食べて英気を養う

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食べて英気を養う

 病院に勤めていると、知った名前や、診察や治療中の知人にバッタリ会ってしまうことが度々ある。  当然、医療関係者は患者様のプライバシーを守り抜くべき、情報は己の胸中にだけにとどめておく。  しかし、今日の彩香は動揺し平静を保つことでやっとだった。  【川辺 航輔】ハイネックスイーゲル四百㎖  ICU(集中治療室)からの翌朝経管栄養の依頼書に印字されている患者名。  「…か、…やか…彩香、彩香ぁ、おーい」  目の前でひらひらと手が揺れる。  「あ…ごめん」  「しっかりしろー、早出の疲れかぁ?」  葵が心配そうにのぞき込む。  六百床以上あるT医科大学附属病院。  そこに勤める伊藤彩香と、須藤葵は、三年目同期の管理栄養士だ。  食品庫内にしつらえた経管栄養棚の前で、翌朝の必要とされる栄養剤(流動食)を各階の患者別に二人でもくもくと仕分けている。  ハイネイーゲル四百㎖のパックに、【川辺 航輔】のラベルを貼り、ワゴン  ラックICUの段の場所に置く。  落ち着け…落ち着け。  「経管栄養の目的」  突然の彩香のつぶやきに葵は顔を上げる。  「なに?」  「臨床栄養学の復習」  葵は一瞬空を仰ぎ、  「経口摂取が不可能な場合に行われる栄養補給」  「そして経口摂取が不可能なケースは?」  「彩香?」  葵の目が真剣になる。  「いいからっ」  矢継ぎ早に急かす彩香に観念したのか、  「嚥下困難、意識障害…それから」  もうそれ以上言わないでと、彩香は葵の口をマスクの上からおさえた。  「…経管私が病棟に運んでもいい?葵、夕食札チェックの方お願い…」  「分かった…」  細長いカートともに、病棟のエレベーターの前に立つ。一棟から三棟まで各階への配達。  (一棟から…ICUの三棟は最後に回ろう…)  頭の中で、回る順番をシュミレーションしていく。  そうしながらも、【川辺航輔】の栄養剤につい目がいってしまう。  航輔…。  間違いでありますように。  あのこーすけでありませんように。  祈りをこめてラベルの名前を人差し指でなぞる。  どうかこーすけでありませんように。 ※※※  「ファイッ、トォ」  「ファイッ、トォ」  航輔の独特的な声かけ。  はぁはぁと荒い呼吸が背後から追いかけてきて、「ファイッ、トォ」と一緒に駆け抜けていく。  航輔の体温と汗と息を含んだ空気が一瞬だけ彩香を包む。  彩香と航輔は、高校の同級生だった。  同じ陸上部の長距離。長距離にトラックを使われると、他種目の練習場がなくなるとの理由から、長距離はたいてい校舎外周を延々走っていた。  長距離グループの男女が同時スタートしても、数周後には、航輔先頭とする男子達に必ず追い越される羽目になる。  苦しい練習中でも、一番大きな声かけをしてくれるのが航輔だった。  「ファイッ、トォ」  「ファイトォ」、彩香も負けまいと航輔の背に叫ぶ。汗だくのシャツがはり付いて透けて見える背中の肌色。サラサラと地面を蹴るたびにはねる髪の毛…。  視界から消えるまで眺め続けていた彼の姿。 ※※※  リーダー端末に、首にかけたカードキーをかざすと施錠が解除し、ICU一枚目の扉が開く。二枚目扉は自動扉になっていて、手をセンターにかざすと反応して開く仕組みだ。  フロア真ん中にナースステーションがあり、患者ごとの生体情報モニターが設置されている。リアルタイムに、血圧、体温、呼吸、心電図情報が映し出されている。  何気なく川辺航輔のモニターを探す。見つからない。  ここのところ医療現場での白衣は、もはや外来診察の医師、薬剤師、栄養士くらいで、他スタッフはスクラブユニホームに代わっている。  紺色が看護師、エンジが医師、水色が介護士、看護助手、グリーンが清掃員。  ICUでも、白衣姿は彩香だけ。目立つ…大変目立つ。  紺色と、エンジの面前においては、特に目立った行動は慎まねばならぬ。  彩香は慎重にICUを見渡す。  カーテンだけで仕切られた一つのベッドに、今何人かの医療スタッフが患者を取り囲み処置している様子がうかがえる。  他に何室かある個室にはドアが閉まっていて、さらに入室者の名前すら部屋にはでていない。川辺航輔の情報源は現場に足を踏み入れてもつかめない。  (私は、何をしているんだ…)  経管栄養剤の指定場所に流動食パックを置き、ICUを出る。  空になったカートをカラカラと押しながら、薄暗い廊下を行く。  家族控え室からは、天気予報を告げる予報士の声が廊下にまで届いている。ふと控え室の前のベンチソファに隣り合って座る夫婦が目に入った。  ナイキの大きなバックを抱え、二人とも遠くの何かを見ているようだ。  視線先には、廊下の壁しかないのに、二人はそれよりももっと遠くに焦点がいっているようだった。  切れ長一重の目で、サラサラ頭髪の男性。  ショートボブで、優しい雰囲気の女性。  彩香は二人を知っていた。  川辺航輔の両親だった。 ※※※  高校二年。夏休みの部活合宿。  学校敷地内に、宿泊所があり、運動部はたびたびその施設で合宿をしていた。  午前練習が終わった後、監督がどこかから竹を切ってきて、  「おーい流しそうめんするぞー」 の一言で、部員は技術室から竹を割るため道具をあるだけ持ち出し、投てきチームは竹を割り、中長距離チームは竹節を削り取り、短距離チームはそうめんを茹で、と、練習中ではなかなか見せないチームワークをそうめんのためだけに発揮した。  そんな中、  「こんにちはー」  控えめな声に顔を向けると、小柄なやさしそうなおばさんが大きな風呂敷を持ち、大きなスイカを抱えたおじさんが立っていた。  「監督さんは?」  聞かれ、宿泊所にいる監督を呼びに行った。  おばさんは恭しく頭を下げて、  「川辺航輔の母です、いつもお世話になっています」  とあいさつをした。航輔を見ると、困ったように眉を下げ、そして竹節削り作業を再開した。  大きな風呂敷の中にはたくさんのおにぎりと唐揚げが入っていた。  「やったー!」  昼飯が、そうめんだけだと覚悟していた部員は歓喜に沸いた。 ※※※  航輔のご両親がICU前で待機しているってことは、やはり航輔が入院しているんだ。  でも、経管栄養…流動食ってどういうこと?  あの時は、おにぎり、唐揚げ、そうめん、スイカ、その贅肉がそぎ落とされた体のどこに入っていくのが不思議なくらい食べていた。  健康そのものだった。  両親の座る椅子の前を、彩香は顔を見られないように頭を下げながら急いで通り過ぎた。  「ただいま。今日の業務終了だけど、何かやること残っている?」  事務所で、食札チェックをしていた葵に声をかける。  「大丈夫」  「悪いっ、今日は残業なしで帰らせて」  「ノー残業は職場の指針っ」  ぐっと親指を立てる葵に、親指を突き返し、打刻して事務所を出た。  更衣室で着替えながら、実験棟に勤務する同級生にアポイントを取るべきか悩み、今日は水曜日で医局員たちの会議日だと思い出す。  急いで支度を整えた。  病棟から、実験棟へ連絡通路を急ぐ。  病院よりもさらに薄暗い棟、四階を目指す。  エレベーターを降りると、薬剤のにおいが鼻につく。  内科講座を通り過ぎ、【薬理学講座】にたどり着く。  【研究員 伊藤拓也】と札のかかった部屋をノックする。  「はい」  声を確認し、そっとドアを開ける。  三つならんだ机。ドア側が研究員、伊藤拓也の机だ。今日は、一人でパソコンに向かっている。  「失礼しまーす」  彩香が入り口で軽く手を上げる。  拓也が画面から目を離し、同級生を確認する。  「よう」  「乱雑な机だね~」  背後から、パソコンをのぞき込む。  資料で積み上がった机上。わずかなスペースに置かれたパソコン画面は、英字で埋め尽くされ解読不可である。  「何?これは?」  「プロトコール」  「プロトコール?」  「実験手順書」  「前にマウスに脳梗塞作っていたあれの?」  「うん、あれのようやく実験段階」  伊藤拓也は、今年四月からT医科大学院修士課程に編入した。  そして、博士をとるため薬理学に席を置いている。  四月。彩香のスマホに連絡があった。  「俺、今月から実験棟にいます」  拓也とは、小中高と同じ学校。  思わぬ幼なじみからの連絡に、あいさつがてら実験棟に遊びに来たのだ。  しかし、そこには大きな難所があった。  教授秘書の存在だ。  初めて薬理学に足を踏み入れたあの日。  廊下向こう側から、赤いインナーカラーヘアの女性が両手を振り子のように大げさに振り、ドスドス足音をたてながら近づいてきた。黒いエプロンを着用していることから、お手伝いさんかと思った。  「何でしょう?」  「伊藤さんに用があってきたのですが」  「伊藤とはアポイントはとれているのでしょうか?」  「は?…アポイント…いえ」  「うふふ。アポイントをとってからの約束をしていただかないと困ります」  「そうなんですね。申し訳ありません」  「なぜなら、ここには特許絡みのものもたくさんありまして部外者が勝手に足を踏み入れられると…」  チクチク感じる嫌みの合間に含み笑いを入れ、多分還暦近そうな年齢の割に妙にかわいい声。そして、どことなく不思議な人。  「はい、それじゃあまたアポイントとって出直してください、うふふ」  と体ごと反対側を向かされ、軽く背中をおされた。  その夜、拓也にラインを送った。  彩香「講座に行ったら、赤い髪の人に追い出された(泣)」  拓也「悪い。あの人、教授秘書。水曜日なら会議に出払ってだれもいないから」  彩香「えっ秘書???お手伝いさんかと思った」  拓也「それにしか見えん」  彩香「水曜了解」  そこから、水曜日の仕事アフターたびたびここを訪れるようになった。  二度目に来たとき拓也は実験室でマウスの頭を開き、メスで脳梗塞を人工的に作る作業をしていた。  脳梗塞の新薬がどれだけ効果があるのか臨床実験だという。  「拓也、良い死に方しないね」  顔をしかめながらささやく彩香に、拓也も、  「俺もそう思うわ」  マウスの頭を縫合しながらつぶやいていた。  「川辺航輔と最近どう?」  拓也はキーボードを打つ手を止め、彩香に顔を向ける。  拓也の顔がゆがむ。  これは絶対、何か知っている顔。  聞きたい…でも怖い。次の言葉が出てこない。  何があったの?容態は?命に関わること?  …これが、一般病棟の入院だったら平気で聞けた。  だけど、航輔がいるのはICUなのだ。生命の危機に迫られている重症患者の受け入れ先なのだ。  「医療関係者は、患者情報を漏洩していいものか」  拓也が眉間にしわを寄せてつぶやく。  「患者情報?何のこと?」  とぼけて見せる。  「私はただ単に、同級生の近状を…」  「同級生ね…」  意味ありげな面持ちで、しばらく彩香を眺めていたのち、拓也が深いため息をつく。  「航輔さぁ、サーフィンしていて…」  「ちょっと待って。こーすけがサーフィン?あの、長距離のこーすけだよ」  「うん。あの長距離の航輔だよ。海より陸が似合うあの男だよ。俺もはっきり言って航輔のサーファー姿が想像できん。だけど先週、先輩に誘われて波乗りに行って、波に巻き込まれちまってたんだよ…。で、低酸素脳症に…」  「低酸素脳症?」  「脳の酸素欠乏による植物状態…」  口に手を当てる。体が震える。  「大丈夫か?」  「ありがとう。帰る」  次の日も、残酷なまでに航輔の経管栄養依頼書が栄養課に送られてくる。  ベッド上で眠り続けながら、無意識のうちに栄養補給され、消化吸収し、排泄し…航輔が果たして望んでいるのか?  インフォームド・コンセント(医療行為への本人同意)もないまま、航輔のQOL(生活の質)も選択できないまま、このままどのくらいこの状態でいるのだろう。  「ICUって面会できるのかな?」  葵に聞いてみる。  「誰か入院しているの?」  「うん…まぁ、それは患者権利を守るということで…」  言葉を濁す彩香に、葵はうなずき考える。  「ICU行くことはあるけど、コロナもあってか面会している人、私見たことないぁ」  「だよね…私も見たことない」  いつ行っても医療スタッフしかあそこにはいない。  会いたい…航輔に会いたい。  植物状態になってしまった航輔をこの目で見るまでは納得できない。 ※※※  四十日あった夏休みの半分近くは、明日ファストの上を走り続けた。  もはや肌はアジア人とは程遠く焼け焦げ、Tシャツ境目が気持ち悪いほど。  最後の練習日は、帰りの自転車をこぐ気力もないほど体力を奪われ、それでも容赦なく熱を地上にとどけてくれる太陽に熔解されかけていた。  なるべく日陰を選びながら自転車をこいでいると、  「おーい、彩香ぁ」  道路反対側のコンビニ前で、伊藤拓也と川辺航輔が手を振っている。  ふるふると手を振って通り過ぎかけたとき、  「こいよ、ジュースおごってやる」  「まじ?やったー!」  水を得た魚のごとく、ほいほい通りを渡って駆け寄った。  剣道部の拓也は、室内練習だから日焼けどころか、うらやむほどの白肌だ。  「ほら、お疲れっ」  拓也が缶コーヒーを投げてくる。  「ちょっとっ!あっつーっ!」  あまりの熱さに自転車のかごに投げ入れる。  「拓也っ、こんな熱いコーヒーいらないよっ」  航輔が喉の奥まで見せて笑っている。  航輔ってこんなに笑う人だったの?  びっくりして、航輔をみていると、  「ごめん、おかしくて」  といいながらも、また吹き出す。  物静かな彼は、「ファイッ・トォ」しか言葉を発しないイメージがあった。  形のいい寡黙な口や、サラサラの黒髪からのぞく切れ目はとてもミステリアスで、言葉を交わすたび、その目に自分が今映っているだと思うだけでドキドキした。  「それより拓也、ホットコーヒーいらない。違うの買って」  「それな。アイスコーヒー買おうとしたら間違えてホット押しちゃったんだよな。買い直ししたから、金なくなっちゃた」  悪びれなくこたえる拓也。  「おごってやるって言ったから、わざわざ来たのにっ。意地悪っ」  航輔がまた笑う。  「彩香には、僕がおごってあげるよ」  えー、航輔のおごり!?  しかも、しかも、『彩香』って下の名前で呼んでくれた。  胸が躍る。今まで、部活の連絡事項や「ファイッ・トォ」しか会話したことがなかったのに。  やばい…うれしい。  「じゃ、スポドリお願いします…」  三人でコンビニの陰にしゃがみこみ、それぞれの体内に水分を送り込む。  「拓也と、こーすけ君って仲いいんだね」  彩香も川辺君からこーすけ君に呼び方を変えてみる。  航輔からあんな笑顔を引き出せる拓也はすごい。  「同じ保育園」  「二人が?」  「そっ」  「そんで、高校で再開」  「九年の空白があっての友情?」  「俺ら開園と同時に預けられ、閉園時間ギリギリまでの、待たされ園児だったの」  「両親忙しい人だからね、お互い」  「それで、いつも二人で仲良く待っていたんだ」  「仲良くなんて待ってるかだよな」  拓也が細めた目で、航輔に視線を送る。  「そう、どっちの親の迎えが早いかでいつも帰り際バチバチ」  「航輔なんか、俺の母ちゃんの姿を発見しただけでキレて俺の腕に噛みついてきたんだぜ」  「えぇっ。めちゃ温厚なこーすけ君が?」  「そちらこそ、うちの親が先だと飛び蹴りしてきたよなっ?」  正午をとっくに回っていたのに、いつまでもコンビニの陰で笑っていた高校二年の最後の夏の終わり。 ※※※  今日も、ICUに経管栄養を届けた。今日は、ずいぶんスタッフが少ないようだ。  彩香は、ICUの個室前を通り救命救急に向かう。ドアの閉められた小窓カーテンが開いていて、通り過ぎ際、航輔を見た。見つけてしまった。  ただただ静かに眠っている航輔が部屋にいた。  彩香は周囲を見渡すと、誰もいないのを確認後、そっとドアを開けてしのびこんだ。  航輔の傍らに静かに近づく。  心臓が胸骨を激しく打つ。  顔を覗く。  一重の瞼は閉じられ、まつげはつややかなままだった。  そのまつげに触れる。  その手で髪をなでて、そっと頬を包む。  体温が彩香の手のひらに伝わってくる。  「こーすけ」  耳元でささやく。  目を開けてよ、ほら。  「こーすけ…」  自発的に繰り返す呼吸。  航輔の鼻先に口を近づけ、航輔の吐いた二酸化炭素を彩香は鼻から吸い込む。  航輔の肺を満たし、血液循環で戻ってきたCO₂が彩香の体にとりこまれる。  航輔の耳後ろを嗅ぐ。  首に顔を埋める。  航輔から放出される懐かしい香気。  寝たままの乾いた唇にそっと自分の唇を合わせて彩香は部屋を後にした。  「植物状態の人から、命の液体って採取できるものなの?」  水曜日の実験室で、彩香は白衣の拓也に問う。実験棟は病棟と違い、普段着の研究員と、実験中の白衣装束のみ。  「命の液体って何よ」  スライドに、薬剤を垂らしながら拓也が聞き返す。  拓也に脳梗塞を作られたマウスは、脳のみ取り出され、薄っぺらくスライドガラスに張り付けられて標本にされてしまった。  薬剤を垂らす様子を眺めながら、優等生って大人になっても賢いんだなって思う。  傍らに置かれたプロトコールをのぞき込んでも英語、薬剤の説明書も全部英語。  自分とは、脳の次元が違いすぎる。  「拓也の頭は異次元だよ」  思わず本音がこぼれる。  不思議な表情を浮かべたまま、細長い指で標本を小さな箱に移す。  「今から三十分インキュベーション。話を聞いてやる」  クルリと丸椅子を回転させて、彩香に向き合う。  脳梗塞の標本に三十分投薬して置いておくらしい。  「命の何だって…?」  「ん…、命の液体。植物状態の人から取るって可能?」  一度ならずとも、二度も同じ言葉を発言し、彩香は真っ赤になる。  「命の液体…ってまさか、おい、せい…液のことか?」  早口で言う拓也は、明らかに動揺している。  「おまえ…良からぬ思考になってないか?」  「少々やばい。でも真剣」  「被験者は、航輔だよな?」  うなずく。  「彩香、倫理って分るよな」  拓也の目が怖い。忘れていた。拓也は子供のころから、正義感の塊だった。     ルールに反するものに対しては真っ向から戦う子だった。  「何を考えているんだよっ」  彩香の肩がビクッと動く。目には、すでに表面張力の限界にまでたまった涙があふれだしそうだ。  拓也は、大きくため息をつき、  「もうすぐ、医局員たちが戻ってくる時間だから…」  「分かった。もう帰る。…ごめん、変な話して」  彩香のそっと去っていったそのドアを、拓也は睨み付けていた。  「なんだよっ」  拓也の腹から感じたことのない怒りが沸き上がっていた。  分かっているんだ。医療倫理も。  自分勝手な言動で、一患者である航輔の人権を無視した行動は医療関係者が起こしてはならないことだ。  だけど…、理屈抜きで逆らえない本能がある。  自分の腹部奥底がうずく。航輔の遺伝子が欲しいのだと叫んでいる。  彩香は軽自動車のハンドルを握りしめながら、さっきコンビニで買ったばかりのタバコの包装を器用にはがす。  先に火をともし、メントールの煙を吸い込む。  また、吸ってしまった。  深い自責の念に駆られる。  社会人になってから、どうしようもなく悲しいとき、つらいとときにタバコに手を出すようになってしまった。  前回で、必ず終わりにしようと自らに契りを交わしたはずだったのに。  運転席側の窓を開けて、タバコの煙を逃がす。  昼間の熱を残した湿気を帯びた夜の空気が、車内に流れ込む。  航輔は…航輔には波乗りでなく、アスファルトを駆ける姿がよっぽど似合っている。  何であの日、海に行ったんだろう。  海にさえ行かなければ、あんな状況にならなくて済んだのに。  海にさえ行かなければ、悲しむ人もいなかったのに。  海にさえ行かなければ…果たして、私と航輔の間に変化は生じたのだろうか…? ※※※  高校三年。  航輔と同じクラスになれた。  航輔が一緒にいる友だちは、航輔に似て特別目立つ存在でも、目立たない存在でもなかった。温かい雰囲気を持った、健全な発達をとげてきているのであろう男子たちばかりだった。  何を話しているのか分からなかったが、いつだって笑顔の彼らの周りは華やかだった。  同じ陸上部の長距離チームだからといって、彩香と特別仲良くしようとするわけでもなく、去年の夏の終わりに拓也と三人でコンビニの外に座り込み、笑いながら話したあの日がまるでなかったかのように航輔は彩香に接した。  「彩香めちゃうまそうなんだけど、それ」  まりもが彩香の弁当の野菜肉巻を指さす。  「あげられない。今、大会に向けて持久力強化メニューにしてるの」  「すご、自分で作るの?」  同じ陸上部で短距離をしている美波が驚く。まりもは、もともと美波の友だちで、三年生になってから親しくなった。  彼女は、男子のような短髪に、なぜか男子物の下着を着用している。見た目と裏腹に、感情が豊かで、一緒にいてとても楽しい。  そんなわけで、今日もいつものように一緒に弁当を広げている。  「うん。料理わりと好き」  「じゃあさ、短距離メニューはどうしたらいいの?」  美波が身を乗り出す。  「基本スポーツ選手はバランスがとれた食事が大事なんだけど、短距離は、無酸素の瞬発力のパワーが必要になるよね。その場合、筋力を付けるためにバランスの良い食事と、タンパク質が重要。大会前は糖質メインに切りかえて。これは、中長距離も同じ。それより、美波は間食控えないとね」  彩香が美波の弁当をのぞく。  今日も、デザートにまんじゅうが入っている。  「昨日の帰りも、ソフトクリームとポテチ買い食いして帰っていた」  早速、まりもの報告が入る。家の方向が美波と同じまりもは、部活のない日など、一緒に帰っている。  「まりも、しばらく美波の買い食い見守っていてくれる?」  「御意」  まりもが、パックジュースを一気飲みしながら仰々しく頭を垂れる。  彩香と、美波が吹きだす。  「彩香、スポーツ栄養学詳しいね。監督からの教示?」  「あれ?美波に言っていなかったっけ?私のお母さん管理栄養士」  「まじ?」  言いながら、美波はななめ後ろを指さした。彩香がその指先を追う。  「うわっ」  フォークに突き刺した肉巻を落としそうになる。  航輔が突っ立っていた。口にケチャップ付けたままで。  「俺にも教えて」  「彩香先生、こーすけにも伝授してあげて」  「こーすけ、まずはケチャップふいて」  彩香がティッシュを渡す。  美波が、慌てて口をぬぐう航輔の姿にクスクス笑う。  「こーすけの長距離は、有酸素になるから、筋肉に長距離を走り抜くエネルギー源のグリコーゲンを蓄えておかなくっちゃいかんよ。糖質…ご飯やパン類に加えて、糖質の代謝に必要なビタミンB、あとタンパク質意識して。大会当日は、脂肪分の多い肉とか消化に時間がかかるから控えて。それから、お腹の調子を崩すとまずいから、生野菜だとか、お刺身だとか、刺激物はだめ。消化の良いもの、普段食べ慣れた物を食べて」  「とにかくバランスってやつ?」  「バランス大事。ビタミンB類は、豚肉、レバー、ナッツ・豆類、緑の野菜ね。タンパク質は肉、魚、卵しっかり摂って」  「分かった」  ゆっくりと航輔が去る。  「こーすけって子、彩香の彼氏?」  頬杖をついて見ていたまりもが、航輔の背に指を指す。  「はい、人に対して指ささないよ」  美波が、まりもの手を握り机に戻す。  「こーすけが私の彼氏って、なんでそう思う?」  「オレの勘」  まりもは自分のことをオレと言う。  「ほんとなの彩香?」  美波が真顔で見つめる。  「彼氏じゃないし、めった話さないよ。こーすけとは」  「いやいやいや、めっちゃ自然に話していたよ。だいたい、こーすけ部内でも超クール男子で通っているし、イケメンだけど話が盛り上がらないとか、近寄りがたいって、みんなこーすけの取り扱いに戸惑っているよ」  「そうなんだ…」  自分だから話しかけてくれたのかな。なんだか、胸の中がじんわり温かくなった気がした彩香だった。 ※※※  海岸に車を止める。  月の照らす海面に、暗くなってもサーフボードに乗る恐れないサーファーたちが浮かんでいる。  航輔の人生を狂わせた海は、波を作っては、夜でもその波に乗りたい人たちを寄せ付ける。波に酔狂してしまった夜のサーファーは、波のてっぺんに乗っかろうとパトリングしテイクオフを狙う。暗い海の下に飲み込まれたらどんな恐怖が待っているのか…。  彩香は身震いする。  彩香も、ボディボードをしたことがあるから分かる。  波に飲み込まれると、まるで自分が洗濯機の中で旋回している衣類のようにグルグル海中で回される。  それは、すさまじく強い波のエネルギーで、自分の体が上を向いているのか、下を向いているのか分からなくなる。  左腕にはボードと自分をつなぎ合わせているリーシュコードが巻き付き、ボードの浮遊力と波の力で自分の体がバラバラにくだけそうになる。  そして肺は、血液は、空気を求める。空気を求めて体はばたつく。極限に苦しい。肺がが潰れてしまいそうだ。しかし今、空気を求めて呼吸をすれば肺は海水に満たされてしまう。  上下どっちに向かっていったらいいのか海面が分からなくなる。冷静にボードの浮遊方向に自分の体を移動させ、海面に顔を出せた。  咳き込みながら肺に酸素を取り込む。ボードに上半身を預け、呼吸を繰り返した。  一歩間違えていたら航輔のように低酸素症になってしまったと思う。  あの恐怖を思い出し、彩香は二本目のタバコの煙を肺に送り込む。  彩香のスマホがライン着信を知らせる。  拓也「航輔。亡くなったって」  タバコを海岸に放り投げる。  「うわー!!」  精一杯の声を張り上げる。  「一年、声出せよっ」先輩に怒鳴られながら叩き込まれた「ファイト」、「ファイッ・トォ」。  精一杯の声を張り上げても、「まだまだ小さいっ」と怒られ続けた。彩香も航輔も、美波も、顔が真っ赤になるほど張り上げたあの「ファイト」よりも、もっともっと大きな声で海に向かって叫び続けた。  翌朝、拓也と浜辺に群生しているハマカンゾウを摘み取る。  高校三年の遠足でひたすら歩いた浜辺。  あの日見たオレンジ色のハマカンゾウが浜辺を彩っていた。  「ここをさ、こーすけたちと歩いたよ」  朝露に濡れた茎をハサミでパチパチと切ながら、  「一緒に歩いていたみんなとカタカナ禁止ゲームした」  何だそれ、と拓也がつかれた顔に笑みを浮かべる。  「カタカナ使ったらダメってやつ?」  「そう。自分が説明者で、みんなが回答者の場合。例えばこの花、ハマカンゾウって答えを出させるための伝え方。橙色の花で、浜辺に咲いていて…とか。実際、これを説明した人がいてさ、ここに咲いているこの花をクイズに出してるって誰もが分かっている。しかし、みんなこの花の名を知らないわけ。だからだれもが答えられないという…」  拓也と肩を震わせてクツクツ笑う。空虚感に押しつぶされる中、無理やり笑う。  