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【1】
「あら、今日は日曜なのに早いのね」
階段を下りてリビングにやってきた寝起きで声が掠れ髪もボサボサなままの母の声に、食卓の定位置に腰を掛けて新聞を読んでいた父と携帯をいじっていた私が同時に顔を上げた。
「それは、どっちに? 」
「どちらもだけれど、どうせあなたはパチンコでしょう? 」
「違うね。僕はスロ専だから」
「そうでしたそうでした、好きにしてください。お小遣い以上には渡しませんからね。で、優香は? 今日はどうしたの? 」
母はそう言いながらいつもと変わらない様子で流れるようにキッチンへ向かうと自分のカップへコーヒーを注ぎ食卓の定位置、私の目の前の椅子に腰掛けた。私たちの母は口調こそ冷たいが目を細めてニコニコと、いつもふんわりとした雰囲気でもって私たちと接する。
「髪、切りに行くの。住吉さんの指名が午前中しか取れなかったから」
「そうなのね。住吉さんによろしく。私も近々伺おうかしら」
ボサボサの髪の毛をフワフワと弄りながらフフッと笑う母に、父は「じゃあ、僕はもう行くよ」と四つに畳んだ新聞を渡す。
「はいはい、頑張って稼いできてくださいね」
「はいよ」
なんやかんやでこの夫婦は仲良しだ。
「で、優香は何時に出るの? 」
「12時半予約だから20から25分には着きたくて、……55分に出るかな」
「あら、自転車? 」
「うん、自転車」
とりあえず朝のルーティーンであるブラックコーヒーを一杯飲んで、家を出る時間の45分前になったら自室に戻ってお化粧をしよう。ずっと愛用していたアイシャドウが底を尽きたので昨日新しいものを買ってきたんだ。これまで使っていたものと同じだけれどケチケチせずたっぷりと瞼に乗せられるのが楽しみで、早くコーヒーを飲み干すべくまだ煙を立てるそれに窄めた唇から冷風を生んで、吹きかけた。
首に掛けていたヘッドホンを頭に掛けて、慣れた軽さでサイドスタンドを後ろに蹴ると、後輪が地に着いたことで生まれた圧力を握り締めたハンドルから感じ取る。サドルに跨ると見える世界が少しだけ高くなって、違う世界の自分に生まれ変わったよう。ペダルを一周二週と漕ぎ進めて、私を象り抜けていく風の形を、重さを、純度を、全身で感じる。快晴の日の自転車は悪意を一切含まないこの感覚がたまらない。
こんな心地の良い休日。今日は髪を切って、その後に気になっていた映画を観に行くんだ。確か丁度良い時間の上映があったはず。そんな浮ついた気持ちを特別なものであるように演出して、下り坂。サドルから腰を浮かせてペダルを漕ぐのを止めると、風はより速く私を通り過ぎて行った。
私が中学生の頃から通っている美容室は、自宅から都会の方へ向かって地下鉄で五駅目。地下鉄だと十五分。自転車で向かうと約三十分の距離だ。
私の長年変わらない、鎖骨を少し過ぎた辺りで毛先が内側に巻かれた純黒のストレートを風に靡かせて、辿り着いたそこは何年経っても緊張するガラス張りのスタイリッシュな美容室。日曜ということで鏡に向かっている椅子のほとんどが埋まっている様子が外からでも確認できる。
入り口の取っ手に手を掛けて引くのを少し躊躇っていると中からこちらに押し込まれる力を感じ、顔を少し上に向けるとスパイラルパーマが印象的な従業員のお兄さんの満開な笑顔を受けた。いつもいる、ハッキリとした顔立ちの明るい人。夏になると造花のヒマワリが付けられた麦わら帽子を被ってアロハシャツまで着出す、陽の人。今はまだその季節には早いから今日は赤茶色のハットにシースルーの白シャツだ。
「いらっしゃいませ、須田様。お久し振りですね。わかってはいるんですけど念のため、フルネームでお名前をお願いします」
