人だったの?しかも上手!えー、踊るんだぁ…。私もつられて踊ってみた。見様見真似で踊ってみた。なぁに、この楽しさ。三曲目もそんな感じ…。楽しい!そして三曲歌い終わるとハリーのMCが始まった。初めて聞くハリーのおしゃべり。テレビともラジオとも違う楽しいおしゃべりなんだけど、会場のファンにむかってタメ口でしゃべってくれてる。すっごい、不思議な感じ。変なの〜。お歳を召した芸人さんでこういう人いたと思う。会場のお客さんに向かってタメ口でいろいろ面白おかしいこと言う人。あれに似てる。もちろん「今日は演武館まで来てくれてありがとう」とか「1万人ソールドアウト!うれしいっ♪」とか言ってくれてるんだけどさぁ…、まだ詳細は言えない撮影が始まったよとか言ってくれてるんだけどさぁ…、いままでにない変な感覚で目の前のスターの話を聞いてる自分がそこにいた。そしてなんと、立ちっぱなしで聞き入ったハリーの最初のMC…、約二〇分。そしてそこからバンドメンバーの紹介が始まった。 バンドメンバーには初めましての方もいれば、もう長いお付き合いの方もいるみたい。ニックネームで呼ばれてる方もいたり、ダンサーさんたちも一人ずつちゃんと紹介されてた。ハリーが少しツッコミを入れたり入れられたりで、聞いててとっても楽しいおしゃべりだった。バンドメンバーとハリーの仲の良さが強調されていた。一通りのおしゃべり、もとい、メンバー紹介が終わるとまたソングタイム。さっきよりは抑えたダンスナンバー、バラードってほどじゃないけどスロウなダンスチューンだったり、ハリーはステージの右から左へと端から端まで渡り歩き、様々な角度でファンの人たちひとりひとりに笑顔を振りまき、ウィンクして、指差しして、手を振って、腰振って、眼差しビームを送っていた。私もときとして双眼鏡を覗き込み、その瞬間にバチっと合った視線に、もうクラクラした。その後はもうめくるめく世界で、ちょっと真面目なお話があったり、みんなを着席させてのバラードがあったり、水色のペンライトが会場を包んだ『いちばん星』に感動したり…。アンコールまでもういきつくしまなく、こんなに楽しいイベントがこの世にあったことをうらめしく思ったほどに、とにかくとにかく楽しかった。コンサートが終わってしまったときには、席にしばらく呆然と立ち尽くしてしまった。ちらほら、あっちの席でもこっちの席でも泣いてる人たちがいた。 ああ、帰らなくっちゃ。数分が経過して、やっとそんな風に思えた。こんなに充実した時間を過ごしたのはどれくらいぶりだっただろう。ボーッとしながらトボトボと出口に向かった。だって、コンサートはもう終わってしまったんだもの。ぼんやりした気持ちで歩いていたところ、グッズ売り場に人だかりができていることに気づいた。そして、それをぼんやりとした気持ちで見ていたはずなのに、Tシャツだけでも買おうって気になってしまった。いざカウンターの前に立つと、Tシャツのほかにプログラムと、…あれもこれも全部買うわけにはいかないからそれ以外はぐっと我慢した。全部一つずつ買ってしまいそうな気持ちをググッと飲み込んだ。持って帰れやしないから。そう自分に言い聞かせた。そう言い聞かせながらグッズ売り場を過ぎた門のあたりでスタッフの人がチラシを配っていた。来月封切りになるハリー主演の映画のチラシだった。それと一緒に手渡されたのが、ファンクラブ入会用紙だった。 私はこの入会用紙とにらめっこをして次の一週間を過ごした。どうしたものかとクリアファイルにはさんで、通勤バッグに常に入れておいた。もう三〇歳も過ぎるというのに、いまさらファンクラブに入っていいものかと思い悩んだ。そんな悩んでいる最中、関口さんが私の席にやって来た。なんのことはない、新規開拓部の部長のお使いで岡野さんに相談にきたのだが、岡野さんがちょうど別の会議で離席していたってだけだ。内線ではどうも話しにくい内容らしかった。それがちょうどお昼休みに差し掛かるところだった。この関口さん、筋金入りのジェリーズ オタクとして会社ではちょっとした有名人だった。ジェリーズ ファミリークラブの会員としてその博識ぶりには右に出る者なく、「最強のオタク」とさえ言われていた。 「あの…関口さん、お昼、一緒にどうですか?」 関口さんは私の顔を見てちょっと意外そうな顔をした。 「ちょうどお昼ですし…。」 ふいに関口さんは私に意味深な笑顔を見せた。私は下心をまるっと見透かされた気持ちになった。