2章 過去の話

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悲鳴と怒号、空気を震わせる衝突の衝撃、割れる何か。 倒れた私の足を、誰かが踏んで逃げていった。 黒煙が上がる、炎が舞い踊る。 そんな中で、女が私にのしかかっていた。 月のように輝く白目の中で、夜を固めたような瞳がじっと私を見つめて来る。 冷たい女の指が、私の目元を無遠慮になぞる度に、意図せず瞼がびくびくと痙攣した。 女のやわらかな尻と、地面に挟まれた私の脚がじんわりと痺れるのを感じながら、何か言おうと口を開いたところを、再び誰かに足を蹴り飛ばされて我に返る。 車だ、車が警察署に突っ込んだ。それも1台ではない。 幾台の車が、人々を跳ね飛ばそうと躍起になって暴れ回る。 警察署の塀にぶつかる車体、目出し帽をかぶった何人かの男が、燃える瓶を人に向かって投げている、火炎瓶だ、初めて見た。 警察官を跳ね飛ばして署内に侵入したソレが発するタイヤの甲高い音に顔を顰める。 轢かれた人間の腹が、生きているならあり得ないほど薄っぺらく凹んでいるのを見て、知らず肩が震えた。 事の発端は、数日前のニュースにより世間に知れ渡ったとある事件。 渚町にて興った新宗教「救済の園」という団体内にて、一人の女が二十余年にわたって監禁されている。 匿名のタレコミによって明らかになった、おぞましき事態。 警察による捜査の末、それが事実だと判明した。 生まれ育った町中にあるビルが、緊急ニュースというテロップと共にテレビに映し出された時は、見知った場所であるはずなのに、どこか遠い国の事のようだった。 ブルーシートに遮られながらゾロゾロと人間が警察に連れられて行く、嘆く信者の声が静かな昼下がりの部屋に、どこか間抜けに響いた物だった。 逮捕されたのは、首謀者たる幹部達八人。 そんな恐ろしい事件の中心人物達が、設備の関係で町の警察署から移送されると報道されたのが、つい今朝がた。 そうとあっては、大した娯楽もない田舎町。数多の野次馬がごった返した警察署前。いざ移送が始まる、まさにその時に起こされた凶行だった。 制服を着た警察官があちらこちらへ走り回り、時に倒れ、時に誰かに組み付く。 逃げないと。 そう思って、体のあちこちを蹴り飛ばされ踏まれながらも、どうにか私に乗ったままの女と共に上体を起こした時。 炎が渦巻き地獄のような様相となっている道の上、静かに歩く女が一人。 黒い髪、白い皮膚、どこか色彩の欠けたような雰囲気。端正な顔の真ん中にある目がドブ川を煮詰めたみたいな色を湛えて、こっちを見ている。 それは確かに私を見た、いや違う、私の上に乗っかっている女の事を見た。 その顔と来たら、安っぽい例えだが、鬼と言われれば納得するだろうそんな顔だった。 燃える憎悪に引き連れて皮膚が歪み、噛み締められた歯は砕けてしまうのではないかと思えるほどで。 しかし、その憎悪も一瞬で消えた。 あとは静かにこちらを見やり、微笑みながらこちらを指さしてくる恐ろしい女の姿だけが残る。 じっとりとこちらを指さす女の口が動く、なんて言ったのか。 嫌な予感がした、未だに私の膝に乗っている女を見る そうだ、腹の上の女はさっきフルタと名乗った 私の腹の上に乗っかっているフルタを指さしてくる女。 年齢は違う、顔立ちも瓜二つというわけでは無い。 それでも似ている。 頭の中にテレビニュースのキャスターの声が沸き上がる。 「新興宗教『救済の園』では、幹部女性である佐久間由紀容疑者は、自身の娘を組織ぐるみで監禁していた」 自身の娘を監禁。 スローモーションのように世界が動く。 突っ込んできた車の中から、目出し帽で隠した人間が新たに躍り出る。 まだ、女の指は私たちを刺している。 咄嗟に、ボンヤリとしたままのフルタの手首をつかんだ。 冷たくて、細い骨が脆く零れてしまいそうな手。それを音がなるほど握りしめる。 「走って!」 無理やり起こした宵闇の女を、引きずるようにして走り出した。 何かが割れる音が断続的に響く、炎で景色が歪んでいた、炎に触れてもいないのに火傷しそうな風が体を舐める。 冷や水を浴びせられたような心地がずっと続いているのに、どくどくと心臓ばかりが暴れ回っている。 死という概念が、私の首に手を掛け続けているような心地がして、怒号が完全に聞こえなくなるまで、炎に焙られた皮膚のざわめきが落ち着くまで、私達は走り続けていた。
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