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「さい……川、くん」
立ち上がっている俺と一番に目の合った才川君は驚いたように瞠目し、「えぇ……と」と俺の名前を必死に思い出そうとしているのが分かった。
「尊。甲斐尊」
「あぁ、そうだ! 甲斐さん!」
才川君は小走りに俺のところまでやってくると、「お久しぶりです!」と頭を下げてからこちらを見上げ、そして少しだけ震えている手で躊躇いがちに俺へ触れた。そして「あぁ、懐かしい」と両手で口元を抑えると、そのまま突然泣き出してしまった。
「ど、どうした? 仕事がうまくいってないのか? 出版の依頼にでも来たのか?」
突然泣き出す才川君にほかの社員たちもどうしたんだと心配そうに眉を垂れてこちらを見ている。「才川君って、才川ルイ先生?」と部屋の隅で女性社員たちがひそひそと会話している。一度うちで出版しているだけあって、一応名前は知られているようだ。
「才川君、ちょっと落ち着くまでこっちに」
そう言って応接室に案内しようとしたのだが、才川君は涙を強引に拭って首を振った。
「ごめんなさい、大丈夫です。甲斐さんの熱が、僕に共鳴しているだけなので……」
共鳴?
俺にはそれが良く分からなかった。
だけど、この部屋の扉を開ける前に、俺が才川君の匂いを嗅ぎ分けたのは、紛れもない事実である。これを共鳴と呼ぶのだろうか。
「才川先生」
ふぅふぅと深く息をしながら呼吸を整える才川君に、編集部の先輩が声をかけた。
「立花さん! ご無沙汰しています!」
そのまま二人は応接室へと姿を消した。
俺の鼻先には、彼が帰るまでずっと甘い匂いがこびり付いて離れず、「食べたい」という頭の狂ったような感覚が俺をずっとふわふわとさせ続けた。
だから、「お邪魔しました」と編集部に頭を下げて出ていった彼の後を、どれだけ追いかけたいと思ったことか。この衝動を堪える俺の様子を、多くの社員が不思議そうに見ていたけど、才川君の元担当をしていた立花さんにトンっと肩を叩かれると、思わず背筋が伸びた。
「大丈夫か?」
問われたが、全然大丈夫ではない。
前はここまでじゃなかった。ここまで『共鳴』などしなかった。なのに……、これが ”運命の番” の引力なのか。
お互い、アルファとして、オメガとして、体が成熟しようとし始めているのかもしれない。きっと、そういうことなのだろう。
「……無理……です。耐えられません」
「才川先生はまだヒートじゃないが?」
「違うんです。そういうんじゃ……ないんです」
この湧き上がるような愛しさは、性欲とはまた少し違う。さっき才川君が泣いたのが、今なら分かる。これは泣きたいくらいの……愛おしさだ。それ以上の言葉がまったく浮かばない。それは、俺の低い語彙力のせいじゃない。この共鳴の叫び、そのものだからだ。
俺たちは十中八九……運命の番と呼ばれる関係だろう。
じゃなきゃ、こんなの……説明がつかない。
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