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「離してくれ俺を死なせてくれー!」
「頼むから静かにしてくれジジイ!」
住宅街を横断するようにして阿蛭河という川が流れている。
大した広さは無く、立派な河川敷があるわけでもない。
住宅街よりも一段低い場所で細々と流れている道路になることを免れた川、というのがその街に住んでいた私としてのせいぜいの印象だ。
そんな影の薄い川にかかる橋の下で、深夜に私は自殺志願者の元気な爺の腰に縋りついている。
アルバイト以外にまったく運動をしていなかった4年間が恨めしい、19歳の若々しい肉体だって不健康の積み重ねには悲鳴を上げるのだ。しかし、少なくとも70代以上に見える爺に力負けするなんて、なんだか必要以上に情けない気分になって来る。
私がそうやって苦心している後ろで、フルタは反復横跳びのように跳ねている、どうやら困惑しているらしい、お前も手伝え。
「離してくれえっ死なせてくれー!」
ジジイの絶叫が住宅地に響き渡る。
入水を試みる足取りは恐ろしいほど強い、白髪で皺塗れの小さい体のどこにこんな力があるというのか、三途の川だってバタフライで渡り切れるだろう。
「おいジジイ、老い先短いのに死に急ぐなよ」
「なんてこと言うんだ、老体に対する敬意が無いぞバカタレ」
「この状況で、どう敬意を抱けって言うんだ、死なすぞジジイ!」
暴れに暴れるジジイが川の中へ猛進するのを、古びた腰のベルトをつかんで引きずり戻す。
何でこんな事をしているのだろうか、と頭の中の冷静な部分が泣き言を言うがしょうがない、ここで死なれたら自殺幇助とかになるのだろうか。六法全書を図書館で読むような、勤勉な精神は持ち合わせていなかったのが災いしている。
「死ぬのは止めないからせめて静かに一人で死ね、ジジイ」
「ふざけるなきちんと止めろ、俺が死ぬ所を敬意をもって止めろ、でかい声で人殺しって叫ぶぞ若造!」
「ほんとに死んでほしい」
深夜とはいえ住宅街だ、善人に警察でも呼ばれた日には目も当てられない。もしそうなればまず誘拐犯として捕まる。この場合暴漢の罪でも捕まるのかもしれないが、それは全力をもって否定したい。
指からミシミシと音が鳴るのを聞きながら、ぐっと腹に力を籠める。
朝から疲れ切った体が悲鳴を上げるのを理性で宥め、渾身の力でジジイを川岸の石畳の上に投げ落とした。
フルタがひょいとジジイを避けるのが、ジジイの曲がる体越しに見る
「ギャッ」
「オラアッ往生しな!」
気が付けばひざ下まで川に浸かっていた、暑い季節とはいえ夜の川の水は冷たい。何より澄み渡るようなきれいな川などでないのだ、足元で柔らかな泥の感触がする。このジジイ腹いせに一発ぶん殴ってやろうかと思った。
「うぅ、痛い、痛い」
「大変ねえ」
フルタはのほほんとそう言うと、すすり泣くジジイの傍らにしゃがみこんで観察している。
「お嬢ちゃん酷いよ、最近の若いもんはひどいんだ、こんな老いぼれをぶん投げやがった」
「何だ被害者ぶって、ムカつくな」
「うるさい! お前みたいに非道な奴は大嫌いだ」
見て見ればジジイは泣いていない、泣きまねである。
もしかしてボケが始まっているのだろうか、そうだったら災難すぎる。もう匿名で警察に連絡してやるから、私の知らないところで家元に返してやって欲しい。
ジジイはどうにかしてフルタに構ってほしいらしく、足元でいかに私が非道かというのを説いているようだった。
そんなジジイに対して、フルタはでも、と切り出す。
「私たちが通りかかったのと同時に入水を始めたってことは、初めから止めてもらうためにやっていたってことでしょう?」
柔らかで静かな声だった、月明りに照らされた頬骨が微笑を表すようにふわりと揺れるのをぽかんと見つめる
そんな私に比べてジジイの行動は速かった。
音もなく地面を蹴り、老人とは思えないスピードで河川敷を走り、橋のふもとの傾斜から住宅街へと走り去る。
ザッザッザッという軽快な靴音が遠ざかるにつれて、怒りがだんだん呆れへと置き換わっていった。
後に残ったのは、星の瞬きが聞こえるほどの静寂、それと私の膝上まで濡れたズボンと冷えと疲れ。
思わず夜空を仰ぎながら長く吐き出したため息は、自分でも引くほど大きかった
「頼むから死んでくれ」
「大丈夫? 苅田、散々な目にあったね」
「最悪だよ、結局他人の気を引きたくてあんな真似していたんだろ。必死になってバカみたいだ」
深夜の街中で私はいったい何をしているんだろう、本当に泣きたくなってきた。
「そんなに言うなら助けなければよかったじゃないの、別に苅田が助ける責任は無いでしょう?」
「ああいうのを見捨てると後々何らかの罪になるかもしれないと思ったんだよ」
「本人が死にたいって言っていたのに?」
「驚くことに、人間って言うのは死にたがっている人間を見捨てると見捨てた方が罪に問われる場合があった、と思う、多分」
「自分から死にたいって言っている人間なのに、変なの」
責める気配など微塵も感じさせずにフルタはそう言う。
子どもが死んだ蝶を掴みながら、どうして動かなくなっちゃったの? とでも聞くような軽さだ。純粋な疑問しか彼女にはないのだろう。
「さあ、わからないな。私馬鹿だし」
正直な話、人に構ってもらいたくてはた迷惑な真似に興じる、その心理自体は分かる。
それをすれば完膚なきまでに嫌われるから行動に移さない、そんな理性的な部分をあのジジイは失っているのだろう。
そう思い、自嘲を混ぜて吐いた言葉に返事は無い。
そりゃそうだ、つい先ほどであったばかりの人間にそんな事言われたって困るだろう。
しかしフルタは住宅街の方を見上げながら、何かをじっと見つめているようだった。
「どうした」
「ううん」
何でもないと首を振るフルタの顔に翳りは無い。
だから私も深くは聞かなかったのだ。
住宅街の路地からこちらを覗いていた、カメラレンズ越しの向日葵の目だなんて、これっぽっちも気付かないまま、私たちは夜を再び駆け始めた。
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