「須田、優香です」
上げた口角をそのままに保ったお兄さんがきっと予約内容が記載されているであろうパソコンを中腰でいじりだす。カチッ、カチッ。クリックが繰り返される音。ドライヤーが奏でる轟音。それぞれの多様な会話たち。何も流れていないヘッドホンが私に届く音のすべてを半減してくれる。
それでも私にはそのクリック音の数の多さと眉間に皺を寄せ出すお兄さんから些細な不穏を感じ取ってしまうんだ。心臓の奥がザワザワと、忙しない。
「……ごめんなさい、お掛けになって、ちょっと待っててくださいね」
丁寧に冷静さを演出しながら、お兄さんは待ち合いの長椅子に私を誘導してからその場を離れる。その笑顔に先程の自然さは無く、張り付けたようなものに変わっていた。
お兄さんの行く先を目で追うと、立ち止まった先にはオーナーである住吉さんが別のお客様の対応をしていてチラリとこちらに目線をやる。私はそちらを見ていることを悟られないようにテーブルに並べられた雑誌を物色しているような態度を取り、フォーカスされていないモザイクの部分で二人の様子を見た。
住吉さんは鏡越しに対応中のお客様と目線を合わせて一言放つと軽く会釈をし、先ほどのお兄さんと共にこちらへ向かってくる。
「優香ちゃん」
雑誌に目を落としていて気付かなかったフリをしていた私は驚いたような表情を作って顔を上げて、ヘッドホンを外した。
「優香ちゃん、申し訳ない。完全にこちらのミスなのだけれど、その、一時間ほど待ってもらうことになっても大丈夫かな? 」
本当に申し訳ない、と。住吉さんは丁寧に頭を下げてくれる。ダブルブッキングかな? これまでこのお店に迷惑なんてものを掛けられた記憶はないし、特に住吉さんにはお世話になっている。……なにより私が、住吉さんでなければいけない。
「はい、私は大丈夫なので。気にしないでください。こちらで待っていても良いですか? 」
意識して笑い掛けると住吉さんは安心したように一つ息を吐いて「本当にごめんね、なるべく早くするから! 」とその場を離れ、先程のお客様の元へ小走りで向かっていった。
こればっかりは仕方ない。映画は、また今度だ。私は再びヘッドホンを装着すると、今度は本当に雑誌を物色する姿勢に入る。二十代半ば。ティーンズ雑誌でもなければ女性誌もまだ早い。ヘアカタログは私には不要。さて、どうしようか。そう巡らせていると肩を二度軽く叩かれた。
「荷物と上着、預かります」
先程のお兄さんだ。「あ、は、はい」とどもりながらバッグから携帯だけを取り出し、上着と共にお兄さんへ手渡す。
「ヘッドホンは? まだ聞いてる? 」
「あ、いえ! 」
ヘッドホンを外してそのまま手渡すと、受け取ったお兄さんはきょとんとした顔。
「曲、止めた? 」
「あ、いや、さっき止めたので」
苦しい言い訳のようなものを吐いた私にお兄さんは怪訝そうな表情を一ミリも交えずフフっと笑い、「じゃあ、預かります」とキラキラしたオーラと共に私の荷物を持って奥へと消えて行った。何も疑わない悪意のなさに、私の心臓はゆっくりと落ち着いていくのを感じた。
消えた先には何があるのだろうとカーテンで覆われた先を見つめているとお兄さんはすぐに奥から戻ってきて、私は慌てて何も映していない携帯に目を落とす。なんとなく上目で行方を追うと、お兄さんは再び住吉さんの元へ。声は完全には聞こえない。でも、表情と目線で察することはできてしまう。
(俺、代わりに須田さん担当しましょうか? )
(いや、ダメなんだよ。……繊細なんだ、彼女)
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