9人が本棚に入れています
本棚に追加
「まずい、もう歩けないかも」
水にぬれてふやけた足が、ズリズリと布地に皮膚を削られていく心地がする。靴が足を千切り食ってやろうとしているかの如し。普段は人で賑わうのであろう商店街のアーケードも、早朝四時半ともなれば人はいなかった、それだけが救いだ
焦って着の身着のままで出てきてしまったのは正直失敗だったな、と反省する。反省はするが、正直今後の人生でこんな逃走劇は二度と経験したくない。
今後の人生か、嫌な事を考えた。
私は今後普通の生活を送ることが出来るのだろうか。
濡れたままの足元からたいして寒くないはずなのに肩まで震えがくる
「家に戻る?」
「戻って管理人の婆さんが通報でもしていたら、この逃避行も終わりにできるんだけどな」
そう、終わりにすればいい。
目先の楽を目指してしまう、温かい風呂に入って着替えたい、今までなら少なくともそれくらいはできたのに、今ではできなくなってしまった。
子どもの家出のイメージが脳裏に走る、なんてお粗末な逃走劇だろう。
家から出るときに咄嗟に持ってきた麦茶も、回し飲みをするうちにもう無くなっていた。トイレに行きたくならないという事は、全て汗によって流れてしまっているのだろう。
まだ夜だからいいけれど、これで日が昇って熱中症でぶっ倒れて死んだらお笑い草だな、なんて思う。そうなった場合は、少なくとも事情聴取はしなくて済む。なにせ死んでいるから。
そういえば、誘拐犯として捕まれば、今度は両親の事ではなく自分自身の事で後ろ指をさされるようになる訳だ。
今まで自分自身を被害者の立場に置いていたけれども、それが加害者側に変わる。
なんだかそれは恐ろしい事のような気がした。
だって何も言い訳出来ないじゃないか。
悪いことをしたのは私なのだし、いや脅迫されているけれど。
そもそも今までだって、両親が宗教にはまっていたわけだから、私もその宗教の支配下の人間みたいに思われていたのだろうか、それなら今更捕まったところで大した変化はない気がする、いやどうだろう。
私の事を嫌う人間に、私の心象を詳しく聞く事なんてして来なかったからわからない。
それに、もしここで捕まって、下手に両親の事を調べられるのが怖い、今まで知らなかった新事実が平気で出てきそうなのだ。
あの父親ろくに自分の事話さなかったから、宗教団体に居たという事しか私は知らない。なにか犯罪の片棒でも担いでいたらどうしたものか。
終わりのない思考に巻き込まれて、知らぬ間にじっと地面を眺めていた。
その傍らで、フルタが道路にベチャンと座る光景が何の前触れもなく映る。
「待て、何をしている」
「私の靴下履かせてあげようかと思って」
「いや、流石にいい、やめろ脱ぐな、流石に人の履いていた靴下履くのは何か、何か嫌だ。普通に悪いし」
いや悪いもクソも私の貸した靴下だけど。
フルタはそう? と言いながらモタモタ靴下をはき直す。
靴下の履き口に小指を引っ掛け、いざ履けても踝の位置がズレている。
それに気付いてもちゃもちゃと直す様は、履き方を知っていたけれど自分で履いたことが殆どない子供のようだった。
出来るだけ足に負担がかからないように、傍から見ればヨボヨボとした足取りでどうにか街を2つ抜ける。
監視カメラがある道は迂回して、時折行き違う人からフルタの顔をさりげなく隠し、いつもより多く走っているパトカーに怯え、とうとう時間は朝の五時。
夏の熱気が朝露を容赦なく温め、私たちに猛威を振るう。アスファルトから立ち上る熱い空気が鼻腔に入り込むたび、鼻血でも出ているのではと錯覚する。これだから夏は嫌いだ。
早朝の時間に比べて人とすれ違う回数が格段に増えた、濡れたズボンはじめついてはいるものの見た限りでは乾いている。
