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ぐちゃぐちゃな気持ち
手早く化粧を済ませた私は、前日と同じ服装で藤田の家の玄関に立っていた。
「じゃあね」
ベッドでなにやらスマートフォンをいじっている藤田に玄関から声をかける。どうせ今日も、玄関までの見送りでさえ来てくれないのだろう。
しかし、そのことに関して私は特別なんとも思わなかった。なんとも悲しい慣れだ。
ドアノブに手をかけたとき、藤田が廊下を歩く音が聞こえた。何か忘れ物でもしたかなと後ろを振り返ると、そのまま彼にキスをされた。
「またきてよ」
彼は甘ったるい声で囁いた。私は次があることに安堵して、小さく頷いた。
彼の優しさは、私を誘い出すための甘い蜜だ。
しかしその香りに誘われて一度でも中に入ってしまえば、張り巡らされた糸に絡め取られて動くことさえできなくなってしまう。
手足もひょろ長いし、藤田の前世はきっと蜘蛛なのだろうと私は思った。
それなら私は、蜘蛛に食べられてしまう蝶なのだろうか。
いいや、違う。きっと私は可憐な蝶よりも夜闇を徘徊する蛾の方が似合っているだろう。
最寄駅に向かって歩きながら、中村のことを考えた。
彼は、私の服装が昨日と同じことに気がつくだろうか。もし気がついたとして、そのことについてどんなことを思うのだろう。
そんなことを考えているうちに私は電車に揺られていて、いつのまにかS駅に到着していた。
今日は日曜日だから、予備校は休みだ。普段はサラリーマンばかりのS駅も、遊び目的の人間が多い。
いつもなら楽しげな人間を心の中で睨みつけているけれど、今日は違った。
私は案外、中村とのお茶を楽しみにしていたらしい。普段ならムカつくうるさい若者集団にも全くいらいらしなかった。
どうも彼には私を癒す効果があるらしい。確かに中村は癒し系の顔だし、あまりガツガツしていない。
ラブなのかライクなのかは知らないけれど、好意の表現が異常なまでにストレートなだけだ。
S駅の改札を出ると、そこには待ち合わせと思われる何人もの若者が恋人なり友達なりを待っていた。
前髪を気にしている学生風の女子に、今時な顔をしたヤリチン臭のするマッシュ頭。
その中に全身黒ずくめの地雷女である私が新たに加わった。駅前は、人が行ったり来たりで忙しない。
数分も経たないうちに、中村はやってきた。
白い立襟のシャツにシンプルな黒いパンツ、味のあるカーキ色の斜めがけをぶら下げて彼は姿を現した。
「ごめんね、待った?」
彼は眉を下げて、こちらを伺うような様子で尋ねた。深い色の瞳に、長いまつ毛。目の形は切れ長というよりも丸っこい。今日も中村は子犬みたいな顔だな、と私は思った。
「別に待ってないよ」
私は開いていたスマートフォンの電源を落として、カバンにしまった。
横に立っていた学生風の女子も待ち合わせ相手がやってきたらしく、女同士手を取り合って「久しぶり〜」などと言い合っていた。
「いこ、美咲さん」
彼は満遍の笑みをこちらに向けた。割と笑っていることの多いやつだなとは思っていたけれど、こんなに嬉しそうな顔は初めて見た気がした。
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