あの時、ゲーム仲間に航輔もいた。航輔の友だち何人かと、彩香のグループ、美波とまりも。  「こーすけなんか、超まじめな顔で、だいだいユリって答えてた」  「まんまじゃん」  「まんま」  単純なやつ。  「だいだいユリ喜ぶかな?」  「そりゃそだろ、好きだった女の子からならなおさらじゃね?」  確かに。…好きだった。 ※※※  部活を引退したら、航輔に告白しようと高二までは思っていた。 だけど、高三でクラスが同じになってしまった今、とても告白できる勇気はない。  告白が惨敗に終わってしまったら、卒業まで教室での空間が地獄となる。  航輔は見ているだけで彩香の癒やしになる。航輔を毎日間近で見られるだけで幸せだった。  それが、あの遠足の帰り。  バスの席が、悪友たちの企てで航輔の隣になったのだ。  さっさと、座席に座ったまりもと美波。そして、航輔の友だち。  「彩香の席はこーすけの隣だから」  と涼しい顔で美波が告げ、美波の後ろの座席を指さす。美波たちの並びに座った航輔の友だちの顔がニヤついている。  長い道のりを歩き続けて棒のようになった足を今すぐに休めたい。  そっと、航輔に目配せして横に腰を下ろした。  「今日は、さすがに部活休みだよね」  足をさすりながら話しかける。  どうしよう、まともに航輔の顔がみられない。  「部活あったらキツいな」  「手足、潮風でベタベタ」  「な…」  「拭く?」  ウエットティッシュをリュックから取り出し、航輔と一緒に腕やすね、顔や首回り、衣服から露出しているあらゆる皮膚を拭きまくる。  前席のすきまから手が伸びてくる。人差し指と親指で作る小さなハート。その手の甲をつねりあげる。  「いっったー!彩香のばかっ」  美波が声を上げる。  航輔が笑う。  「笑い事じゃないし。人をからかって…」  プリプリ怒りながら、スポドリを一口飲む。  「それ、去年の夏にも飲んでいたよね?」  そうだ。あれは夏の終わり。部活帰りに、コンビニで拓也と一緒にいた航輔におごってもらったんだった。  「これ飲んだことない?レモン味でめっちゃおいしいの」  航輔が、ドリンクをガン見している。  「味見させてあげたいけど、ごめん。口付けちゃった…」  小さい声で言い訳する。  「気にしないのにな」  航輔がささやく。  「えっ?」  「でも、彩香がイヤか…」  「飲む?」  「うん」  間接キス。顔が火照る。  「これ好き」  彩香の手にペットボトルを返すと、航輔は窓に体を寄せて目を閉じた。  そして、すぐに寝息を立て始めた。  程なくしてバス全体も、会話が途絶え、静かな寝息に包まれた。  彩香も寝落ちていた。気づけば体は航輔に寄りかかっている。体位を戻すも、すぐに航輔の方に傾いていってしまう。再び体位を戻そうとしたときに手をにぎられた。  「いいよ、このままで」  寝ぼけた声で航輔がささやく。  「ありがとう」  航輔の温度、航輔の香り。ときめきに包まれ、彩香は眠り続けた。  その晩、まりもからラインが届いた。  まりも「キラキラの一コマ」  画像 航輔に寄りかかって眠る彩香が写っていた。  「ギャー」  週刊誌のスクープ写真のような盗撮。  彩香「まりも、この画像ほかの人には」  まりも「見せていないから大丈夫v…あ、こーすけには送った」  信じられない。  やだやだ、どうしよう。  翌日の登校。ペダルをこぐ足が重い。昨日の遠足疲れと、まりもから送られてきた画像が間違いなく学校を拒否している。  休んじゃおっかな。青灰色の空を見上げる。  ダメだ…三年連続皆勤賞の目標が崩れてしまう。がっくりとうなだれる。  教室をのぞくと、まりもが席で豪快におにぎりをほおばっている。  「まぁりぃもぉ」  「よっ、彩香。おはよ」  「あんたねぇ、昨日の画像…」  「めちゃ良く撮れていたでしょ。オレって天才」  お茶でおにぎりを流しこみ、魚肉ソーセージの皮をむく。  「…こーすけ来たよ」  魚肉ソーセージの匂いをぷんぷん漂わせながら耳打ちする。  いつもと変わらない航輔だった。  それは、放課後の部活においても、だ。  念入りにストレッチをし、グランドジョグ。  監督に練習メニューを聞きにいった中長距離代表の航輔がメンバーに伝える。  「外周」  「はい」  いつものことだから、当たり前のように正門へ移動する。  航輔が、ストップウォッチと記録ボードを正門のコンクリートの上に置く。  「用意はいい?」  足首を回したり、アキレス腱を伸ばしたりしていた面々がスタートラインに移動する。  航輔がストップウォッチを手にする。たいてい、先頭でゴールする航輔がタイムの記録も任されているのだ。  「スタート」  アスファルトを蹴るランニングシューズの音が一斉にとどろく。  はぁはぁと荒い息。男子の集団が女子の前に出る。幾つかの集団となり、やがて見えなくなる。  体のコンディションは日々違う。  足が思うように動かない日。呼吸がやけに苦しく感じる日。どこかに痛みを感じる日。  しかし、走ることが好きだ。  枯草から、オオイヌノフグリや、ホトケノザの新芽が飛び出す春の始まり。  その芽が日に日に伸びて、いつしかいろんな雑草が土を覆う。  夏の太陽と、触るとやけどしそうに熱くなったアスファルトに蒸された雑草。その横を駆け抜けるだけで、緑のむせ返る匂いに肺が満たされる。  秋は、早くなった夕暮れ。西の空に浮かぶオレンジに染まったイワシ雲。低くなった太陽を眺めながら走る。  凍てつく冬は、向かってくる北風に、土俵を踏む力士のごとく立ち向かう。土ぼこりをまき散らすつむじ風にも負けまいと戦い挑む。  そして今。ぼってりと重い空気に含まれた湿度を感じながら走る。水田には、小さかった苗が成長し、春先は卵だったカエルの卵がおたまじゃくしからカエルに変化をとげ、飛び回っている。その子たちを踏みつけないように駆け抜ける。  いつしか、呼吸は一定のリズムになり、頭の中がぼんやりと、しかしとても気持ちよく走れている。  多分、これがランナーズハイだと思う。  「ファイッ、トォ」  抜かされた。航輔の背中に応戦する。「ファイトォ」。  ゴール間近で、「ラストー」の声を拾う。航輔だ。  最後の力を振り絞る。  正門に倒れこむ。  「彩香ダメ。歩いたほうがいい」  航輔が記録をボードにタイムを記しながら、促す。  うなずいて立ち上がる。生まれたての小鹿のように。  腰に手を当て歩きながら呼吸を整える。  「ラストー」  次々ゴールしてくる仲間に航輔は声掛けを続ける。その姿に胸がときめく。  「頭からいっていい?」  美波が水道の水を頭からかぶる。  「私も」  頭、首を流れる冷水が気持ちいい。  腕まくりをして、二の腕まで水に浸す。  「冷やされるスイカの気分…」  「どんな気分だ…」  美波が笑う。  隣に人の気配を感じる。航輔が顔を洗っていた。  美波の顔が悪魔の笑みと化し、  「あー、今日は私、家の手伝いがあったんだぁ」  とわざとらしく去っていく。  「ちょっと美波、途中まで一緒に帰ろ」  背中に訴えるも、頭にかぶっていたタオルをぶんぶん振り回し、部室に入っていってしまった。  「何あれ…」  航輔に問う。  「ジュース飲んでいかない?」  「えっ?」  「夏に拓也といたあのコンビニ」  「あ…うん」  「待っているから」  航輔も部室へ向かう坂道を降りて行ってしまう。  空を見上げる。梅雨空は、今日は一日なんとか持ちそうだ。  自転車をこぎ始める。少しだけ、夕方の涼を含んだ湿気の多い空気が、濡れた髪の毛を乾かそうとしている。彩香のスカートの中をくすぐる。  緊張をほぐすために、ユーチューブ二億回生のポップソングを口ずさむ。 金曜日。やっと週末だ。歌う声が大きくなる。  コンビニにつくと、建物側面の壁に自転車を止めた航輔が参考書を読んでいる。耳には、ワイヤレスイヤホン。  「よっ」  目の前で片手を揚げる。  スポドリのレモン味が投げられる。  「ナイスキャッチ。今から、海岸行かない?」  「行く」  並列で自転車をこぐ。  「ハンドルの上に腕を組んで自転車を運転してる人、見たことある?」  「こう?」  航輔が難なくそれをやってみせる。  「航輔できるんだ…。私、それやっている人に抜かされて、真似てしてみたら、二秒でバランス崩して自爆」  航輔が笑う。  「バスケットボールを人差し指の上でクルクル回したり、シャーペンを親指の上で器用に回転したりできる人いるじゃない?そういう何気ないかっこう良さを見つけるたびに、真似はしてみるのだけど未だに成功したためしがない。私、そういう小さなこましゃくれをサラリとできる人間になりたいの」  「悪い…俺全部できる」  海岸に群集しているハマダイコン。今は薄紫の色の小さな花を付けている。  二人並んで腰を下ろす。  「ジュース代」  小銭を航輔に差し出す。  「要らない」  「去年の夏もおごってもらった」  「じゃ今度おごって」  「うん…熱々のコーヒーでいい?」  笑いあう。  蓋を開けて、黄色い液体を一気に流し込む。  一瞬で五百mlのペットボトルが空になる。  「私…自分の体水道水で冷やしただけで、水分全然取っていなかった」  彩香が航輔の顔を見て告げる。  「それ、まじでやばいぞ。熱中症にならなくて良かった…」  数口含んだだけの自分のドリンクを彩香に差し出す。  「俺のも飲んでいいから」  「大丈夫。もうお腹チャポチャポ」  と言いながら、こんな可愛げのない言葉の表現しかできない自分に情けなさを感じる。  「あのさ…」  航輔がおもむろにはハマダイコンをむしり、ブチブチとちぎり始める。  「まりもから、画像来た?」  たまらず、彩香もハマダイコンをむしり取る。  「来た…ごめん、嫌な思いしたよね?」  「イヤ、俺は全然」  ブチブチとダイコンのちぎる音だけがする。  太陽が地平線に近づき、日暮れを知らせてくれている。  カニが足元を這う。フナ虫が行きかう。波打ち際には、大量の海藻が押し寄せている。  浜には、干潮で集まった地元人が、海藻も気にした様子も見せずアサリを求めて砂をほじっている。  「俺、彩香のことが好き」  「…私も」  うれしくて顔がほころぶ。  「嬉し…」   航輔の限りなく小さな声が、彩香の耳をくすぐる。航輔の顔が近づく。   スポドリのレモンフレーバーが香った初キス。  「そっか、そっか」  美波が彩香の肩をバンバンたたく。  「まりも、良くやった」  今度は、まりもの頭をなでながら、その栄光をたたえる美波。  「オレえらい」  偉そうにふんぞり返るまりもに、「お前はプライベートを盗撮し、送っただけだろう」の言葉を飲み干す。  「君たちさぁ。陰で、陸上部の夫婦と呼ばれるほどに息ぴったりなのに、一向にくっつく様子もないし、部員一同…あっ、監督までもモヤモヤしっぱなし。二年以上も…」  「監督までも?」  「監督こそだよ。「くっついたか、あそこはいつくっつくんだ」って、いつも私に調査入れてきてさ。何度も、本人から聞けって言っているのに「いや、若い恋愛を俺が邪魔するわけには…」って屁理屈言ってさ」  昼のお弁当を食べたはずなのに、またでっかいどら焼きにかぶりつきながら美波が熱く語る。  「まりも?美波の買い食いちゃんと見張っている?」  声のトーンを落とし攻め入る。  「買い食いじゃない、これは。美波が家から持ってきたどら焼き。オレだって家の中までは阻止できないよぅ」  情けない声でまりもが嘆く。  「これは、お客さんからの差し入れ」  美波が、彩香とまりもにも同じものを差し出す。美波の家は、海水浴場前の民宿『浜風』を営んでいる。巨大エビフライが人気の、ネットでもこの地域の宿中では上位にランクインしている。  まりもがどら焼きを早速開封する。  「二人とも、進路調査出した?」  近日中に、進路調査を出さないといけないのだ。  美波が最後の一口をパクリと食べながら腕を組む。  「んー、まだ」  「美波は浜風継ぐの?」  「それはないわ」  「彩香は?」  「私は…やっぱ栄養士かな?」  「だな」  美波とまりもがうなずく。  「まりもは?」  「オレは、踊れる美容師目指す」  納得。まりもは、男子の風貌だけど、幼少から続けているホップダンスの腕はびっくりするほどで、キレッキレのダンスを踊る。  そして、ヘアースタイルも衣服も独特のファッションセンスを持っている。  「卒業まで一年もないのに、一生の選択をしなけれないけないなんて荷が重すぎる」  美波が、頬杖をついてぼんやりする。  航輔は、進路調査なんて書いたんだろう?  友だちと弁当を広げている航輔をぼんやり眺める。  航輔が視線に気づき、ピースサインを寄こす。  彩香が航輔と付き合い始めたばかりの頃。 ※※※  遺影の航輔は、スーツ姿で、高校の頃より少し大人びた顔。ICUで眠っている航輔のほうがあどけなかった気がする。  棺の中の航輔は、ICUで会った航輔と同じ表情のままだった。  一重の瞼は閉じられ、まつげはつややかなまま。  血の気の失せた頬を、両手でそっと包む。  柔らかく温かった肉体は、固くなり、ひんやりしている。  ピクリとも動かないこの肉体には、もう航輔は入っていない。棺の中で、白い布団に包まれた航輔は躍動感を失い、航輔の形をした物体にしか見えなかった。  航輔はどこにいるのだろう。頬を挟んだ手が震える。  空を見上げ、そこに航輔の霊が浮遊していないのか探す。見えるはずのない幽体に語りかける。今すぐこの肉体に戻ってよ。涙で天井がゆがむ。  喪服に身を包んだ陸上部の部員に監督、そしてクラスメイト。  死別の経験値の低い一同は、この重い場所での対処に困り果て、なすすべもなく立ち尽くす。  通夜の始まりの十八時に一斉に集まった面々が、葬儀場からボツボツと帰っていく。  弔問客が減ってきたのを見計らい、拓也がささやく。  「あれ、渡すんだろ」  うなずき、車から花の束をもってくる。  航輔の祭壇にハマカンゾウを持って再び向かう。  棺の上にそれを置くと、彩香は航輔の胸の上に伏した。  「彩香ぁ、今日もICUの仕事欲しいかーい」  葵が拳を高く振り上げる。  ここ数日、彩香はICU関連の雑用を率先して引き受けていたので、気を利かしているようだ。  「あー、行きますよ…」  「助かる、はい」  かごを手渡される。  「これは?」  「山口からの指令」  「山口!?」  山口貴美子は、誰もが恐れる栄養課の上司だ。  「なんでも、未使用の経管栄養剤がたまったから取りに来てくださいだって。ICUと救命救急センターからの電話」  「はーい、行ってきまーす」  二重扉を抜け広い空間を見渡す。  航輔の退院後も変わらず、生体モニターは患者さんの情報を映し出し、スタッフは忙しく動き回っている。  経管栄養剤の指定ボックスは使わなくなった栄養剤が、かごからあふれ出し、銀ラックが悲惨なことになっている。  ひとつずつ、持参したかごにいれていく。  【川辺 航輔】ハイネックスイーゲル四百㎖  航輔の使用されなかった栄養剤が発掘される。動きが止まる。  奥歯を噛みしめる。泣かない、泣かない。職場では絶対に泣かない。  「栄養剤回収していきまーす」  ナースステーションに声掛けする。  七、八秒後に「はーい」と抑揚のない声が返ってくる。  医療現場というのは、ヒエラルキーが色濃く表れる場である。  エレベーターの乗降順も、職員食堂席の優先順位も、暗黙のルールの上、格付けがされている。  頂点が医師。そして、レントゲンや臨床技師などと薬剤師。次に看護師、それから介護士や看護助手。最後に栄養士に、清掃員というような構図。  言葉遣いや、あいさつの態度にまでそれは表れる。  しかも、年収も悲しいくらいピラミッドに当てはまり、泣けてくる。  ずっしりと重くなったかごを両手で持ち、隣のフロア、救命救急センターに移動する。  ICUと、救命救急センターの間に設けられた物置スペースには、コロナ渦に導入したであろう体外式人工肺エクモが、今や影薄く奥のほうに追いやられている。  「お疲れ、彩香」  葵が天使のように出迎えてくれる。  回収してきた、栄養剤の患者ラベルを二人ではがしていく。  「雑用ばっか」  「下が入っても辞めていくからね」  「山口とさ、パートのおばさんたちのいじめがえぐいからね」  「パート連中はまじやばい」  「今日も、岩田さん『男に媚び売ってる場合があったら仕事しろよ』ってかんしゃく起こして、釜の中蓋を平田さんに投げつけていた」  「まじ?」  「平田さん飯炊くのも忘れて、調理師たちと飲み会の計画立てているんだもの」  「平田さん…この前もバイトの男の子誘ってたよ」  「好きだねー」  「だね」  「彩香、仕事アフター時間ない?」  「特に予定はないけど…」  「お姉ちゃんがさ、彩香にフットネイルさせてくれないかって」  「いいの?」  「もちろん。夏のデザインの練習をさせてほしいんだって。私は昨日やってもらった」  「わー、見せて見せて」 「帰りにロッカーでね」 葵のお姉さんは、ネイリストだ。練習台に度々声をかけてもらえる。  職場では、ハンドネイル、アクセサリー類、などのおしゃれは禁じられているので、足だけのネイルでもめちゃくちゃテンションがあがる。  スプニールという名の小さなサロンの扉を開ける。  髪を後ろでまとめ、ベージュの半そでワンピース姿の女性が奥から出てくる。  胸元に、金色の『須藤瑞希』ネームタグが光っている。  「あぁ二人とも、今日はありがとう。彩香ちゃん突然ごめんね、今日は大丈夫だった?」  「はい、お願いします」  ウォーターバスに足を突っ込みながら、彩香は夏のデザインカタログを眺める。  さっきロッカーで葵が見せてくれたネイルが載っている。  ひまわりが親指の爪一面に、パッと咲いたアート。真夏のパワーたっぷりの、見ているだけで元気がもらえそうなデザインだ。  そして彩香の目に留まったのが、南の海を思わせる水色の海。  「これ素敵…」  瑞希さんがカタログをのぞき込む。  「涼しげな水色が、彩香ちゃんにぴったりだね」  足を包む瑞希さんの手がひんやり、しっとりしていて気持ちがいい。甘皮が面白いほど、ポロポロと剝がれていく。  「彩香ちゃん、いつも葵をありがとうね」  泡のはじけるような声で瑞希さんは言う。  「私の方こそ。葵にはいつも助けてもらって…」  「あのね、葵、最初の頃は辞める辞めるって帰ってくるなり毎晩泣いていたのよ」  「私も同じようなものです。葵がいなかったら、あの職場は耐えられなかった」  爪の中に、サンゴの砂浜が広がる海が現れる。  「女の職場は大変よね。この世界もドロドロよ」  「えっ、こんなに穏やかな気持ちにさせてくれるサロンがですか?」  「個人経営する前にいたサロンは、もうすごかった…」  「お客さんを幸せにできる素敵なお仕事なのに、そんな雰囲気の中では辛すぎる」  「本当にね」  爪の生え際にシルバーの貝殻、小さな真珠が乗る。  「かわいい」  飲み物を運んできた葵が目を輝かす。  「彩香の雰囲気にぴったり」  「でしょ、私もそう言ったのよ」  葵が、琥珀色したグラスをテーブルに置いていく。  「どうぞ」  「ありがとう」  ダージリンティ、レモン、ミントの葉の香り。  「どう?レモンと、ミントを加えた葵オリジナルティは」  「めっちゃ、おいしい」  「足はかわいくなったし、少しは元気が出たかな?」  葵がほほ笑む。  彩香が、昼休憩も取れず仕事に追われているとき。  葵は、そっと白衣のポケットにお菓子を忍ばせてくれる。  調子が悪い時は、率先して仕事を変わってくれる。  叱られてバツが悪いときは、その場をすぐに離れてくれる。  葵は、程よい距離を保ちながら、彩香がその時に一番望むことをしてくれる。  元気がないことも気づいていたんだ。  「ありがとう…」  涙がこぼれる。  「げっ、泣いた。どんなに山口に叱られても泣かない鋼メンタルの彩香がっ」  葵が笑う。  マスクを外して、同じものを飲む瑞希さんも柔らかな声で笑う。  整った上品な顔。彩香がイメージする、サロンにいる美容部員さんそのもの。  「鋼って、私を何だと思ってるのっ」  小さなサロンに三人の笑いが響いた。  出勤前。車にエンジンをかけると、お母さんが叫んでいる。  「何?」  「生徒会長から電話ー」  いったん家に戻る。  お母さんは、小中高と生徒会長を務めた拓也を生徒会長と呼ぶ。  子機を受け取る。  「もしもし」  「出掛けに悪い。携帯鳴らしたんだけどつながらなくて」  「バックに入れっぱなしで気づかなかった」  「車のバッテリーが上がっちゃって。家の車も出払っていて、悪いけど彩香の車にケーブルつながせてもらっていい?」  「今日、棚卸で急いでいるの。時間ないから、家の前に出ていて。拾って行くから」  「悪い。帰りは?」  「送るよ」  「帰りに飯おごる」  「ありがと。お母さんに晩御飯要らないって言っとく」  電話を切り、母にご飯の断りを入れて車に戻る。  同じ学区の拓也の家は、通勤途中にある。  フラワーガーデンのように花が咲き乱れている家の前に、拓也が立っている。  「サンキュ」  助手席に乗りながら、何かを拾う仕草が視界に入る。  「彩香ってタバコ吸うの…?」  驚いた顔の拓也。  「あー。うーん。たまーに」  いたずらが見つかった子供の気分。バツが悪くて仕方ない。  「知らなかった…」  「喫煙のことは、誰にも言っていないもん」  拓也からタバコをむしり取り、ダッシュボードに放り込む。  今日の拓也もジーンズにシャツ、ずいぶんラフなかっこうだ。  「実験室ってそんな学生みたいなかっこうでオッケーなの?」  「うん、基本身内以外の人に会うのってMR(医薬情報担当者)くらいだし。上から白衣着ちゃえば大概オッケー。だいたい、ラボにいれば動物の飼育や、実験で汚れるし。学生みたいなかっこうって、俺一応学生だよ?」  「そうだった」  「迎えは何時?」  「水曜会議の日で誰もいないし、実験室来る?今日は、標本染色しているから、顕微鏡のぞかせてあげるよ」  「別に、染色にも顕微鏡にも興味はないんだが…」  「見たいって言えよ」  「はいはい、見たいです(棒)」  防寒具を着用。  マイナス二十度の冷凍庫内で葵と手分けして冷凍品の数を数えていく。  息を吸うたびに肺が凍り付きそうだ。  体の動きが鈍くなる。  「彩香…私もう…」  葵がツルツルに凍り付いた床にひれ伏す。  「バカッ、寝るんじゃない」  ピシピシとその頬を叩く。葵がうっすらと目を開ける。  「あぁ、彩香…私のことは置いて行って構わない…今までありがとう」  ガクッとうなだれる。  毎月恒例〝雪山遭難編〟。茶番劇を行った所で、最難関の冷凍庫の棚卸が終わる。  「冷凍庫、冷蔵庫、食品庫…どこから始めるのが肉体的に一番楽なんだろ」  常温食材の棚を見上げ、葵が真剣に考えている。  「真冬の、朝一冷凍庫はやばいよ」  「あー分かる。あれは死ぬ」  「夏場も、一番暑い時間帯に冷凍庫はするべきだ」  「そうなると、冷凍庫は一番最後が理想だね」  「それで、あまり急激な温度差を付けるのも体にはきついから、常温、冷蔵庫、冷凍庫順が良いと思われる」  「さすが、彩香先生。では、次回からその順で」  「らじゃ」  棚卸表に在庫を書き込みながら、頭の中で、午後からの仕事の流れをまとめていく。  「先入れ先出し」  葵が呟きながら、賞味期限の早い順に食材を並べなおしている。  「お終い。さ、昼ご飯にしよっ」  「私、今日検食係だ。取ってくる」  配膳室に行く。配膳車の中には、彩香の検食が冷温に分けて保管されている。  トレイを持って栄養課に戻る。  「今日はアタリだね」  目の前で冷やし中華を食べる葵がささやく。  蒸し魚のあんかけ。じゃがいも煮。エノキとわかめの酢の物に、みかん缶。  異物混入の有無。量の適切性。異味、異臭の有無。味付け、色合い、香りなどのチェックを、患者さんに食事が提供される前に、検食をして確認する。  ちなみに、蒸し魚のあんかけ人気度は、この病院のワースト一、二を争う。  魚臭さがうまく消せていないうえに、あんかけのとろみもあんに含まれている野菜からの水分で離水してしまっている。味付けも薄い。うーん、これは魚の匂いがつらい患者さんにはきついかもしれない。  じゃがいもと、人参、玉ねぎだけで煮た、じゃがいも煮や、酢の物の方がよっぽどおいしい。  検食簿にチェック入れながら、大量調理の難しさを思う。どうしても、野菜からの水分が大量に出やすい。それは、テクスチャーを悪くする。  「伊東さん、午後からはおやつレクのシミュレーションでしょ」  「はい」  「材料入荷した?」  「はい、先ほど納入されました」  斎藤課長がうなずく。  七夕の小児病棟用のおやつを試作するのだ。  頭に白いフードをかぶり、サロンを巻き、コロコロテープを体全体に転がす。  手洗い三十秒を二回。アルコール消毒。そして、厨房に立つ。  前回の、おやつレクは五月のこどもの日。  彩香は張り切っていろいろな試作をした。  春巻きの皮の中にチョコを入れて、兜型に折って焼いた兜パイ。  餡を入れたたい焼き。  生クリームとカットフルーツの入った鯉のぼりクレープ  どれもこれも、手間と時間と材料費が掛かりすぎると、ことごとくボツにされ、結果的に鯉のぼりのクッキーに、チョコペンで目玉と、うろこを描き入れたものになった。  コンロに二つの鍋をかける。一つが、かき氷のブルーハワイをベースにゼラチンを溶かしたゼリー液。もう一つが、牛乳と砂糖を入れてゼラチンを溶かしたミルクゼリー液。  ミルクゼリーの方は、カップ三分の一まで流しいれ、ブルーハワイはホテルパンに入れ、ブラストチラーで一気に冷やす。  その間にキウイ、オレンジ、スイカのフルーツを星形にくりぬく。  冷え固まったカッブのミルクの上に、ブルーハワイのゼリーをクラッシュしてのせる。そして、フルーツの星をトッピングしていく。最後にサイダーを注ぐ。  視線を感じて横を向く。  パートの岩田さんが、じーと彩香の手元を見ている。  この前、平田さんに釜の蓋を投げつけた事件の噂を聞いたばかりだ。  警戒しろと、脳が指令する。  突然マスクを外し、口を開ける。  銀歯で光る口内。  ゼリーを指さし、自分の口を指さす。  あぁ、試食がしたいんだな。  「すみません、岩田さん。まずは、斎藤課長と山口さんに試食をして頂いてからでなくては…」  「つまんない子だね」  怒って去っていく。  調理長の石田さんが大声で笑う。しゃがれた声で、  「伊東っ!あんな、くそばばあになるなよっ」  と笑う。  栄養課のテーブルには、彩香の作った試作がキラキラと輝いている。  「めちゃきれい」  葵が感心する。  「おやつ作らせたら本当にこの子は器用ね」  斎藤課長がほほ笑む。  「牛乳アレルギーはどうしましょう。今いる患者さんの中でも、乳製品アレルギーの子は一人、二人だから、ミルクゼリー省いて、ブルーハワイゼリー半分、フルーツ多めに乗せましょうか」  「それでいいと思う」  斎藤課長がうなずく。  