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馬鹿
最初に思ったことは「冷たい」だった。
左手首にすうっと刃物を引いて、その後すごく痛くて私は包丁を床に落とした。
その後の感想は「ただただ痛い」左腕からはポタポタと血が垂れているけれど、動脈までは届いておらず傷は浅い。
痛みと情けなさで涙が滲んだ。
死ぬとか簡単に言っちゃって、包丁まで持ったくせに。痛くてビビっちゃって、床に包丁は刺さるし本当に最悪だ。
なんなら高校生の時にやっていたリスカの方が深かったかもね、と自嘲する。
床に滴る血は赤黒くて、錆びた鉄みたいな、嫌な臭いが鼻につく。
痛いけれど止血をする気にもなれない私は床にブッ刺さった包丁の隣にへたり込んだ。涙は滲んだだけで、落ちてはこない。
本当に最悪だ。泣けもしない自分をひどく醜悪に思った。
母と同じ末路をたどるだなんて思っていたのすら傲慢だ。私は愛に死ねなかった。
ーーそんな私に何が残る?
電話がずっと鳴っていて、鬱陶しい。着信は中村からだ。出ないと心配するかなと思ったけれど、血は止まらないし、涙は出ないからぐちゃぐちゃな感情が閉じ込められて行き場をなくしていてとてもじゃないが出られる状況じゃない。
私はごめん、と思いながら震え続けるスマートフォンの電源を落とした。
そのまま、固い台所の床に横たわった。
これから先、どうしようか。私に残っているのは絵しかないけれど、それだって才能があるか定かではない。
現に私は何度も受験に落ちている。受験絵画が全てではないけれど、それすらパスできないってことはつまりそういうことで。
「ああ。私、なーんもないな」
「あははははっ」
自分の空虚さにようやく気がついた私は、自分の愚かさを笑った。
それから、中村のことを思い浮かべて、頭の中でバイバイをした。
こんな何にもない私に、これ以上付き合わせるわけにはいかない。
彼にはもっといい女が似合う。
彼の先には輝かしい未来があって、隣にいるべきは自分じゃない。
目を閉じて、浮かんだのはやっぱり藤田の顔で。このまま死ねたら、馬鹿の最後としては最高なんじゃないかと思った。
痛みのない右腕を瞼に押し付けて、仰向けの絵画といったらオフィーリアだななんて考えていると、だんだん眠くなってきた。
ーーやっぱり絵、才能はないけど好きだなぁとか思いながら、私は意識を手放した。
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