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スタッフがチケットをもぎり600円を一枚のコインへと変える。そうして狭い通路を抜けて一気に開けた先は、何度も観た異世界だった。 人がひしめき合い、私たちを抜かした影たちが小走りでどんどん前へと消えて行く。人と人との間隔が埋まって、他人同士とは思えないくらいに密着して大きな集団を作り上げていた。そしてその塊から聞こえる無数の声に足が竦んでしまう。 「優香、後ろの方、見てみて。全員が前に行く必要なんてないの」 後ろから両肩を掴み、わざわざ屈んで耳元でそう言ってくれた声に反応して会場の後方を見ると、十分なスペースでゆったりと、横や後ろの壁にもたれながら携帯をいじったり談笑している粒子たち。ルイさんはそんな後ろの余裕があるスペースまでそのまま背中を押して誘導してくれた。 「映像で見られるライブは客席の後方なんて映さないから気付かないよね。私たちも一番後ろで見ましょう。ラッキー、ドセン空いてるじゃない。目の前までは埋まらなそうだし、ステージ、よく見えるよきっと」 「すみません、気を遣わせてしまって。初めてのことってなんか苦手で」 「わかる。私も携帯の機種変とか、行ったことのない店舗へのヘルプとかになると前日から怖くて上手く眠れないもの」 「ヘルプ? 」 「ああ、私、アパレルなの」 「そうなんですね。アキラさんが専門学校時代からの友人とおっしゃっていたのでてっきり美容師さんかと」 「私はね、向いてなかったんだ、美容師」 ルイさんサバサバとそう言ってのけて、同じテンションで続ける。 「人の髪を切るのってさ、こちらが持てる力を100%出しても相手の気持ち完全に理解することはできないから思い通りのものを提供できないことがけっこうあって。お客様が満足していないのが顔や態度でわかっちゃうのがしんどかったんだよね。なんか違うって口で言われるならまだいいの。ありがとうございますって笑いながら、でも理想通りじゃないって思ってる。それがわかっちゃうのがさ、辛かったのね」 ああ、ルイさんもきっと私と同じ感覚で悩むタイプの方だ。でも私なんかより魅力的で、強そうに映るのは何故だろう。 「お洋服の場合はさ、勧めてもお客様は買わないという選択ができるしこちらも無理させないことができる。でも髪は切っちゃったらすぐには戻らないでしょう? お客様が鏡を見る度に悲しくなってしまうって考えちゃうのも私の向いてない部分だった」 ルイさんがそう話してくれているタイミングで前方の塊から「ルイ~! 」と高い声が響く。その声に反応してちらほらと後ろを振り向く人もいて、声の主である女性二人組へにこやかに手を振り返すルイさんへ嫌悪の視線を向ける男性グループの姿が視界に入ってしまい、胸がざわついた。そしてそれを皮切りにどんどん、どんどん、喧騒が刺さるような嫌な感覚に気付いてしまう。 「私、界隈では良くも悪くも目立ってしまっているのよね。……優香、これあげる」 そう言ってルイさん斜めに掛けられた小さなバッグから筒のようなものを取り出し、一体なんだと思っている私の前でその筒から取り出したものを私の両耳に差し込んだ。 世界が少し、柔らかくなる。 「ライブ用耳栓。ライブの迫力や音バランスはそのままなんだけど、耳に痛い音は軽減されるの。あと、優香にとって害悪な雑音も。少しマシになればと思って」 「でもこれ、ルイさんのものなんじゃ」 「私にはもう必要ない。だから、嫌じゃなかったら貰ってやって? 」 気を遣われているのは嫌でもわかる。でもルイさんのそれは嫌ではなかった。申し訳ないという気持ちももちろんあるけれど、ルイさんが私に向けてくれるなんてことない物言いの中には自然と甘えられるような温かさがあって、ふんわりとした雰囲気で辛辣なことを言う私の母を思い出させた。 「私、今日ルイさんと出会えてよかったです」 「なに言ってるの。まだ今日は始まってないでしょ」 客席の電気が一気に落ちた。隣も前も見えないくらい真っ暗になって、歓喜の悲鳴が四方八方から上がる。これから迎える新たな世界に身構えて高鳴っていく心拍に一人怯えていると、左手が柔らかく包まれてすべての感情を混ぜ込んで昇華させた。
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