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10cmしか開かない扉
「トン」「トン」何度窓を開けても、わずか10cmしか開かない。
意味がわからなかった。しばらくして、「そうか死なせない為か、、」
自分の置かれた状況に、
今になって納得し
「どうしようもない孤独感」が襲ってきた。
つい1時間前は
「1人になれる」
「もう、家族に嫌味を言い」、、、、
ワクワクさえしていた。
それが、個室にベッド、トイレ、
洗面台だけが置かれ、
「携帯電話」も看護師に預けている。
「ドン、ドン」時々ドアを閉める音
だけが聞こえてくる。
それ以外は「無音」だった。
僕は閉鎖感に耐えきれず、
1時間たった頃
「ウァー」と声をあげた。
看護師さんが慌ててやってくる。
「どうしたんですか?」
「た、退院します」
「無理です」
僕は声を絞り出し看護師さんに訴えた。
「まだきたばかりでしょ」
「大丈夫だから」
「部屋に戻るわよ」
僕は、少しだけ正気を取り戻し
「個室」に戻った。しばらくして、
「廊下」に出て歩いてもいい事に気がついた。
すぐに廊下に出た。
とにかく誰かと話がしたかった。
だが、個室の戸を全開に開けた
患者さんは、当然の如く「気力」を失っていた。
「影」が見えた。
「とんでもない所に来てしまった」「あんな人達と一緒か、、、、」
僕は自分が、
「他の患者と同じ事」に
全く気がついていなかった。
そうこの時は、まだ自分が
「マトモ」だと信じていた。
だから「少しリフレッシュして帰宅し仕事する、、、、」
本気で、そんな様に思っていた。
自分の病がどれほど「深刻なものか、
まだわかっていなかった。
———————————————————
僕は子供の頃から、
いわゆる才色兼備と言われるタイプで、
勉強やスポーツができ異性にも人気があった。
大学を出て就職した広告代理店で、
同期で1番早く課長になり、
何不自由ない生活をしていた。
結婚は、同じ会社の受付嬢。
社内の人気ナンバー1。
今振り返ると、出来過ぎの人生だった。
結婚し、一年で子宝に恵まれ年子で
2人目も生まれた。
「幸せ」だった。
仕事をして帰宅すると愛する妻と、
愛おしい2人の子供がいるんだから。
振り返ると、
「この頃」が
1番人生で輝いていた。
仕事も家族が出来、より一層集中できた。
正直、勉強や仕事には、
それほど本気になってなかった僕が、
「家族」が出来たことで、初めて本気になった。
、、、、、だけど、それが「挫折」の始まりだった。
いや今まで「本気」に取り組まなかった反動だろう。
それは、僕が「課長」になり一つの
大きなプロジェクトを任された時だった。
各課から、メンバーを人選し
「数十億」のお金が動く会社にとっても、「絶対に失敗できない」規模の仕事だ。
「余裕だな、、、、」僕は最初はそう思っていた。
だけど「人選」がそもそも間違えていた。
僕の指示に素直に受け入れない奴ばかりだった。
たった10人のチームが、
3か月で仕上げなければならない仕事なのに、
気がつけば、2週間でバラバラになっていた。
この頃から、帰宅し「子供」
の顔を見ても、「妻」が話していても、何も感じなくなった。
それどころか、毎日眠れない様になり、睡眠時間は2時間程度だった。
それでも、
チーム1人ずつ飲みに誘い真剣に話し合い1か月半が
経った頃、やっとチームが1つになった。
ここからは、
仕事が面白い様にスムーズに進み、
2か月でプロジェクトの大半の部分をこなしていた。
僕は上司に褒められ、チームの皆にも信頼され、絶頂期だった。
家庭でも、子供の愛おしさ、
妻への愛情が戻り全てが元に戻った、、、、、はずだった。
プロジェクトの発表まであと2週間に差し迫ったある日、
朝起きようとすると、身体が動かない。
「あれ、、、、寝ぼけたかな」
腕に力を入れてみる。
が「全く動かない」
足に力を入れる。が「ピクリともしない」
しばらくして「妻」が、
「仕事の時間だよ」
「調子悪いの❔」と言いながら寝室に入ってきた。
次の瞬間「キャー」叫び声をあげ、その場にしゃがみ込んでしまった。無理もない、、、、
僕は「顔面神経麻痺」になり、顔の左側が垂れ下がっていたのだ。
その日は当然仕事を休み、
次の日になると何とか起き上がる事が出来たので、妻に近くの総合病院に
連れて行ってもらった。
妻がインターネットで調べてくれ「心療内科」という外来を選んだ。
1時間くらい待合室で待たされ、診察室に通された。
医師は僕の顔をみるなり、
「どうされたんですか❔」
「何でこうなる前に来てくれなかったんですか❕」
40代だろうか、綺麗な女医はそう口にした。
僕は「顔面神経麻痺」になってから、自分の顔を鏡でみても
「そんなに変かな❔」そう思っていた。
顔だけじゃなく「心」も完全に崩れていたんだ。
