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15分ほどで予備校に到着し、見慣れたガラス戸に手をかけた。受付には、新入生たちが数人並んでいて職員からの説明を受けていた。
私があそこに並んでいたのは、もう5年も前の話だ。今では職員一同すっかり顔見知り。なんなら、かつての同期が先生として働いている。
時々エレベーターで乗り合わせることがあるけれど、気まずくて目を合わせないようにしていた。
授業開始前で混雑するエレベーターになんとか乗り込み、油絵科の教室がある8階にたどり着いた。
今日は新学期で誰も油絵の具を使っていないはずなのに、油絵を描く時に使われるテレピン油の刺激臭が室内に充満している。
ここにきて初めの頃は、このにおいに顔をしかめていたけれど、今ではもう慣れっこだ。なんなら、落ち着いてしまう。
絵の具やら木炭やらで汚れ切った壁や床には、さまざまな画用液や薬品のにおいが染み付いていた。
金属製の厚いドアを潜ると、教室にはすでに20人ほどの生徒が集まっていた。ほとんどの人が学校の制服を着て、各々絵を描いたり携帯をいじったりしながら丸椅子に座っていた。
浪人生は、私1人だけらしい。
金銭的に余裕のない私は、昼間の浪人生クラスに比べて学費の安い、高3向けの夜間部に通っていた。
現役のときを含めて5度目になるオリエンテーションは、実に退屈だった。
暇つぶしに私は、どれどれ今年の顔ぶれは
と辺りを見回した。髪色を含め全身をピンク色にした女の子に、根暗そうな黒縁メガネの男の子。その他大勢。
まあこんなものだよな、と視線をホワイトボードに戻そうとしたとき、ふとひとりの男の子が目に入った。
他の子たちに比べて背が頭一つ分高い、モデルみたいな体型に、センター分けのサラサラとした黒髪。奥二重のくるりとした大きな目。鼻の高さは日本人とは思えないほどに高かった。
鼻先の尖りが、ほんの少し藤田に似ていた。
いわゆるイケメンな顔立ちだった。
「モテるんだろうな……」
別にそれ以上の興味は湧かなかったため、私は再び前を向いた。いつのまにか授業の説明は終わっていて、自己紹介の時間になっていた。
「中村宗介です。ハマスホイとか、写実系の絵が好きです。よろしくお願いします」
イケメンな彼の名前は、中村というらしい。隣に座っていた特徴のない女の子が、うっとりと彼の横顔を眺めていた。心なしか、他の生徒たちよりも起こった拍手の音が大きかった気がした。
私の順番が回ってきた。仕方なく椅子から立ち上がる。数人の生徒が私を見てあからさまにぎょっとした顔をしたあと、すっと目を逸らした。
ガリガリの体に、数えきれないほどのピアス。どぎつい化粧。全身真っ黒な服装。高校生の彼らには少々刺激が強いらしい。毎年同じような反応をされるので、すっかり慣れてしまった。
面倒くさいけれど黙っているわけにもいかないので、例年と全く同じ内容の自己紹介をした。
「藍田美咲です。よろしく」
ぱらぱらと申し訳程度のまばらな拍手が鳴り、すぐに次の生徒が自己紹介を始めた。
この反応を見るに、どうやら今年も友達はできないらしい。私は周りなんて特に気にしてませんけど、という顔をして席についた。
そして、オリエンテーションは終わった。時間が余ったので、絵を描きたい生徒は残って自由に制作をしていいとの説明がされた。
半分くらいの生徒は帰り支度をして、そそくさと教室を出て行った。残った生徒たちはイーゼルを出したり机に向かったりと各々のスタイルで絵を描き始めていた。
その中に、あの中村宗介もいた。彼は卓上に適当なモチーフを組んで、鉛筆でデッサンをしていた。現役生にしては、結構うまい方だった。
私は慣れた手つきで画箱を取り出すと、木炭で心象風景を描き出した。心のうちに浮かぶ様々な形や風景を、思いのままに紙に載せた。
周りの生徒が、ぎょっとした目で私の絵を見ているのに私は気がついていた。私の絵は世間一般でいう、気持ちの悪い絵らしいのだ。
後ろから気配を感じて振り返ると、イケメン中村が私の背後に立って、画面を眺めていた。
「なんか用?」
私が愛想悪く尋ねると、彼は目を輝かせたまま私を見ていた。
「すごくかっこいい絵だな、と思って。もう少し見ててもいいですか」
こんななりの、不気味な絵を描く人間に彼はなんの躊躇いもなく接近してきた。
「へんなやつ」
「よく言われますね」
彼はあっけらかんと笑って答えた。
心のつぶやきが、思わず口から漏れてしまった。失礼だったかと彼の顔色を伺ったけれど、彼の表情は相変わらず嬉しそうだった。
へんなイケメン。それが、彼の第一印象だ。
この時はまさか、長い時間彼と人生を共にするだなんて、思ってもみなかった。
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