それでも怯んでいる場合じゃなかった。関口さんはなんだかんだで快諾してくれた。同じ班の人たちも物珍しげな視線を送ってきたけれど、そんなことを気にしてはいられなかったのだ。関口さんは社食に向かおうとしたけれど、私は頑張って外に連れ出した。会社の人がここまでは来ないでしょうって、結構離れた裏道のビストロまで連れてった。関口さんは席に着いても意外そうな表情をしていたが、このランチ定食でいいかと私は率先して注文してしまった。だって聞きたいことが山ほどあったんだもの。 「酒井さん、いつもこんなとこまでランチに来るの?」 「…ここまでは滅多にきません。」 「そうよね。で、なに?聞きたいこと、あるんでしょ?」 さすが、よく分かってらっしゃる。でも、どこからどう聞いたらいいんだろう。 「誰?」 「へ?」 「推しができた?」 「あ…、えっと…」 「まぁ誰でもいいんだけどさ、チケットとか良席とか確実に取る方法なんてないわよ。」 「そうなの?」 「当たり前でしょ!」 ここでサラダが出てきた。ウェイトレスさんが去って行くのを見計らって、私は恐る恐る聞いてみた。 「ファンクラブ…に入っても?」 「無理無理。FC優先ってもちろんあるけど抽選だから。優先は絶対確保じゃないから。一般だって販売しなくちゃいけないんだし、初日とか千秋楽とか、バンバン外れるから。」 「バンバン?」 「うん。二回に一回は外れると思ったほうがいいかな。」 「そんなに?」 「そんなによ。」 「ジェリーズじゃなくても?」 「誰なの?」 メインの肉料理がやってきた。私はまだなんとなくハリーの名を告げられないでいた。そしてまたウェイトレスさんが去って行くのを見計らって次の質問をした。 「年会費払うのに?」 「年会費なんてたかが数千円でしょ。」 「そうだけど。」 「そんなはした金で行きたいコンサート毎回良席取れるなんてありえないから!」 もうげんなり、食べる気さえしなくなってきた。 「じゃ、なんのためにファンクラブ入るの?」 「んー、まぁ、ウチの場合、情報は確実に入るし。」 つまり、テレビ出演とか、ラジオや映画や雑誌などのメディア露出についてはギリギリのことがあってもたいていは情報が届くから録画や確保はできるってことだった。会報は半年に一回で薄っぺらいしほとんどがどっかで見たような写真だけれど、たまにどこでも見たことないような極上の写真が含まれていたり、FC限定グッズが販売されるから外せないとのことだった。私は食欲はすっかり失せてしまったのに、出された食事はすべて頑張って飲み込んだ。関口さんは食べ終わる頃には鼻息を随分荒くしていた。コーヒーを飲む頃には力こぶが盛り上がっているようにさえ見えた。 ランチを奢るつもりでいた私はお支払いをしようとしたけれど、関口さんは頑としてこれをよしとしてくれなかった。 「こんな程度の話で豪勢なランチは割に合わないわ。」 もうこのおねえさんに逆らう気はしなかった。 膨れたお腹と一杯に満たされた胸とを抱えて、頼もしいおねえさんと一緒に会社に向かった。入り口が見えてきたところで私は意を決して立ち止まった。 「あの…。」 「まだなにあるの?」 「いいんでしょうか?」 「なにが?」 「入っても…ファンクラブ。」 こんなことを言って、笑われるかと思ったのに。 「いいよ。」 「ハリーの…。」 「ハルフク?」 「はい!」 「どうぞ!」 「あざーすッ!」 こうして私はめでたく春山富久将のファンクラブに入会した。その日の一五時すぎ、離席して郵便局に行って、入会金の振り込みを済ませた。BGMが『梅の橋』だったのは空耳じゃなくて運命だったと思ってる。ここから私のめくるめくハルフクオタクの日々が始まった。ことあるごとに関口ねえさんに話を聞いてもらい、なにがあっても嫌いになんてなれないくらい、ハリーファンであることを満喫する日々をいまも楽しく過ごしている。ここからン十年、誰にどんなに頼まれたって、なにがどうなろうともハリーを嫌うことなんてできはしないほどにオタク道を突き進むことを、このときの私はまだ知らずにいた。コンサートの入待ち、出待ち、ファンクラブ限定イベント、ツーショット写真、サイン会などなど、それまでの私が知ることのなかっためくるめく煌めく世界はここから始まったのであった。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!