「おいしくできているよね?山口さん」  斎藤課長の促しに山口がしぶしぶ頭を下げる。叱るときは、声を荒げるくせに、褒めるってことは絶対にしてくれない。  葵もおいしそうにほおばっている。  「あの…先ほど岩田さんが食べたそうだったんですけど…」  「いいよ、スタッフ全員分+余りもあるから、試食してもらって」  「ありがとうございます」  パートのおばさんと仲良くするには、相手の望みをなるべく受け入れてあげることだと、この三年間で身をもって勉強した。  ラップをして、『皆さんご試食お願いします』の張り紙とともに置いておく。  一つはお持ち帰りでもらう。退勤の時間だ。  打刻をして、帰り支度を始める。  「こらー、またアポをとらないでぇ」  妙にかわいい声が背後からかかる。この声は…。  恐る恐る振り返る。  出た、薬理学の教授秘書。  前回見た赤いインナーカラーヘアが、ブルーに変わっている。  「インコみたい」  思わず口をついで出てしまった。慌てて口を押える。  「何だって?」  つり目がさらにつりあがる。  「ごめんなさいっ。あの私失礼します」  エレベーターに向かおうとする彩香の二の腕を握る。  「何ですか?」  「うふふっ。君は、栄養課の伊東彩香だね…」  「どうして私の名前を…」  「そして、君の上司は山口貴美子」  「何で知っているんですか?」  「伊東、入職そうそう、指を縫ったでしょ?」  「なぜそれを…」  「だって、私、貴美子とお友だちなんだもん、うふふっ」  最悪だ…頭を抱える。  あれは、彩香が入職したて、ようやく一週間がたった日だった。  集団給食では、業者から納品された物が汚染作業区域の検収室に、野菜類は下処理室でカットし、非汚染作業区域の調理室に送られ料理される。  下処理室での作業をしていた時だった。  木下さんという初老の男性に教えてもらいながら、人参を乱切りしていた。  木下さんのあまりに華麗な包丁使いに彩香の負けん気がムクムクと湧き上がり、牛刀をやみくもに動かして対抗した。  「慌てなくていいからなぁ。ゆっくり確実にしろよぉ」  木下さんののんびりした声が彩香に届く。  「はいっ」  返事をしたものの、包丁のスピードを落とす気はさらさらなかった。ゴットン。  白いまな板と、乱雑に切られた人参が血に染まる。指先から勢いよく血が噴き出している。  どっくん、どっくん、と小指に強烈な痛みが襲う。背筋が凍りつく。  傍らにあった台ふきを小指に巻き付ける。  どうしよう。  どうしよう。  彩香の包丁の音が止んでから、時間が経ちすぎている。  木下さんがやってくる。  「おーっ、どうした。大丈夫か?」  自分も血で汚れてしまうのに、少しも嫌なそぶりを見せずに、彩香の指に巻かれた台ふきを外す。  木下さんが掛けていた眼鏡を、額に上げて、目を細めて傷口をのぞく。  「皮一枚残っている。大丈夫だ」  優しい目でうなずく。  「ほら、手を頭上に揚げて…」  木下さんに連れられて栄養課の事務室に行く。  「わりーな、山口さん。一年生、ケガしちまった」  検食簿を付けていた山口の眉が上がる。  「何したの?」  「すみません、人参切っていて」  「見せてみなさい」  山口が台ふきをめくる。  不気味な笑みを見せる。  「救急に連絡入れるから、すぐに行きなさい。コロナで救急も大変だから二重マスクして…あーマスクマスク」  山口がマスクをしてくれる。  木下さんが、頭のフードを取って、フェイスシールドをはめてくれる。  「一年生、心配するな。片付けはしといてやるからな、じゃ山口さん。おらぁ下処理の続きあるから戻るわ」  「木下さん、すみませんでした」  山口とともに木下さんに頭を下げる。  とぼとぼと、救急外来に向かう。  コロナ禍で、外来患者の受け入れを減らしているものの、患者はいる。  白衣を血で染め、フェースシールドを額から垂らし、頭上に血に染まった台ふきを掲げながら歩く彩香は、外部の人から見ても確実に院内のスタッフであり、かなりのインパクトを放ち、注目を浴びている。  吸水力の限界に達した台ふきは、生暖かくずっしりと重みを増し、吸収しきれなくなった血液が彩香の腕から脇に流れる。  血液成分である鉄の匂いに包まれる。その匂いを吸い込むたびに、気分が悪くなる。  「台ふき捨てちゃって大丈夫?」  エンジ色のスクラブに、『鳥居淳也』のネームプレートのかかった医師が彩香に確認をとる。  「はい大丈夫です」  「縫うの、初めて?」  「はい…」  精製水で手の血液汚れを洗い流してもらう。  「麻酔痛いよ」  「えっ?」  顔がこわばる。  「でも、麻酔しないと、縫合もっと痛いよ」  「麻酔頑張ります」  チクーッ。  切り傷とはまた種類の違う、鋭利な痛み。  グッと耐える。  「はー。すごく痛いです」  ため息をつきながら、弱々しく感想を述べる。  鳥居先生のマスクが膨らむ。アハハハハ…マスクの中で大笑いしている。  「もう数か所打つけど大丈夫?」  「少しお待ちください」  ふぅー…深く息を吐く。  「お願いします」  指を先生の前に差し出す。いってぇ…目をつぶり、右手で股をつねる。  「一年生?」  弓型の針に糸を通しながら、楽しそうに鳥居先生が聞く。  「はい」  「何をしてこうなったの?」  「人参を乱切りしていて…」  「指まで乱切りしちゃったんだ」  ククク…ッ。肩が震えている。  先生、手元が狂います、笑わないでください。  スルスルと糸の這う感触が気味悪い。  包帯で巻かれた小指。  痛み止めと抗生剤を処方してもらい、救急を後にする。  そこからが、地獄だった。  ケガは給食従事者にとっては痛手だ。  黄色ブドウ球菌が傷口から食事に感染してしまうと食中毒の原因となるため、ケガした人は現場に足を踏み入れることができない。  彩香はケガが治るまで、山口の雑用をして過ごした。  ケガをするのは、気の抜けている証拠。  あなたの抜けた後のフォローにみんなが迷惑することになる。  チクチクと、顔を合わせば嫌味。  気がおかしくなりそうだった。  秘書が思い出したのか、ブーっと吹き出してケラケラ笑っている。  「おっ」  実験室から拓也が顔をのぞかせる。  「こらー!伊藤と伊東っ!て、おんなじ〝いとう〟なのね。紛らわしい。…もう、伊藤君、彩香との逢瀬に実験室使わないでよね」  「逢瀬って…」  彩香が苦笑いする。  「桜さん、教授に何か頼まれていたんじゃ…」  「あーん、そうだった。彩香の相手をしていたらすっかり忘れてたぁ。お茶、お茶…」  給湯室に消える。  「拓也、私、駐車場にいるわ」  「あぁ、俺もすぐ行く」  山を切り開いて建てられたT医科大学附属病院は木々に囲まれている。  実験棟を出る。裏手に実験動物施設があり、犬、猫に、モルモット、ハムスター、マウスなどが飼育されている。  小道を歩いていくと、右手に少しだけ開けた場所が広がり、実験動物慰霊碑が建っている。一年に一度、慰霊祭が行われる。  さらに進むと、学生棟。医師、看護師の卵たちの大学だ。  学生棟に近づくと、どこからともなく野良猫が姿を現す。  しかし、ここは大学附属病院。医師や、医師の卵、研究を生業としている猫好きが、こぞって避妊手術を施す。そして、猫に癒しを求めた医療従事者が、餌をもって集まる。  そんな甘やかされた野良たちは、彩香にまでも餌を求めてにゃあにゃあと駐車場までくっついてくる。  茶色の猫が彩香の足に絡みつく。茶色だから『ちゃーちゃん』と名付けられた子がコロンと横になる。腹部をなでてやる。  別の三毛猫が、彩香のカバンをクンクン嗅ぐ。  「何もないよ」  三毛の頭をこちょこちょ指先でいじくる。  「ごめんな、けっちぃお姉さんで」  背後から声がする。無視して猫をなでる。  「いいかいお前たち。後ろのお兄さんにはつかまるんじゃないよ。運悪く捕まってしまったときは、たちまち脳梗塞にさせられちゃうからね」  「やめろよ、人聞き悪い」  急に立ち上がり、立ち眩みがする。  「大丈夫か」  拓也の腕が、肩を支える。  「ありがとう、大丈夫」  こめかみをもみほぐす。  「さ、行くよ」  車を出発させる。  「何食いたい?」  「背油がいっぱい浮いた豚骨ラーメン」  「おっ、気が合うねぇ。じゃ、豚希だな」  拓也がダッシュボードを開ける。  「一本吸っていい?」  「優等生。止めなさい」  「軽っ。これってニコチン一㎎?」  「そう」  窓を開ける。  「秘書、桜っていうんだ。名前だけはかわいい」  ハハッと煙を吐き出しながら笑う。  豚希のランチ時は、外まで順番待ちのお客であふれているのに、十八時を回ったばかりは、まだ駐車場の車も少ない。  すぐに、席に案内される。  パーテーションで仕切られた座席に向かい合って座る。  足を投げ出す。  店員が、グラスを持ってオーダーに来る。  「豚希ラーメンでいい?」  「うん」  「豚希ラーメン二つ。餃子は?」  「いる」  「餃子二人前。他には?」  「杏仁豆腐」  「では、それ一つ」  店員が、床に飛んだ油をネチネチと踏みつけながら厨房に戻っていく。  「何のお茶?」  グラスを覗き、拓也がアクリル板越しに問う。  「ほうじ茶。緑茶の一種で、焙じてあるの。香ばしくない?」  「香ばしい…」  氷でキンキンに冷えたほうじ茶を喉に流す。  ラーメンと餃子が運ばれてくる。  蓮華の中に麺とスープを入れ、フーフー息を吹きかけ口に含む。ギトギトの濃厚スープに細い麺が絡み合う。  餃子をあらかじめ箸で半分に割っておいて、餡を冷ます。  「今日私、昼の検食係だったの」  どんぶりに、ニンニクだの、唐辛子味噌を目いっぱい入れて味変している拓也。  「メニューが地味過ぎて、体がジャンクフード欲しいって一日騒いでいた」  少し冷めた餃子をほおばる。  「どんなメニューだったの?」  今日食べた昼ご飯を思い出す。  「蒸し魚のあんかけ(離水薄味)、じゃがいも煮、酢の物、ミカン缶」  「小児病棟にもそれが行くの?」  「普通食だからね」  「子供にそれは…」  「と、私も思う」  杏仁豆腐が届く。  思い出す。  カバンから、七夕ゼリーを取り出す。  パーテーションの上から拓也に渡す。  「今日のおやつレク試作品。食べてみて」  「おっ」  拓也の目が輝く。  「キラキラだ」  「天の川…七夕だからね」  航輔と、一年に一度でも会えたらいいのに。  …後悔ばかりで胸が苦しい。 ※※※  高校卒業後、彩香は管理栄養士養成学校へ進学した。  航輔は、理工学部のある大学に通っていた。  初めての夏休み。航輔が大学の友だちとバーベキューをするらしく、それに彩香も誘われた。  航輔のお母さんの車を借りて連れてきてもらった河原には男女十人ほどの航輔の友だち。  最初から違和感があった。  話の輪に入っていけないのだ。  入ろうとすればするほど、盛り上がりの空気を下げ、彩香はなんとなく蚊帳の外に追いやられた。  自分は人とのコミュニケーション能力がこれほどまでに低かったのか。  航輔と戯れる学友を眺めながら途方に暮れた。  二十歳に満たないはずなのに、アルコールを堂々と摂取し、酔っ払い航輔に触れてはしゃぐ女子たち。大声で笑い川に飛び込む男子たち。  帰りたいな。そう思った。帰ろう。  航輔の目を盗み、その場から駆け出した。  スマホのナビで駅を探し、車が彩香の横を通り過ぎる度に、航輔じゃないのかと怯え、二時間も歩き続けて最寄りの駅に着いた。スマホには、航輔からの着信、ラインが次々に届き、思わず電源を落とした。  夜になって家まで来た航輔は能面のような表情で、その下には怒りを隠していた。  「どうして勝手に帰ったの?」  「ごめん」  「連絡くらいするものじゃない」  「うん」  「行方不明になったと思って、どれだけ探したか…」  深いため息をついて航輔は帰っていった。 ※※※  「どうしたぼんやりして」  拓也が、空になったゼリーのカップを置く。  「感想言って」  「あ、うまかったです」  「帰ろっか」  拓也の家の横にハザードランプを灯しながら停車する。  「お客様、到着しました。フラワーガーデン伊藤家です」  「なんだそれ」  拓也が降りる。つるバラのアーチの中から、拓也のお母さんが猫を抱いてやってくる。  「あっ」  運転席から飛び降りる。  「こんばんは」  「彩香ちゃん、今日はありがとう。助かったわ」  「こちらこそ。拓也…君に、ラーメンご馳走になりました。ありがとうございました。それより、その子」  「えぇ、鼻くそよ」  「きゃー、鼻くそちゃーん」  彩香が鼻くその頬をモシャモシャと触る。彩香の乱暴なお触りにも、ゴロゴロと喉を鳴らして喜んでいる。  この子は小学校の頃に、伊藤家にいた子猫だった。  拓也の家に、鼻の下にほくろ模様がある子猫がいると噂になり、その猫に誰かが(多分男子)鼻くそと名前を付けた。  彩香も何度か鼻くそに会うべく、拓也の家を訪問した。  あの猫がまだ健在だったなんて。  「何歳になるんでしたっけ?」  「もう十六歳のおばあちゃんよ」  「十六年間ずっと、鼻くそって名前で通したんですか?名前変えなかったんですか?」  恐る恐る聞いてみる。  「ほんと、小学校のガキにいいように名前つけられてかわいそうな奴だったなぁ」  拓也が鼻くそをなでる。おばさんが、上品に笑う。  部屋についてスマホを確認する。  グループラインが届いている。  美波「夏だ、海だ、浜風に泊まろう。両親が遊びにおいでと言ってるよ。今週末金曜日の夜に待ってます」  まりも「行きますっ😄」  乗り遅れた!  彩香「誘ってくれてありがとう。お邪魔します♡」  宴会場の隅っこ。  テーブルには、ブルーベリーの食前酒。タコとセロリのサラダ。刺身の盛り合わせ。冷やし茶碗蒸し。ナスとズッキーニのグラタン。夏野菜の天ぷら。浜風名物巨大エビフライ。  彩香と、まりもが目を輝かせる。  「二人とも、ビールでいい?」  「いいでーす」  『浜風』の青い文字の下に、波のデザインのエプロンを着用した美波がビールを運んでくる。  「まりも、ビールの栓抜いて。彩香は、コップ並べて」  「はい、若女将っ」  「若女将言うなっ」  「さ、食べよ、食べよ」  「お腹ペコペコ」  「ウイーッ」  「カンパーイ」  まりもが、三口でビールを飲み干す。  「彩香♡」  グラスを突き出す。ビールを注ぎながら、  「すごいね、あなた…」  あきれると、拳を掲げ再びビールを同じスピードで飲み干す。  「喉の渇きも癒えたことだし、浜風名物のエビフライを早速いただきたいと思います」  まりもが突然、流暢な食レポ口調となる。  箸で持ちきれない大きなエビを指でつかむと、タルタルとソースを大量にかけ、「いただきます」口を上に向けてエビを迎え入れる。  目線は、彩香と美波に。  「若女将っ!肉厚プリップリ。エビの味が濃いですねー」  タルタルとソースで口の周りをベタベタに汚しながら頬に手を当てる。  美波と笑い転げる。  「まりもは食べ方汚いから、リポーター失格だわ。彩香やってみて」  笑い涙を拭きながら美波がリクエスト。咳ばらいをする。  「この、地場産タコとセロリのサラダをいただきたいと思います」  セロリとタコをつまみ一口。口に手を当てながら、咀嚼をして嚥下する。  「マダコのうま味アミノ酸と、セロリのグルタミン酸が調合されて最高に美味です」  「意味分かんねぇ」  二人が大口を開けて笑う。  冷えた茶碗蒸しには、トマトと、オクラと、エビの上に、ミョウガと青しその香味野菜が乗り、さっぱりと食べられる。  ズッキーニとナスのグラタンには、トマトとひき肉のミートソースがたっぷり。ほんのりタイムの香りがする。  「まりも…。それで、その奇抜なヘアーは?」  「あ?これ?いいでしょ。先輩がしてくれた」  美容専門学校を卒業後、地元のサロンで働いているまりも。  ツーブロックヘアーの下半分はすべて刈り上げられ、上半分は短髪にして鮮やかなグリーンに染まっている。  「まりもだ…」  「阿寒湖のまりもだ」  畳に伏して笑う。  「はい、ご飯ね」  美波のお母さんが、ショウガの炊き込みご飯にアサリ汁。漬物、メロンをテーブルに置いていく。  「それからこれ」  小脇に抱えていた、折りたたまれた白い生地を、彩香と、まりもに渡す。  「これは…」  まりもと目を合わす。  このパターン過去にも何度か出くわしている。  生地を広げていくと、『浜風』の青い文字の下に、波のデザインが現れる。  浜風のエプロン。  「食べ終わってからでいいからね…厨房に来てね」  「やばっ、これぞ浜風だわ」  まりもが、去り行くおばさんの背中を見ながら嘆く。  何度も同じ経験をしているのに、学習能力がなくパブロフの犬にもなれない二人。  それだけ、浜風の料理が、居心地が、魅力的なのだけど。  「ごちそうさまでした」  三人が、お揃いのエプロンを着用し、自分たちが食べた食器を厨房に運んでいく。  奥で美波のお父さんが包丁を研いでいる。おじさんは板前だ。  「おじさん、ごちそうさまでした」  「おう。うまかっただろう」  四角い顔がほころんでいる。  「それはもう」  「やっぱ、浜風の料理は最高っすね」  まりもが、つやつやした頬をほころばせながら言う。  おばさんが番重と、ざる、バケツを押し付けながら、  「まずは下膳から始めてね」  宴会場に戻る。  番重に、空になった食器を入れていく。  ざるをかましたバケツには、残り物を捨てていく。  汁物の残りも、ここに流せば、ざるで固形物をキャッチし、汁はバケツに流れる仕組みだ。  三人は、手慣れた手つきで宴の後始末をしていく。  「久しぶりだけど、体が浜風の仕事を覚えている。こんなに動けてしまうオレが怖い」  まりもが、食器でいっぱいになった番重を持ち上げる。  「阿吽の呼吸で仕事ができるのが、このチームワークのすごさなんだ」  美波が感心する。  「それな。じゃ、厨房に置いてくる」  たくましい肉体が、ドスドスと宴会場を後にする。  「勇ましい…」  彩香がその背中を見て驚愕する。  「まりも、怪力度さらにパワーアップしているね」  美波が吹き出す。  「彩香、この次は座布団頼んだ」  「オッケー」  バケツを持ち、美波も宴会場を後にする。  誰もいなくなった会場の座布団を集め、部屋の隅に積み上げていく。  ふすまが開き、顔をのぞかせたまりもがバッファローのように突進してくる。  「あー、こらっ!」  座布団のタワーにジャンプしたと思ったら、タワーは傾き、まりもとともに崩壊する。  これは、浜風で必ず行うまりもの儀式だ。  「このバカちん」  彩香が手にした座布団をまりもの顔に投げつける。  まりもが、座布団を投げ返す。  「少しは大人になろ、ね」  その座布団をもう一度まりもの顔にたたきつける。  「オレは、いつまでも少年の心を忘れないのよ」  まりもが立ち上がる。しまった。火をつけてしまった。  まりもの目がギラギラと輝き、口は薄ら笑いを浮かべている。座布団を両手に持った筋肉質の腕があがる。彩香に座布団が飛んでくる。さっきとは比べ物にならないほどのスピードと威力。体を翻し座布団から逃げる。落ちた座布団を拾う間もなく、次の座布団が彩香めがけて飛んでくる。  「待った、ごめん、ギブアップ」  彩香が叫ぶ。  美波が戻ってくる。  「こらぁ!何してるのっ。ストープッ」  「はい、まりも片付けるよ」  「まったく目を離せばあんたたちはっ。ここは私一人でいいから、二人は厨房で洗い物っ」  追い出されてしまった。  厨房のシンクには、食器が手つかずのまま積みあがっている。  彩香が食器を軽くこすり、横のシンクに入れていく。それをまりもがすすぎ、食洗器に並べていく。  おばさんが、食洗器をかけ終わった食器を乾燥庫に入れていく。  「オレ、アライグマになったみたい」  シンクにはったお湯の中で皿をこねくり回しながら、まりもがぼやく。  「お風呂空いたよー」  美波の声。  「こっちは、ほとんど片付いたから行ってらっしゃい」  おばさんからの釈放指令が出た。  やっと、解放された。  「労働の後の体に染み渡るぅ」  浴槽のへりにつかまり、うつぶせに体をぷかぷか浮かべながら、まりもがうなる。そんなまりもの尻のふくらみが、湯面に島のように浮かび上がり、滑稽さに彩香と美波の笑いが止まらない。  「思い出した。修学旅行でさ、女子の露天風呂覗いた男いたよね」  「いたいた」  「あれ、あしか志賀だったよね」  「犯罪じゃん」  「あいつ死刑だな」  「志賀、うちの病院で看護師しているわ」  「げっ、まじで?あいつの下心は分かっている。婦人科目当てで看護師になったな」  「いや…婦人科にはいなかったな。そうだ、脳外科の階にいたわ。一度、食介しているとこ見たことある」  「しょくかい?」  「うん。食介…食事介助。脳卒中を起こしたりするとね、飲み込むことに困難を生じる嚥下の機能障害になってしまうことがあって、誤嚥を起こさないように介助が必要なの」  「あの、志賀がそんな尊いことを…」  「だめ。志賀にだまされるな。あいつは、のぞき魔だよ。エロだよ。看護師になったのも、婦人科勤務という野望があったからさ」  「それで美波…。ずっと思ってはいたんだけどさ、この浴衣なんとかならない?食事、風呂で最高な気分に上げて、これで落とすって残念過ぎだよ。もう少し改善の余地はないの?」  白地に『浜風』の文字が散りばめられた浴衣。  「なしっ。「お客様、この中からお好きな浴衣をお選びください」なんておしゃれな演出は、ホテルや旅館に譲っているの。その分、うちは良心的なお値段出しているんだから、浴衣はこれで十分。だいたい、まりもにピンクの花柄の浴衣なんて似合わないでしょ」  「それはそうだ」  「あー、疲れたぁ」  彩香が布団に転がる。  「あー私、ビールとつまみ持ってきたんだった」  「オレも、オレも」  「当宿、持ち込みは遠慮しておりますが…」  「持ち込みしない客なんているの?」  「ほぼほぼいない」  言い切る美波。  机に備えてある湯飲みにビールを注ぐ。  「では、改めてかんぱーい」  「高校ん時は、くそ楽しかったけどさ、社会人の自由には勝てんな」  あたりめをしゃぶりながら、まりもがあぐらをかく。  「確かに。車乗れて、酒飲めて、外泊できて…しかし社会って厳しい」  「美波は偉いよ。平日は会社行って事務員しながら、休日は家業手伝って」  「我が家訓は、働かずもの食うべからずだから」  「美波の家らしいわ」  「あー、やだな。明日、仕事だよ」  言った瞬間、山口の顔が頭に浮かびズーンと気が沈む。  いつまでも、高校生感覚のまま友達とじゃれて笑いあい、生きていけたらどんなに楽しいだろう。しかし、大人になっていくというのは、いつまでもその感覚のままでは生きてはいけないのだ。  「オレも仕事よ」  「私も」  ビールのピッチが上がる。  「彩香のフットネイル夏らしくていいじゃん」  「これね、同僚のお姉さんが夏の練習台にって施術してくれたの」  「昨日、美容室に連絡くれた須藤葵さん?」  「そう、そのお姉さん」  明日、結婚披露宴に参加する葵に、まりもの美容室を紹介していたのだ。  まりもがまじまじと爪を見る。  「この施術はスプニールの瑞希ちゃんだね」  「なんで瑞希さんを知っているの?」  「美容業界狭いもん。須藤って名字のネイリストで、この技術は瑞希ちゃんしかいない」  ほんのりまりもの顔が赤くなる。  「いいな、いいな、彩香」  「痛いっ、離してっ」  まりもの脇に頭を抱え込まれて、彩香はジタバタと暴れる。  「瑞希ちゃんきれいだし、優しいし」  「まりもって同性愛者?」  美波っ。ついに聞いた!彩香が耳をそばだてる。  これは、高校のころから、まりものいないところで二人が疑問視してきた案件だ。彼女は、性別は女性でありながら、女性の衣類をことごとく嫌い、下着も男物しか着用しない。  自分のことをオレといい、見た目も女性よりも男性にみられることが多い。  「トランジェンダーかと聞かれたらよく分からない。自分が分かっていることは、か弱く、きれいで、優しければ、男の人も女の人もどっちも好きだということ」  「両方好きになれるってこと?」  「うん」  「それって、どっちでも関係も結べるってこと?」  「うん。男の人とならお互い快楽得られるし、女の人ならオレが満足させる自信がある」  「生々しい…」  彩香が額に手を当てる。  「そこんこと、もう少し詳しく」  美波は身を乗り出し、まりもに食らいつく。  「あー!これ以上、オレのプライバシー領域に踏み込んじゃだめ。もう寝るっ」  まりもが布団に潜り込む。数秒で寝息を立て始めた。  「寝るの早っ」  「話、ごまかして寝に入った」  「仕方ない、うちらもねよっか」  二人も布団に潜ったとたん、眠りに落ちていった。  未明になるといつも目が覚める。  そして、現実に引き戻される。目の奥から涙がこんこんと湧き上がる。  彩香は枕にひいていたタオルをたたみ、目頭に押し当てる。  胸に深い重力がかかり、気づけばすすり泣いている。  「彩香?」  隣の布団から小さな声がする。  「ん?」  声を殺し、いつもの声で答える。美波の体が近づく。  「大丈夫?」  首を横に振る。  美波の手が伸びてきて、彩香の背中をゆっくりと上下にさする。  ぬくもりに安心した体が、呼吸を整えようと深く息を吸う。  「こーすけことが悲しいんだね?」  うなずく。  「二人の関係がうまくいかなくなってから、何年も経っているのにね」  うなずく。  「あれからさ、彩香、他に付き合った人って…本当にいなかったんだよね?」  大きくうなずく。  「はー」  美波が深いため息をつく。  「きっついね彩香」  美波の声が震えている。背後から、ギュッと抱きしめられる。  同じ陸上部だった美波といると、嫌でも高校の部活を思い出す。航輔の汗のにおい、ハスキーな声を思い出す。また涙が溢れる。  「うちらさ、彩香とこーすけ最高のコンビだと思っていたのに、どこで歯車が狂っちゃったんだろ」  美波が彩香の頭をなでながら、頬杖をついてつぶやく。 ※※※  航輔と大学メンバーの気まずいバーベキューの後だった。  ギクシャクしてしまった関係に航輔から、「話し合おう」言われてと会ったんだ。  航輔の家は、離れに航輔と弟の部屋がある。  航輔の部屋。小さなテーブルをはさんでフローリングに座る。  「私が悪いんだ。新しいこーすけの世界に入り込めなかった自分に混乱していた」  航輔がうなずく。  たったそれだけのことだった。だけども、その世界が彩香を苦しめた。  彩香はぎゅっと口を結ぶ。  「俺が、いつまでも彩香を思う気持ちは変わらないよ」  「だけどっ、彼女目の前にした、あの子たちのこーすけに対する馴れ馴れしさ。それから、こーすけの、女子に対する優しさが気に入らないのっ」  自分が醜いと思う。