女医は、すぐに1か月休職する様に僕に言った。
「そんなへ無理でへ」
多分僕はこう言った。
そう顔が歪んだせいで、
マトモに話す事が出来なかった。
それなのに、すぐに仕事に復帰できると信じていた。
「僕じゃなきゃダメだと、、、、」
医師の指示通り、会社に休暇届を出し、「1か月」の休みを取った。
社会人になってから、こんなに長い休みは初めての経験だ。
休暇に入ると、緊張の糸がきれ、病状が悪化した。
顔面の麻痺も、痺れる範囲が広がった。1番辛かったのは
「全く眠れない」事だった。
夜中に何回も起き、トイレに行った。
「また、寝れないの❔」
「睡眠薬飲んだ❔」
妻は、何度も起き声をかけてくれた。
だが、僕には全く聞こえていなかった。
というより、「誰の声」も聞こえなかった。
この2ヶ月取り組んでいた仕事を、やり遂げられなかったショックが、僕を包んでいた。
まるで、凧の糸が切れ空に飛んでしまった様に、、、、。
それから1週間、一言も話さなかった。
いや、妻が作ってくれた粥を食べる時、「いただきまひ」そう言った。
2週間経った頃、顔面の麻痺が突然治った。
鏡をみて思わず「やったー」と
子供の様に声を上げた。
「良かったわね」
「やったねお父さん」
妻と、四歳になったばかりの息子も喜んでくれた。
言葉もしっかり発音できる様になり、食事も粥ではなく、普通の「ご飯」に変わった。
気分も、すっかり晴れ、「元気に働いていた頃」に戻った。
それからは朝、子供を幼稚園に送り、パートに出ている妻の代わりに買い物にも行った。
毎日、妻や子供とたくさんお喋りをして、「幸せ」だった。
そして、休暇最後の日を迎えた。
「貴方あしたから大丈夫❔」
妻は、少し悲しげな顔で言った。
「大丈夫だよ」
「前よりバリバリ働いて出世するから」
「無理しないで、、、、」
妻は、厳しい表情で言った。
「本当に大丈夫だから」
僕は、病気が完全に治ったと思っていた。
いやリフレッシュして、前よりバリバリ働けると信じていた。
だが、この「過信」が全ての間違いであり僕が「愚かな」理由だ。
復帰して10日目の朝、鏡をみて愕然とした。また顔が大きく歪んでいた。
だけど、僕は「朝ごはんいらない」
「会議あるから早くいくわ」
まだパジャマ姿の妻に大声でいい、
足早に外にでた。
電車に乗り会社へ向かった。
周りの人の「視線」が気になった。
明らかに僕の顔に向けられいるからだ。
「こんなに顔が歪んでたら見るよな」
「仕方ない」
「悪気があるわけじゅないし」
そう自分に言い訳をしていた。
いつも通り足利駅で降り、エスカレーターで改札口へ向かった。
改札を通り、数メートル進み左を向いた時、景色が突然崩れバラバラになった、、、、、、、、、、
気がつくと、医師が
「大丈夫ですか?」
「息できますか?」
「左手上げて下さい」
まるで、映画のフィルム。
コマ送りで、現実が流れた。
どのくらい時間が経ったのだろう。
花畑をみた。
父が呼んでいた。
祖父もよんでいた。
笑顔で花ばたけに向かう途中、とんでもない力で後に引っ張られた。
「祖母だ」
それから頭痛に苦しみ目を開いた。
心配そうに見つめる、妻の顔が見えた、、息子の顔が見えた。
複雑な気持ちが体全体を、覆った。
「良かったね、生きていて」
「何で戻された❕」
「あのまま、父、祖父のもとに」
「まだ、ダメなのか、、」
「お前は、まだ本気を出していない」
「俺はもうダメだ、ラクにして」
「ダメだ、ダメだ、駄目だ」
妻と息子に「ありがとう」そう言って
また眠りに着いた、、、、、。
そのまま、1週間入院し色々な検査を受け、特に異常がない。という結果を聞き、退院の日を迎えた。
もう、「職場に復帰する」
そんな気力は生まれなかった。
入院して3日はベッドから、降りられなかったから。
その間は、看護師さんにトイレの世話をしてもらった。
「ショックだった」
男としてのプライドはズタボロに裂かれた。今までは、どんなにキツイ時も自分で下の処理できた。
それすら、出来なかったから、、、、
退院後、妻と話し合い
「閉鎖病院」への入院を決めたんだ。
———————————————————
ここは、独房だ。
閉鎖病棟で3回目の太陽を見た時、そう悟った。
重い扉。10cmの窓。
果てしない 孤独、、、、。
トイレと同じ個室での食事。
「薬」を飲み込むまでチェック。
夜中に「寝ているか部屋に入り確認」全てが苦痛だった。
眠れない夜が明けると、朝7:00に「朝食が出来ました、ロビーまで取りに来て下さい」
とアナウンスがかかる。
僕らは個室から無言で、廊下に出て1箇所に集まる。
比較的、病状が安定している人は「おはよう」と看護師に挨拶をする。
僕はもちろん無表で、立っているだけだ。
食事を受け取ると、「個室」に戻り、ただ「食べ物」を口に入れる。
食事が終わると、ベッドに横になり、頭から聞こえる「ノイズ」に耐え丸くなった。
