【2】

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「須田さん? 」 なにも映さない携帯を見つめていると上から柔らかな声が降ってきて、私はゆっくりと顔を上げた。 「須田さん、差し支え無ければ、僕に切らせてもらえませんか? 」 「え、いや、私は全然、待ってますし。気にしないでください」 「でも、お化粧も洋服も普段よりお洒落されてますし、このあと何か予定があったのでは? 」 「……大丈夫ですよ」 即座に回答できずに作ってしまった間が図星を語ってしまい、気まずさから下へと視線を逸らす。するとお兄さんは私の目の前にゆっくりとしゃがんで再び私の視界に現れた。 「ご要望やこだわりがあったら切っている最中でも細かなことでも何でも言ってください。こちらもその都度聞いていきますし。僕は今日、指名予約がないのでどんなに時間が掛かっても大丈夫なんです」 ……私はずっと、中学生の頃から今まで同じ長さの同じ髪型を保ってきた。鎖骨くらいまでの長さで毛先だけ内側に巻かれた、一度も染め変えていない黒。 中学に上がる前、雑誌で見掛けた理想の髪型に変えてもらったとき。完成を鏡で見た時のそれが私の中の理想とかけ離れていて、どうしようもなく胸がザワザワしてしまって。泣き叫びたくなるような衝動を必死に抑えた。 そんなことがあってから、私はこの裏切らない髪型を保ち続けてきたのだ。注文はいつも、長さを鎖骨くらいまでに切って欲しいと、ボリュームを落としてほしい。たったそれだけなので美容師からしたらやり甲斐のない客だろう。それでも私のそんな性質を納得はしていないとしても理解し切った母からも話を聞いているであろう住吉さんがずっと同じものを私に提供し続けてくれていた。住吉さんが私のことをどう思っているかはわからないけれど、私にとって住吉さんは、私の心を平穏でいさせてくれる恩人の一人だ。 「……もちろん無理にとは言わないですけど、せっかくお綺麗だから」 何も言わない私の視界にニコニコと柔らかいオーラ。この悪意を一切感じないお兄さんの努力の完成形に対してイライラとした感情を持ちたくない。けれど。きっと住吉さんから私の面倒臭さを聞いた上でのこの判断。本来であれば放っておけばいいものを。 でも、こんなに純な優しさを向けてもらえたのも久し振りな気がして。 「……じゃあ、お願いしてもいいですか? 」 脳内で悩みに悩んで提案を受けると、お兄さんは花が咲いたように笑って「もちろん」と返してくれた。季節はまだ春と言えるのに、それはヒマワリのようだった。 「長さを鎖骨くらいまで切って、ボリュームを落とすんですね。了解です。マジでその都度、気になることがあったら言ってください」 鏡越しに目線を合わせながら私の髪を掬ったり持ち上げたりして、私にはわからない計算をしている真剣な様子。緊張感だけは伝わってきて、私を傷付けないように最善を尽くそうとしているその表情に申し訳無さが喉元まで込み上げてくる。 ザクッ。毛先に刃が辺り、床に落ちる。思い切った量ではないそれに思わず笑ってしまうと「なに? どうしたの? 」と鏡の向こうの驚いた表情のお兄さんと目が合った。 「すみません、そこまで構えなくて大丈夫ですよ」 「いや、でも。満足とまではいかなくても嫌な思いはして欲しくないからさ」 「さすがにもう大人なので、思い通りにならないからって泣き叫んだりはしません」 「違います。俺が、嫌なだけです。お客様に理想を提供できないのは」 そう言って真剣な表情でチビチビと切っては「今こんな感じです。大丈夫ですか? 」と何度も聞いてくる姿に私の何かが少し解けて。少しくらい理想からズレてしまっても、八割くらい当て嵌まっていればあとはこのお兄さんのありったけを向けてくれる善意で緩和されるなと思った。 少し気持ちに余裕ができたタイミングでサイドテーブルに置いていた携帯が通知音を響かせる。顔を動かすことなく視線だけ携帯に向けると「見ても大丈夫ですよ」と許可を得られたので遠慮なく携帯を手に取ると、「あ、」と上から衝撃を受けたときの感動詞が降ってきて思わず顔を動かしてしまう。 「え? あ、ごめんなさい。動いちゃった」 「いや、大丈夫。違うんです。びっくりして」 「何がですか? 」 「一等星スピカ、好きなんですね」 鏡越しのお兄さんの視線の先は私の携帯。その背面に貼っている一等星スピカのステッカーにあった。 「めちゃくちゃ好きです!