こんな小さなことで、心が揺れる自分でありたくなかった。  「ごめんね、すごいやきもち…」  猛烈に恥ずかしくなる。  「抱いてもいい?」  びっくりして航輔の顔を見る。  「抱く?」  航輔がベッドを指さす。ドキドキと胸が高鳴る。抱くっていろんな意味がある。ハグだとか、それから…。  付き合って一年。深い関係を持っても、おかしくない。  航輔がそっと、彩香をベッドに寝かせる。  彩香の上に覆いかぶさる。  深いキス。  唇が、首筋を伝う。頭がぼんやりとしてくる。  航輔が彩香の顔をのぞき込む。きれいな目。彩香の上に落ちてくる、サラサラの前髪にそっと手を伸ばす。その指を握られ航輔の口に含まれる。  「大丈夫?」  小さくうなずく。  その手と唇が胸に触れ、それから彩香の下に降りてくる。  しばらく経ち、「ごめん」航輔が謝った。 ※※※  「ってことは…彩香、こーすけと最後までなかったの?」  寝ていたはずの、まりもがむっくり起き上がり、声を上げる。  「あんた、いつから起きてたの」  美波が振り返る。  「いや、ベッドインあたりのくだりから…なんかオレの好きな話題が聞こえてきて、目がさめちゃった」  「それで、なんでこーすけはしなかったの?」  「分からない。でも、私に魅力がなかったんだなって。ほら、よく聞くじゃない?生理的に受け付けない女性に萎えるって」  「萎えるっていうな…」  美波が、がっくり肩を落とす。  「だってこーすけ、この一件からあからさまに私を避け続けたんだよ。私も、すっかり自分に自信がなくなっちゃって…」  「まさか、それっきり?彩香とこーすけの付き合いは」  「まさかのそれっきりだよ」  「それって…、彩香って処女?」  まりもが両手を口に当てながら頬を染めている。  「悪い?」  「まじで?そんな煮えくり返らん男のため、今まで男の誘いすべて断り、操を貫いてきたの?」  まりもの遠慮のない言葉に、美波が頭を抱えている。  「男の誘いって…私そんなにモテないよ?だって、しょうがないじゃん。理屈じゃないんだもん。本能がこーすけを求めているんだもん」  「一人の女もまともに抱けんような、ダメンズなのに?」  「死んだ人の悪口言わないでっ」  彩香の頬をまた涙が伝う。  「今だから話せることなんだけど、こーすけ、うちのICUに入院していたんだ。それでね、拓也が今、大学院生で実験棟にいてね…」  「拓也ってあの彩香の幼なじみ?」  「あの、剣道部主将で、生徒会長小中高やったっていう成績学年トップの秀才君?」  「そう、その秀才君」  「拓也に、こーすけの命の液体が欲しいっていったら、激怒された」  「なんだって?命の液体?」  「それってまさか?精液のこと?」  「うん…」  美波とまりもが口パクパクさせて互いの顔を見合わす。  「大丈夫か?彩香」  「やばいって」  「こーすけので受精を試みようとするつもりだった?」  「自己人工授精ってやつ?」  「まさか秀才君に手伝わせるとか」  「エロすぎてありえん…」  「処女にして受胎って、マリアかよ…」  彩香に聞こえないよう二人、二倍速でささやく会話が、本人にまる聞こえなのだが。  「彩香って秀才君とこれだけ長い付き合いで、恋愛対象には向かないわけ?」  「は?」  「は?ってね。彩香も、今は無理かもしれないけど、徐々に前に進んでいかなくちゃ。こーすけだって…」  「それ以上言わないで。分かってるから…」  「うんごめん。焦らなくていいから。ってこんな話していたら、ちょっと君たち出勤時間は大丈夫?」  「大変っ」  おばさんが用意してくれたおにぎりとみそ汁を急いで食べ、身支度を整える。  「また、来いよ。これ、飯の上に乗っけて食うと夏バテしねえぞ。あと、弁当。仕事頑張れよ」  おじさんが仕込んだばかりの、しそ肉味噌と、昼用の弁当を二人に渡してくれる。この優しさにいつも胸を打たれる。  「おじさん、大好きだぜ」  まりもが勢いよく抱き着く。大将のごっつい体がよろめく。  おばさんが玄関先で見送ってくれる。  「ありがとうございました。お世話になりました」  美波が二人の車に、それぞれの荷物を投げ入れる。  「美波、ありがとう」  「うん、また連絡する」  浜風を後にする。  車窓を全開にする。せみ時雨の大音量、青空にうかぶ綿雲、潮風…夏を一身に浴びながら附属病院に向かう。  土曜日だから、外来は休診だ。  院内のスタッフも少ないし、入院患者さんも外泊で家に帰っている人もいるだろうから、仕事的には楽な曜日だ。エレベーターに乗るのも、スムーズに乗れるだろう。  「シフト上では、出勤になっていたのにっ」  朝から事務所が騒々しい。パートの岩田さんの怒鳴り声と、斎藤課長の冷静な声が廊下に響いている。  この廊下の先に、霊安室があり、栄養課は特に静かに業務を行うように病院事務から常に注意喚起がある。こんな声を荒げていたら、また怒られちゃう。  「おはようございます」  出退勤システムを指でスライドさせながら、背後で起こっているトラブルに聞き耳を立てる。  「だから、シフト変更の旨は連絡帳でも報告していたし、岩田さんのロッカーにも貼ってあったでしょ」  伊東彩香、今日は中番シフト。自分の名前見つけて出勤を押す。  「もういいわ、帰るわっ」  憤慨した様子の岩田さんが、彩香の背後から自分の名に退勤を乱暴に押す。  「まったく、あの人のかんしゃくもどうにかならないものかね」  山口がぼやく。  「伊東さん、おはよう。今日は、嚥下食の準備から始めてね。リハビリ分の用意もよろしく」  斎藤課長が、すぐに切り替えて指示を出す。  「おはようございます。はい承知しました」  異物混入を防ぐため頭にフードをかぶり、コロコロの粘着テープで頭から足先までコロコロをかけて、仕分け室に入る。  厨房で作られた嚥下食が仕分け室にすでに運ばれ、彩香がすぐに仕事に取り掛かれるように準備ができている。  誤飲防止のために、とろみを付けてやわらかく仕上げられた品々を、今日の必要数食器に盛り付けしていく。  ゼリー状に固めた白身魚のにこごりは、メイン皿に乗せ醤油ベースのあんをかける。  とろとろの肉じゃがは副菜。  プルプルに固められたきゅうりとトマトのサラダは、透明の器に入れて中華ドレッシングのあんをかけ冷菜に。  とろみのついた冬瓜スープ。  デザートはプリン。  今日のとろみ食患者さんの献立だ。  他、刻み食、やわらか食、ペースト食、ゼリー食など、食事形態に合わせて食の状態を変え、すべての段階を準備していく。  ふと、昨日浜風で食べた特大エビフライを思い出す。  患者さんが、どうしても特大エビフライを食べたいと要求してきた場合を想定して、どのように作ってらよいか思いを巡らす。  エビをプロセッサーにかけてから、とろみ粉でとろみをつけ、それをいったん凍らせて、衣をコーティングしたのち、スチコンにかけてから、ソースをつける。どれだけ、再現できるだろうか。果たして、喜ばれるだろうか。  自分は、食の機能が落ちてもおいしいものを食べたいと彩香は思う。  生まれてたての、この世の食事がどんなものか知らない赤ちゃんが食べるものとは違い、嚥下食を食される患者さんは大人が多く、幅広い料理を知っているのであろう方達だ。  その患者さんに、満足される食はどんなものかを常に考える。  「ねぇ、彩香ちゃん」  名前を呼ばれて我に返る。  平田さんが立っている。  「はい」  「今日岩田さん間違えて出勤して、逆ギレして帰っていったんだって」  と意地悪く笑う。  「あの人やばくない?この前だって、私に釜蓋投げつけてきたんだよ」  あぁ、その話は前に葵も言っていたな。  「岩田さん、沸点低すぎるって思わない?」  「あぁ…」  「もう、辞めたらいいのにってみんな言っているのよ。斎藤課長辞めさせてくれないかしら」  パートの人間関係はよくわからない。仲良くしているかと思いきや、その人のいない所では悪口のターゲットとなっていることが多々ある。  「それに岩田さん、私のこと絶倫なんて呼んでいるらしくてね」  「ぜつ…?なんですかそれ」  「あー、彩香ちゃんはそんなこと知らなくていいの。とにかく、失礼な言葉よ。やっぱり課長に言うべきかしら?」  「…」  内線が鳴る。助かった。急いで電話に出る。ちなみにパートさんたちは電話が鳴っても、石にかじりついても出ようとしない。  「はい。仕分け室、伊東です」  「伊東さん?そっち終わった?」  「はい」  「じゃ、食札チェックに事務所に来て」  「はい」  いつの間にか平田さんが消えていた。  事務所には、斎藤課長と、山口しかいない。  葵は休み。今頃、結婚式場に向かっているに違いない。  「初めて友達の結婚式に出るんだー」と、一昨日はとっても張り切っていた。髪の毛のセットにどこの美容院がいいか聞いてきたので、まりもの働くサロンを紹介してあげた。気に入るようにセットしてもらえたのかな。  まりもの大胆なヘアースタイルが頭に浮かび、一抹の不安を覚える。  患者一人一人の食札を確認し、アレルギーや禁止されている食材が、献立に含まれていないかをひたすらチェックしていく。  「水分制限、お茶つけない」、「血糖値計測後提供」、「全て一口大カット」等の提供時の注意項目は、蛍光ペンで目立つよう、だれが見てもわかるようにチェックしておく。  事務仕事は寝不足にこたえる。目を大きく見開き、必死にあくびを噛み殺す。  「今、あくびごまかしたでしょ」  山口がすかさず、厳しい指摘をする。  「寝不足?」  「はい…」  「仕事に対する意識が低いんじゃない?」  「すみません…」  あぁ、もう帰りてーよー。  厳しいだけの山口と比べたら実験棟にいる桜の方が、まだ愛嬌があるかもしれない。  そういえば、桜は山口と友だちだなんて言っていたけど…。  「山口さんって…」  ―実験棟の桜さんと友だちなんですか?  口先にまで出かかっていた言葉を飲み干す。  「何?」  眉間にしわが寄っている。  「いえ…なんでもないです…」  「いいなさい」  「いえ…本当に」  「いいなさいって」  バンッと机を両手でたたいて立ち上がる山口を、驚いた顔で斎藤課長が見上げる。  「山口さん?」  課長が制する。山口が我に返る。  「すみませんでした」  指サックをはめた指で食札を数えながら、胸をなでおろす。  山口に、桜の話題なんか出してしまったら、何を検索されるか分かったものじゃない。  チェックの済んだ食札は、階ごとに分け、昼の食事準備まで出番を待つ。  「伊東さん、先日の残食調査結果でたんだけど、見てごらん」  斎藤課長がまとめ上げた資料を手渡す。  「改善点はどこにあると思う?」  院内での給食残食は、階によって特色が現れる。  リハビリ階や、外科は、残食がほとんどない。  逆に、内科や感染病棟、緩和ケアの残食はものすごく多い。  そして、小児病棟。子供の好きな献立と、嫌いな献立が、残食にストレートに影響する。  それから、院内全体において退院による手付かず破棄が目立つ。  「体調による食欲不振で残すのは、仕方ないと私は思うんです」  斎藤課長がうなずく。  「小児病棟の子たちの献立は、大人と同じ内容の普通食が出ているので、子供の嗜好に合った献立改善の必要があると思います。それと、退院した患者さんの食事が出され、破棄するケースがあまりに多いので、これは病棟からのENT(退院)報告を早めにしてもらうことが重要かと…」  「そうだね」  ナースたちも業務に追われると、やはり食事の中止連絡は後回しになる。  仕方ないと頭では分かっていても、またもや業務において優先順位が下になってしまうモヤモヤは拭い去れない。  残食を目のあたりにするたび、食料危機に直面している国々、日本内外において食を満足にとることができない人々を思い苦しくなる。  昨夜、浜風での宴会の片付け時も、客が残していった残飯をみて、同じことをまりもも、美波も言っていた。  「なに?今日の弁当」  山口がのぞき込む。  美波のお父さんが作ってくれたお弁当。  特大エビフライに、オクラの肉巻き、かぼちゃとなすの天ぷら、冬瓜とエビの煮物、夏野菜のゼリー寄せ、梅シロップ漬け、ゆかりご飯。  「すごい…料亭の仕出し弁当?」  斎藤課長も驚いている。  「民宿やっている友だちのお父さんが作ってくれて」  「そのエビフライ…浜風だね」  「そうです」  「今日は、浜風から出勤?」  「はい」  「いいわね、若いって」  山口がため息をつく。  若かろうが、若くなかろうが、『いいわね』と思うことを、山口だって実行したらいいのに。検食を食べる彼女を見ながらそう思う。損な性格だなあと思いながら、オクラの肉巻きを食む。  たいてい民宿の料理は、漁師料理のような大胆さがあり、料亭と比べて味が濃いと思うのだが、美波のお父さんが作るのは会席料理のような、繊細さがあり、食材の味をいかした上品な料理だ。  どれもこれも美味しすぎて顔がほころぶ。ただ今、幸せホルモン、セロトニン分泌中。  仕事上がり。一日ロッカーに入れっぱなしだったスマホが、病院を出たとたんにぎやかになり始め、未読事項を連絡してくれる。  更衣室には、電波が届いていないのだ。  スマホをバックから取り出す。暗証番号を打つとラインが届いている。  木陰のベンチに座って確認する。  葵から。  「まりもさん、キャラ濃過ぎwww惚れそう!かわいくしてくれた。お姉ちゃんともつながっていたなんて世間狭すぎ」  画像1 葵のアップしたヘアー  画像2 葵&まりものツーショット  画像3 友だちのウェディング姿&葵  まりもやるなぁ。我が友ながら誇らしい。  まりもから。  「お疲れ。葵ちゃん来てくれた。さんきゅ」  「おーい」  白衣の拓也が、動物飼育施設から歩いてくる。  手にはゲージ。  「秀才君、また今から動物実験?」  中のマウスをのぞきながら尋ねる。  「誰だよ、秀才君って」  「高校の友だちが、拓也のことそう呼んでいるんだもん」  「やめてくれよ。秀才でもなんでもないし」  困ったような顔をする。  「この子たちはどんな運命?」  「心臓バイパスの手術実験…マウスのバイパス手術ってめちゃくちゃムズイんだぜ」  「血管細そうだしね…拓也がするの?」  「講座の先生がオペする。そうだ、B1実験室にアフリカツメガエルがいるんだぜ。見ていこうよ」  「アフリカ…ツメカエル?」  「うん。まじ、かわいいからさ」  「かわいいの?」  「あぁ」  しぶしぶ拓也の後をついて、実験棟の地下一階に降りる。  「失礼しまーす」  勝手に一室を開けて入る拓也。廊下で立ち尽くす彩香に、  「早く入れよ」  と手招きする。髭面の研究員が、パソコンの前で仕事をしている。  「失礼します」  小さな声で言う彩香を見て、髭面はニッと白い歯を見せて笑う。  「柴田さーん、カエル見せてー」  「どうぞ、どうぞ」  青いポリバケツがドンとおいてある。拓也が中をのぞく。  「おー。元気だな、お前ら」  彩香ものぞく。  ブクブクとエアーポンプが大量の空気の泡を作るその中、目を凝らして見る。  「ウッギャー」  十五センチはありそうな暗灰色の背に白い腹の平べったいカエルがウジャウジャ。テカる体を絡め、ひしめき合っている。  へっぴり腰で転がるように廊下に飛び出す。部屋の中から、拓也と、髭面の爆笑が聞こえてくる。  もう、最悪。最悪。  全然かわいくないし。  彩香にとってのカエル大丈夫レベルは、アマガエルまでだ。  「拓也なんか大嫌い、あの髭面もっ」  一人で怒りながら病院を後にする。  サマーソングをスマホのユーチューブで流しながら家路を急ぐ。  歌詞には、夏の恋だの、青い海だの、花火だの、楽しそうなフレーズが並ぶけど、今年の夏にときめきを感じることができないのは、この世に生まれて味わう最高の虚無感からだろう。  「姉ちゃん、今日の塾の送り迎え頼んでいい?」  家に帰るなり、高三になる弟の雄太にお願いされる。  「お母さんは?」  「ぎっくり腰になって仕事早退してきた。今、整形行ってる」  「また?」  母は一年に一度のペースでぎっくり腰をする。  「ご飯作ってあるのかな?」  「まだみたい」  お母さんからのラインを確認する。  母「彩香、ごめん。職場で腰やった。カツオの刺身は買ったから。家のこと、雄太のこと、お願い」  ため息をつく。同じ栄養士だからわかる。女の職場は、力仕事も他人に甘えられないんだ。  冷蔵庫を開ける。カツオの刺身を確認。  スライスした玉ねぎと、生わかめの上に、カツオの造りを並べ、上から刻み みょうがと小口ねぎを振る。  短時間でできる、ナスとピーマンの揚げびたし、キュウリとかにかまの酢の物、豆腐とオクラのみそ汁を作り雄太に食べさせる。  「あ、これもあったんだった」  バックから、美波のお父さんにもらったしそ肉味噌を取り出す。  「雄太これご飯にかけて食べな。夏バテしないって美波のお父さんが言っていた」  「食う」  どんぶり茶碗で豪快にご飯を口に運ぶ。いいなぁ。育ち盛りの子の食欲は。見ていて清々しい。  「姉ちゃんこれマジ、めちゃうまいぜ」  口に一杯ご飯を詰めながら、雄太が絶賛する。  「一口ちょうだい」  雄太の茶碗から一口もらう。  赤味噌に、大量に練りこんだ青しその葉の香りと、そして鶏ひきのコク。  「これはやばい。私もご飯食べる」  炊き立てご飯にしそ肉味噌をかけてぺろりと平らげる。  おかわりして、今度はニンニク醤油をきかせたタレで肉厚に切ったカツオを食べる。  「姉ちゃんの食欲じゃ、夏バテもしないな」  雄太が笑う。  「あんたに言われなくないよ。雄太は、ニンニクやめときな。塾で嫌われる」  カツオの上に、すりおろしたニンニクを乗せている雄太を制する。  雄太を塾に送った後、海岸に向かう。  脇に車を止め、スマホをみる。  拓也「今日はごめん。あんなに驚くとは思わなかった」  よく言うよ、髭面と大笑いしていたくせに。  彩香「許さん」  すぐに既読がつく。  拓也「B1にいた柴田さんが、今度お茶のみに来ませんかだって」  彩香「行きません。アフリカツメガエルのいる恐怖の部屋へは」  日の沈んだばかりの海岸。  「ヒュー」「ヒュー」と連続して、棒状の飛行物体が飛び交う。  ロケット花火だ。  浜から、少年たちのはしゃいだ声が聞こえる。  海には灰色の積乱雲がかかっている。朝見た綿雲が半日で積乱雲まで成長している。  来そうだな…と思ったとたん大粒の雨粒が一つ、二つとフロントガラスにぶつかり、雨粒が潰れた形でガラスに跡を残す。ザーと音がしたかと思ったら、今度は激しい雨がフロントガラスをたたきつけ、外の景色がぼやける。  空に雷光が光る。数秒後、ゴロゴロと雷鳴が響きわたり空気を震わす。  少年たちは無事だろうか。砂浜に目を向ける。  荷物を抱えて走っていく彼らの姿。ここらあたり、どこかの宿に泊まりに来た子たちだろう。  雄太の迎えの時間にアラームをかけ、シートを倒して目を閉じる。  激しい雨音。時折、瞼にカッと稲妻が走り、続きざまゴロゴロの音が降り注ぐ。車内は蒸し風呂のような暑さなのに、こんな天気では窓を開けることすらできない。エアコンつけろ、と脳からの危険信号も、睡魔に勝てずに寝落ちする。  ポロンポロン…。  アラームが鳴る。汗でベタベタになった体を起こす。  車内にいたことを認識する。あぁ、雄太を迎えにいかなくちゃ。  「雄太は将来何になるんだい?」  隣でスマホゲームに没頭している耳には入っていないらしい。  「高校生か…いいなぁ。戻りたいなぁ」  「よくいうよ。自分が学生の時なんか、早く自由になりたいって、そればっか言っていたくせに」  なんだよ。聞こえているじゃないか。  「自由は大事だよ。うん」  あんなに激しかった雨の音が、パラパラと緩くなりやみ始めていた。  「まりもさんってさ、彩香の話からずっと女だと思っていたの。でも、男だったんだ」  翌日、結婚式を終えた葵が真顔で語る。発注ボートを床に落とす。  「まじで言っている?」  「何が?」  二人しかいない飲料庫で彩香は笑い転げる。  「まりもは女の子だよっ」  「え…?えーっ!!」  葵が涙目になる。  「ショックだ…。私、まじめに恋しかけたんだけど…」  葵は確か、少し前に彼氏と別れたとか言っていたくせに、もう次に進んでいる。  「会ったばかりでもう?早すぎない恋への発展」  「悪い?」  「いいっ」  葵の肩に手を乗せる。  「思う存分、恋してあげて」  目を細め、うんうんと首を上下に振りながら彩香はほくそ笑む。  「何、その腹立たしいドヤ顔は…」  「でも…」  彩香は左右の人差し指を胸の前でくっつけ、マスクの下で唇を尖らせて、上目使いで葵を見上げる。  「ショック受けないでね?」  「んっ?」  「あーん、やっぱり言えない」  両手で体を抱きしめて、クネクネくねる。 「彩香ぁ?」  葵の掌が額を包む。  「熱はないみたいだね。酔っている?」  「酔ってません。葵、あなたの一番近いところに恋のライバルがいるんだよ」  「ライバルって…まさか彩香!?」  迫り来る。  「なわけないじゃん。もっと葵に近い人。昨日、まりもとの話題にも出たんでしょ?」  「まさか…お姉ちゃん?」  「そ、瑞希さん。一昨日、昨日とまりもと共通の友だちのところにお泊りしたんだけどね。私のフットネイル見ただけで、瑞希さんの施術って感知するの、あの子」  「すご…」  「「いいな、いいな、彩香」ってやきもちやいてさ、私にヘッドロックかけてきたんだよ。瑞希ちゃんきれいだし、優しいし、大好き…ってうっとりしていたわ」  葵は、ガクリと肩を落としている。  「まりもさん、マッチョだしさ、ファッションセンスもかっこいいしさ、ユニークだし。どうしてこの世はああいう男がいないのかなぁ」  ユニークって、ただのバカだと思うが。しかし、確かにまりもはかっこいい。さらに、ダンスも踊れる。  彩香も実際、まりもと二人っきりで出かけると、カップルに間違えられる。  両親でさえ、まりもが初めて家に遊びに来たときは、彩香の彼氏だと思い込んで大変なことになった。  部屋に二人きりにならないような策略をあれこれとするものだから、まりもが面白がってボディタッチを家族の前でしてくるのだ。お母さんが見かねて、  「高校生の間は節度あるお付き合いを」  なんて言い出し、たまらず、  「まりもは女子だよ」  と叫んだことは、伊東家では笑い話になっている。  「ところで、美容師としての腕はどうだった?葵の思い通りのセットにしてくれた?」  「私の薄い毛をさ、こうボリューミーに編み込んでくれるわけ。アクセサリーも、ドレスに合わせたものを散りばめて…画像送ったよね?」  「見た」  「あの繊細な編み込みをまりもが手掛けたとは、到底思えなくて聞いてみた」  「彩香は、まりもさんの美容室行かないの?」  「行かない」  「友だちでしょ?」  「うん。だって、頼んでもないのに家にやってきてカットしてくれるんだもん。しかも裏庭の青空の下で。瑞希さんと同じ私、まりもの練習台」  「こらー、おしゃべりしていないで早く発注書まとめないと、業者に締め切られちゃうよ」  斎藤課長が飲料庫をのぞく。ハッとマスクを押える。良かった、おしゃべりが見つかったのが斎藤課長で…。  昼のミーティング。  斎藤課長より、今現在の、入院患者さんの重要事項が発表される。  小児病棟〇〇〇〇様、ノロウイルス疑いにより、洗浄時の食器は次亜塩素酸ナトリウム二百㏙にしっかり漬けるように。  同じく小児病棟〇〇〇〇様、一型糖尿病により、インスリン投与のために、カーボカウント(炭水化物の計測)しっかり行っての提供をお願いします。  他項目アレルギー患者さん二名。栄養課、厨房、しっかり連携して行うように。  現在のコロナ陽性患者さん八名。五類になったので、COVID-19専用病棟も閉鎖されます。食事は、ディスポ食器から通常食器に戻します。  伊東さん、須藤さんで不要になるコロナ関係の食器類を倉庫に片づけてもらいたいです。  「分かりました」  二人顔を見合わせてうなずく。  「葵、卒業旅行行った?」  倉庫で、ディスポ食器を箱に詰めながら、彩香が聞く。  「行けるわけないじゃん、すごかったもんあの時」  「だね、私も流れた」  箱をラックに収めていく。  新型コロナウィルスが、五類感染症になった。  二〇二〇年度、彩香と葵が入職したての頃。感染者が、都市から徐々に全国に広がり始め、政府から緊急事態宣言が出されたばかりだった。  マスクが日本中の売り場から消え、院内においても、医療従事者マスクの確保さえ厳しく、それは当然ピラミッドの底辺にいる栄養課に一番先に被害が回ってきた。  明日使うマスクがない。仕事で使うマスクも各自で用意しいてほしいと通達が回った。インターネットで、本来なら定価千円にも満たない五十枚入り不織布マスクが高騰。自腹で一万円以上も出して買い、それを洗濯して使いまわして使用した。  フェイスシールドと呼ばれるものを頭に巻きつけ、透明なプラスチックを顔の前に掲げての業務。  感染患者さんを病院に受け入れる度、廊下には患者さんが通過することを知らせる赤いコーンが立つ。  患者さん用に、使い捨てのディスポ食器が大きな段ボールでいくつも届き、紙パックのお茶、割ばし、プラスティックスプーン、おしぼりなど後から後から必要なものが足され、検収室がどんどん狭くなっていく。  日に日に、医師や看護師のイライラは募り、その怒りは、介護士、看護助手にぶつけられ、そしてそのストレスは大きな塊となり、底辺にいる栄養課に落ちてくる。  感染者を受け入れているということも、病院を守るため、院内スタッフを守るため、世間に口外できない。  家族にすら自分の置かれている立場を伝えることができず、ひたすら己の感染防止に努める。  感染病棟に行けといわれたら命がけで行く。  食事中の会話の禁止。不要な外出の禁止。あれ禁止、これ禁止、それも禁止。  院内全体に離職者が増え、さらなる悪循環が起こる。  「仕事ってこんなに大変で、つらいものなの?」  葵が泣いた。  翌年二月には医療従事者からファイザーのワクチン接種が始まり、彩香と葵も一回目の接種。  その晩、四十度を超える高熱。葵にラインを送ると、葵も今まさに発熱中だという。  得体の知れないワクチンの副作用におびえながら、斎藤課長の携帯に電話した。  二回目、三回目…ワクチン接種の度に高熱と筋肉痛に襲われる。  あの頃は、エッセンシャルワーカーと呼ばれ、何かと感謝されて取りだたされていた時期もあったけど、今はその単語を耳にすることはほどんどない。  そして、非日常だった生活が戻ってくる…。  「五類になった。飲みに行こうぜ」  職場の規定も緩和され、早速拓也から連絡がくる。  「二人で?」  「いいじゃん」  隣町。拓也に指定されたダイニングバー。ダークブラウンの入り口ドアガラスから中をのぞいてみる。電球の照明だけで照らされた店内はべっこう飴の中のよう。ドアの色と同じダークブラウンテーブルと椅子が見える。