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号泣
その日はいつにも増して私の情緒が不安定だった。今週は木炭を使って行う静物デッサンの課題で、生徒たちはみんな大きなデッサン用紙に向かって各々の世界を描き出したり、見たままを描いたりしていた。
最近、関東地方の梅雨入りが発表された。
私は雨が嫌いだ。梅雨はもっと嫌いだ。光源の調整のために教室のカーテンは閉められているから、外の様子はわからないけれど、私にはその分厚い遮光カーテンの後ろに鉛色のどんよりとした空が透けて見えるようだった。
「う……うわあああああん…………」
私はなぜかひどく悲しい気持ちになってしまった。ただの自然現象である雨が空の涙に思えてきて、その涙に当てられて私も泣いた。
あんな怖い夢を見て、私はずっと不安を抱えていた。それが、ほんの些細な“空の涙”で心のダムが決壊してしまったのだった。
教室は異様な雰囲気に包まれる。生徒たちの冷たい視線が辛くて私は教室を飛び出した。
教室を出てすぐのところにあるエレベーターは他の階に止まっていた。私は頑丈な鉄製の非常扉を開けて、雨の降り注ぐ外階段を降りた。1日降り続いた雨で、階段は滑りやすくなっていた。
私は下から3段目の段で滑って転んだ。
ーーこんな底の厚い靴なんて履いてこなければよかった。頓服の抗不安薬を飲んでおけばよかった。今日は予備校を休めばよかった。
擦りむいた膝からは血が滲んでいて、痛い。
もう大人なのに、年下の子達の前でいきなり泣き出してしまった。その上階段で滑って転ぶなんて、なんて滑稽なんだろう。
決壊した涙腺はいうことを聞かない。私は声上げて、バカみたいに泣いた。泣きながらあいつの名前を呼んだ。
ーー泣いたって、叫んだって藤田は来てくれないのに。
「美咲さん!」
頭上から私を呼ぶ声がした。藤田かと思った。そんなわけがないのに、私は「藤田ぁ……」と情けない声を出した。
「大丈夫……じゃなさそうだね。どう見ても」
彼はひょいと階段を2段飛ばしで駆け降りると、号泣する私の横にしゃがんだ。背の高い彼の方がずっと頭の位置が高いはずなのに、視線の高さは同じ。彼は薄い背中をうんと丸めて、私の顔を覗き込む。
空のグレーが反射して青味がかった黒色の綺麗な瞳が私のことをじっと見つめていた。
「“フジタ”じゃなくてごめんね。でも、あなたを放って置けないから……」
中村はポケットから水色のハンカチを出して、そっと私の涙を拭った。次から次へと涙が溢れてくるから、拭っても拭っても私の頬は乾かないままだ。
彼が中村であること、自分がとんでもない呼び間違いをしていることに私はようやく気がついた。
「ごめん、中村。その……混乱してて友達と間違えて」
なんて苦しい言い訳だろう。彼は「うん、大丈夫」と言って、私の手を取った。
「美咲さん、一人暮らしだっけ」
なぜそんなことを聞かれたのかわからないまま、私は「うん」と頷いた。「家まで電車でどのくらい?」「1時間」
そっか。と彼は呟いた。空は相変わらずぐずぐずと泣いている。雨足が少し強くなったような気がする。遠くから雷の音まで聞こえてきた。
「もし嫌じゃなかったら、俺ん家で少し休んでいって。ここからなら歩いていけるから。そんな状態じゃ、電車乗れそうにないでしょ?」
精神的に参っている時の電車ほど辛いものはない。なんでそのことを彼は知っているのだろう。身内に、私と同じような人がいるのだろうか? 私は視界と同じくらい滲んだ思考で、彼の言葉の意図を考えた。
男の家で休んでいくってことは、つまりそういうことだ。
ーー私は今日、中村とセックスするのか。私はやけに生々しいまだ空想の中村との性行為を想像した。
この人懐っこい大型犬みたいな、無害そうな中村にも性欲はある。彼は、どんな顔をして、女を抱くのだろう。
「俺、荷物取ってくるからここで待ってて。雨に当たらないとこにいてね」
私は頷いた。ぼんやりと雨の降る様を眺めていると、上から聞きなれた足音が聞こえてくる。
「お待たせ。美咲さんの傘、これだよね。ほら、行こう」
彼は大きな手をこちらに差し出した。彼の手のひらは穏やかに隆起していて、皮膚が薄いからか青い血管が透けて見える。綺麗な手だ。
私は言われるがまま、立ち上がった。そして、彼に着いて歩いた。
手は、繋いだまま。ひとつの傘に2人で入った。
私と中村の体温が合わさって、心地の良い温度だった。私たちは何も喋らなかった。しばらく歩くと、大きな交差点にぶつかった。赤信号で私たちは止まった。
「ねえ中村」
私は、彼の手をぎゅっと握った。雨の日だから人通りはあまりなく、信号を待つ人もまばらだ。私は続けた。
「今日、セックスするの? だから私を家に連れてくの」
彼はいつもの声音で返事をした。
「美咲さんは、したい?」
「どっちでもいい」
信号が青に変わる。私たちは再び歩き出す。
「それなら、しない。美咲さんがしたいって言ってもしないけど。弱ってる美咲さんにつけ込んで食うほど俺は腐ってないからね」
ふうん、と私は鼻を鳴らした。
「私って魅力ない?」
彼は笑った。
「なに? 誘ってるの」
「違う、そうじゃないけど」
彼の指がより強く絡みついて、私の指の間を締めつけた。雨は変わらず。雷は少し近づいてきている。
「そりゃ、したいよ。だって俺、美咲さんのこと好きだもん。でも、好きだから我慢する」
突然の告白。あまりにもさらりと言い切るものだから、聞き流してしまうところだった。彼の肩にかけられたスクールバッグには、何もぶら下がっていない。飾り気がないのは、鞄も同じだった。
「私のこと好きなの」
「うん」
彼はそれ以上何も言わなかったし、私に何も尋ねなかった。
しばらく歩いた先に、中村の住むアパートがあった。古い木造のアパートで、階段の手すりが錆びていた。
私は予備校に近くて羨ましいなと、どうでもいいことを思った。
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