たかだか2つ隣街に来ただけだというのに、ほとんど見た事のない道だ。そんな場所でも、この熱気だけは変わらない。
夜になるまでどこか人目のつかない場所に潜伏したした方が良いだろう。けれど疲労困憊の今、見知らぬ土地で人気のない場所を探せるのか不安が募る。
今まで痛くなったことのない背中の筋が痛かった。
ジジジジビビビと蝉が鳴く、休める場所を見つけられないまま太陽はどんどんと高度を増し、寝床から抜け出してきたサラリーマンが背広片手にアパートから出てき始めていた。
もう諦めた方が早い気がする。
今後加害者側に回って後ろ指刺されたとしても、少なくとも今の不安感からは逃れられるのではないだろうか。
そんな考えに傾きかけた時、急にフルタが私の手を握った。
「ねえねえ、気になっていたけれど、あれって何」
フルタが指さしたのは、名前も知らない山だ。
田舎町では珍しくもない、住宅地の背にそびえるように立つ緑の濃い山だった。その中にいくつか風力発電のタービンが見える、フルタが気になったのはこれだろう。
風力発電用のタービンだよと伝えれば、へぇあれが、とフルタはまじまじと山を見つめる。
子どもの頃の記憶が蘇る。夏休みの日記に書くことが無くて、仕方なく舗装された山の道をいくらか歩いて帰って来た事があった。
道を一歩横にそれれば、草木ばかりが生い茂っていた。幼い私にとっては、何か別の生き物が潜んでいるように見えて恐ろしかった。頭上高くに生い茂った枝葉は木漏れ日を作り出し、私の身体を寂しくまだらに光らせていたのを覚えている。
はて、山の中と言うものは街中より涼しかっただろうか。
山を眺めるフルタの向こうから、陽炎を巻き取る様に走って来るパトカーが見える。
「山に行こう、フルタ」
どうせ行先も無く、誰かに見つかるまで続く旅だった。
行くだけ行ってみたっていいだろう。
未知なる場所に行くと知ったフルタも、大層嬉しそうだし。
山沿いの道を、フルタに手を握られながら歩いていた。
街の商店街からのはみ出し者なのか、山沿いには潰れているのか潰れていないのかわからない店が点在している。その道を歩きつつ、フルタは興味深げにほぉと息を吐いていた。
錆びたシャッターの下りたジャンクショップ、木製の看板の厳つい古書店、色あせたピンクの蛍光盤の下がるスナック、道に面したショーウィンドウに何も入っていない時計屋。
用水路からサワサワと聞こえてくる風情の無いせせらぎと、ギービーピッピミンミンと猛り鳴く虫たち、ザリッザリッとかったるく歩く私の足音、ポコジャリポコジャリと着いてくるフルタの足音。
山道の入り口はどこだろうかと、二人して太陽に背を焼かれながら山の周りをグルグル歩く。
古めかしい商店の通りから抜けて、廃屋なのかわからない民家の連なる道を越えたところで、比較的新しそうな喫茶店が見えた。
人が居そうだと踏んで、足早に通り過ぎようと店の前に差し掛かった時、ゴミ袋を二つぶら下げた男が、肩で押すようにして喫茶店の扉を勢いよく開けた。
流石に怯み、フルタと共に立ち止まる。
男の方も少し驚いたようで、こちらをまじまじと見つめて来る。
その目が、私の後ろを見て見開かれた。
「お前、救済の」
そんな事を口走る男を見て、あ、ここで逃走劇は終わりだな。と思い、絶望と安堵が背中から四肢へ行き渡るように、ずるずる力が抜けていく。
男が口をパクパクと開閉させながら、目線をずらすことなくフルタを見つめている。だが、不意に視線を私にずらし、またフルタに戻しを繰り返す。
思わずフルタに握られていた手で、フルタの手を握り締め返した。
フルタもぐっと握り返してくるのを、嫌に冷えた額の内側でボンヤリ知覚しながら男の動きを探る。
しかし男は、特に喚きたてるでもなく静かに言った。