外壁には蔦の葉がはっている。  「中で待ってれば良かったのに」  聞きなれた声にホッと振り返る。  「バーなんて来たことないんだもん」  カジュアルスーツを着た拓也が目を細める。  「かわいいじゃん」  「ん?」  「その服、似合ってる」  ラベンダーブルーの、シャーリングの入ったワンピース。  「ども」  かわいいなんて、拓也に言われたこともないからドキリとする。  「拓也も、スーツなんて着ちゃってどうしたの?」  「教授学会のお供」  「おつ」  「おお」  拓也に続いて店内に入る。予約席に案内される。  「何にする?」  「カンパリソーダ。マルゲリータ。たこと青じそのバジルパスタ。クリスピーフライドチキン。グレープフルーツとルッコラのサラダ。アボカドスモークサーモン、チーズ盛り合わせ」  「食うねぇ」  「食うさ、私のお腹はわんぱくさ」  拓也のサングリア赤と合わせて、オーダーする。  サングリアの濃い赤とカンパリの薄い赤。  「それでは」  カチンと軽くグラスを合わせる。細長いグラスの中に、揚げただけの乾燥パスタが通される。  カリカリとかじると塩気がきいていてなかなかおいしい。  「学会はどこで?」  「東京」  「わお」  「俺なんかただの教授の荷物持ちだよ。でも、明日は休みだ!」  グッと伸びをする。  「わーい。私も休みだ!…ん?私、飲みにきたのコロナ以降初めてかも」  「俺も」  「いや嘘…先週、浜風に泊まってしこたま飲んだ。悪友たちと」  「納得。俺のこと秀才君って言ったの、彩香グループ所属あの悪名高い二人だろ」 「ばれた?」  アハハと笑う。あー、開放的だ。なんて楽しいんだ。飲食店にあったパーテーションも、すっかり取り除かれている。  チーズ盛り合わせの中で、ひときわ目を引く、鮮やかに青カビが入ったロックフォールにホークを突き刺す。  「私の大学に、ロックホールを愛する先生がいたのね。拓也、これ食べられる?」  「んー、食べ…れるかな。かろうじて」  「まじで?」  「父さんが好きで、冷蔵庫の定番ではある」  「さすが金持ち」  「金持ちじゃねーよ。千円、二千円だせば買えるやつだよ」  「まいいや。それで、どんなにそれが魅力的かを熱弁するわけ。最初は、ただのカビの味。そして食べ続けていくことにより、このチーズの魔力にかかり虜になってしまうという」  そう言って、ほんのちょぴっとだけ、前歯でかじる。  口中に青カビの、絵具セットの中でかびてしまった湿った雑巾のにおいが広がる。  「あぁ、もう。絶対無理。今日も、魔力にはかからなかった…拓也ごめん、私のかじりかけ食べる勇気ある?」  彩香が、フォークを突き出す。拓也がそれを口に入れる。  「ロックフォール克服のために、チーズ盛り合わせ頼んだわけ?」  「違う。それ以外のチーズは大好き」  「すみませーん、ファジーネーブルください。拓也は?」  「ハイボールロックで」  パスタをフォークに巻きつけながら、拓也とクモの巣対決したことを思い出す。  「拓也、これ以上太く巻ける?」  「ガキの頃やったクモの巣集めの続き?」  「そう」  「あれは拓也がずるいわ」  「なんでよ」  「あんな水路に潜って、灰色の綿あめみたいなの作ってくるんだもん。あんなところに潜るなんて可憐な女子にはできない」  クククッ。フォークに豪快にパスタを巻き付ける手が震えている。いまだに、あの時の勝利がうれしいらしい。  「どう?」  「私の方が太い」  「そうか?」  「絶対太い」  「あぁ分かった。そういうことにしてやる」  スパゲティを口に突っ込みながら、拓也の視線に気づく。  「何?」  「彩香の酔いが浅いうちに、伝えなくちゃならないことがある」  背筋を伸ばして、長い指を交差した拓也が真っすぐ彩香を見る。  「どした、いきなり。まじめな顔で…」  「今から航輔の秘密を話すのだけど…嫌だと思ったらすぐに話をやめるから率直に言って」  「分かった」  ゴクリと一口、ファジーネーブルを飲む。  「あのな、二人の関係のこと、俺も少しだけ航輔から聞いていて」  黙ってうなずく。  「その、二人が気まずくなった理由も…」  あぁ。目を伏せる。どこまで知っているんだろ。  「私に女としての魅力がなかったんだよ」  力なく答える。  「そうじゃない」  首を静かに横に振る。  「…EDって知ってる?」  ささやくように拓也が聞く。  「聞いたことはある」  「航輔、勃起障害だったらしい。彩香との関係が続かなかったことも、それが苦痛だったと思われる」  「なんで?私、そんなの全然平気なのに。悩んでいるならなおさら支えてあげたかったのに。それだけで…私、こーすけに避けられなくてはならなかったの?」  「男性にとっては大きな問題だとして悩む人はいる。…航輔も相当悩んでいたのだと思う」  「男の気持ちは理解しがたいけど。でも、話してくれてありがとう。私は…自分に負い目を感じなくていいのかな?」  拓也が大きくうなずく。  ファージーネーブルが空になる。  「それで、オレが院生になったばっかの時。あいつ実験室訪ねてきたんだよ」  「まだ続きがあるの?」  やっと話が終わったかと思ったのに。  「これからが、本番」  拓也が苦笑いする。  「実験室に何持ってきたと思う?」  首をかしげる。  「差し入れ?お土産?」  「そんな気の利いたものだったら良かったのによ。命の液体」  「はぁ!?」  思った以上に大きな声が響いた。シッ。拓也が口先に人差し指を付ける。  「凍結保存してくれって」  「どうして」  「あれも本当に要領悪い奴だよ。彩香のことをずっと引きずってんの。精液も、たまたま自己処理が成功したタイミングで俺のとこ持ってきて。まぁ、若いうちからEDってことで、将来的に悲観的になっていたのかもな。長い人生いつか必要になるかもしれないって思ったんじゃね?」  「それで拓也は承諾したの?」  「とりあえず保存はしたよ。然るべき手順を踏み、実験室の液体窒素の中に放り込んである」  「なんで拓也に頼んだんだろ」  「そりゃ、実験設備が整っているからだろ。医療機関に精子保存なんて頼んだら年間数万経費が掛かっちまうからな…」  「それでこーすけ亡き今、液体窒素に沈んだその子はどうするの?」  「彩香はどうしたい?」  少しだけ意地の悪い顔になった拓也が聞く。  「なんで私に聞くの?」  声が震える。  「前にさ、私こーすけのそれがほしいって言って拓也怒らせたじゃん。「倫理って分るよな、何を考えているんだよっ」って」  それなのに、なぜ今拓也はこんな話を私にしたんだろう。  私にどうしようというのだろう。  オーダーしたピーチフィズが届く。  「答えなんか見つからない。難しすぎる」  「俺もだよ…」  ずっしり重い空気が二人を包む。  ソーダと交わったピーチ味のカクテルをごくごくとジュースのように飲み干す。  「すみませーん。スプモーニとチャイナブルーと、モスコミュール」  改札手前にシャッターが降り、終電を逃した二人が駅前に立ち尽くす。  「我々はいったい何をしているのだ」  彩香は仁王立ちになり、タコのような真っ赤な顔でつぶやく。  「よし、拓也気合いれて歩いて家まで帰ろう」  「そんな千鳥足じゃ帰れないだろ」  「じゃ、タクシーで帰ろう」  「田舎のタクシーは終了時間が早いんだよ」  「では、どうしたらいいのだ」  拓也がスマホを操作する。  「ネットカフェはない、カプセルホテルもない。レストランは終わっているか…彩香、ここら辺で休めるところファッションホテルしかないんだけど」  情けない声で拓也が言う。  「仮眠取って帰ろう」  「君、どういうホテルか分かってる?」  「ジュエリーのような光を放つ素敵なホテルだよ」  「大丈夫かなぁ」  拓也が頭を抱える。  入り口に入った瞬間立ち尽くす。  部屋には大きなベッドが一つ。拓也の目を見る。  口に手を当て、目をそらす。拓也の困ったときの癖だ。  「やっぱ、止めとこうか」  「ここは、愛する男女で泊まるところ?」  「うん」  んー、思考がとまる。  もう歩けない。眠たい。と体が欲求している。  部屋に足を踏み入れて固まる。  「これは何?」  「風呂…」  「なんで壁が透けて見えているの?」  「それは…」  「こんなんでは、シャワーも浴びられない」  「浴びればいいじゃん」  「丸見えじゃないか」  「見えない所にいるから」  「命かける?」  「かける」  ファッションホテルがこんなにも落ち着かない場所なんて。  ワンピースを脱ぎ、浴室に入る。  シャワーを少しひねるだけで、豪快な湯量を放出し、その勢いでよろめく。  備え付けのソープで、髪に染みついた酒場の匂いを落とす。体の汗を流す。  見たことのない怪しい形状をした風呂椅子や、不思議な形の大きな湯舟。  ちらりと透けて見える壁に目を向ける。拓也の姿はない。  視覚から外れて待っている、そんな常識ある拓也に安心する。  分厚いバスタオルで体を包み、備え付けの寝巻きを手にする。  ピンクのバスローブ。いまいち。あの浜風の浴衣が、かわいく思えてしまう。  歯ブラシをくわえながらドライヤーをあてる。  ドライヤーの風力まで強烈で、すぐに水分が飛んで行ってしまう。  「お先」  「もっと、ゆっくり入れば良かったのに」  拓也が座るソファに彩香も座る。  「何の本、見ているの」  「徳川家康が遺した名言」  滅びる原因は自らの内にある  己を責めても人を責めるな  人は負けることを知りて、人より勝れり  「ストイックだなぁ」  「戦国時代の武将全般な」  「武将好き?」  「あぁ。武士道の…信義、節操、廉恥、礼儀。男としての生き方に惚れるね」  「拓也、剣道部だったもんね」  「武士に憧れていたからね。俺も風呂行ってくる」  「命かけてものぞかんから」  笑いながら浴室に消える。  聞こえるシャワー音にドキドキする。  体はクタクタで睡眠を求めているのに、頭が妙にさえている。  拓也の置いていった名言集を見るも、すぐに興味がそれてしまう。  お母さんに連絡しなくっちゃ。  スマホをバックから出す。  お母さんからの着信と、心配した内容のラインが何件も入っている。  時刻二時四分。  ライン打っておく。  彩香「終電見落としました。心配させてごめんね。明日帰ります。寝る場所の確保はできたので心配なく」  これでいいかな、酔った頭で考える。  家には、友だちと飲みに行くと話している。が、その友だちが母の知る生徒会長とは話していない。  二十四歳になる娘が外泊をしたところで、そう騒ぎ立てることもないだろう。  送信する。  異性と二人きりで朝まで過ごした経験は今までなかったけど、きっかけってずいぶん簡単に訪れるんだな…。拓也のことは信用しているけど…急に、恐怖が襲ってきて体がこわばる。  そんな恐怖の源が、首にタオルをかけ、お揃の間抜けな水色のバスローブの姿で現れる。  「このローブ超かっこ悪いよね」  彩香が自分のローブの裾をバタバタさせて訴える。  「それな」  背の高い拓也にはちんちくりんで、膝が丸見え。  「寝る?」  「二時回っているからな」  枕元に置かれた、避妊用ゴム製品は見ないふりをして、ベッドと薄い掛布団の間に体を滑り込ませる。  拓也も、彩香と距離を開け潜ってくる。拓也の重みでベッドのスプリングが沈む。  「お休み。電気切るよ」  「うん」  器用に、ベッドの上の調光器を指で調節し、薄暗くする。  「少しでも明るいと寝れない?」  「真っ暗でないとダメなタイプ」  「分かった」  部屋の明かりが消える。  洗ったシーツのにおい。いつもと違うシャンプーの香り。タバコのにおいが少しだけ染みついた壁のにおい。  隣には、六歳から知っている同級生が寝ている。  ゴソッ、ゴソッ、と時折体制を変えている。拓也も寝れないんだ。  「彩香って男性経験ないよね?」  ガバッと起き上がる。  「ななな、なにを言い出すの!?」  拓也の肩が震えている。笑いをこらえている。最低。  腰あたりに蹴りを入れる。  「いてぇ」  ゴロンと転がり、拓也の反対側を向く。  いつの間にか眠っていた。  未明に訪れる悲しみが、しかし今日も襲う。  涙腺から涙が湧き出す。鼻の奥に痛みが走る。胸に圧力がかかる。  枕に顔をうずめる。サラサラの涙と鼻水が鼻の奥から喉を伝う。  枕元のティッシュを、何枚も抜いては鼻を塞ぐ。  「彩香?」  「どうした、大丈夫か?」  うつ伏せのまま泣き続ける。  心はすっかり壊れてしまった。  航輔がこの世から姿を消した二か月の間。  息をするだけで苦しくて切なくて、喉から胸にかけていつも何かが詰まっているような感覚が続き、自発的に呼吸ができているのが不思議なくらいだった。  そして、昨夜の拓也の話。  自分がこれほどまでに寂寥感に打ちひしがれているのに、あの話をどう受け止めたらいいのか。  拓也の腕が彩香に伸びる。  グッと体を寄せられる。  拓也の胸に抱かれる。  航輔は、彩香との将来を見据えて自分の遺伝子を拓也に託したのか。  それとも、彩香でなくとも、いずれ結婚するのであろう人との子孫を残そうと思ってしたことなのか。  今となったら分かるすべもない。  このまま気が変になって、心が完全に壊れて、自分が誰なのかも分からなくなってしまった方が楽に生きられるかもしれない。  拓也のローブは、拓也の汗と彩香の涙でじっとりと湿り、それでもその温かさに安心し、顔をうずめる。  家では朝日を浴びるために、東のカーテンを開けて寝ている。  朝の光は、脳を覚醒させ、すっきりとした目覚めを与えてくれる。  しかし、ここは窓のない部屋。  今、何時なのかもわからない。  子供の頃から頭が切れて、淡々としていた拓也。  学級委員だということで、クラスの全体責任を一人で被り担任に叱られ、問題児の世話を先生に押し付けられることもあった。  だけど、それを嫌がるそぶりも見せず、目前の問題を自分がその時でき得る限りの力でこなしていた。  彩香が航輔との交際が始まったときも、美波の軽口でそれを耳にした拓也は、美波に「なんで彩香は俺に報告がないんだ。俺は彩香の保護者なんぞ」と冗談交じりに話していたことを美波から聞いた。  正義感が強いんだ、拓也は。  あれは、中学三年の昼放課だったと思う。トイレの前で、友だちとの話があまりに面白くてお腹を抱えて笑っていた。たまたま、いじめられキャラの男子が私たちの傍にいた。その場を通りかかった拓也が、突然私に向かって怒鳴ったんだ。「湊をからかうなっ」って。そして、そのまま去っていった。友だちと二人で、「何今の?」「なんで怒鳴られているの私」と唖然とした。それからしばらくの間、拓也が大嫌いだった。  拓也の胸の中で、再び眠りが訪れる。  「拓也…中学の時、なんか誤解して私を怒鳴ったね…」  眠りの帳が降りる中、拓也の「俺も誤解して怒鳴ったこと、すぐに気が付いた…ごめんな」と耳元でささやかれた意識だけが残っている。  二度目の目覚めが来たとき、めちゃめちゃお腹がすいていた。  「お腹すいた」  ずっと抱きしめていたらしい拓也が起き上がる。  「よし、昼食いにいこう」  昨日のワンピースにもう一度袖を通す。バーの匂いが染みついている。  「ハンバーグ♪ハンバーグ♪」  彩香の調子外れな音程に合わせて、チェーンハンバーグ店に入る。  「この店に来たら、チーズバーグティッシュ。これしかない」  大学の友だちが、『死ぬほどうまい』とべた褒めし勧めてくれて、彩香も以後ハマり続けているこのハンバーグ。  「チーズバーグディッシュの三百gっ!」  「食うなぁ。あ、俺はカリーバーグディシュの百五十gで…」  「拓也、百五十gだって。しょぼ」  「しょぼ言うなよ。昨日、彩香の食い散らかした残飯おれ一身で片付けたんだぜ。食えるわけねーよ」  「何を言う。今は、あれから十二時間たっている」  厚めのチーズの乗ったハンバーグを小さく切る。  「うめぇ」  「女子、おいしいといいなさい」  「おいしい…。私、二十四歳にもなって朝帰り…じゃなく昼帰りは初めて」  拓也が吹き出す。  「大丈夫か?伊東家は」  彩香がスマホのラインを拓也に見せる。  彩香「終電見落としました。心配させてごめんね。明日帰ります。寝る場所の確保はできたので心配なく」  母「了解。仮に異性といたとしても責めないから、気楽に帰っておいで」  「相変わらず、器でかいな。彩香のお母さん」  「ノー天気なんだよ」  「あの、学級崩壊しかけた時も、余裕で立て直したもんな」  「そう…だったかな?」  「荒れていた生徒を、褒めて褒めて褒めちぎって…自己肯定感をおばさんが植え付けてくれた」  「うん…」  何よりも子供の心に寄り添ってくれる母親だ。だから、保育園で働けるんだと思う。  「こーすけの遺伝子が残っていること、こーすけのご家族が知ったら困惑するだろうね…」  「絶対言えないな…」  「うん」  「彩香、洗濯よせてたたんで。風呂洗い、晩御飯も。あと雄太の塾の送迎も」  お母さんがソファに横たわりながら指図する。  「ひどい、私はシンデレラ?」  「だって、昨日の夜から彩香いなかったじゃない?雄太に手伝わせたら、洗濯たたみは適当。風呂は洗わずに沸かされ、晩御飯なんてカップラーメンでいいって。お母さん、ぎっくり腰なのに仕事休めないし、もう大変だったんだから」  「晩は何がいい?」  「ハンバーグ」  「えーっ、やだ。昼ハンバーグだった」  「でも、彩香作るハンバーグおいしいんだもん。食べたいんだもん」  人から言われる『おいしい』って言葉は、彩香にとっての原動力だ。仕方ない。買出しに行く。  スーパーの特産品コーナーに立ち寄る。  地場産の幸水が出ている。大き目の形の整ったものを一袋かごに入れる。  切り花をかごに入れた主婦が、息子さんらしい人とキュウリの袋を物色している。彩香も、キュウリに近づく。  「あ…」  航輔のお母さん、と弟さん。  「彩香ちゃん…」  「はい…」  「先日は、ありがとうございました」  お通夜の参列へのお礼を言ってくれているのだろう。  弟さんと一緒にお辞儀をする。  彩香は、周囲もはばからず柩に入れられた航輔の胸で激しく泣いた。  それが、故人の『元カノ』だと知る親族にどう映っていたのか、失礼ではなかったか、激しい後悔に襲われる。  「こちらこそ…」  丁寧に頭を下げる。  「お盆でしょ。精霊馬を作ろうと思ってね…」  笑顔を作る、おばさんの顔から悲しみがあふれ出していて、彩香はまともに目をみることができない。  「そうですか」  「では…」  おばさんの小さな背中と、見違えるほどたくましくなった体の弟さんが並んで去っていく。  付き合っている頃、航輔の家に遊びに行くたびに何度か会ってはいた。  その時は、たしか中学生くらいだった弟さん。  顔じゅうニキビだらけで、航輔と同じ陸上をしていて…。日焼けして真っ黒で、一言二言しかしゃべらなくて、自分たちもそうであったように、思春期真っただ中、人と必要以上のコミュニケーションを取るのに抵抗している男子だった。  骨の周りに必要な筋肉だけしかなかった体が、筋肉に厚みが増し、ニキビがなくなり、一層男らしく凛々しくなっていた。  そして、航輔によく似てきた。  「姉ちゃん、食わんのかよ」  雄太が、彩香のお皿に乗った手つかずのハンバーグを目ざとく見つける。  「いいよ、あげる」  「まじで?」  三百gのチーズバーグが、まだ胃に残っている。  「スーパーに航輔のお母さんがいた」  「同じ年の子を持つ親としては、たまらないわよ」  ポテトサラダを咀嚼しながら、お母さんが目を伏せる。  メインディッシュを雄太に譲った彩香は、ご飯におしんこと麦茶を注ぎ、茶漬けにして流し込む。  「食器は流しに入れておいて。後でまとめて洗うから。雄太、塾まで姉ちゃんちょっと寝るから。そのラップのかかっているのはお父さんのだから食べちゃダメだよ」  二人に念をおして部屋に行く。  ベッドに横たわる。  目を閉じる。  航輔の遺伝子と、自分の卵子が受精することを想像する。  自分の中に宿る命。日々子宮の中で成長していく胎児。  大きくなった自分のお腹を見た家族や周囲は、どんな反応をするんだろう。  そして出産。祝福してもらえるのだろうか。  航輔もいないその状況で、シングルで育てていけるのだろうか。  子供を育てるためには、お金も必要だ。  一人働きながら、小さな命を継ぐいでいくのには相当な覚悟がいるだろう。  その命も、このように生を受けることを果たして望むのだろうか。  「あー、何も考えたくなーい。拓也のバカー」  叫んで眠りにつく。  昼休憩。院内にある売店のコンビニで食後のデザートを買い求める。  街中にあるコンビニと異なり、品揃えが特殊で、入院生活に必要な、介護用品、洗面用具、下着、スリッパ。それから、栄養補助食品や、嚥下食用のとろみ剤まで揃っている。  また、入院患者さん以外の院内スタッフの利用も多く、昼食時には大変にぎわうため、軽食のラインナップも充実している。  車いす患者さんのいる通路や、点滴スタンドと一緒の患者さんのいる場所は極力避けてスイーツコーナーに向かう。  葵に頼まれた、チョコバナナクレープが売り切れ。クリームクレープで許してもらおう。  抹茶プリンかコーヒーゼリーかで散々迷い、結局、カフェオレ味のアイスを買う。  レジに並んでいると、前に並んでいた人が急に振り返る。  「うわっ」  思わずのけ反る。髭面の実験棟B1の柴田さんっていったっけ?が、ニカニカ笑っている。買い物かごをのぞくと、プラスチック容器に入った冷やし中華に、おにぎり、サンドウィッチにヨーグルト。良く食べるなぁ。わんぱくだなぁ。  「管理栄養士 伊東彩香」  彩香の胸のネームプレートを読み上げ、また笑顔を作る。  「伊藤君から連絡行った?」  首を傾げる。  「今日、実験棟B1事務室で茶話会があるから」  「え?」  「五時過ぎから。仕事終わった人から順繰り勝手に集まっているから、彩香ちゃんもおいで」  「…カエルは?」  「あっはっはっ。アフリカツメガエルね。事務所にはいないよ。事務所はね、彩香ちゃんのいる一棟から二階の連絡通路通って実験棟方面に、そのままエレベーターでB1に降りて。そしてたら右側すぐの部屋」  終業後、B1事務所の前で躊躇する。  私がのこのこ来ていい場所なんだろうか?  薬理学にいる、桜のような秘書はいないんだろうか?  緊張しながらノックを、そしてドアを開けてのぞく。  中年の女性、白衣を着たスタッフがパソコンを操作している。  「あの…すみません。柴田さんは…」  「栄養課の子?」  「はい」  「柴やんが誘ったって子ね。悪いけどもう少し待ってもらえる?」  パイプ椅子に座って待つよう促される。椅子に座り、じっとしている。 静かな部屋に、彩香の座るパイプ椅子のきしむ音。そして、白衣女性のキーボードを打つ音だけが響く。  「居づらかったら、この先にある大型機器室に行ってみて。柴やんいるから」  「はい…」  部屋を出て廊下に出る。すぐに大型機器室と書かれた部屋が見つかる。  部屋を開ける。誰もいない。  「失礼します」  ELISAと記されたプレートのある部屋から、丸椅子に乗った髭面…柴田さんが椅子ごと出てくる。 「あー、彩香ちゃん。ごめんねー。ちょーっと内科の先生の仕事に時間が掛かっちゃって」  どうしようかな…。  「彩香ちゃん、仕事手伝ってもらっていい?」  「えっ…」  「ピペットチップをラックに詰めてくれない?黄色いのが、二百㎕で、青いのが千㎕。それで、ラックがこれね」  チップの入った袋と、ラックを実験テーブルの上にどさりと置く。  「できるとこまででいいよ。あ…それから、チップの取り扱い時は、マスクして、ニトリル手袋はめた手でね」  マスクと手袋の箱も渡される。  マスクと手袋をして、ラックの蓋を開けると、小さな穴が開いている。数本黄色いチップが穴に刺さっている。  この穴に黄色のチップを立てていけばいいんだ。  袋に入ったチップを一本、一本立てていく。  会って二回目の人の手伝いをさせられる、自分は利用されやすいタイプなんだろうか。  柴田さん…自分のペースに人を持っていくのがうまい人だなぁ。  ELISAの部屋からは、柴田さんのでっかい独り言や鼻歌が聞こえてくる。  実験室って静かなところなんだな。  ドアが開いて拓也と目が合う。「ぶはっ」と豪快に吹き出している。  言いたいことはわかる。しかし、無視する。近づいてきて、もう一度改めて吹き出す。  「この図、そんなに面白い?」  「早速、柴田さんの実験補佐員しているの?いいよ、彩香。今より給料もいいぞ。転職しろ」  「冗談」  「もう、すっかりあの方のペース」  顔をしかめてELISAの部屋を指さす。  「まぁまぁそういうなって。人との境に垣根を作らないのが彼の良いところ。それより柴田さんの使っている器械見た?ELISA(エライザ)ってのすごい賢いの。試料中の抗原や抗体を、特異的抗体抗原で捉え、酵素の反応で濃度を検出するんだ」  「悪いけど、何言っているかさっぱり分からない」  「まいっか」  拓也もマスクと手袋をする。慣れた手つきで、チップラックを満タンにしていく。  「茶話会の件、既読付いていなかったから来ないと思った」  「更衣室からB1まで、電波の届くところがないのよ。今日、売店で柴田さんに会った時に誘われたの」  納得したように拓也がうなずく。  「この前は、大丈夫だったか?家の方」  少し気まずそうな顔。あぁ、外泊した日のことだ。  「何にも言われなかった。私、家族に信用されているんだな。しかし、帰ってからの手伝いがまじでえげつなかった。浜風の労働並みに」  拓也が笑う。  「その日スーパースギヤマで航輔のお母さんと弟さんに会った」  「どんな様子だった?」  「んー、キュウリとなす買ってた。精霊馬作るんだって。なんか、お母さん疲れた顔していた。小さくなっちゃた印象がした」  「そうか…」  「弟さん…何度か見たことあったけど、雰囲気変わったね」  「春輝だろ。通夜で見たけど、華奢だったのにたくましくなっていたな」  「そうだ、春輝君だっ」  名前がどうしても思い出せなかった。  黙々とチップを立てる。  「私、生きていることが当たり前だと思っていた。でも、こーすけがいなくなって、あぁ人間っていつ死んでもおかしくないんだなって感じるようになった。生かされているって特別なことなんだなってすごく思う」  「俺もだよ」  ポロリ。一つ床に落としてしまった。  「ゆっくりやればいいんだ。落としたチップと、チップ拾った手袋は捨てる」  上司のような拓也の口調。  拓也の足を踏みつけながらチップを拾い、ゴミ箱に捨てる。  「いてーな、なんだよ」  「拓也の言い方が憎たらしいんだもん」  「だからって、足踏むことないだろ。だいたい、そんな嫌な言い方していないだろ」  「しましたー」  「してません」  ELISAの部屋から、柴田さんが出てくる。  