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フルタの腕を引いて、ふらふらと家路を歩く。
フルタは特に何も言わずに着いてきた、信号に阻まれた時そっと後ろを見て見れば、悠々と街並みを見まわしている。
フルタはスラックスに白のシャツ、白のウインドブレイカーというなんともちぐはぐな格好をしている。
だというのに、はっとするほど美しい女だった。
頭を振って思考を追い払い、青に変わった信号を重い足を嫌々進ませた、絞首台へ進む死刑囚というのはこういう気持ちなのかもしれない。
フルタの話をまず聞かなければならない、そのためには人の目のない場所がまず必要だ。
『これが人生ってものなのですよ苅田君、だから人間は馬鹿正直に生きるように言われているのです、その方が失敗した時にしょうがないねって言ってもらえるでしょう。ですから愚かな人間は賢い人間に歯向かわないように正直に生きるのが吉です。』
目の端で教壇に立つ教師がそんな事を言う。
バカみたいな幻覚を振り払って進んだ。
ストレスが溜まると見えるいつもの幻覚だった。
今はまだ過去の記憶の焼き増しの光景だ、何より幻覚だと自分でわかっている、まだ軽傷。
それにあの教師、ムカつくところは変わらないがここまで明け透けに物は言わなかったはず。
どうやら私の脳は、自分に差し迫っている逮捕という危機について考えられないほど焦っている癖に、現実逃避の為に脳のリソースを裂く余裕があるようだ。
百歩譲って後ろにいる女に気を回せばいいのに。
何故おかしな現実逃避にいそしむ程度には余裕があるのだろうか。
きっと、フルタがずっと黙っているのが悪い。
じっとりと汗ばんでいる私の手をフルタは何も言わずに受け入れている。
脅されている身の上で、汗ばんでいて気持ち悪いとか言われたらどうしよう、なんてどこかで思っている自分が嫌だ。
思考の癖が卑屈すぎる。相手は私を脅迫してきた人間なのだから、好感度もクソも無いのだ。
ああ、どうか知り合いとすれ違ったりしませんように。
だが世という物は、そう思っている時ほど知り合いと鉢合わせるものだ。
「ちょっと苅田さん、ちょっといいですかね」
変に力の入る体に関節をきしませながら、大した時間もかけずにアパートにたどり着いた時、我が家の前には管理人の婆様が仁王立ちしていた。神経質そうに眉根を寄せながら、こちらに睨みをきかせて来る。
私は何の考えも固まらないまま、見飽きた管理人の顔を見返す事しかできなかった。
「あんたねえ、困るよぉ父親がちょっと変わっているって言うのは知っているけどさあ、朝っぱらからどったんばったん暴れられちゃあ。周りの住民からクレームの嵐で困るったらありゃしないよ。あんたも大変なんだろうけどさあ、父親の事支えてあげなきゃあ、あんたが唯一の家族だろうに。あんたの母さんみたいな事は二度と御免なんだからねぇ!」
口の端に唾を溜めながら、白髪の乱れた頭を振って婆はそう喚いた。
死んだように顔が動かなくなる。
こっちは住まわせてもらっている身だと、自分に言い聞かせた。
いつだって周りの人間の言う事が正しい、きっとこの婆さんの言う事も正しいのだろう。
「ええ、すみません。以後、気を付けます。すみませんが友人が来ているもので、今日はこの辺で」
背後にいるフルタが顔でものぞかせたのか、婆は黄ばんだ目を丸く見開き、すぐ相好を崩した。
「おや、これはこれは失礼を。わたくしはこれで失礼させていただきます」
一度フルタの顔を覗き見るようにしてから、狭苦しい廊下を婆は去っていく。
ニコニコと気色が悪い。この婆は住民以外に対しての外面を異様に気にするのだ。葉の積もらない道路沿いを掃除しながら。道行く人に挨拶週間を敢行する生徒会のごとく声を張り上げている事を、私は夜勤明けの朝に目撃していた。
もうとっと家に入って人心地着きたい、そんな気持ちばかりが先行する。
用心してカバンから鍵を取り出そうとしている間、先ほどの事など気にも留めないフルタは、古びた表札を指さした。
「なんて読むの」
やわらかい声だ、ウキウキとして、地に足つかない少女もかくやという声音。
「苅田」
「へえ、苅田」
汚いアパートの廊下には不釣り合いな美しい目の輝きが、風景の中でどこか浮いている。
「ねえ苅田、私の事を知っている?」
「はあ」
思わずとげとげしい声が出た。
いや本当に何を言っている、この女。
確かに、知ってはいるのかもしれない。監禁されていた娘という予想があっているのなら、文字情報でのみ彼女の事を知っていたことになる。
いやいや、いくら苛ついているからって、おべっかくらい使え、もみ手ですり寄っとけ。その治安の悪い受け答えを少しはひっこめろ。脳内の議員たちがワーワーと言い争う。
「知らないか。私ね、さっき君の事を指さした女の娘だよ」
聞いてもいないのにフルタは、花開くように笑っている。
錆ついた音を立てながら開いた玄関ドアの先では、昨夜暴れ回ったせいで大荒れのリビングが見えている。
こんな状況で、フルタは澄まして笑っている。自分が脅している相手とはいえ、少しは警戒するって事が出来ないのだろうか。
つい先日まで監禁されていたわけだから多少常識に疎いところがあるのかもしれない。
テレビの情報では、生まれてからずっと宗教施設の中で監禁されていたという事しかわからなかった。
「スリッパ無いから、足元気を付けて」
だからだろうか、変に同情している気がする。
綺麗な顔でのほほんと笑われると、いまいち強く出られないのだ。いや、苛立ちをぶつけている自覚はある。こんなのは普段の私ではない。だけれど、もう昨日今日と起きた事すべてが普段とは一線を画す。そう、非日常なのだ。いつも通りではとても居られまい。
フルタは廊下をひょこひょこと進み始める。
私を気にしている様子は微塵も無かった。
「ところで、普通の家の部屋って、みんなこんな感じなの? 私今まで暮らしていたビルと、病院の部屋しか知らないから分からないの」
そう言って、床に転がる瀬戸物の破片を足先で小突いている。
父親の茶碗だなあ、と他人事のように思うばかりだ。
「いいや、普通はこうじゃないね。これは昨日の夜、私が暴れたからだよ」
そういうとフルタはなんで暴れたの? なんて間延びした声で聞いてくる。
責める気配は微塵もない、なぜなにどうして、ただそれだけ。
幼子が「どうしてお日様はのぼるの?」と聞くときのような透明な問いだった。
だからつい、ポロッと父親が失踪したから昨日荒れていたのだと喋ってしまった。
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