「何をしている、こんな所で。汗が凄いぞ、熱中症になる。涼んで行ったらどうだ、あの、心配だし、中で」
しどろもどろに言葉を重ねながら、その男は喫茶店の扉を開いた。
掲げられた看板には『喫茶 ジャスパー』の文字。
「別にどうこうしようって気も無いから」
そう言う男の言葉が耳を上滑る。冷房で冷やされた空気が頬を撫でて来るたび知能指数が下がって行く。
どうする、と聞くように後ろを振り返れば、フルタはじっと男の顔を見つつ「いいんじゃないかな」と答えた。
「熱中症って 、よく人が死んでいる病気でしょう? フルタが死んだら私嫌だもの」
そう言って笑ったフルタの顔も、汗に濡れて真っ赤だった。
涼しい店内には、沢山の本とつるりとした赤茶のテーブル席が3つ、カウンター席には五脚の赤い布地の張られた椅子が収まっている。
カウンターに素早く引っ込んだ男がグラスとピッチャーを抱えて帰ってくるまで、どこに座っていいやら分からず2人して突っ立っていた。
「逆光でわからなかったが、川で水遊びでもして来たのか? 砂がついているぞ」
「そんな風に見えるなら眼鏡かけた方が良いよ」
「思っていたより元気そうだな」
急な軽口に取り繕う暇もなく応えたが、男は大して気にしていないらしい。「まあ適当に座りな」と引かれたテーブル席に二人して腰をかけた時、やっと自分がフルタの手を握り締めたままだった事に気付いた。
「ごめん」
咄嗟に離したが、白いフルタの手がさらに白くなっているのを見て流石に申し訳なくなる。
が、フルタは何で? とでも言いたげな顔だ。
そんな微妙な間を切り裂くように、カランコロンと涼しげな音を男が奏でる。
グラス勢いよく落とされた水が、氷と輪切りのレモンをクルクルと躍らせるのを、フルタは生き物を見るように見つめていた。
どうせバレている様だし、と思って帽子とマスクを外してやる。
久しぶりの涼しい空気に鼻がかゆくなったのか、フルタは一つクシャミをした
「はいよ、本当はスポーツドリンクの方が良いんだろうけど、生憎用意が無いからな」
礼を言って、グラスを受け取り、ぐっと喉に流し込む。
一晩越しの冷たい水は随分沁みて、少し涙が出た。
どうせ何も食ってないだろう? と、矢口と名乗った男はそう言ってカウンター奥に消える。
何が目的で、私たちをここに招き入れたのか。なんてこちらとしては当たり前の疑問を問いかけても、まあまあとりあえずは腹ごしらえだろ? なんて適当に手を振って躱された。
そのしょうの無い子だ、みたいな反応やめろ。
「フルタどうする、今のうちに逃げるか」
「無理じゃない? 苅田足痛いでしょ。私も今ね、体がなんだか変だもの」
「まあ、そりゃあ、そうだけど」
「それに大丈夫そうだと思うよ、私は」
「なんでだ、あのおじさんにメリット無いだろ」
「めりっと?」
テレビで失踪中のフルタを連れていた正体不明の女、それが今の私の立ち位置だ。
テレビでは白昼堂々警察署前で事件を起こした「救済の園」。その信奉者が連れ去ったのではないか、だなんて憶測が飛んでいた訳だから、大多数の人間が私を宗教団体の信者の一人だと思うだろう。
私に周りをどうこうしようという気が全くなくても、フルタを連れた私を見た人間は私を危険人物だと思うはずだ。
あの時フルタを見て男が口走った「救済の」という言葉から、フルタが何者なのかは恐らく知っている。
その一言さえなければ、フルタが美人だから自分の店にナンパしたヤバイおじさんという線も出て来た訳だが。まあ、それはそれで家出した美人な女ととりあえず若さだけはある女を家に招き入れて良からぬ事をしようとする悪い人間という事になるが。
実はあの男が救済の園の一員で、カウンターに引っ込んだ時に逃走中の幹部に連絡していて、これからフルタを取り返すために此処へ信者連中がやって来る。なんて恐ろしい事態もあり得るかもしれない。