「あーあ、ケンカが始まったみたいだな。そろそろ、お茶に行くか」  地下一階の事務所がコーヒーの香りに包まれる。  柴田さんのこだわり。ミルでコーヒー豆を挽くところから始まり、少しずつお湯を注ぎながら、ゆっくりとドリップ。  「これは、ホンジュラス産のコーヒー豆」  柴田さんが、とても丁寧に入れてくれたコーヒー。  テーブル中央にはチェリータルト。  白衣の女性、大場さんがタルトを小皿に取り分けてくれる。  「ホンジュラスってどこにあるの?」  隣のパイプ椅子に座る拓也に耳打ちする。  「中央アメリカだよ」  あきれた顔の拓也が答える。  「失礼しまーす」  白いシャツに、茶色のスラックスの男性が入ってくる。  「いらっしゃい鳥居先生。ちょうどコーヒー淹れたてよ。今日は、ホンジュラス産。そして今月のケーキ定期便はアメリカンチェリータルト」  「ケーキの定期便を申し込んでいるの。毎月違ったケーキが届くのよ」  大場さんが楽しそうに微笑む。  「みんな、冷めないうちに飲んで」  カップに注がれたコーヒーの香り吸う。口に含む。  「甘い香り」  「さすが栄養士。ホンジュラス産のコーヒーの特徴は甘い香りなんだ」  柴田さんが『ポンッ』と手をたたく。  「栄養士?」  鳥居先生が聞き直す。  「はい」  「ここの?」  「はい」  うん?この人、見たことある…記憶を呼び戻す。  「左手見せて」  「え?」  「左の小指…」  思い出したー!救急外来。エンジ色のスクラブ。『鳥居淳也』と刻印されたネームプレート。  彩香の手を取り、入念に小指の先を観察…診察する。   「よかった、ちゃんとくっ付いているね。生活に支障はない?」  「あの…先生。その節はありがとうございました。たまにしびれが…」  「しびれはそのうち気にならなくなると思うから…」  「何?先生、知り合いだった?」  柴田さんが、鳥居先生と彩香を交互に見る。鳥居先生がニヤニヤする。  拓也がきょとんとしている。  「言ってもいい?」  「ダメです」  「えー聞かせてよ」  事務所が笑いの渦に包まれる。  拓也が椅子の上で溶解しかけている。柴田さんと大場さんが支えあいながら腹を抱えている。  「冗談だろ、入職たった一週間で指乱切りって」  「しかも、ビタビタに血を吸いつくして、人参の皮の張り付いた台ふきを患部に当てて来るのよ。もー救急外来までの通路、血痕だらけ。彩香ちゃんの血の染みた床マット取り替えるのに、設備の人まで呼んでてんやわんや」  「鳥居先生、それ以上はもう…」  「彩香ちゃん知らなかった?実験棟B1茶話会の参加資格。すべてをさらけ出し、仲間と楽しく仕事ができる者だけに茶券が渡されるんだよ」  「そうそう、この前もアフリカツメガエルを見にきた彩香ちゃんが…」  柴田さんが涙を拭きながら、またあの日の出来事を振り返る。  再び、どっと笑いに包まれる。  「いやー、いいわ彩香ちゃん…」  鳥居先生が大場さんに語り掛ける。大場さんも、ハンカチで目頭を押さえながら笑っている。  「俺も長い付き合いだけど、これほどまで鈍くさかったとは…」  チェリータルトをフォークで突っつきながら、笑いすぎて死にかけている拓也を睨む。  ドアが開く。  「柴田さーん、エライザの結果出たぁ?あぁ、良い香り。盛り上がってますねぇ」  小さな顔に、不釣り合いな大きな眼鏡をかけた人がのぞく。  「ども、大前先生。これですね。先生も一杯いかがですか?ケーキもありますよ」  「あー、これから病棟に行かなきゃならなくて…残念です」  データ結果を受け取ると、名残惜しそうに去っていく大前先生。  「柴田さーん、まだコーヒー残っている?」  ヨレヨレのシャツに、洗いざらしたパンツの研究員らしき人が入ってくる。  「茶話会って今日でしたっけ?差し入れ持ってきたよ」  白衣姿の女性。  次々と人が集ってくる。柴田さんの笑顔と人柄が人を引き付けるんだなぁ。  スマホの時計を見ると、もう晩御飯の時間に近い。長居しすぎた。  「あの…すみません。私は、これで…。今日はお招きありがとうございました」  「いえいえ、月に一度ケーキの届く日が茶話会なので、また是非声を掛けさせていただきますよ」  「その…、栄養課の内線には…」  「分かっている。掛けないよ」  研究者同士意見を交わしあっている拓也に目で合図して、鳥居先生に頭を下げて事務所を後にする。  車まで歩きながら、家に電話を入れる。  「お母さん、ごめん遅くなっちゃった」  「こっちはいいよ。腰もだいぶ良くなったから」  「ご飯は?」  「できているよ。食べるでしょ」  「ありがとう」  日暮れが早くなったな。宵の口、天空を見上げる。夏の大三角形が空高く輝いていた。  「美波は、裾を揃えるだけね」  「えー、私も彩香くらいの、あごラインのボブがいい」  「美波は、高身長で、髪質つやつや、お顔キレイ系だから絶対ロングが似合うのっ。ここに、緩めのウエーブと、アッシュグレーを入れたらもっと美波が輝くのに…。今度、サロンに来なさい」  腰に巻いたシザーケースは、まりもが美容院でいつも使っている道具。  今日は、彩香の家の裏庭で、まりもがカット練習をしている。  庭では、雄太と父がバーベキューの準備をしている。  裏庭に面したキッチンでは、彩香と母が野菜を切っている。  キッチンのドアが開く。  「次、彩香だって」  「お、軽くなったね」  「うん、だいぶすいてもらった」  後ろ髪を束ねた美波が、彩香のじゃがいもの皮むきを引き継ぐ。  「彩香は、ツーブロック刈り上げする?」  「ちょい待った。美波には、あんなガーリーヘアーで、どうして私は刈り上げなのよっ」  「だって彩香、仕事で髪の毛をネットに入れることあるって言ってたじゃん。襟足がネットから出ると怒られるんでしょ。ほらあの怖い上司…なんて言ったっけ?」  「山口貴美子」  「それ、貴美子に」  「刈り上げるくらいなら、襟足出して貴美子に叱られる方選ぶわ」  「つまんねーの。オレとお揃にしたかったのに」  「刈りは、カッコいいまりもだから似合うんだって」  「じゃ、ショートに切らせてもらっていい?」  「ショート?」  「彩香、目鼻立ちはっきりしているから、顔をしっかり出していった方が似合うよ。ピアスも引き立つし」  まりもが、彩香の耳元で揺れるターコイズの入ったしずく型ピアスに触れる。夏のボーナスで買ったお気に入り。高校以降、ショートはしていなかった。  「して…みようかな」  「よしっ」  スプレーボトルで髪の毛に水を振りかける。  「分け目この辺り?」  手鏡をのぞく。  「うん」  まりもが丁寧に髪をとかす。クリップで髪の毛を止めていく。  「バッサリ行くよ」  襟足が徐々に短くなり、風が直接うなじに触れる。  リズミカルな鋏の音。まりもは職人になったんだ。万感胸に迫る。  二本の指に挟まれた髪がザクザク切り落とされる。  ケープに濡れた髪の束が落ちる。  「葵が、まりものテクニックを感心していたよ」  「あー、葵ちゃん。瑞希ちゃんの妹ね。やっぱ姉妹だね。似てた」  「そう?」  「似てるよ」  「まりものこと男だって勘違いしていたよ」  延長ケーブルにつなげたドライヤーで髪を軽く乾かす。  まりもの真剣な顔が手鏡に映る。左右の毛の長さを確認している。そして鋏を動かす。  「軽くするね」  ジョリジョリと鋏の音が変わる。  「そっかぁ。それで葵ちゃん、オレに彼女はいるのか聞いてきたのか…」  「葵そんな質問までしてきたの?」  「うん…」  何度も何度もカットコームを通し、チェックを繰り返し、気になるところに鋏を入れる。ドライヤーで、髪の毛を払い落とす。ロールブラシでブロー。まりもの力強いブローに頭が引っ張られないように、首に力を入れる。  「ワックス付けていい?」  「うん」  毛先にワックスを付けると動きが出る。襟足の毛を、少しつまんでいい感じに整える。  「かわいいじゃん」  満足そうにまりもが、顔をほころばせる。  「次はだれ?」  「雄太もお願いしたいって言ってた」  「おっ、雄太。呼んできて」  「雄太―」  庭に出る。バーベキューコンロに向かって、懸命にうちわで風を送る雄太と代わる。  サンシェード下の、ガーデンテーブルにはすでにカットした野菜が置いてある。  「お父さん、そろそろ焼いても大丈夫?」  「始めるか」  かぼちゃ、ナス、ピーマン、じゃがいも、ズッキーニ、しいたけを並べる。  「おーい、肉―」  父が家の中に向かって叫ぶ。  美波が肉の入れたクーラーバッグを運んでくる。  「おー、彩香かわいいっ!見て、おばさん。JK時代の彩香だ」  「あら、ほんと。かわいくしてもらって」  飲み物を運んできたお母さんの口元がほころぶ。  「ねぎタン焼こ、ねぎタン」  トングを手にした瞬間に美波が肉焼き担当になる。  「ほら、彩香はピーマンひっくり返して」  雄太が戻ってくる。  美波の手が止まる。雄太を見て立ち尽くしている。  「あんた…いつからまりもの弟になった…」  彩香の一声に、  「ガハッ」と吹き出す美波。  散髪の片付けが終わったまりもが、正面玄関から姿を見せる。  「まりもちゃん、お疲れ様。どうぞ座って」  「ビール飲むかい?」  「どうもっす」  父から缶ビールを受け取ったまりもは、ゴクゴクと喉を鳴らして飲む。  「まりも、このヘアースタイル、よく雄太君許してくれたね」  美波が焼けた肉をテーブルに置く。  「オレが勧めた訳じゃないからね。雄太がこれにしてっていったんだから」  「まりもと同じそのカットがいいと?」  「かっけーじゃん。まりもさんのスタイル」  「雄太いいぞ。今度サロンでカラーしてあげるからな。何色が似合うかな。雄太は、シルバーアッシュ辺りが…」  「まりも、雄太まだ高校生。それでもって受験生」  「雄太、肉ばっかりだめっ。野菜も食べな」  「おじさーん、私にもビールをぉ」  「美波ちゃん、この前は彩香が世話になったなぁ」  「その分、きっちり労働で返してもらいましたからぁ」  「ちょっとー、焼き係私だけってどういうこと?」  「おばさん、腰の具合は…?」  「だからぁ、誰か焼きを代わってっ」  「肉がない…まともな肉がない」  時間が経って冷えた野菜と、炭化した肉片だけのプレート。  「彩香は、飲んではダメだからね」  お母さんが念を押す。  「そうそう、オレらをちゃんと家に送り届けるまでね」  「運転手の私に肉を残しておいてくれなかったね。それから、誰も焼肉奉行代わってくれなかった…」  「それは…。そう、彩香が焼いた肉と野菜が旨すぎて」  「そうそう、オレら修行不足で、なかなかあそこまでの腕利きにはなれなくて…すみません」  まりもが深く頭を下げる。わざとらしい。  「美波、我が家には、トングを持った人間はその使命を最後まで果たさないといけないというルールがあるのだよ」  「すまない。そのルールしかと受け止め、二度と伊東家ではトングに触れないことを誓う」  ひねくれたセリフを吐きながら、美波まで両膝に両手をつき首を垂れる。  「姉ちゃん、いい友だち持ったよな」  雄太がおかしくてたまらないという顔をする。  「ありがたいよ…」  硬くなったじゃがいもをかじる。  「お腹は満たされた?」  「もう満腹」  「それは良かった…」  小高い丘にある白い外壁の家の前でまりもを下ろす。  青色の玄関の上からは、華やかなピンク色のブーゲンビリア。その下には、テラコッタの鉢に植えられたオリーブの木。  目の前の広がる太平洋が、まりもの家から望むと、まるでエーゲ海のように見える。  「しゃれてるわ、まりもん家は」  「リゾートだよね」  続いて美波の家、民宿浜風に向かう。  「ねぇ」  「うん?」  「秀才君元気?」  「元気」  「あの人って、副会長と付き合ってたの?」  「高校の生徒会副会長?」  高橋明日香っていったよな。背中までのストレートヘアのめちゃくちゃ美しい才女。  「そういった話は拓也とはしたことない。何で?」  「先月、うちの地域の夏祭りでね、二人を見かけたの。花火を見に来ていた」  「えっ…?」  高校の時に、二人の噂は聞いたことがあった。  あの頃は、彩香も航輔に夢中で、拓也が誰と付き合おうが、何の関心もなかったし、知ろうとも思わなかった。  心がざわつく。  「眉間」  美波が、眉の間をつねる。  「しわが寄って、難しい顔しているよ。彩香にとって、秀才君ってただの幼なじみ?本当にそれだけ?」  拓也が院生になってから、グッと距離が縮まった。  彩香の車に乗せたり、ラーメンを食べに行ったり。  バーに行ったことを思い起こす。  航輔の遺伝子が冷凍保管されている二人だけの秘密。  ホテルに泊まり、拓也の胸に抱かれて眠ったこと。  恋愛関係のない、ときめき、嫉妬、触れ合いが一切ないのが、男友だちの定義というなら、今の私たちはどうなんだろう。  最近の拓也とは、定義を超えている。  チラリと美波を見る。  「何か言いたいことある?」  「何もない」  浜風のお客様駐車スペースに車を停める。  「ちょっと話しよう。寄ってって」  「えー、やだー」  強引に彩香を下ろす。  「ただいまー。彩香お持ち帰り。ちょっと、寄ってもらうねぇ」  客室『南風』が美波の部屋だ。  「待ってて。飲み物取ってくる」  ペタンとラグマットに腰を下ろす。  八畳の部屋はフローリングにリフォームしてあり、カーテンもベッドカバー も、白のレース。  アンティーク風の白いドレッサーに、白のチェスト。  円形のラグマットの上には、北欧風ローテーブル。  大きなクマのぬいぐるみが横たわっている。  「開けて―」  ドアの向こうで美波が叫ぶ。  「はい、トロピカルスムージー」  「ありがとう」  太めのストローで、中のドロドロした液体を吸い上げる。  「あ…これおいしい」  「熟れ過ぎちゃった果物をね、小さくカットして冷凍しておくの。飲みたいときにブレンダーにかけるとね、たちまち極上スムージーの出来上がり」  「さすが、大将の子。料理のセンスは抜群ですな」  「お父さんにも、美波のスムージーだけは客に出せるって言われた」  「マンゴーと、バナナ、はちみつ…?」  「正解」  「さっきの話、副会長に嫉妬した?」  「もう…やめてよ」  「だって、さっき彩香の顔、マジだったよ」  うーん。  「美波、男の幼なじみっている?」  「いるけど…」  「普段、車に乗ってどこか出かけたりする?幼なじみと?」  「それは…幼なじみとの相性によるよ。同じクラスの中にも、気の合う子といない子がいて、気の合わない子とは行動共にしないでしょ」  「うん…」  ズズズッっと底に残ったスムージーを飲み干す。  「副会長と、秀才君を見たのは本当。でも、多分二人きりではないはず。こんなローカルなお祭りは、地元人しか知らないからね。生徒会役員の会計が幼なじみなんだ。会計君の家に、生徒会役員OBがお祭りにお呼ばれしていたというのが私の推測。会長と副会長、二人が付き合っているか否か私には、分からない。ちょっと彩香の本音を知りたくてカマかけてみた。ごめんね」  少し、心のモヤモヤが晴れる。それでも、どこか胸の奥がすっきりしない。  「で、秀才君とは車でどこに行ったの?」  「職場」  美波がスムージーを吹き出しかける。  「それは…お出かけというのかい?」  「あと、ラーメン屋。拓也の車バッテリーが上がっちゃって乗せてあげたお礼に」  「うん、友だちならありだね」  「車ではなく、電車でバーにも行った。あ、行きは別々だったけど」  「ほうほう」  「そこで、チーズの食べかけ食べさせた」  「うん…ま、特殊な友だちならあるかも」  「終電間に合わなくて、ホテルに一緒に泊まった」  「はー!?なんですと!」  奇声を上げながら、大きなクマを抱き寄せる。  「はぁ…はぁ…。彩香のクセに、話題が刺激的過ぎます。この子も同伴させください」  「はい、どうぞ」  「で、同じベッドで寝たの?」  クマを抱きながら更なる尋問は続く。  「うん」  「まじですかぁ」  クマの首が窒素しそうなほど、締め付けられている。  「それで…?」  「起きたら腹ペコで、ハンバーグ食べて帰った」   「待て、省略しすぎだろ。ベッドインしてからの辺りをもう少し詳しく…」  「拓也に、私がその…男性経験がないっていうのがばれていてね。拓也と、こーすけ仲良かったじゃん。やっぱりそっち方面の話もこーすけから聞いていたみたいで…」  「あぁ、あの結ばれなかった事件か」  「それ。拓也にも笑われたから、腹立って蹴っ飛ばして。寝た。」  「ふんふん、それで…」  「終わりだけど?」  「何?じゃあ何もなかったの?本当に?」  「何もない」  「あのねぇ…」  美波が額に手を当てる。  「友だちだって、相手は男なんだよ?男女が同じベッドで寝て、何もないって奇跡だよ。異性と一緒に朝を迎えるっていうのは、そういう覚悟を持っていないといつか自分が傷つくよ」  「そうなの?」  「そうだよっ」  「美波は男友だちとそういう経験はあるの?」  「ないっ。私には、清い恋愛しかない」  きっぱりと言い切る。  「そういえば美波とは、学生の頃からあんまり彼氏の話とかしてこなかったよね…」  どんなに仲の良い友だちでも、人には話したくない話題ってあるはずだ。  美波とのそれは、異性の話だった。  彩香と航輔の、人の恋沙汰には激しく首を突っ込み、時にはおせっかいを焼き、しかし自分の恋に関してはバリアを張り、他人を入れることはなかった。  美波は、心の奥に人に言えない何かを持っている…それには決して触れず、そっとしてきた。  しかし、今日はそのバリアが完全に取り除かれている気配がする。  「誰にもずっと言えていなくて…」  美波が、秘め事を口に出そうとしている。  重い口を開こうとしている美波に、たまらずに彩香が口走る。  「まりもでしょ?美波の好きな人って…」  二人の関係は高校から見てきたんだ。分かっていたよ。美波の手を握る。美波が震えて泣いている。その肩に手を乗せる。  ブブブブッ。ブハッ…。両手で顔を隠し…これは、むせび泣き?  「美波?大丈夫?」  「…彩香…あんたって」  ハァハァと肩で息をしながら真っ赤な顔で美波が正面を向く。  あれ?泣いていない。  「それまじで言ってる?」  「だって、親密じゃん二人」  「あー、彩香の天然には参った」  「私とまりもは、恋愛感情を抱いたことはこれっぽっちもないよ」  「あれ?そうなの」  「私の彼ってね…、監督なの」  「え…えー―――っ!!陸上部のぉ??」  「そう」  「いつからっ」  「高校卒業してから」  放心状態。  「ビックリしすぎて思考回路止まった」  力が抜ける。  「両親以外、誰も知らないの」  「まりもには?」  「近日中に報告する」  「きっかけ聞いてもいい?」  「陸上部に入ってどんどん惹かれていったの。イケメンだし、熱血だし、いつも生徒と対等でいて、部員の一人一人を愛してくれるじゃない」  美波の目には、そう映っていたんだ。確かに、部員愛にあふれた監督だった。  「それで、二年の時。流しそうめんした合宿。あんとき、短距離チームはそうめんを茹でる係だったの覚えている?茹で終わった大鍋を、ざるにあけようとした時に、さっと、こう私の背後から先生が覆いかぶさるように鍋の取っ手を一緒に持ってくれて…もう、キュンキュン」  「…」  美波が頬を染める。監督の話をする美波が乙女に見える。こんな美波を見るのは初めてだ。  「私はもう完璧に監督に落ちたわ」  「で?」  「陸上引退した日、私、監督にお世話になったお礼を言いに行ったの。だけど監督の顔見ただけで号泣。思わず監督にしがみついて、放課後に会えなくなるのが悲しすぎるって」  「言ったの?」  「言った。監督ね、卒業するまでは俺はお前の監督だからって」  「んー。その監督の言い方は、美波の監督愛が微妙に伝わっていないような…」  「私も、高校生だったし、卒業するまではそれでいいと思ってた。それで、卒業してから彼を落とすべく、練りに練った策略を…」  美波が怖い。  「と、あれこれめぐらせてはいたんだけど、卒業式の次の日、私たちが生徒と教師でなくなった日。あっさり交際を申し込まれたの」  「すると、交際歴って…」  「七年目」  開いた口が塞がらない。  「結婚するの」  「いつ」  「今年の十一月」  「もうすぐじゃん」  「結婚式、来てくれる?」  「衝撃告白に、この展開。目まぐるしすぎて心が付いていけない…。でも当然、お式には出席させてもらうよ。当たり前じゃん」  助手席には、美波のお父さんにいただいたお土産。  キノコの炊き込みご飯、金目鯛の煮つけ、蓮根まんじゅう。  昼がバーベキューだったから、晩ご飯に魚はありがたい。  拓也への尋問から始まった、美波とのおしゃべり…ほんとに驚いた。  さすがだな美波は。あの監督を手中に収めちゃうんだもん。  そして未だに大人の恋愛経験のない、自分に落胆する。  夜明け前。  民宿浜風の厨房。  美波の父、大将が結婚披露宴の料理に取り掛かる。  彩香が、豪快に生クリームを泡立てる。  キウイ、オレンジ、レモンを輪切りに。  昨晩のうちに、オーブンを借りて焼き上げておいた大きさの違う三つのスクエア型のスポンジケーキ。ラップを引いた作業台の上で重ねる。  丁寧にクリームを塗っていく。  「おじさん、作業の手止めてごめんね。手伝って」  ケーキの下にナイフを差し込み、そっと底を持ち上げて両手を滑り込ませる。  アンティークショップで見つけた、シルバートレイの上に、二人掛かりでケーキを移動させる。  ホワイトチョコのボードに『Happy Wedding Kantoku&Minami』のメッセージを三段目のケーキの側面に。  壁面に、輪切りしたフルーツを立てかける。  シャインマスカットをランダムに散らす。  浜風のガーデンに生えていたローズマリーをケーキの周りにぐるりと巻く。  披露宴まで冷蔵庫へ。おじさんと二人で冷蔵庫に収める。  「彩香ちゃん、ありがとな。もう行かなくちゃだろ、教会の方」  「うん。あっちはまりもが始めているはずだから。サポートしてくるね」  化粧下地をしっかり重ね、ハイライトをプラス。アイシャドウは控えめ、まつ毛エクステを付けてボリュームを出す。リップは美波に似合うピンク色。  サイドの髪をねじったアップシニヨン。  まりもが、そっとプリンセスティアラを付け、シニヨン部分にかぶるようにベールを付ける。  プライズルームでは、早朝からまりもが美波にヘアーセット、ブライダルメイクを施している。  アシスタントとして呼ばれただけの彩香は、まりもの手際のよい仕事をただ眺めているだけ。  「我ら、美波もついに嫁にいってしまうのか…」  まりもがさみしそうにつぶやく。  そして、サンドイッチを食らう。  「うぉい、そのサンドイッチ、私にも食べさせて」  「インナーコルセットを付けている君の胃には苦しかろう」  まりもが勝ち誇った顔をする。  「苦しくてもいい、食べさせて」  「だめ」  「ちょうだいっ」  「お式終わるまで食べたらだめっ」  監督がボサボサの髪の毛で部屋に入ってくる。  「美波、キレイだ…」  監督は、ありがちなシュチュエーションのセリフを簡単に口にできてしまう恥ずかしい人間だ。  「でた、結婚式に花嫁にかける新婦の定型文」  彩香が全身を搔きむしりながら、たまらずに言う。  「何だ?彩香、今から外周走りに行くか?」  「行かないよっ」  まりもが、監督の髪のセットに取り掛かる。  「監督ぅ、私でなくどうして美波だったのですかぁ?」  彩香が、ぶりっ子キャラで聞いてみる。  「ばかやろ、お前には航輔がいただろうっ」  と監督が口走った瞬間、美波が監督を睨みつける。  プライズルームに気まずい沈黙が訪れる。  監督がしまったと口を押える。  「彩香…悪かった」  「いい。監督の失言には慣れている」  笑顔で答える。  「美波、こんな監督だけど大事にされるんだよ。おめでとう」  バージンロードと海がつながって見えるチャペル。  祭壇に向かって新郎側のゲスト席には、監督の親族、高校時代の先生から生徒までが着席している。  右側は新婦側。親族と、美波の職場の先輩、同僚、そして我々友だち。  明らかに日本人でない牧師が現れ、結婚式の始まりを告げる。  「いーまからぁ、けぇっこんしきぃを、とぉりおこないまーす」  起立を促されて、一同ざわざわと立ち上がると、白いタキシードを着た監督が登場。  左右のゲスト席が賑わう。  「よ、監督っ」  新郎側から指笛が鳴る。  「監督ぅ」  「おめでとー」  「おめでとー」  監督は、一人祭壇の前に立ち、照れ笑いを浮かべる。  こんなはにかんだ顔、高校時代見たことがあったっけ?  美波は、私たちの知らない監督の姿を見てきたんだなぁ…と痛感。  「新婦の入場です」  扉が開き、大将と腕を組んだ美波が現れた。  ドレスより長い、ウエディングベールを引きずり、パイプオルガンの音に合わせて一歩ずつ祭壇に向かって歩く。目の前を通り過ぎる。美波とベールの下で目が合う。  「おじさんの目、赤いよ。泣いたのかな」  まりもが一眼レフのシャッターを切りながら聞く。  「仕込みの寝不足かもよ」  おじさんの見たことのない緊張した顔。美波の神妙な顔。  祭壇の前で、大将から監督に美波が渡される。  讃美歌。聖書の朗読。神への祈り。そして誓いの言葉。  「やぁめるときも、すぅこやかなるときも、あーいをもって、たがいに、ささえあうことがでぇきますか?」  牧師の問いに、二人は互いに「誓います」を宣言する。  指輪が互いの指にはまる。  「キースッ」  「キースッ」  陸上部員からの、野次にこたえるように監督がニヤリと笑み、花嫁のベールを上げて、軽いキスを交わす。  「ギャーッ」  チャペルに品のない叫びが轟ぐ。  結婚証明書にサインを書いているときも、牧師が閉会の辞を宣言している間も、新郎側の教え子たちは、落ち着かない。  退場していく二人がチャペルを出ると、辛抱ならない男たちが外に飛び出す。  監督の胴上げが始まる。  監督が崩れ落ちた時、美波と監督の頭上にライスシャワーが降り注いだ。  披露宴会場は浜風。  大広間には、紅白の幕が張られている。  まりもが開口一番、  「これは…祝言?」  と彩香に問う。あぁ確かに。日本の伝統ある祝言の雰囲気を醸し出している。  たくさんのゲストに気楽に来てもらいたいとの美波と監督の強い思いで、浜風を披露宴会場にしたのだと美波から聞いた。  座敷のテーブルには、大将の料理が並ぶ。  先付け。松茸の吸い物。船盛のお造り。エビグラタンに、タイの塩焼き。たこと里芋の煮物。旬野菜の揚げ物。握りずし。フルーツ。  大皿に盛られ、みんなで分け合って食べるスタイルだ。  チャペルから流れてきたゲストが、指定席に座る。  メイン席の横には、白い台に乗ったウエディングケーキ。  次から次へと、二人の関係者がやってくる。  「おー。