1章 喫茶店ジャスパーにて

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「苅田、お前先に昼入れ」 矢口さんのそんな声で、苅田は顔を上げた。 ちょうど客も捌けて手持無沙汰にシンクの掃除をしていたが、お許しが出たなら遠慮はしない。 「前から思っていましたけど、矢口さんっていつお昼を食べているんですか」 「お前が来る前は一人で回していたんだ、適当に裏に引っ込んで適当に食う。俺は個人事業主だからそれでいいけど、従業員のお前にソレやったら犯罪だろうが」 なるほど、世間の事業主というのはそういうものなのか。今までのアルバイトは基本チェーン店が多かったから知らなかったが、店主がそう言うのだからそうなのだろう。 「何かあれば呼んでください」 「そう言いつつ読む本を物色しているからなあ、呼ばれる気無いだろ。お前もよくよく本が好きなんだな」 「流石に呼ばれれば降りてきますよ、それに今日は約束の日でしょう? 心頭滅却に本は持ってこいなんです。そうでもしなきゃ夜まで気持ちが持ちませんよ。あ、もちろん読書は嫌いでは無いですけどね」 適当に目についた本を抱えて、カウンター奥に引っ込む。 冷蔵庫によって狭まった廊下を進めば、すぐ右手に寝泊まりしている部屋に伸びる階段があった。 ふと階段脇の窓から見える山の斜面に、ヤマユリが咲いているのが見える。すっかり夏の景色だ。 摘んできて、部屋に飾ってみようか。 花なんて今まで飾った試しがないが情操教育とやらに花は良いと聞いたことがあるような、無いような。 そんなことを取り留めも無く考えながら、帰って来たことを伝えるようにトコトコと軽い音を立てて階段を昇っていけば、すぐに声が降って来た。 「おかえり」 階段を上がったすぐ脇にあるドアを少し開けて、女がこちらを見ていた。 透き通るような白い肌の中には、少し釣り目の大きな目が開かれ、冬の晴れた夜のような色を湛えている。たっぷりしたまつ毛は、瞼が開かれるたび音を立てるかのようだ。 「客が途切れたから先に上がれって。昼は何か食べた?」 「一緒に食べようと思って食べて無いよ」 8畳一間、シンクにコンロ、トイレ付。狭いがシャワーブースすらある。そんな2階の住居。 そこで女はのびのびと寝転がって過ごしていたようだった。その証拠に、頬に畳の跡がついている。 「先に食べたらよかったのに、冷ご飯とおかずの温め方教えたでしょ。2時までお腹空かせていたら体に悪いよ」 「苅田は真っ当な事をそうやって。私の体だもの、私が一番わかるわ。それに一人で食べても味気ないんだもの」 「フルタは変なところで無頓着だなぁ」 とぼけるように、フルタはそっぽを向いた。 その首の動きに伴って、夜を濾して織ったような髪がさらりと揺れ動く。 何度見ても、夢みたいな造形をしている女だなあと感慨に浸った。 「うどんでも茹でようかと思うんだけど、どう」 冷凍庫から取り出した冷凍うどんをカチンカチンと打ち鳴らして聞けば、いいねと簡潔に答えが帰って来る。 フルタは食に対しての拘りが殆どない、一緒に行動するようになってすぐにわかったことだ。 「また沢山本を持って来たのね」 湯の中で踊るうどんを箸でかき混ぜながら視線をフルタにうつすと、彼女は私が持ってきた数冊の本ををパラパラと眺めては、ポイと床に戻す事を繰り返す作業に講じていた。 「それだけ持ってきても、最後まで読み切るものはまず無いと思うけど」 「読まないのに持ってくるって事? そういう物なのかしら」 フルタが手に取った本を読むように抱え、すぐまた床に放り出した。 どうしたの? と問いかければ、どれもこれも漢字が多くて読めないと返って来た。 フルタは、自分は何も教わらずに生きて来たのだと言った。 誰からも基本的な常識を教わらず、読み書きも、閉じられた部屋の外に世界がどれだけ続いているのか、知らなかったというのだから驚きだ。 そんな風に育ったフルタだが、孤独では無かったというのだから、周りにいた人間を思うと、まこと人という生き物は残酷で自分勝手で醜い生き物だなと再確認する。 