そもそもフルタが追いかけられている理由が分からない。
もしかして一人の人間を虐げることで信者連中の結束を高める、みたいな方針だったから何が何でも取り返したい、という事だろうか。
虐待する親は虐待をするために、保護された子供を取り返したがるとどこかで聞いたことがあるが。
考えても考えてもキリがない。
こういったことは頭の良い人間が一任してくれればいいのに、おそらく頭自体は良さそうなフルタは危機感ゼロだし、私だってなんだかもう疲れ切っていた。正直一歩も動けそうにない、椅子の布地に根を張ったかの如く尻が浮かなかった。
「もう、いいかな。通報するならカウンターに引っ込んだ時点で通報しているだろうし、もしここが救済の園のアジト的な物の一つだとしても、もう逃げられる元気がない、詰みだよ、短い逃避行だったなフルタ」
「そっかあ」
フルタと並んで、ちびちびと水を飲んで待つ。
時々フルタのグラスにピッチャーから水を継ぎ足してやれば、小さくなった氷が舞う様をやっぱり生き物でも見るような眼で見つめているのが少し面白かった。
銀色の大きな楕円の皿に、大きなサンドイッチがたくさん並んでいる。
まだパンが湯気を立てているそれをテーブルに置きながら、男は肩をすくめた。
「なにせ十一時からの開店でな、まだ仕込みの最中だったんだ。こんな時は腹にやさしいスープでも出した方が良いんだろうが、まあ我慢してくれ。奥のドアの向こうにトイレと洗面所がある。手を洗って来い」
本当にご飯だけ用意してきたな、と思わずポカンと口を開けてしまった。
正直ご飯を待っている間にパトカーのサイレンが聞こえてきても驚かないぞと意気込んでいたのだが、杞憂に終わったようだ。
緩慢な動きでフルタが立ち上がり、行こう行こうと手を引いてくる。
椅子に根の張った尻を、食欲を支えにどうにか引きはがし、フルタに手を引かれてお手洗いまで歩く。
赤い扉を開いて、先にトイレに入っていったフルタを待ちながら洗面所の鏡を見た。
映った顔には若いもクソも無かった、汗と土埃とでどことなく黒っぽい肌は運動会が終わった後の小学生より汚いし、目の下に滲んだ涙の後が嫌に惨めっぽい。
指摘されたズボンを見下ろせば、なるほどズボンを履いたまま川に突っ込んで遊んでいた馬鹿と言われても納得がいくような様相で、街中を歩いていた時は乾いたから大丈夫だなんて思っていたが何も大丈夫そうに無い。
昨日から、少し頭がおかしいな、これ。
自分の行いを顧みて苦笑を漏らす、いやでも本当にこれからどうしたものか。
フルタがひょこりとトイレから出てくる。
いざ落ち着いた目でフルタを見て見れば、フルタも私に負けず顔が真っ黒だった。
「手を洗ったら、顔も洗った方がよさそうだな」
思わず少し笑って言えば、フルタは驚いたように固まった後、んふふと笑った。
焼き目が付いた食パンに、レタスの緑とトマトの赤が挟まり、キラキラして綺麗だ。
ザクリとパンを噛み締め、パキキとレタスの細い芯を噛み切る。
こんがり焼かれたパンの表面が口の中をちくちく刺激して、少し痛みすら感じた。
涙目でサンドイッチを齧る私達を放っておいて、店主を自称する矢口と名乗った男は喫茶店の仕込み作業に戻っている。
正直構っていられる気がしないので、放っておいてくれるのは有難かった。
サリサリと口の中に残ったトマトの皮を噛みながら、ツナとマヨネーズのサンドイッチを手に取る。一口齧れば混ぜ込められていたらしい玉ねぎが、サリサリチャキチャキと音を立てた、このアクセントが心地良い。
ポリリ、とフルタの口から漏れ聞こえたのは、どれかのサンドイッチに挟まっていたキュウリだろうか。
ちらと伺うようにフルタを見ると、両手でサンドイッチを持って懸命に齧っている。
