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「美咲さん! 美咲さんってば! えっと、きゅ、救急車? 美咲さん」
素っ頓狂な中村の声が聞こえてくる。おかしな夢だ。
狂えないくせに、夢ばっかり奇妙だなと思いながら瞼を開ける。目の前には中村が青い顔をして立っている。
「あー、まだ夢か」
そう呟いて再び瞼をとしようとしたら肩を強く揺さぶられた。
「美咲さん」
まだ中村の声がする。左手首の血はすでに固まっているようで液体の流れている気配はない。
夢の中の中村が何度も私を呼ぶから、仕方なく目を開ける。
そこにはやっぱり真っ青な顔をした中村がいて。
あ。これ夢じゃないんだ。
「中村だ」
起きたばかりで頭が働かないから、目の前のものをそのまま言ってみる。
「美咲さん!」
中村が泣きそうな顔で私の名前を読んだ。
「よかった、死んじゃうのかと思った」
中村があんまりにも強く右手を握るものだから、私は困惑した。これじゃあ私が看取られているみたいだ。
「こんなじゃ、死ねないよ。血、止まってるし」
私が笑うと彼は「心配したんだから」といって私の横に倒れ込んだ。
そのまま抱きしめられそうになって、思い出した。
そうだ、中村にさよなら、しなくちゃなんだ。そう思った時にはすでに私は彼の腕の中だった。
「中村、離して」
私はぼうっとしたまま彼を突き放そうとしたけれど、中村は「やだ」といって余計に強く私を抱きしめた。
「離して、馬鹿。離してってば」
私が暴れても、中村は私を離さなかった。
「だめ、絶対離さない」
ほぼ羽交い締めみたいな状態で中村に抱かれていると、左手首にピリッと痛みが走る。つう、と一筋の赤い雫が手首を伝った。
そのことに気がついた中村は、「ごめん」といってようやく腕の力を緩めた。
「なんで、あんたがここにいるの」
そもそもここは私の家で、中村がいるわけがないのだ。彼は少し口をもごもごと動かして言いにくそうにこう答えた。
「バイトが終わって、会いたくて。だけど電話、出なかったから。途中から電源が入っていません、なんて言われてさ。何かあったのかと思って来たら、鍵が開いてた」
「そういうことね」
私はこう言って、中村の腕から自分の体を解いた。
ーーもう、こういうこともないんだな。
私は思った。だって、もう。
「中村、もう私と関わらないで」と私は言った。
驚くかと思ったのに彼は至って平然としていた。きっと彼も、私に呆れ果てていたのだろう。
私はそのことに少しがっかりして、安心した。彼の人生を壊してまで、彼と関わることを選びたくはない。
中村は、首を横に振る。
あれ、と私は思う。
「俺は、美咲さんと一緒に居るよ。こっちにくるなって蹴飛ばされても、這ってでもそばに居るから」
はぁ?
と私は声に出してしまった。こんな、めちゃくちゃな女と一緒にいるなんて。蹴飛ばされても、這ってでもって。
頭がおかしくなってしまったのだろうか。
「あんた、人生棒に振る気? 私のそばに居たって……」
並んで横たわりながら、私は言った。全部言い終わる前に、中村の唇で言葉を塞がれた。
予想外の柔らかい唇の感触に「ん……」と声が漏れてしまった。
「いいよ、美咲さんに俺の人生ぜんぶあげるから。だから隣に居させてよ」
ずっと出てくれなかった涙が、ようやく瞳から溢れた。
「そんなに優しくしないでよ、中村。私なんかに、そんな言葉かけちゃだめだよ。また私、甘えちゃうから」
ぐずぐずと私は泣いた。中村は私の頬に優しく手を当てて、親指で私の涙を拭った。
「甘えていいんだよ、美咲さん」
こんな言葉、きっと若さ故だ。自分の人生全部あげるなんて、青臭いセリフ。大人として、突き放さなきゃいけないのに。
「わああああああん。中村、なかむらぁ……」
私は差し伸べられた手に縋り付いてしまった。中村の胸にぎゅうぎゅう顔を押し付けて、声を上げて泣いた。
両腕で彼を抱きしめたから、中村の白いシャツには私の血がこびりついた。中村は、なんで私が手首を切ったのか、何も聞いてはこなかった。
中村が私の黒い髪を優しく撫でる。
――それは、私がずっと、求めていた優しい手だった。
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