しかし等のフルタは、せっかく読めるかもと思って持ってきた児童向けの本をパラリと捲っては、読む前に次の本を手に取っている。 もしや私の真似だろうか。 親の真似をする幼児を思い起こす行動だが、彼女は私より年上だ。ニュースの情報から予想するに、恐らくは二十四歳になるだろう。 「私向けの本はあるのかな」 「あ、その本の一番はじめに載っているお話が、昨日フルタが好きだって言っていた『羅生門』だよ」 「へえ、これが」 ダカダカと鍋からうどんをザルの上に流し込む。熱湯に曝されたシンクが、ベボンと勢いよく音を立てた。 水流の音に交じって、フルタの全然読めないという嘆きが聞こえる。 幼少期にラジオで聞いていたという朗読から、多くの文学作品に触れたとフルタは言っていた。 そして言葉を覚えたのもラジオ、教えられなかった外の事も、人の常識を知ったのもラジオ。深夜に人が寝静まった後、部屋の片隅にあった大きなラジオの音量を最小まで捻って、寝る間も惜しんで聞いていたのだという。 その時間帯では、優しい童話など語られるはずもないだろう。 フルタの渋い愛聴書のラインナップを聞いた時は、懐古趣味なのかと思わず訪ねてしまったほどだ。 何も教えられなかったというのなら、どうして私と会話ができるのかと尋ねた際に、喋ることを許されはしなかったけれど、聞くことは許されたと。まあ要約すればそんな事を言われた際にはさすがに同情した。 しかし、ラジオの朗読というのは、読書と違って先の展開を覗き見たり、前のページに戻ることもできないわけだからきっと神経を使う。 彼女は相当に頭が良いのだろう、私とは違って。 ガラス器にうどんを盛り付け、冷凍してあったネギを散らす、殺風景なので卵も落とす。 昼食として上等だろう、はいお待ちどうさまと古ぼけた折り畳みテーブルにゴトリと置けば、寝転がっていたフルタは骨が通ったようにしゃっきりと背筋を伸ばした。 「ラジオの、たしか深夜朗読劇場だったよな? せめてアーカイブがネットにあれば良かったけど」 「調べてくれただけで嬉しいよ、私は」 いただきますという言葉と共に、フォークでたどたどしくうどんが掬い上げられ、赤い唇の中に入っていく。 上手く啜ることが出来ないようで、大した音もなく白い麺が唇に食まれては、ツルっと短く吸い込まれていく。その様がなんだかおもしろい。 私もずるりと麺を啜る、ネギの冷たさが心地良かった。 「朗読って、物語を理解するのが本で読むよりもよっぽど難しそう。あまり聞いたことは無いけれど」 「そうかな、でも苅田も本は読むでしょう?」 そう言うフルタの唇には、麺から置いてきぼりにされた卵の黄身が薄く付いていた。 ティッシュを差し出しながら、持ってきた本を顎で示す。 「私はさ、図書館が好きだったんだ」 「本じゃなくて図書館?」 「図書館なら私には合わないなって思った本を、すぐ本棚に戻せる。それに、やっぱり読みたいと思った時は、また図書館に行けば本が読める。でも朗読じゃあそんなことは出来ない、ラジオの朗読劇なんてそれこそ一期一会みたいなものでしょう? だから私には向いていなさそう」 図書館は好きだ、気に入らない展開が来たら、すぐに本を閉じて棚に戻せばいい。 嫌いな場面からすぐに逃げられる、だって棚に戻して内容を忘れて家に帰ればいい。 見たい世界を見たい時に、それが本の醍醐味だ。 本を買って家に置いておくことが一番楽なのだろうけど、財力の関係的にそんなことは早々できない。やっぱり図書館が私に合っている。 もしラジオ朗読で同じことをした場合、合わないなと思って電源を切ったはいいけれど、やっぱり続きが気になる、だけど題名が思い出せない。なんて事になりそうだ。形が無いものは忘れやすい。 フルタはもちもちとうどんを噛みながら少し唸った。 「なんだか本好きから怒られそうな話ね」 「そうかな、案外そういう人は多いと思うけど。あと、場所を借りて宿題を片付けられるのも好きだったよ。一人で子供がいても全然怪しまれない所も良い」 「逆に子供が一人でいると怪しまれるものなのね、勉強になるわ」 ちょいちょいとネギをフォークで刺して、小さな口の中に緑色が吸い込まれていくのを見届けながら、手元のガラス器に目線を落とす。 