生徒会じゃないか」  生徒会担当だった、高校教師の声が彩香の耳に届く。  生徒会役員OBが、そろって会場に入ってきた。先生の席で座り込んで語らっている。  思わず、まりもの手を握る。  「何?どうした?」  まりもが、彩香の視線先を見る。  「お、秀才君ご一行」  まりものでかい声で、拓也が振り向く。拓也と目が合う。  「よっ」拓也が手を上げる。手を上げ返す。  彩香の席に近い自由席に、拓也が座る。隣は元副会長、高橋明日香。向かい合わせで、会計君と書記。  ブラウンのドレスに、黒のボレロ。緩く巻いた低めのポニーテールにパールのヘアアクセサリー。高橋明日香…美しい才女だったのが、さらに磨きがかかって上品で華やかな女性になっている。  隣を見る。ダークスーツにネクタイ。緑頭と、男気が増したまりも。  レース仕立てのネイビードレス。高校の時と同じヘアーのあか抜けない彩香。  「まりも、私ら女に磨きがかかっていない…」  「何を言ってんの?」  「みんな、キレイになっているんだよ。周りを見渡してごらんよ」  まりもがぐるりと見渡す。  「みんな、化粧が下手。彩香、おいで化粧直ししてあげる」  『浜本美波 親族控室』の紙の張られた一室にずかずかと入っていく。  「美波、彩香に化粧させて」  「オッケー」  鏡の前に座る。  「目を閉じて」  まりもの温かい手が顔をなぞり、化粧下地を施す。  たくさんのメイクセットの中から、パウダーを取り出す。  「これ、つや肌パウダー」  肌に付けると、一瞬でみずみずしいつや肌に。  「もう一回目を閉じて」  シャドウブラシが行きかう。  「ネイビーのドレスは、落ち着いた印象になるから…。メイクは派手にした方がいいんだ」  目を開くと、瞼がキラキラパールの入ったピンク系に染まっている。  リップにはピンクベージュを乗せる。  「ほらぁ、かわいいじゃん」  鏡の中をのぞき込む。自分では、絶対にできないメイク技だ。  「どうした、彩香。秀才君を副会長に取られてヤキモチか?」  美波が突っつく。  「おや、今度は秀才君狙い?それでか。彩香、女に磨きがかかっていないって、いじけてんの」  まりもが美波に告げ口する。  「別に、いじけてはいない。同級生の十代から二十代の女性の成長の変化に、自分が取り残されている気分になっただけ」  「彩香も蝶に成長しているのに、それになぜ気が付かないかなぁ…」  「秀才君が気になるなら、またオレが恋のキューピットに一役かってやるから安心しな」  「あんたの一役って、画像の隠し撮りだけじゃん」  「そろそろ、行きますよ…」  美波のお母さんが美波を立たせる。  「そうだっ!まりも、彩香、ブライズメイドして」  「ブライズメイド?」  「私の介添え人だよ。海外では、悪魔祓いの役割で、花嫁の友人が介添え人するんだって。宴会場に一緒に入場するの」  「いやだ、目立つの嫌い」  「オレもそういうのダメー」  「それでは、新婦の入場です」  司会は体育教師だった森先生。  宴会場のふすまが開く。  両腕を美波にしっかり組まれた三人。  拍手が沸き上がる。  まりもが美波に寄り添い、監督の元に誘う。彩香が美波のドレスケア。 主賓祝辞、美波が立ち上がったり座ったりするたびに彩香たちはドレスを持ち上げ、下げる。  「今日、お二人のために、友人の伊東彩香さんがウエディングケーキを作ってくれました」  サプライズの紹介に彩香は顔がこわばる。  美波を見ると、彩香の顔を見つめ、目に涙を浮かべている。つられて涙腺が緩みかけるのを気合で止める。  「お二人は今日まで、静かに愛をはぐくんでこられました。我々教師軍にも、隠し貫いて」  笑いが起こる。  「これよりケーキ入刀を行いたいと思います。皆様、どうぞケーキ台の前までお集まりください。お手元にカメラ、携帯をお持ちの皆様、ぜひお二人の幸せなお姿をお収めください。参りましょう。新郎新婦様によりますケーキ入刀です。どうぞ」  アップテンポのBGM。二人の持つナイフがケーキの中に埋もれる。  カメラの方に向きを変えてはポーズを取る二人。  互いの口にケーキを運ぶファーストバイト。  美波、遠くに行っちゃったな。寂しさと嬉しさで胸がぐちゃぐちゃになる。  校長先生の乾杯の後、ようやくブライズメイドからの解放。  しかし、美波のお母さんにつかまる。例の白い布を渡される。  「これは…」  「やっぱり」  白いエプロン。浜風の文字と波マーク。思わず、まりもと抱き合い、朝からの労働をねぎらう。  「彩香ちゃん、まりもちゃん、みんなの分のケーキを切り分けてきてちょうだい。百五十人分くらいあればいいから」  まりもと、ケーキを厨房に運ぶ。  ローズマリーを取り外しながら、三段のケーキを解体していく。  宴会場からは、余興の歌が聞こえる。  「オレら、いつになったらご飯食べられるの?朝からサンドイッチしか食べていない…」  「頑張ろう、まりも。これさえ片づけたらごちそうが待っている」  「いくら巻き残っているかな?」  「残ってる、残ってる」  彩香が切り分け、まりもが皿にのせる。それをワゴンに乗せて宴会場に運ぶ。  「彩香。余興だよっ、早く」  彩香を探していたらしい陸上部員にせかされて、今度は慌ただしく陸上部ユニフォームに着替えて舞台裏に行く。  「ファイトォ、ファイトォ」駆け足しながらの登場。  ミュージックが流れる。リズムに合わせて、陸上部で毎日こなしていた、ストレッチと筋トレ。練習メニューを告げる監督の口真似で、トレーニングが加速。途中、スタートラインに立つときの美波が太ももを叩きジャンプする真似を取り入れる。  拓也が高橋明日香と笑いあっている姿が、目に飛び込む。  ねたましい…自分の中で沸き起こる感情に苛立ちを覚える。  嫌な人間だな、自分って。  余興後も、がむしゃらに働いて、訳分からんこの思いを払拭したい。  その後も空いた皿を片付け、飲み物を運び、勝手知った浜風の宴会場と厨房を行きかう。  「彩香ちゃん…」  おばさんが呼び止める。  「はい」  「今日は、もうお手伝いさせるつもりはないから。美波の晴れ姿を一番近くてみてあげて欲しいの。それが、あの子の望んでいること」  彩香のエプロンをはがし、宴会会場に誘うおばさん。首を縦に振り会場に戻る。  涙の両親への花束贈呈。  涙の新郎謝辞。  バスを自ら運転して、ゲストを送りに行ったおじさん。  チャペルへ支払いに行っているおばさん。  普段着に着替えたまりもと二人だけになった宴会後の会場。  婚礼料理はきれいに食べつくされ、机はずれて、座布団が散乱している。  たった五か月前にこの隅で、三人でごちそうを食べたこと。  片づけを手伝い、片づけた座布団のタワーにジャンプしたまりも。白熱した座布団投げ。  遠い昔の出来事のようだ。  客室で、持参したビールを三人で飲みながら、もう高校生ようにはじゃれ合って生きていけないことを知った現実。  美波が結婚した今、独身時代の私たちには戻れない。  「片づけてしてから帰らない?」  「そのつもりだったよ」  ひっそりと静まり返った厨房の電気を付ける。  番重と、バケツを持ち、宴会場に戻る。  番重に皿を入れていく。  「あの…」  宴会場の入り口に、拓也と会計君が立っていた。  「何か手伝うことない?」  会計君が問う。  「宴会場の片づけ、手伝ってくれる?」  「了解」  男性の職務遂行能力はすごいと思う。  テーブルの食器がみるみるなくなり、厨房に運ばれる。  机が片づけられる。座布団が部屋の隅に積みあがる。  掃除機をかける会計君だけを会場に残し、残りの三人は厨房にこもり洗い物。  彩香が食器をこすり、まりもがすすぐ。  それを拓也が食洗器にかけて、乾燥庫にしまっていく。  「おーっ!!」  厨房に登場した美波が目を丸くする。ウエディングドレスから、いつものジーンズ、Tシャツに着替えている。  「君たちは神ですかっ」  「神ですよ」  「ありがたい~」  「時給二千でいいわ」  「そこを、何とかダダでっ」  おばさんが顔を出し、びっくりしている。  「今日のお手伝いはいいって言ったのに」  「浜風にきたら、オレ勝手に体が動いちゃう」  「私も…」  おばさんが噴き出す。  「エプロン持ってくるね」  「出た。浜風エプロン」  宴会場の片隅。  ささやかな、二次会。  おじさんとおばさん。  美波、監督。彩香とまりも。  それから、会計君と、拓也。  「家族水入らずなのに私たちまで…」  彩香がつぶやく。  「何言ってんだ?彩香ちゃんもまりもちゃんも家族だ。ワシの娘だ」  日本酒で真っ赤に顔染めたおじさんが声を張り上げる。  「そうですよ、お義父さん。しかもこの子たちは僕の大事な教え子」  と監督。  「よし、君たち全員今日は泊っていきなさい」  「そうね、あなたたち明日は仕事?」  「休みでーす!」  「それじゃ、お風呂の支度…ご家族が心配な子は、おばさん電話するからね」  浜風の前に広がる砂浜。置きさらしのリクライニングチェアに寝ころぶ。  波音に、安らぎを感じ眠気を誘われる。  まどろみの中、夏の部活合宿を思い出す。  彩香と美波の二年生何人かで、夜中の学校のプールに忍び込み素っ裸で泳いだ。  着衣を脱ぎ捨てた開放感。動くたびに全身に水の感触を感じる気持ち良さ。  「男子たち来たらやばいよね」ってほんの少しだけ気にして、合宿所の明かりを遠くに見る。陸上部の男子は、女子のようなやんちゃ者はいない。だから、夜のプールで泳ぐなんて、そんな発想すらなかったと思う。  彩香の足を不意に引っ張り、プールの底に沈める美波。  髪を束ねずに潜った美波は、顔に濡れ髪が張り付き、そこからのぞく二つの目。化け物の様な容貌にみんなが奇声を上げる。  肺に一杯空気を吸って、大の字になって水面に浮かぶ。  プールサイドで、着替え、合宿所に戻る。  ぞろぞろと髪の毛を濡らし、中に入ってきた先輩を怪訝そうに見つめる後輩。  その後、監督室に呼び出し。  外出の目撃情報がある。一体外で何をしてきたのか。  監督からの尋問に、告げ口した後輩の顔が目に浮かぶ。  体から漂う塩素の匂い。嘘はつけられなかった。  「事故があったらどうするんだ。情けない」とうなだれる監督。  告げ口した一年に対して、それが監督にばれたことに、いろんな意味で「悔しい」と涙を流す美波。今思えば、監督に「情けない」と言わせてしまったことが、一番つからったんだろう。  大きなあくびを一つ。  バスタオルを首までかける。  「…おいっ、彩香っ」  ひっ迫した声に起こされる。  人の顔のシルエットが顔面の上に。  「ギャッ!」  「ギャッじゃねえよ。まりもが、彩香がいなくなったって、血相変えて探していたぞ。車はあるのに本人がいないって」  「ごめん、連絡入れる」  まりもに電話する。  「しかし、こんな寒い中よく寝られるなぁ」  隣のチェアにゴロンと拓也が転がる。  「つい、うとうとしちゃったわ」  目をこする。まだ少し頭がぼんやりする。  「片づけハードだったでしょ」  「そうでもないよ…実験器具とか毎日洗っているから」  「比にならないよ。洗う量が違いすぎるわ」  「ウエディングケーキ、すごかったな」  「ありがとう」  「うまかった」  「良かった…。星…きれい」  照れくさくてすぐに話題を変える。  先月まで何とか見えていた夏の星座が、見えにくくなっている。  十一月初めとはいえ、夜の冷え込みがつらい季節になってきた。ブルリと体を震わす。  「結婚式良かったね」  「うん」  「拓也?あのさ、こーすけの精子凍結の話なんだけど…今日の結婚式見ていてね、互いが愛し合ってこそ命を迎え入れる正当性があることを感じたの。亡くなった人の遺伝子を、残された者のエゴで利用することは倫理に反していると思う。それは、こーすけの残された家族にも、産まれてくる赤ちゃんにも、罪を犯すことだと思った…」  「その通りだ」  拓也がつぶやく。  「本人の承諾なしの破棄については法律に反すること?」  「日本生殖医学会の精子の冷凍保存については、本人が生存している期間とするってあるみたいだ。しかしもともと、俺は倫理に背き、勝手に友人の精子を凍結させている。自分の手でそれを廃棄する、その責務がある」  彩香が深くうなずく。  「戻ろう、もう体が限界」  砂浜から民宿に向かっていく。道路わきに人影が座って見える。  「拓也…人がいる」  早口でささやき、拓也の袖をつかむ。  人影が立ち上がる。  「まりも?」  「くっそ、さみぃ」  まりもが両手で、自分の体をさすりながら抱く。  「チェアに二人のシルエットが見えたからさぁ。チューするのかな?ラブラブするのかな?て、ワクワク観察していたんだ。つまんねーの。時間損した」  「バカじゃない?」  「あー、バカって言った。バカって言ったほうがバカなんだよ。そんなことより、心配させてごめんなさいは」  「ごめんなさい」  「さ、帰るよ」  カランカラン、まりもが下駄を鳴らせて歩き出す。  「まりも、監督に美波とられて寂しくない?」  「全然平気。美波が監督好きなの高校ん時から見ていて分かっていたし、付き合っているのも薄々感じていたし。今更だよ。第一オレには、彩香もいるじゃない。他にも心を満たしてくれる人はいっぱいいる」  「おっ、まりもは強いな」  「秀才君、バカにしてる?」  「していません」  「生徒会役員OBは、仲いいんだね」  「そうだな」  「高橋明日香、秀才君のタイプでしょ」  まりもの唐突な発言に、思わず拓也を見上げる。  「みんな…同じこと聞くんだな」  拓也がため息をつく。  「きれいな人だとは思うよ」  「…彼女?」  「んなわけないじゃん」  「元カノ?」  「だから、なんでそうなるわけ?」  「分かった。秀才君の片思いかぁ」  「参った。彩香、この口だまらせてよ」  拓也が、気抜けした声でSOSを出す。  まりもが、ケタケタと高笑いをあげながら、下駄を脱ぎ、入り口で緑のスリッパに履き替える。  「秀才君、おやすみ」  彩香の肩をがっしりつかんで、客間に消えた。  翌週火曜。ラインが入る。  拓也「明日の水曜日、会議で誰もいない十七時過ぎに廃棄する予定。別れの儀式に来る?」  彩香「行く」  実験室。  拓也が、膝丈程のアルミ色、液体窒素タンクの蓋を開ける。モクモクと白い水蒸気が沸き上がる。  保護手袋を付けた拓也が、タンクに引っかかっている棒を引っ張るとラックが現れる。  保存された試料の中から、チューブを二つ抜き取る。真っ白に凍結されたチューブを電灯にかざす。チューブから水蒸気が立っている。  「これを、三十七度のウオーターバスに突っ込んで融解したら、人工授精ができるんだ」  ドキドキする。  「成功率は?」  「精子自体の保存率は五十~八十%に落ちているはずだけど、妊娠成功率は、フレッシュな精液と同じ条件下で行ってもそんなに変わらないんじゃないか?」  「じゃ、廃棄するよ」  一本彩香に渡す。ko-sp②23.4と拓也の字でラベリングされた航輔の遺伝子。  たった、数グラムにも満たない物なのに、その存在がずっしりと重い。  感染性廃棄物、バイオハザードマーク(赤)のゴミ箱に、拓也の後に続いてチューブを葬る。  「お終い」  拓也が淡々と言う。  下唇を噛みしめる。  「二度も航輔と永遠の別れを経験した気分」  声に出した瞬間、彩香の目から涙がこぼれる。  実験用のウエスを拓也がよこす。  キムタオルと呼ばれる薬液などを吸い取るペーパーは、グイグイと涙を吸収する。  「医局の人たちが戻ってくるから、帰るね」  バッグを肩にかけ出ていこうとする彩香に拓也が口を開く。  「車にあったタバコ、まだ残っている?」  「うん。全然手をつけていない」  「吸おうよ」  拓也がいたずら小僧の顔になる。  「しょうがない子だな。車で待ってる。なるはやで来て」  職員駐車場の、駐車利用者がほとんどいない場所に車を移動させる。  「別に悪いことしているわけじゃないし、ここまで隠れなくても…」  助手席の拓也があきれる。  「あまり、人に喫煙の姿は見られたくないの」  拓也がタバコに火をつける。拓也からライターを受け取り、彩香も細いタバコの先に火を付ける。  窓を開ける。フッーと長く吐いた紫煙が、冷たい空に昇っていく。  「こーすけが私のこの姿見たら幻滅するかな」  力なく笑う。  「こーすけには隠したいんだな。オレの前では平気なくせに」  「どうしてだろうね。拓也とは付き合いが長い分、私の短所も見られている。だから、自分のみっともなさをさらけ出しても平気なのかも。こーすけはさ、高校三年間の私しか知らなかったわけじゃん。だから、良い自分しかみせたくないのかも」  「拓也の言うところの、私のグループ所属の悪名高い二人にさ、『こーすけの命の液体・拓也激怒事件』話しちゃった」  「そんな話、よく友だちに話すなぁ」  あきれながら、煙を外に吐く。  「女子トークはそんなんばっかだよ」  「そしたら、あの二人がさ、自ら人工授精をする気だろうかとか、人工授精を秀才君に手伝わせるんだろうかとか、こそこそ言ってるの」  彩香に背を向けささやき合う二人の姿を思い出し、吹き出す。  「俺そういうノリについていけない…」  「ごめん、品がなかった。拓也、もしあの凍結チューブの融解したものを、仮にだよ、人工授精してって私が頼んだらしてくれた?」  「俺が、彩香に?」  「うん」  「やば…」  口に手をあて絶句している。  「…して欲しかったの?」  「ちょっと、想像してみただけ」  灰皿に、ギリギリまで小さくなったタバコを押し付ける。  「それでね、妊娠して一人で育てていくことを想像してみた」  拓也は黙っている。  「でもね…」  声が震える。目に涙がたまる。拓也にばれないように、肩に顔を当て、涙をぬぐう。  「こーすけの子を育てる未来を想像できなかった。心のどこかで、こーすけの死を現実として受け止め、もう私の将来に彼は必要ないって言うの。あんだけ、こーすけを一途に思っていた自分が変わっていく。こーすけがいなくなって、どん底のショック状態で、喪失感でいっぱいだった心がどんどん薄れていって楽になる一方、それはとても罪深い気がして、残酷な気がして…」  頭脳明晰な拓也を見る。彼はどんな主張を述べるだろうか。情の薄れゆく自分を、あきれただろうか。見損なっただろうか。  「再生期」  「えっ?」  「グリーフ(死別による悲しみ)ケアは四段階のプロセスを経て回復すると言われている。『ショック期』、『喪失期』、『閉じこもり期』、『再生期』。自分の感情を認め、大いに肯定し、沸き上がる感情を思いのまま吐き出すほど、現実を受け入れることが早くできる。彩香は、すでに現実を受け入れられているんだ。回復期に向かっている。それは悪いことではない。人間、悲観に暮ればかりでは生きていけない。そこから抜け出せずにいたならば、精神をやられちまう。回復し、明るい未来を見て生きていく、それこそ健全な人間のあるべき姿なんだと俺は思う。人間って強いんだよ」  グリーフケア…傍で支え、悲しみを受け止めてくれる拓也に、まりもに、美波。  何があったのかさえ聞かずに、温かく見守ってくれる葵。  居心地の良い環境、温かな料理で支えてくれる家族。  自分は、みんなにケアされていた…。  「拓也。ありがとう」  「おう」  拓也の手が頭をなでる。瞬時、固まる。  「拓也って、彼女いる?」  「俺?」  「うん」  「今は…いない」  高橋明日香の存在が頭をよぎる。払拭する。  「明日から俺冬休み。あ、でも動物の飼育には二日に一度は来る」  「いいなぁ。こっちは年末年始なんて関係ないよ。大晦日、元旦も仕事」  苦しみぬいた一年が終わろうとしている。  大晦日。  病院食も、年越しそばと天ぷらが夕食に出される。ちなみに、そばアレルギー患者には、代替えでうどんが出される。  コロナの影響で、使われなくなった患者さん食堂スペース。  患者さんは、年越しも自分のベッド用テーブルで食事をする。  夜の配膳。配膳車を引きながら、各部屋に食事を届ける。  彩香は、脳外科の病棟を回る。  病室前のタッチパネルに触れると、患者名が出る。お膳に乗った食札の名前を照らし合わせて食事をスタッフに手渡す。今日のスタッフは、彩香の同級生、(修学旅行ののぞき魔)志賀看護師だ。よりにもよって年末最後の仕事を志賀とペアなんて…。  一緒に配膳車を引きながら、志賀が言う。  「今年最後まで仕事だったな」  「そうだね」  「俺、今日夜勤だよ」  「大変だ。年越し仕事がんばれ」  「…航輔、残念だったな」  「うん」  志賀も、高校生の時から成長していると思う。しかし、彩香の頭では、のぞき犯罪者の警報が激しく鳴り響き、こいつを拒絶している。  食事の配膳が終わると、志賀は食介の必要な患者さんに付き添う。  志賀に「良いお年を」と言い残し病棟を後にする。  厨房では、調理長の石田さんが包丁を研いでいる。木下さんが下処理室のシンクを磨いている。斎藤リーダーが事務所に掃除機をかけ、山口が机を磨く。 そして、彩香は葵と厨房のスチコンを洗い、ブラストチラーを拭き、簡単な大掃除を終わらす。  年末の挨拶を済ませて、葵と駐車場に向かう。  「一年早い」  白い息を吐き、暗い駐車場への小道を首をすくめて歩く。  「働き始めてからの一年、めちゃ早くなった」  猫が寄ってくる。  「ちゃーちゃん」  葵が甘えた声で、目を輝かす。カバンからタッパーを取り出し、カリカリを置く。  ちゃーちゃんがカリカリと音を立ててそれを食べる。  他の猫も寄ってくる。  「今日に限って、栄養課も全員早朝から遅番までの通しってね」  「労働時間長かった…」  「明日は私、早出」  「元旦からきつい」  この寒空の下、猫たちはどこで暖を取るのだろうか?  動物施設の中の動物たちは、大晦日の今日も実験日まで命をつなぐ。  命を落としホルマリン漬けになった組織は、実験室の冷蔵庫で眠る。  附属病院で年を迎える患者さんも、明るい年を迎えてほしい。四角いオレンジ色に光る病室を遠くに眺めながら、そう祈らずにはいられない。  元旦の朝は、お節料理に祝い汁、赤飯。そして、新年のあいさつのメッセージカードをお膳に添える。  少ないスタッフで慌ただしく、日の上がらないうちから朝食の準備を始める。  病棟の十階から初日の出を拝む。七時十五分、配膳が始まる。  各部屋からは、「うわー」「お節だぁ」患者さん喜びの声が漏れている。  その声だけで、正月勤務が報われる。  入職したての一年目。  ロッカーで、年始のあいさつをしたら、  「院内で、おめでとうございますなんて言うものじゃないわよ」  とパートの岩田さんに元旦から叱られた。  しかし、平田さん含む他パートさんたちが、  「新年のあいさつなんて、受付でも患者様にしているわよ。あなたの一方的な意見を一年生に押し付けるんじゃないわよ」  バトルになった。  しかし栄養課のロッカー前は霊安室。おめでとうの言葉も慎まなければならないのかもしれない。  元旦だろうが、クリスマスだろうが、ご遺体はロッカーの前を通り霊安室に運ばれる。  中番の葵が出勤する。  事務所で、「おめでと。今年もよろしく」軽く交わす。  いつもの業務。いつものトラブル。  昼食用の紅白饅頭が不足。饅頭求めて周辺の店を奔走する。  献立作成、食事指導、栄養管理、食材の発注、衛生管理、調理、片づけ…。そして細やかな雑用。  新生児用のミルクを哺乳瓶に入れて授乳室に向かう。  産まれたての命。亡くなる命があれば、産まれる命もある。人の一生に立ち会う、それが病院。  母乳の足りない赤ちゃんのためのミルクを冷蔵庫にしまいながら、母親の乳に必死で吸い付く赤ちゃんを眺める。  生えたてホワホワの髪の毛。乳房に添えられた小さな手。患者識別バンドの巻かれた小さな足首。全てが愛しい。  一日の業務が終わり十五時。駐車場に向かう。  スマホにメッセージ。  まりも「あけおめ。ことよろ」  美波「あけおめ。新年会するよ、一月二日浜風に昼集合(良かったら、拓也も可)」  拓也「おめでとう。仕事終わったら初詣に行くぞ」  学生は気楽でいいな。家に車を置いて拓也の家に向かう。  ガーデン伊藤の門には、松に竹、葉牡丹、南天の寄せ植え。  庭には、スイセン、パンジー、ビオラ。スノーボールにクリスマスローズ。クレマチス。  出窓には、ポインセチアと、シクラメンの鮮やかな赤が見えている。  彩香の家の、土とコンクリートだけのただ広いだけの庭とは大違い。  呼び鈴を鳴らす。  エンジのタートルネックセーターに黒のパンツ。紺のコートを羽織った拓也がアーチを通って歩いてくる。  「よう。フラワー王子」  「年明け一番のあいさつがそれ?」  笑っちゃう。  「あけましておめでとう。今年もよろしく」  頭を下げる。  「あけましておめでとう。こちらこそ今年もよろしく」  拓也がはにかむ。  「氏神様でいいよね?」  「いい」  通いなれた道を歩く。  「仕事どうだった?」  「年末が、高三クラスメイト、志賀とコンビで配膳」  「志賀って志賀恭一?あいつ、T医勤務してるの?」  「脳外科看護師」  「知らなかった」  「今日は、早番。十階から初日の出を拝み、お節を出した。昼の紅白饅頭が不足して、業者休みで、開いている店回って不足分買いに」  「現場は大変だなぁ」  「正月から大変よ…あーっ!!」  「何だよ急に、でっかい声で」  「明日の昼、暇?」  「別にこれといった用はないけど」  「美波が浜風の新年会に、拓也も良かったら可って」  「可って…歓迎されているのかな?」  「されてる、されてる」  笑いながら適当に返す。  「行っていいの?」                                                                                                      「悪名高きメンバーの中に交われる勇気があるのなら」  「怖いな…」  「失礼だな」  行き交う人は、新しいお札や破魔矢、チョコバナナや串焼き、カステラ焼きなどを手にしている。  「お腹すいてきた」  「昼食べてない?」  「しっかり食べた。朝はお節の検食、昼は弁当。その後も厨房で色々味見」  千年以上の歴史のある神社。江戸時代には、参勤交代時の大名は必ず神札を受けられたと伝えられている。  地元以外からの参拝者も多く、今日は元旦ということもあって境内までの道は混みあっている。  鳥居の前で一礼。鳥居をくぐり、人でごった返す中、手水舎の水で心身を清める。  参道にも人がひしめき合っている。群集が転倒した圧死事件を思い出し、拓也のコートをつかむ。  拓也の手が、彩香の手をしっかりと握る。拓也を見上げる。その目はまっすぐ御神前を見据えている。  御神前。拓也がつないだ手をそっと放す。見慣れた賽銭箱が消え、特大の賽銭受けが設営されている。  小銭や札が丸見えの賽銭受けに、小銭を投げる。  