食べ慣れていないのか、デロンと掌の上にトマトの輪切りが落っこちていくのを、慌てたように口で追いかけては、あちこちから新たに具材がはみ出ていく。
見かねてナフキンで介助してやる合間に自分の食事を進めていく。
なんだか久しぶりに人間っぽい食事した気分だ。
自分の事が真っ当な人間だと思えなくなってくると、私の場合食事からおざなりになっていくのだ、そして部屋に気を使わなくなり、衣服に気を使わなくなり、だんだん幻覚やら幻聴に悩まされ、最終的に職場に向かえ無くなる。
そこまで考えて、バイトを無断欠勤したという事に思い至った。
次に無断欠勤したらクビと事前に勧告されていたので、もう手遅れだ。
後で一本電話でも入れておこう、今後どうなるかは分からないが、最低限の義理くらいは果たしておかなければ。
途端に憂鬱になるが、きっちり最後のサンドイッチも食べきり御馳走様と手を合わせる事が出来た。
フルタも手を合わせて、ごちそうさまでしたと呟き、一息ついたのか椅子にもたれかかっている。
「はい、お粗末様でした」
タイミングを計っていたのか、矢口がタオルで手を拭きながらやって来た。
「美味しかったです」
「はい、どうも。それじゃあ、話し合いと行こうか。とりあえずそっちの髪の長いお嬢さん、あんたテレビでやっていた宗教団体に監禁されていた子だろ? もしこっちのお嬢さんに脅されて連れ出されたとかだったら、俺も出方を考えないといけないのだけども」
「うん? 私は自分で逃げて来たよ、苅田は偶然居合わせただけ」
「私も、フルタと会ったのは事件現場が初めて。それまではフルタが監禁されていた子だなんて知らなかったし」
「あんたらフルタとカンダって言うのか」
「あ、そこからでしたね」
名前すら聞かずに飯を出したのだからこの男も大概おかしいな、と思いつつも。私は苅田、十九歳の無職。こっちはフルタ、監禁されていた子。だなんて適当に自己紹介を済ませた。
「私がテロ現場からフルタを連れ去ったので、フルタから誘拐罪になるよと脅され渚町からここまで逃げて来た次第です」
「んー、せっかく会えたもの、病院に戻ったら多分もう二度と会えないでしょう? だから脅したわ」
椅子の背もたれに頬を寄せ、フルタは私を見て笑って言った。
「おかしなことを言うお嬢さんだな」
「それは私もひしひしを感じながら逃走してきましたよ」
フルタの言い分はいまいち要領を得なかった。それが監禁生活による弊害なのか、それとも思惑を話す気が無いのかは分からない。
「俺としてはあんたたち二人を今すぐ警察に突き出そう、という気は今のところ無いわな」
何故、と先を促すように訝し気に見上げてみれば、矢口は「そう眉を顰めるな」と苦笑する。
「特に懸賞金かけられているわけでもないし、お嬢ちゃんを警察に渡したところでうま味が無いから?」
「そこ疑問形なんですね」
「あと単純な好奇心だ。ほら俺悪い大人だから、大人として子供を警察に引き渡そうっていう善意よりも、宗教内部がどうなっているのかっていう下世話な好奇心の方が上なんだわ。こうやって店やって稼いでいるとな? 非日常ってものに飢えてくる。この非日常に対する飢えっていう物に耐え切れなくなった時、健全な方向なら登山やダイビングのような趣味に走るようになるだろうな、不健全な方向であればドラッグだとかに走るようになるんじゃないか、知らんけど。と、いうわけでだ、女2人をかくまってやっているという優越感と非日常に浸るためにもお前達にはぜひとも手伝って頂きたい。ついでにアルバイトが居ないので寝床を提供する代わりに苅田の方には働いてほしい、キッチンでいいから、できればホールをお願いしたいけどもし追手や警察に見つかりそうで嫌ならキッチンでいいから」