スピカのデビュー時に偶然聞いていたラジオをから流れてきたデビュー曲に衝撃を受けて以来今までずっとファンで。どの曲も約五分の物語のようで世界観も徹底してて。演奏力も歌唱力も異次元ですし。ほんとに……」 思いがけず耳にした私を護り形成するものの存在の名に、被っていた猫が一瞬で飛び立って行った。猫が不在であることに気が付いて慌てて口を噤む。 「納得です。服装とか持ち物とか出で立ちとか、ずっとV系好きそうな雰囲気感じてました」 「そう、でしたか」 「うん。なんて言うか、それを前面に出すわけじゃなくてスパイスみたいに組み込んでいるから、繊細なお洒落をされる方だなって。ずっと思ってた」 ずっと。連呼されるそのワードに急に羞恥が込み上げる。私がお兄さんを認知していたのはこの美容室に在籍しているスタッフの人数が限られているからであって、向こうから見たら何十、下手したら何百の相手の内の一人。それをずっとと言える程前から名前の付いた個体として認識されていたなんて。そんな気恥ずかしさから上手く会話のラリーを続けられずボールを目の前に落としたままでいると、お兄さんがそれを拾った。 「今週末、ライブありますよね? 俺、行くんですよ」 「お兄さんも、スピカ好きなんですか? 」 「僕はまだライトな方なんですけど、僕の友人がめちゃくちゃ好きで。よく連れて行かれるんです。でもスピカのライブ最高なんで、こちらも楽しんで行ってますけどね。ボーカルのその曲自体になってしまうような、お芝居を観ているかのような感覚にさせてくれるパフォーマンスがマジで良いですよね」 「そうなんですね。……実は私、これだけ好きとか言っといてライブには一度も行ったことなくて」 ヘッドホンで聞く分には、音は一か所から向かってくるから、良い。でもライブは、怖い。周囲のファンが生む雑踏とか。押し合いになったときやメンバーからの視線を得たいが為に生まれる悪意の数々とか様々な余計な音に塗れていそうで。ライブ映像を見る度にこの世界観を生で浴びたいと思いながらもその下で繰り広げられているであろうどす黒いものに恐れを抱いてしまい、スピカへの愛を小さな私の中にだけ留めてきた。 「それだけ好きなら是非生でスピカワールドを体感してもらいたいです。チケット、まだ売り切れてないみたいだし。……怖い?」 「そう、ですね」 お兄さんは「そっか」と言って諦めたように微笑むと、またゆっくりと私の髪に刃を入れ始めた。パサリ、パサリと降っていく元私の一部。携帯が受信していたのはなんてことのないメルマガだった。登録した覚えのないそれ。切られた髪も、メルマガも、私のスピカへの愛も、意味のないものがどんどん積み重なっていく。 「でもやっぱり、それだけ好きなら体感して欲しいです」 終えられたと思っていた会話が急に再開され、携帯を見ていた顔を上げて鏡の向こうのお兄さんに向けるとお真剣な表情で私の髪と向き合っていたお兄さんも私が見ていることに気が付いて、視線が交わった。 「思い切って行っちゃいませんか? もし一人が怖いのであれば、会場に俺、いますし。一緒にいますよ」 「……やらない後悔よりやった後悔ってよく言われるじゃないですか」 「うん」 「私にとっては無理だと諦めた後悔より期待をもって思い切ってやった時の裏切られた感のある後悔のほうが、振り幅が大きい分、痛い。その後悔を大好きなスピカのライブで感じたくないんです」 「じゃあ、もしライブでの体験が須田さんにとって辛いものになってしまったら、俺がなんとかします! 」 根拠の無さそうな言葉を確信を持ったような表情で言い切ったのが面白くて思わず笑ってしまうと、あちらも気恥ずかしそうに歯を見せる。 「笑わないでくださいよ。ガチで言ってるんですから」 「具体的に何をしてくれるんですか? 」 「まだ何も考えてないです。でもライブ自体は後悔のしようがないくらい素晴らしいものなんで。須田さんも後悔した先の感情のことなんて考えなくていいです。後悔とか不安とか今考えても仕方ないんで、頭空っぽにして挑みましょ」 そう言ってお兄さんはハサミを台に置いてジーンズのお尻にあるポケットに手を突っ込み、何かを取り出した。 「チケット取ったら連絡ください。会場で会いましょう」 そう言ってお兄さん……アキラさんは名刺入れを再びポケットにしまうと「あ、長さもう少し切りますか? この辺で止めますか? 」と再び仕事モードに切り替えた真剣な表情でハサミを手に取った。
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