卵の黄色と汁の茶色でまだらになった皿の中を、少なくなったうどんでグルリとかき混ぜて、ずるりと吸い込む。 学校に留まりたくない、家にも帰りたくない。そんな時、図書館は私のオアシスだったのだ。 懐かしくも苦い、小児期の片鱗。 「いつか、図書館に行ってみたいな。知ってはいるけど行ったことって無いの」 「今の時代、どこにでも監視カメラがあるのが痛いな」 そうなのよねえ、とフルタが吐いたため息を、空になったガラス器が受け止める。 「興味のありそうな本であれば、私が下から持ってくるよ。だから漢字を読めるようにならないといけないな、ある程度なら教えられると思うから」 「ありがたい限りです。この言葉ってこういう使い方で合っている?」 薄く笑いながら言うフルタに合っていると伝えながら、皿を片付ける。 まだ休み時間は30分以上あった。 寝転がりながら本を開き、いくらか進んで、ところどころ開いて、閉じる。 「肌に合わないの?」 児童書を眺めていたフルタが問いかけて来る。 「文章が合わなかったかな、あと人間が綺麗すぎる」 「人間が綺麗だと読めないの?」 「人間は醜くいものだと思っているから、聖人君子みたいな奴が出てくると読んでいてしんどくなる」 「苅田は人間なのに」 「そのせいでもあるよ」 とたんに、初めて水族館のふれあいコーナーでウミウシでも見た子供のような顔をフルタがした。 奇妙、好奇、疑問、そんな感じの顔。 「苅田は可愛いのに、綺麗では無いの?」 「また変な事言って」 「ねえねえ、それなら羅生門を読んでよ、朗読して」 「私なんかの朗読でいいの? 多分下手だよ」 いいから読めとでも言うように、フルタが本を押し付けて来る。 学校の授業で読んだ時ぶりだ、どんな声で私は教科書を読んでいたっけ。 いつも通りの、平穏な昼下がり。 本のページを捲り、今は無き羅生門の夜の一幕を読み上げる。 あまりに平穏で欠伸が出る、こんなことをしている場合では無いのだ。 それでも、怠惰な脳が思考を放棄させる。 もういいんじゃないかな、こうやって静かに目を逸らして生きていくのも。こんな穏やかな日々、今まで望んでも得られなかったものじゃないか。 あまり長くない話を読み終え、おしまいと締めくくって寝転がる。 畳にぐにゃりと、頬肉を押し付けるようにしていれば、野生動物の様子でも伺うように、フルタが私へ寄って来た。 白くて骨っぽい綺麗な手が、私の目元をするりと撫でていく。 多分、私の右目の下にある二つ並んだホクロをいじって遊んでいるようだ。 「ホクロって触ると大きくなるらしいからやめて」 「つい触っちゃう、かわいいから」 「ただでさえ古株のほくろなんだから、年々大きくなってる気がするから、おい、こら」 ふふふと笑うフルタはご機嫌だ、話が通じない。 「うまれた時からあるのかな、ねえ」 「だと思うよ、父親とはあまり話せなかったから分からないけど、少なくとも気が付いた時にはあったよ」 「うふふ、そうかぁ、んふふ」 こういう時は無抵抗に限る、飽きるまでこうさせておけばいい。人間は反応のない人間には興味が薄れるものだ、今までの人生で学んでいる。 さらさらと他人の手が、優しく顔を這う感覚というのは不思議だ。 居心地が悪いが、心地が良くもある。 あまり撫でられるという事が今までなかったからだろうか、跳ねのけるという選択を今まで取った事が少ないからだろうか。 やめさせるために取っていた無反応が、だんだん続けさせるための無反応に意味を変えていく。 まあ、いいや。 私の事を、変わらずフルタは撫で続ける。 どうせ今日の8時過ぎには、嫌な事が待っているのだ、今この一時くらいは力を抜いたっていいだろう。 こんな穏やかな日々だけが、ずっと続けばいい。信じていない神にすら今なら祈れる。 穏やかで退屈、窮屈で自由、こんな日々が永遠に続いてほしい。 そんな事を、ぼんやりと思った。
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