二礼二拍手一礼。手を合わせる。  名前と住所を伝え、日ごろの感謝を述べた後、祈り。  今年は、大切な人を失いたくない。それが彩香にとって切なる祈り。  拓也の横顔を見ると、まだ祈っている。  信仰心なんて持ってなさそうな理系男なのに、何祈っているんだろう。  「去年の交通安全のお札、返納してくる」  長い祈りから戻ってきた拓也に耳打ちする。  古札は納札所に納め、授与所にて新しいお守りを求める。  今年は『交通安全御守』の中からゴールドを選ぶ。拓也は紺色を授かっている。  「おみくじは?」  「しない。凶出たら落ち込むもん」  おみくじ掛けの陰に、いつもはいるチャボの群れが今日は見当たらない。  「チャボいない」  横目で通り過ぎる。  『唐揚げ』の屋台が現れる。  「唐揚げにされちゃったかな?」  唐揚げの屋台を指出し、哀愁を含んだ眼差しで拓也を見上げる。  「残酷…。俺を常日頃、動物実験の極悪人的呼び方しているくせに」  「冗談だよ、冗談」  拓也の肩をたたく。  「お腹すいているんだろ。なんか食う?」  「んー、いいや」  「珍し…」  「職場で衛生教育をたたき込まれると、どうしても屋台の物が食べられなくなっちゃうの。私もつまらない人間になったものだ」  「なるほど」  「明日、浜風に何差し入れ持っていこうか」  「大将が絶対に作らない物がいい。ケーキとか、アイスとか」  「じゃ、ケーキとアイス両方買っていこう」  「あーうれしい、休みだ、休みだ。正月休みだ」  沿道をスキップする。  「家に帰ったらしこたま飲む。爆睡して明日また飲む。あ、いやだ私、今年まだ家族に会っていなかった」  家に帰ると、酔っぱらったお父さんがいびきをかいて、こたつで寝ている。  こたつの上には、食い散らかしたお節。飲み残しのぬるいビールをグラスに注ぎ、重箱に残っている残り物を突く。  「いいなぁ。お母さんは…。年末年始、土日休み。一日一回食だし。私も、保育園とか、学校給食にすればよかったな」  母に病院栄養士の愚痴をこぼす。  「だから、就職決めるときに病院は大変だよって言ったでしょ」  返す言葉が見つからない。  「今日は、お節出したの?」  「出した。冷凍ワンプレートのお節」  「まぁ、あれだけの人数の食事で、スタッフ削られたら、そうなるわね」  「でも喜んでいたよ、患者さん。雄太、お年玉あげる」  「やったぜ」  「姉ちゃんが、叱られて𠮟られて、身を粉にして働いたお金大事に使うんだよ」  「そんなこと言われたら使えねぇよ」  「筑前煮うまい、ママ上手」  「はいはい」  「明日は、美波ん家の新年会だから」  「飲みすぎないようにね」  お母さんが、どっこらしょと立ち上がり夕飯の支度にとりかかる。  さすがに、連チャン早出勤務の娘には、手伝えとは言わない。  「あー、いいな社会人は」  「社会人なめんな。世間は厳しいぞ」  父の体を足でどけながら、こたつの中に自分のスペースを作り寝ころぶ。夕食のすき焼きの匂いを夢現に寝落ちた。  拓也の運転する黒のセダンで浜風に向かう。  掃除の行き届いた車内は、ふわりと優しいムスク系の香りがする。  昨日授かった交通安全のお守り以外、余計なものが何一つ置いてない。  途中で、まりもを拾う。まりもの頭には、梅の形のちりめん髪飾り。着物風ワンピース、下は袴。まりもならでは独特なファッション。  民宿には、二対の立派な門松。  「おめでとうございまーす」  フロントで声を上げる。花瓶に生けられた梅とスイセンの春を告げる香りが、出迎えてくれる。  ウインドブレーカーを着た監督がのそのそと現れる。  「監督、おめでとうございます」  「よう。おめでとう」  「正月も、スポーツウエア?」  年がら年中、代わり映えしない監督の装いにあきれる。  「なんだ文句あるか彩香。よし、初練習だ。一緒に砂浜を走りに行こう」  「御冗談を」  買ってきた、アイスとケーキを渡す。  正月三が日は、浜風は休業中だ。  宴会場に入る。まりもが目を輝かす。  エビフライとローストビーフ、スモークサーモン、キッシュの乗ったオードブル。てまり寿司、サラダ、煮物が用意されている。  「すげぇごちそう…みんな手伝いに行こう」  まりもが廊下を走って厨房に行く。髪飾りが揺れている。  「おめでとうございます」  「おぉ、みんなおめでとう」  大将が白い身を薄く削ぎ、大皿に盛っている。  「すごい、おじさんふぐ調理師も持っているの?」  「すごいだろ」  口元がほころんでいる。  「秀才君、ビール運んで」  美波と拓也が、ビールを冷蔵庫にとりに行く。  まりもと、グラスと取り皿を運ぶ。  みんなが席に集まる。  監督が、ビールを注いでくれる。  「じゃ、みんな今年もよろしく。良い一年でありますよう」  大将の一言で、カンパーイ。グラスを合わせる。  「伊藤は飲めんのか?」  監督が聞く。  「運転手なので」  「つまらんこというな。泊って行けよ」  「そんな、毎回泊めていただくわけには…」  「部屋数なんていくらもあるんだ。遠慮するな」  四角い顔をほころばせながら大将が言う。  おばさんが、拓也用にウーロン茶を持ってくる。  「オレ、明日から仕事だから、秀才君に送ってもらわないと困っちゃう」  「まりも、明日から仕事なの?」  「うん。これから成人式にかけて激務。しばらく遊べないよぅ」  「おじさんの作ってくれた、おいしい料理食べて頑張れ」  「しかし、突っ込みどころ満載のファッションですな今日も」  美波が、まりもの髪飾りに触れる。  「かわいいでしょ」  「その爪は?」  黒のネイルに、金の龍。  「年末にスプニールに行って瑞希ちゃんに施術してもらったの。今年の干支だよ」  「まりもは、いつも楽しそうに生きているよな」  拓也が感心する。  「まあね」  幸せそうに、てまり寿司をほおばるまりも。  美波が、ネギを巻いたふぐ刺しを、もみじおろしのぼん酢に浸す。  彩香もつられて、ふぐ刺しに手を出す。  プリプリとした触感。噛みしめるほどにふぐの身からあふれる、イノシン酸、グルタミン酸のうま味。  「私もふぐ調理師の免許欲しいな」  「…活締めに抵抗あったら無理だぞ」  大将がやめとけ、という顔をする。  「残酷?」  「締めても体が動いているから。生きたものの調理は本当にむごい」  おばさんが顔をしかめながら言う。  「私も、食べておきながら卑怯だと思うけど、生きているものに刃を向けるのが正直苦手。一度、鶏の解体現場見学して、生きた鶏が肉の塊になっていく途中で吐き気をもよおして退席しちゃった」  彩香は、鶏の首を締める現場を思い出し、目を落とす。  「でも、それが命を頂くってことなのよね」  そうなのだ。  「拓也は動物解体には強いね、きっと」  「俺だって好きでしているわけじゃないぞ。それに、なるべく苦痛を与えないってルールのもと、しっかり麻酔して実験しているし…」  「実験…」  美波と、まりもが顔をしかめる。  「伊藤は何の研究をしているんだ?」  監督と拓也の話に大将が耳を傾ける。  「美波夫婦は結婚後も浜風暮らし?」  「うん」  「結婚生活楽しい?」  「うふふ…」  「いいなぁ、幸せ者」  「彩香はどうよ」  チラリと拓也を見て、美波の目は彩香を射る。  「昨日、二人で初詣行ったんでしょ」  「うん」  「どうだったの」  「めちゃくちゃ混んでた」  「もう、いやだわこの子」  あきれた口調でまりもに救いを求める。  「世の中美波みたいな肉食系女子ばっかりじゃないんだよ。彩香は、草食…でもない、プランクトン系だから、この子のペースを見守ってあげようよ」  まりもが笑う。  「何よ、プランクトン系って。私は魚?」  「いいねぇ、彩香の魚」  「誉め言葉?」  「うーん、けなし言葉」  「ひどっ」  平和な年明け。  大好きな友だちと、食べて飲んでしゃべって。それから食後の片づけ。  「お邪魔しました。ごちそうさまでした」  拓也の車で送ってもらう。まりもと、知っているボカロを延々歌う。  「にぎやかだな…」  「ほら、秀才も歌ってっ」  サビの部分でまりもの手が踊り出す。手だけの振りだけどめちゃカッコいい。  「はい、到着」  まりもが踊りながら家に入っていく。  「すげぇパワーだな…」  ポツリとつぶやく。  「飲めなくてつまらなかったでしょ。家帰ってから飲み見直ししなよ」  「彩香送った後、ラボ行かなくちゃいけなかったから今日はどのみち飲めない」  「実験?」  「違う、動物の餌と水替え。あと、年末にホルマリン漬けた組織を置換しなくちゃいけないんだ」  「大変だね」  「午前中行けば良かったけど、ダラダラしていた俺が悪い」  「手伝おうか?餌やりくらいしかできないけど」  拓也が目を見開く。  「家の方は大丈夫?」  「連絡しておくよ。私も家に帰ってもやることないし」  スマホを操作する。  「了解得たよ」  運転中の拓也にお母さんからのメッセージを見せる。  「まじで助かるわ」  拓也のキーボルダーについている、小さなライトで実験棟までの道を照らす。  拓也がカードキーで、動物実験施設の入り口を開ける。  明かりをつける。動物の匂い。茶色のスリッパに履き替える。  「ネットかぶって」  設置してある、使い捨てのヘアーネットをかぶる。  「白衣もここの使って」  ずらりと並ぶ白衣の中から、一番小さいMサイズを着る。  「あと、マスク、ニトリル手袋とアルコール消毒」  一階で、新しいチップをゲージに敷いて、それを持って二階に上がる。  三号室で拓也がカードキーで部屋の施錠を外す。  ラックに並んだゲージ。どのゲージの中もマウスだらけ。  拓也が迷わず、その中から三つのゲージを台の上に置く。  「汚れているから新しいゲージに移し替えるんだ」  なるほど。チップが糞尿で濡れて、悪臭を放っている。  「一応グローブして。こうやってしっぽの根元をつまんで持ち上げ、さっと移動すれば噛みつかれることはまずないから」  拓也の真似をして漆黒のマウスをきれいなゲージに移し替えていく。  「いろんな目的で薬を投与したり、手術したりしたマウスばかりだから。コンタミしないよう蓋はしっかり閉めてな。細心の注意が必要なんだ」  「分かった」  蓋を閉め、くぼみに固形の餌、そして水の入ったボトルを新しいものに交換する。  三つ分のゲージを清潔にしてから、三号室を後にする。  一階に降り、洗浄室に入る。  汚れたチップをバケツに捨て、ゲージを軽くすすぐ。それを一か所に重ねておく。  「ここまでしたら、あとは施設の人がちゃんと洗浄してくれるんだ」  手を洗い、マスクと手袋、ネットを捨てて、白衣を戻し、施設を出る。  次に実験棟。  通いなれたエレベーターに乗る。四階で降りる。  非常灯の明かりだけしかない廊下を、ライトで照らしながら薬理学の実験室まで行く。  鍵を開けて、明かりをつける。  拓也の後に続いて入る。  冷蔵庫を開け、スピッツ管が並んだ試験管立てを取り出す。  透明な液体に人の指先くらいの脳が浮かんでいる。  ドラフトチャンバーと呼ばれる、局所排気装置の中にそれを置き、ビーカーとシャーレを棚から持ってくる。  「ホルマリン溶液、猛毒だから見ているだけにしてな」  ドラフトの中で、作業が始まる。  ニトリル手袋をはめて、ホルマリン溶液をビーカーに捨てる。 シャーレに脳をそっと置いて、30%saccharoseとラベリングしてある溶液をピペットで吸って、スピッツ管に入れなおす。  ピンセットで脳を戻し、蓋をする。  一連の作業を拓也の背後から観察する。器用に動く手。研究者の手だなぁと感心する。  「置換っていう作業がこれ?」  「そう。組織は、ホルマリンで固定するんだけど、漬けっぱなしにしておくと、今度は壊れやすくなっちまう。だから、シュークロース溶液に漬けなおす」  「ふーん」  ビーカーに捨てたホルマリン溶液は、廃液と書かれたボトルの中に捨てる。  置換の終わった脳のスピッツ管たちは再び、冷蔵庫で眠る。  「あの子たちの今後は?」  置換後の脳の行方が気になる。  「あそこにある、クリオスタットっていうミクロトーム使って凍結標本にするんだ。休み明けからひたすら標本作り」  白い機器を指さす。  「そうだ、凍結標本を染色したのがあるんだ。見ていく?」  「見てみる」  実験室の脇にある暗室に移動。  暗幕カーテンを開けて、小さな部屋の明かりを灯す。  電子顕微鏡が置いてある。顕微鏡の電源を入れ、隣にあるパソコンも立ち上げる。  スライドガラスを顕微鏡に設置する。  パソコンの画像サイズと、接眼レンズをいじる拓也。  部屋の明かりを消す。  パソコン画面に、細胞らしきものが映し出される。  「このパソコン上の画像が、いま顕微鏡で見ている画像。のぞいてごらん」  顕微鏡をのぞく。続いてパソコンの画面を見る。  「ほんとだ…」  「これが樹状突起、ここらのは…マクロファージ」  拓也が示す指の先には、教科書で見た形の神経細胞の形がそのまま映っている。  「マクロの世界ってすごい。初めて肉眼で見た…」  蛍光色で染色された細胞が、まるで宇宙に浮かぶ星のように光って見える。  「スライドの染色剤、発がん性あるから直接触らないでね」  拓也がパソコンのカメラマークをクリックすると、画像がパソコンに保存される。  「それで、複製を使って編集をする」  個数カウントを押すと、薬剤を取り込んだ脳細胞の数がカウントされる。  「難しいことやってんね」  「おもしろいよ」  暗闇に、パソコン画面の明かりで照らされる拓也の真剣な横顔を見る。  学校で育てたゴーヤの観察をする拓也の顔と重なる。  あれは四年生の頃だったろうか。夏の暑いさなか、汗を垂らしながら、暑さも、汗も気にならない様子でゴーヤの黄色い花について雄雌どっちが多いのかを数える。花が朽ち、どのようにゴーヤになっていくのか。熱心な観察力、沸いた疑問を、自ら解決していく拓也。網状の葉脈まで描かれた、拓也の観察日記を見て、同級生はざわめき、担任は驚愕した。  「変わらないね」  拓也を見つめる彩香がつぶやく。  「ん?」  「三つ子の魂百まで。ゴーヤを一心に観察する拓也を思い出したの。拓也の研究心は子供の頃から揺るがないね。すごいことだと思う」  「彩香の魂も百までだと思うけど」  「どうゆうこと?」  「図書室での調べ学習の時、いつも料理の本見ながら、ノートにレシピを書き写していた…」  そんなこともあったな。  ゼリー、クレープ、クッキーにケーキまで。洋菓子屋さんで売られているお菓子を家で作ってみたくて、必死に書き写していた。  「私が、レシピを書き写していることを知っていたことに驚き…」  あの頃の拓也は歴史漫画の本ばかりを読み漁っていた。まさか、見られていたとは。  「後悔ばかりの学生時代だったな」  拓也がつぶやく。  「後悔?」  拓也が悲しそうにうなずく。  免疫細胞マクロファージが光っている。体内に侵入した異物を捕食し、他の細胞に異物侵入を報告する賢い細胞。  拓也もマクロファージに負けていない。成績、運動とも優秀で、先生、生徒からの信頼も厚く、持ち前のリーダー性で生徒会長まで務め上げた学生時代になんの後悔があったろう。  「欲しいものも欲しいと言えず、嫌なことも嫌とは言えず…我慢が美徳だと思っていて。自分をさらけ出すことを一切してこなかった」  そう言うと、クシャリとその髪の毛をかく。  歴史「徳川家康が遺した名言」を読んでいた拓也を思い出す。武士道の信義、節操、廉恥、礼儀を、男として惚れると言っていたあの拓也を。  「彩香とコンビニでジュースを飲んだこと」  「熱い缶コーヒー?」  拓也がうなずく。  「反省しているの?」  笑ってしまう。まさか「こいよ、ジュースおごってやる」と言って熱い缶コーヒーを投げてよこしたあれを、未だに反省していたとは。  「あれから、航輔と急接近したんだよな。あの時、航輔のいる場で声かけるんじゃなかったって、ずっと悔いていた」  首を傾げる。拓也の言わんとしていることがいまいち分からない。  「まさか、航輔と彩香がくっつくとは思わなかった」  拓也が目を落とす。  息をのむ。  「航輔と私が付き合うことに反対だったの?」  頼りなさげに頭を垂れる。  なんなんだろう、この拓也は。  まるで、小さい子供のようにもろい。  航輔とは友だちじゃなかったんだろうか。航輔のこと嫌いだったのだろうか。  「特別な存在なんだ、俺には」  ため息をつく。  「彩香を取られた、と本気で悲憤慷慨した」  きょとんとする彩香を見て、  「どんだけ鈍いんだよ…」  悲しい顔のまま拓也が笑う。  「何でわざわざこの大学に編集したか分かる?」  「何でまめに連絡しているかわかる?」  「何で彩香の傍にいるかわかる?」  矢継ぎ早に言う拓也の迫力に、思わず首を横に振る。  「彩香に好意を持っているからに決まっているだろ。子供のころからずっと…」  …言葉が出ない。  子供の頃から、拓也は雲の上の人だった。  自分のような、何の魅力もない女子を拓也が恋愛対象にするわけがない。  拓也に似合うのは、美しく頭脳明晰な…そう高橋明日香のような完璧な女性。  幼なじみだけのつながりだけで、この関係を保ってきたのだと思っていた。  まさか、この拓也が自分に思いを寄せてくれていたなんて。  こんなに、遠回りな生き方しかできない人だったのか。  彩香の手が、うなだれる拓也の頭にふれる。柔らかな髪の毛。頭皮から伝わる体温。  生きているって、柔らかくて温かい…。  涙が流れていた。  航輔との恋に夢中になる中、拓也はどんな思いで自分の感情を押し殺し、この歳月を生きてきたのか。  彩香を思い、友だちに彩香を奪われ、そして植物人間になってからもその命の液体を欲しいと告白され、自分の理性を隠し、そんな素振りさえ見せずにいた拓也。  彩香よりもずっと、苦しい時間を過ごしたのではないか。  それなのに、喪失感にあえぐ彩香にずっと寄り添ってくれていた。  そして彩香も、そんな拓也が特別な存在なのだと気づいた。  抱きしめていた。  まるで少年のようにはかなく幼げな拓也を。  黒のセダンが静かに走り出す。  「学生の分際で高価な車乗ってんな」  思わず本音が飛び出す。  「あれ?言っていなかったっけ?」  「何を?」  「収入源。俺、教授の治験手伝って報酬もらっているの。そのお金で、ローン組んで車、買ったんだよ」  あぁ、T医病院の中には、治験施設もあったなぁと思い出す。  動物実験などを通して、効果があり、人への安全性が予測される薬となるものの承認を国からもらうための最終段階。人を使っての臨床試験を行うのが治験だ。この治験で、薬理学講座の資金はたいそう潤っているとの噂を耳にしたことがある。  「さすがですね」  学生ながら、効率よく働き口まで確保している。敵わない。  「何か食べて帰る?」  拓也が聞く。  お母さんに連絡を入れてみる。ご飯に関しては、連絡を入れるか入れないかだけで、母の機嫌がずいぶん変わる。  「鍋の残りほとんど残っていないって。しかも、それは翌朝のおじやに取っておきたいと言われた」  拓也が笑う。  「何食べたい?」  「マウスの脳を見た後はさすがに食欲が失せるというか…動物の肉は一切受け付けない」  「家来る?」  「ん?」  「両親、毎年、正月二日から、互いの実家に行って留守なんだ。何もない家だけど、簡単なものなら肉なしで作ってあげるけど…」  「拓也が作ってくれるの?」  「あぁ」  仕事でも、家でも、食事に関わっていると、他人の作ってもらったものがとても嬉しく感じる。  拓也家キッチン。  すっきり片付いていて、カフェのような雰囲気。  「何があるかな…」  拓也が収納庫を開ける。  乾麺にパックのご飯。飲料に缶詰、調味料。  非常食が驚くほどきれいに整頓されている。  「今日は、動物性タンパク質が受け入れられないんだろ?」  「うん」  「味噌煮込みうどんにしよう」  昆布を入れた、土鍋に湯を沸かす。しょうゆと砂糖、みりんを少々。そして赤みそを入れる。  白菜、人参にシイタケ、油揚げ。それからうどん。  名古屋風の味噌煮込み。  「拓也が食べたかったら、卵とか鶏肉入れていいよ」  横で拓也の料理を眺めながら彩香が言う。  「それじゃ卵入れていい。彩香は?」  「要らない」  「分かった、コンタミさせない方がいい?」  「かきたまにしなければ、入れていいよ」  拓也が静かに卵を鍋に落とす。蓋をして数分。火を止める直前に斜切りした長ネギを散らす。  「完成」  テーブルに運ぶ。  リビングの片隅に置かれた猫ベッドで、鼻くそが眠っている。  「鼻くそ、起きてこないね。猫なら食べ物の匂いがしたら、すっ飛んで来そうなのに…」  「年寄りだからここのところ寝てばかりいるよ。温かいうちに食べよう」  拓也の向かいに腰かける。  菜箸とお玉で、鍋のうどんをお椀によそう。  「いただきます」  二人で手を合わせていただく。  汁を一口。煮込んだ味噌の濃くと甘みで、先ほどまで感じなかった食欲がわく。  麺は、平べったいきしめんだ。  ふぅふぅ息を吹きかけながらすする。体がポカポカ温まる。  「おいしいー」  「家康って銘柄の八丁味噌見つけて買ってみたんだ」  「拓也の家康愛って味噌にまで至るわけ?一途だなぁ」  「恋心もな…」  目を伏せながらつぶやく拓也。  はしが止まる。  今日の拓也には、いつもの勢いある返しができずに困惑する。  「すみません。私、人生においてこのようなシチュエーションが究極に乏しいので、そのような発言への対応が全く分からず…」  真剣に受け答える彩香に、拓也がクツクツ笑う。  からかわれているんだろうか?  「そういうとこ、めちゃくちゃかわいいよな」  「はあ?」  自分の顔が赤くなるのが分かる。  拓也のテンションは、絶対におかしい。  一心不乱にきしめんを食べる。  味噌を吸った油揚げ。しゃきしゃきの長ネギ。この鍋焼きうどん完璧。  「小学生の時、この場所で遊んでいて、拓也ったら卓上しょうゆこぼしたよね」  「あー。あれ、ひたすらなめ続けたよな」  「台ふきで拭き取れば済むことなのに、なんでなめろって指示されたんだろ」  「俺にもわかんね」  遠い目で口ごもる。  全てなめきれたのか覚えはないけど、こぼしたしょうゆを指につけてひたすらなめ続けた。それしか机をきれいにする方法がないと、あの頃は真剣に思っていたんだと思う。  「お父さんのマッサージ機に二人で座ってさぁ、ゴリゴリ動くもみ玉に悶絶したよね…」  十数年ぶりに、拓也の家に上がり、小学生の思い出が一気にあふれる。  しかし、不思議と今見ているキッチンにその面影が全くない。  鍋が空になる。  「お代わりはいい?」  「大丈夫。ごちそうさまでした。片づけは私がするね」  土鍋を洗う横で、拓也が湯を沸かす。  「いちご食べる?」  「食べる」  「お茶飲む?」  「飲む」  ダイニングテーブルに改めて向かい合って座る。  「久能山東照宮って家康を祀っている神社があるんだけど…」  眉をしかめる。どんだけ家康公。  「その神社の入口辺りが、石垣いちご狩りが有名で子供の頃よく行った」  「私も行った」  いちごをほおばりながら相槌を打つ。  「自分の農園に来て欲しいからさ、路肩でいちごのバルーンをブンブン振り回す呼び込みまだやっているんだろうか」  「どうだろ。今度行って確かめてみる?」  「久能山東照宮を巡りたいんでしょ」  「ばれた?」  緑茶がおいしい。  「最近も、夜中に泣ける?」  拓也が、いちごのへたを取りながら、慎重に聞く。  航輔が亡くなったあの日から、毎夜、眠りを襲ってきた喪失感。同時に、止まらなかった涙。  何か月も続いていたはずなのに、いつの間にか彩香の日常から消えていた。  拓也の目を見る。  「しばらくない。全くなくなっている…」  「良かった…」  安堵の表情を浮かべる。  「進展を期待していいのだろうか?」  「進展?」  「あぁ…」  拓也がまたうなだれる。  「俺と彩香の関係性だよっ」  頭を抱えながら、一気に言う拓也。  「…期待していいよ」  「幼なじみとしての付き合いじゃない、別の付き合いを俺は期待しているんだよ?」  うなずく。  「私なんかでいいの?」  「彩香がいいんだよ」  「ごめん。私すごく緊張して…。美波とまりもを呼んでいい?どうしていいのか分からないの。この気持ちを二人に沈めてもらいたいの」  両手を握りしめ、動揺する彩香に、拓也が噴き出す。  「美波とまりもに来てもらう必要は全くない…来て」  手を引いてリビングへ移動し、ソファに座らされる。  「抱きしめていい?」  心臓が音を立てる。  「ギューってするだけだよ?」  拓也がうなずく。  腕が、背中に回り、拓也の体が痛いほどに密着する。  拓也の手が頬に触れる。柔らかな目。  「キスしていい?」  「いいよ」  そっと目を閉じる。  唇を拓也の指が這う。ゆっくりと唇が重なった。  手を取り合う。そして、また触れ合う唇。  拓也の指が彩香の髪をすく。目が真剣に彩香を射る。  「やっと、俺のものにできた」  強く抱きしめられる。  鼻くそと目が合う。拓也を突き、鼻くそを指さす。  「あいつ、寝てばかりいたくせに、こういう時は見るんだな」  二人で顔を見合わせ噴き出した。  航輔に報告をしたいといったのは拓也だ。  正月の明けた日曜、航輔の家を訪れた。  リビング脇の和室。仏間の祭壇に、遺影、供花、それからたくさんの航輔の好きなもの。ランニングシューズ、お菓子、参考書。  ランニングウエア姿で笑顔を見せる航輔の写真。  航輔の好きだった、スポドリのレモン味の箱買いをドスンと霊前に供える。  ろうそくに火をつけ、線香に火をともす。おりんを鳴らす。  航輔の遺影の前で姿勢を正す拓也。  正義感の強い拓也らしい。彼亡き今も、正々堂々と航輔と向き合う。  静かに手を合わせ、目を閉じる。  こーすけ…私、いたらない彼女だったね。  たくさん傷つけたね。  こーすけが逝ってしまってから、こーすけがどれほど大事な人だったのか知ったよ。  寂しくて、後悔ばかりで…いっぱい苦しんで、いっぱい泣いた。  小さな意地を張り、こーすけの悩みにも気付けなかった。  こーすけの承諾もないまま精子凍結…処分しちゃった。  どん底に沈んだ私を、美波、まりも、それから拓也…みんなが私を立ち直らせてくれたの。  拓也とね、付き合うことになったの。  祝福してくれる?それとも嫌だって思う?  こーすけの、気持ちにこたえてあげることは現世ではできないかもしれないけれど、これからの人生、意地を張らずに素直に生きていけたらと思う。  だから、どうか見守っていてください。  ごめんね。  ありがとう。  私の、高校生は航輔のおかげでキラキラでした。    瞬間、航輔のほとばしる汗の匂いがした。
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