「学生の頃、急に饒舌になるから怖いとか友達に言われた事ありません?」
「なんで知っているんだ」
軽快な会話を交わしつつも、頭の中は混乱していた。
矢口が言っていることは、正直支離滅裂に片足を突っ込んでいると思ったのだ。
そりゃあ確かに人間は刺激を求める生き物だ、でもそれは土台の部分に身の安全がある上で初めて求める気になる代物だ。
私たちがここに居る場合、その土台となる安全が脅かされるという事にこの男は気付いていないのだろうか。
もちろん、安全をなげうってまで刺激を求めてしまう人間なんていくらでもいるだろう。そうでもしないと生きていけない性質の人間だとか。
正直な話、男の話は渡りに船だ。ここでほとぼりが冷めるまで居座って、警察が事件を起こした宗教団体を根こそぎ逮捕なりなんなりして貰えるまで待って、私は素知らぬ顔で家に帰ればいい。
「今のところ、フルタの事を連れた怪しい女が発見された、みたいなニュースは流れていないんですか?」
「今のところはな、これからは分からないがニュース上にそう言ったものは流れていない」
なら、あの大家はフルタの顔を正しく覚えていられなかったようだ。家賃は通帳からの引き落としにしてあるし、家賃代だけなら何か月か払える貯えがある。
それに働く事は歓迎だ。金は今後入用になるだろう。
それによって見つかるかもしれないという懸念はあるが、一番気を付けるべきはフルタであり私ではない。
あの救済の園に関しては、私はほとんど関わりが無い。私が生まれる位の時期に両親は団体を脱会していたようだし。
フルタの事を指さして憎悪の目を向けた、フルタの母だという女、名は佐久間と言ったか。
あの時、指さしていたのは恐らくフルタの事だけだ。フルタ越しに指を刺されはしたが、距離も離れていたし、一瞬目は合ったが私に対するアクションはそれだけ。
私の顔に大した特徴は無い、しいて言えば昔からある右目の下にある二つ並んだ黒子だが、とてもあの距離から見ることは出来ないだろうし。
あの雑踏の中で、佐久間が私達の事を指さしていると気付いた人間が果たしているだろうか。
いや、居ないだろう。普通であれば。
「マスクとか化粧とかで、多少変装していいならアルバイトしてもいいですよ。キッチンの経験は無いけど、ホールの経験ならだいぶ前にあります」
「思っていたよりも頼もしい人材だったんだな、苅田」
よろしく頼むよ、あと俺コーヒー淹れるのが壊滅的だから人心地着いたら一度淹れて見てくれないか、淹れ方は教えるから。
なんて要望を出してくる。やはりこの男、私達をかくまう危険性に関して頭から抜けているな。
「苅田の雇用契約については後々つめていくとして、問題はフルタだ。二階にとりあえず二人生活ができる程度の設備はある。ただし、また監禁まがいの目にあうぞ、それでもいいのか」
「わあ、苅田と一緒に寝泊まりするの楽しみ。監禁に関しては今までずっとそうだったし別にいいよ。あ、でもラジオがあると嬉しいな、あれ好きなの」
他に要望は無いらしい、そこでフルタの口はつぐまれた。
何をもってして私の事をそこまで気に入っているのか、まったくもって見当がつかない。
もしかして世に言うヤンデレとか言う奴だろうか、知らぬ間に他人との関係や運命を妄想して、自分の中で確固たる事実にするタイプの。
お前、何故そんなにモテているんだ? なんて聞いてくる矢口に、どうしてでしょうねとしか返せない。フルタは変わらずポヤッとお冷を飲んでいる。
微妙な空気が流れ、じゃあここで暮らすなら細かな部屋の説明でも、と矢口が腰を浮かせかけたときだった。
ドンドンドンと入口のドアを叩く音が鳴り響く。
思わずフルタの顔を隠すように胸元に抱え込む、一瞬で冷えた指先に、フルタの背は熱いくらいだった。矢口も一度首をすくめるようにして入り口を見やる。
