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愚か
中村は私のことが好きだという。そう言われて嬉しくなかったといえば嘘になる。でも、だから付き合いましょうなんてならない。
中村は未成年で、私は大人で。彼は高校生で私は大人で。クズに依存するロクデナシの私がこの優しい男の子に見合うとは思えなかった。
「汚くてごめんね、親父は……多分酒か女だな。誰もいないから、なんて言ったらそういうことしたいみたいだね」
彼は申し訳なさそうに、私を部屋に招いた。そんなに広くはない畳敷きのの部屋に充満するアルコールの匂いと、散乱している空き缶たち。生ゴミの臭いはしない。きっと中村が片づけているんだろうな、と私は思った。
彼のアパートは2部屋しかなくて、奥の部屋には2つ布団が敷いてある。あまり手入れはされていないらしく、すえた臭いが向こうの部屋から漂ってくる。私も部屋が綺麗な方ではないからあまり人のことは言えないけれど。
台所に置かれたテーブルの上を、中村はサッと片付けた。集めた空き缶やらつまみのパックやらをそれぞれビニールに突っ込む。
そしてこんなんしかないけど、と冷蔵庫からペットボトル入りの麦茶を出してくれた。飲み物はそれしかなかったらしく、彼が水道水をコップに汲み始めた。
「一緒に飲も」というと、彼は「間接キスだね」と言って笑った。
「そんなこと気にするの」
「まあね」
私はペットボトルの蓋を開けて、麦茶を一口飲んだ。部屋はジメジメしていて蒸し暑い。はい、と麦茶を渡すと向かいに座った彼は「ん」と鼻を鳴らしてそれを受け取った。
彼が一口麦茶を飲むたびに彼のぼこりと出っ張った喉仏が上下に動いて、やけに色っぽく感じた。
「なんで泣いてたの、なんて聞くのは少し野暮かな」
彼は、デリカシーのあるんだかないんだかわからない言い方で私に尋ねた。
私はどう答えるか悩んでしまった。本当のことを言ったら、彼はきっと私のことを嫌いになるだろう。
だって、私はかっこいい美咲さんなんかじゃない。そんなやつはただの虚像で、本当の私はもっと弱くて情けないクズに依存するバカ女だ。
ーー藤田のことが、また頭をよぎる。自分で自分を最低だと思った。自分を好いてくれている彼の前で、私は別の男のことを考えているのだから。
気がつくと、止まっていた涙が再び溢れ出す。藤田のことなんて、考えている場合じゃないのに。私が今向き合うべきなのは、私自身だ。そして目の前にいる中村だ。なのに、どうしてあの男のことばかり考えてしまう。
「ごめ……ん、中村。私さぁ、本当は弱いんだ。情けないんだ。あんたにだけは見せたくなかったのに。こんなところ、見られたくなかった」
外では空が泣いている。その雨音に合わせるみたいに、私の目からもぼろぼろと、涙がテーブルに落ちた。
「私のこと嫌いになっちゃったよね、きっと……こんなこと言う資格なんてないのにね」
涙と一緒に理性も思考もどんどん溶け出して、体外に排出されている。私が今するべきことは、彼の前で泣き崩れることじゃない。ここから立ち去ることだ。
そして、これきり、彼との関わりを断つことだ。彼は優しいからきっと、私のどんな告白も受け入れてしまうだろう。
ーー私が藤田のことで泣いている。その事実が中村を傷つけることはわかっている。これ以上彼の優しさに、好意に漬け込むなんて大人のすることじゃないと思った。
「俺、大丈夫だよ。知ってるよ、美咲さんが強くないことぐらい。話したくなかったら、話さなくてもいいけど。あなたの泣いていることを、藤田ってやつは知ってるの」
「なんで。私、そんなこと一度も」
「ごめんね、ずっと知ってたんだ。偶然スマホの通知が見えちゃって、その時からずっと」
中村は台所の磨りガラスが嵌められた四角い小さな窓を見ていた。そこから入るぼやけたグレーの光が、彼の瞳に映っている。彼の目はこちらを見ない。それが彼の気遣いなのだと気がついたのは少し経ってからだった。
「ごめん。私、中村の気持ちには答えられないよ。だって私、あいつのこと切れないから……好きだから…………」
アルコールの匂いは、いつの間にかわからなくなっていた。中村はテーブルに置いてあるエアコンのリモコンを手に取って、涼快のボタンを押した。エアコンが動作音を出して、涼しい風を吹き始めた。
涙の乾いていないところにエアコンの風が当たって冷たかった。
「それも知ってる」
「ならなんで、私のことが好きだなんて」
彼はようやく視線をこちらに戻した。彼はまっすぐに私の目を見て言った。
「それでも、あなたが好きだから。俺も情けないよね、それでも諦められなかったんだよ。美咲さんと一緒だね」
「馬鹿じゃないの、中村。ほんと。馬鹿だよ、私もあんたも……」
もしも藤田がいなければ、と私は思った。
そうしたら、私はなんの躊躇いもなく彼と未来を歩む決断をしただろう、と彼の真剣な顔を見て思った。
ーーでも、藤田のいない世界なんて意味が無い。藤田が消えたら私も死ぬ。結局私は、あの母の子供だ。結局は私も彼女と同じ末路を辿るのだろうと私は思った。
「都合のいい男でいいから、そばに居させて。2番目で構わない。いつかあなたがそいつを必要じゃなくなる日まで」
本当に馬鹿だと思った。2番目で良いなんて、そのことを相手に伝えるなんて。
「馬鹿じゃないの、本当に……」
「俺もそう思うよ」
私はいつのまにか泣き止んでいて、中村はペットボトルのお茶を全て飲み干していた。外は変わらず雨が降っていて、私の頬はまだ涙で濡れたままだ。
「でも、俺は美咲さんをひとりにしたくない。を寂しいなら、抱きしめてあげる。泣き止むまで隣にいるから。あなたの泣くことが、なによりも悲しいって思えるくらい俺は美咲さんがーー」
それ以上言わないで、そう伝えるために私は彼の唇を自分の唇で塞いだ。そんな自分を、ずるいと思いながら。
でも、中村とキスがしたかった。いろんな気持ちがぐちゃぐちゃに混ざり合って、私たちはめちゃくちゃにキスをした。
全てに蓋をするかのように、私たちは舌を絡めた。全部を忘れたかった。世界の物事全てが、ひどくどうでもいいものに思えた。
「ねえ、中村。しよ?」
私は甘ったるい声で中村を誘った。
「だめだよ。ね、美咲さん。俺、体だけなんて嫌だよ。それじゃ、藤田と一緒になっちゃうよ」
私は彼を押し倒した。中村は抵抗しなかった。
「勃ってる」
私は馬乗りになって中村のズボンに手をかける。床はひんやりと冷たくて、彼の体はひどく熱かった。
「中村は、私としたくない?」
外の雨足が強くなっていく。外はすでに暗くて、アパートの廊下にある切れかけた電灯光っていて、電気がついたり消えたりしている。
「すごくしたい。したいよ、今すぐに……でも」
彼は私を押し返そうとした。けれど、腕に力は入っていない。
「都合のいい男で構わないんでしょ、なら私も都合のいい女でいいから。しよ? ねえ、中村……」
私は藤田と同じことをしている。自分の傷ついたことで、中村にも傷をつけようしている。
それを望んだのは彼自身だ。もう、どうでもよかった。倫理も道徳も。全部快感で埋めてしまおう。
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