「何もする事がない」というのが、こんなに苦痛だとは思わなかった。
自宅では、どんなに具合が悪くても「テレビ」をつけて気を紛らわせていた。「テレビ」は僕にとって必需品だった。
「沈黙」が「暗闇」が何より嫌だった。その「テレビ」が個室にはなかった。
もっとも、ロビーに一台大きなテレビが設置してあったが、とてもその「TV」を観る気にはなれなかった。
1時間がとても長く感じた。
閉鎖病棟といっても、通常なら外泊や、外出ができる。
ただ「新型コロナウィルス」の影響で、それらは全て禁止されていた。
それどころか、僕が1番楽しみにしていた「売店」での買い物も、
禁止だった。
小遣いとして持ってきた
「5,000円」は
自動販売機のジュースと、公衆電話を使う時の「テレホンカード」だけにしか使い道がなかった。
3日経つ間に、「閉塞感」に耐え切れず、夜妻に長電話し、テレホンカードを2,000円分使った。
妻は僕が家にいる時より「元気な声」を出していた。
「うつ病」と診断されてから、本を何冊か買い勉強した。
その中には「面倒を見ている人」「両親や配偶者の精神的負担が大きい」と書いてあった。
自宅にいる時は、「妻の苦労」を考えた事はなかった。
でも、閉鎖病棟で1人の時間が増え「妻の元気な声」を聞いた時、
その意味がはっきりと身に染みてわかった。
「僕は自分をダメにしただけじゃない」
「妻にも大変な苦労を掛けている」
「一体何の為に、生きているのか?」
「こんな辛い思いをして何になる❔」
「耐えられない」「耐えられない、」
僕は、目を閉じると「自分を責める声」が聞こえる様になっていた。
はっきり「死」を望んでいた。
治らない顔の痺れ。
強い頭痛。
「周りの人に迷惑をかけている」
その想いが、どうしようもなく「消えたい」という絶望を強くした。
他の患者も僕と同じ「絶望のオーラ」を出していた。
入院した当初は「僕の方がマトモ」そう思っていたけど、それは間違いだった。
そんな日々が1週間続いた。
朝、久しぶりに「窓を10cm」開けてみた。
「土の匂い」がした。病室とは全く違う「自然のにおい」
何だか、とても嬉しかった。
日中久しぶりに続けて3時間寝ることができた。
おそらく、1年ぶりだろう。
頭が少しだけスッキリし、顔の痺れが弱まった。
夕食が終わり、また「窓を10cm」開けてみた。
「焼肉のにおいがした」
次の瞬間、涙がこぼれ落ちた。
300m程先にある焼肉屋は妻と
「良い事があった日」に2人で通った店だった。
決して高級店ではないけど、
「僕が昇格した時」
「妊娠がわかった時」、、、、
もう、10年以上通っている。
僕はこの病院が、その「焼肉屋」の近くにあるという事さえ、わからなかったのだ。
「涙」は自分の意識とは無関係に、流れ続けた。
涙を流すのは15年前に父が亡くなった時以来だ。
情けない気持ちが、
「涙のひとつ、ひとつ」となって床にこぼれ落ちた。
父が亡くなってから、
「もう泣かない」
決めていた。
「強くなる」「強くなりたい」
「大切な家族を」「大切な仲間を」
守る強さを身につけたいと。
だけど、、、自分の想像していなかった姿に【絶望】
ただ情けなく、ただ何の為に、、、、
「今まで、頑張ってきたのだろう」
心の奥の方で、そう囁く声がしたから、、、、
もう、ダメだ。、、、何回も枕に顔を沈めるたびに、そう思った。
でも、そんな僕を「人」の字の支えの様に包んだのが、病棟にいる仲間だ。
少しずつ、「挨拶」できる様になり、
「会話」は出来なかったけど、
「かいわ」を聞く事は出来た。
「毎月25日には床屋さんが来るよ」
「コロナの前は、毎週外出してたんだ」
「毎週、土曜日の昼はカレーなんだよ」
「月曜日の朝はカラオケのレクレーションがあるよ」
このフロアで、入院期間が1番長い、【主】が語っていた。
「楽しそうに、見た事ない笑顔で」
信じられなかったよ。
こんな【独房】
こんな【地獄】
こんな場所に住んで「希望」
こんな所に閉じ込められて「光」
「強さ」とは貴方の事じゃないかな。
「つよい」なんて、キミに比べたら。
だから、【ボク】は3ヶ月の「独房生活」を生き延び、【脱獄】に成功したんだ、、、、、、、、、、、、
———————————————————
僕は退院後、しばらく休養し、やっと
「働きば」を見つけた。
もう、二度と「給与」をもらう事。
自分で稼ぐ事。
「子供」に小遣いをあげる事。
ないと思っていた。
「僕なんて」
僕は歩いている。
諦めていない。何一つ。
何故なら「10cm」窓は開くから。
閉じられていると感じても、
ほんの少し「10cm」は開く。
そこに
「希望」
「月の光」
差し込み、無限の力をくれる。
大丈夫。僕はそう信じて明日を
生きる。
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