開店前とあって窓のカーテンはすべて締め切られている。しかし、ドアにはめ込まれた薔薇模様のステンドグラスにカーテンはかかっていない。
全体的にすりガラスで作られているソレの、薔薇の花弁にあたる薄ピンクのガラス。
唯一つるりとした高い透明度を持つそこから、女の目がこっちを覗きこんでいた。
「探しましたよお! お二人共歩くのが早くて。私いまだに人を追いかけるのが下手糞なんですよねえ、ジャーナリスト失格と言うか」
椅子に座った女は、冷や汗をぬぐいながら笑っている。
突然の襲来者に矢口が恐々と開けた時、ドアの先に居たのは若い女だった。
店主に、最悪何かあれば奥の裏口から山に逃げろと小声で告げられて、フルタと後退するようにカウンターへ向かえば、ドアの向こうの女が焦ったように「怪しい者じゃないんですよー! 自殺ジジイの事でお話が聞きたいだけですアポ無しでごめんなさいー!」と叫ぶのが聞こえた。
自殺ジジイって何だとこちらを見てくる矢口に私が言い淀むと、フルタが「あの時こっちを見ていた人かな、ほら自殺のお爺さんに逃げられた後に」なんて抜かすので「コイツほんとにヤダ」と口に出して言ってしまった。そういう事はその時に教えて欲しい。
「救済の園に出入りしている顔じゃなかったから、とりあえず安全だと思ったの。ごめんね」という、フルタ直々の信者でないというお墨付きにより、ひとまず店先で大騒ぎを起こしている女を店内に招き入れることになったのだ。
ひりつくような緊張感が店内に走る。
厄介どころではない話になってしまった。よりにもよってジャーナリスト。首からはカメラが提げられているし、私の隣に座っているのはこれ以上ないスクープの塊だ。
矢口が座っていた席に着き、出されたお冷に「おや、ありがとうございます、お構いなく」なんて返して、泰然としているのが逆に不気味に映る。
「どうしてわざわざ私達を追いかけて来たんです、随分苦労したようだけど」
ゆるりゆがめられた目は、ほとんど閉じていたが、隙間から見える目の色が随分変わっている事に気付いた。あれは向日葵の色だ。そんな事考えている場合では無いがつい目についてしまった。
「よくぞ聞いてくれました! お二人は今朝、自殺ジジイに絡まれていましたよね、なので取材に来ました。次の記事は自殺ジジイについて書こうと思っていたのですよ。あと写真の掲載許可を頂きたくて、その交渉もしに来ました」
なんとも元気なジャーナリストだった、もしかしたらスクープに興奮しているのかもしれない。しかし女がフルタの事に突っ込む気配は無かった。
あの時間帯から住宅地に張っていたとしたら、もしかしたら「救済の園」にまつわるニュース自体を知らないのか。
そこまで考えて、いやあの時間帯からずっと私達を追いかけまわしていたという事か? と気付き背筋がゾッと冷える。
人の目と監視カメラを避けるように迂回に迂回を重ね、休むことなく街を2つ超えたというのに、ずっと追いかけて来るその執念が怖い。
というか、おかしいだろう。
「それだけの時間追いかけまわしておいて追いつけないなんて、流石に不自然でしょ。あなた、ええと」
「あ、後藤穂乃花と申します、挨拶が遅れてすみません。あと、なかなか追いつけなかったのは悩みながら追いかけていたからですね。まさか自殺ジジイに絡まれていたのが、一世を風靡している「救済の園」の関係者だとは思わなかったものですから、その怯えもあったと言いますか。もし急に話しかけて刺されでもしたら流石に死んじゃうかと思って」
「ああ、やっぱり世間一般で言えばその認識なんだな、私」
思わず頭を抱える、疲労の為か頭痛がさっきからしていたが、さらにひどくなった気がする。
