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嫌な夢だった。藤田に捨てられる夢は、とても久しぶりだ。しばらくみていなかったのに。
ーーずっと彼が音信不通だからだろうか。
この夢を見た後は決まって、たまらなく不安になる。自分の叫び声で目を覚ました私は、そのまま布団から起き上がることができなかった。
とりあえず薬で落ち着かせようと周囲を見渡すも、近くに落ちているのは空になった薬のシートだけだった。
そろそろ梅雨入りか、と思わせるような薄暗い朝日が部屋を薄らと照らしていた。
布団に横たわったまま、彼の名前を口にした。ぎゅうと抱きしめた掛け布団にきつい皺が寄っていた。
「藤田、藤田ぁ……」
世界でいちばん酷くて、愛しい男の名前。もし彼に捨てられたら、彼は私の世界から消える。
もしそうなったとしたら、私は彼が存在したという事実をどのように確認すればいいのだろうか。
彼の存在が本当だったと確かめる術がなくなってしまえば、彼を思い出すことすらもできなくなってしまう。
なんでもいい、確かに彼がいたという痕跡が欲しい。
強く瞑った目の奥で、ひとつの小さな赤い火がちらりと揺れた。藤田が時々吸っている、煙草の火だった。
――藤田。その火、私に押し付けてよ。
私は自分がおかしなことを思っているな、と思った。
それでも、私は彼の燻らす煙草の火種を自分の体に刻みつけたかった。
そこに藤田がいた、そのことを体に覚えさせておきたかった。そう思った。
たとえ彼がいなくなっても、私は彼を愛し続けるだろう。死ぬまで一生。いや、死んでもなお私は藤田のことを想い続ける。
「それなら、薬指がいい。左手の薬指。彼からの、消えない指輪」
煙草の先が、私の薬指にゆっくりと近づいてくる。
他人が見たら痛々しい光景に、私はまるで結婚式の指輪交換の時のように幸せな気持ちになった。
「藤田……」
妄想と現実の境目が無くなり始めたところで、不意にピロンというスマートフォンの通知音が聞こえた。
私ははっと現実に帰り、目を見開いたまま携帯を手を取った。
なんの根拠もないけれど、藤田からの連絡だとわかったからだ。
「久しぶり、今日会おう。昼に来て」
夢の不安も何もかもが全て吹っ飛んで、私は安心感に包まれた。私は“まだ”藤田に必要とされている。
さっきまで動かなかった体が、嘘みたいに軽くなった。
そのまま起き上がった私は、壁にかけてある時計に目をやり、バイト先に発熱したと嘘の連絡を入れた。
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