カウンターに一度引っ込んだ矢口から飛んできた「もっと他に言う事があるだろ」というツッコミにもなんだか上手く返せそうになかった。一つ何かが片付くとまた一つ問題が出てくる、人生とはかくも儘ならない。
終わりだねエ! もう終わり終わり! なんてがさついた声が頭に響き、それを振り払う。
いま幻聴などの相手をしている暇は無いのだ。
「ここが救済の園の隠れ家で、入った瞬間ハチノスにされちゃうとかは思わなかったの」
ラジオって任侠系の音声映画も流すのかしら。
フルタの口からこぼれた突飛な単語に思わず思考がそれる。だが、言い方はアレだがその通りでだった。
「確かに、追いかけている時、私は苅田さんの事を「救済の園」の信者の一人だと思い込んでいました。でもこの喫茶店に入ったお二人を少し観察させてもらっていたんですけど、なんだか二人して呆けていましたし。あと私が手に入れた情報が本当なら、「救済の園」では、あなたに人間らしい言動はさせないという決まりがあったんですよね」
「んー、そうだね。私が自分で食事をとることも、自分でトイレに行くことも、人の言葉を話すことも、自分で歩くことも許されてはいなかったね。あと私の名前はフルタ、こっちは苅田だよ」
「そうですか、フルタさん。ええ、でしたのでここは少なくとも救済の園の傘下ではないだろうという結論に至りました、なのでまあタイミングをみてノックを」
「ちょっと待て」
何を恐ろしい行いをさも当たり前のように流しているのか。フルタの方を見れば、いささか沈んでいる様子だが、その顔に悲壮感はない。
そんな家畜同然の扱いをされてきたというのだろうか、この美女が。
「いや、何。私知らないんだけど」
「だって、言っていないもの」
フイとそっぽを向いて、拗ねたように言っている。
いやこっちが勝手に思い込んでいたのが悪いかもしれないが、それにしたってもう少し人間的な扱いをされていると思うだろう。
「お二人は、昔からのお知り合いというわけでは無いんですね」
「昨日からの縁です」
後藤が口に手をやってあらぁと声を上げている間も、フルタは椅子にもたれたままそっぽを向いているばかりだ。
「まあ、お二人の情報の擦り合わせは、落ち着いた時にお二人でしていただいた方が良いかもしれませんね。ほら、繊細な話題ですし。私は私の仕事と、私が向いた興味のみ聞いて帰ることにします」
なんとも自己中心的な話だが、その方が良いだろう。後藤は呑気に、まず自殺ジジイの話なんですけれどね、なんて言いながら過去の調査記録らしき幾つかのノートをバッグからガサガサと取り出している。
そんな最中でも、私の心中は穏やかではない。
そりゃあ、フルタの過去なんて、私が知ったところで何か変わるわけでもないのだ。私はただ脅されて、深夜の逃走劇を決行した仲なだけ。私はカウンセラーでもフルタが居た病院の主治医でもないのだから。
そこまで考えてふと思う、よく今まで室内に監禁されてきて一晩中歩くなんて事が出来たな、と。
しかも自分で歩くことすら許されなかったと言っていなかっただろうか、それならそもそもなぜ歩けるのか。
疑問は尽きない、逃走中フルタは泣き言一つ言わなかった。途中人の目から逃れるために立ち止まることはあったが、ほとんど休憩なしで今の今まで逃げてきた。
「なあフルタ、お前大丈夫か」
覗き込んだフルタの顔は、やって来た時と変わらず赤い。
外の暑さと日焼けからくる赤みかと思っていたが、そういえば先ほどから椅子にもたれて元気がない気がする。
「どうされました?」
「いや、これ多分」
フルタの額に手を当ててみる。
黒い髪に覆われた額はつるりとしていて、少し狭くて、大分熱かった。
んー、という子供のむずかるような声で、あ、これは熱出をしているなと瞬時に悟った。
最初のコメントを投稿しよう!