般若と犬

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般若と犬

「中村ってさ、毎日毎日私にかまってくるけど……あんたって暇なの?」  予備校が始まって1ヶ月。隣を歩く中村の方を向いて、私は尋ねた。  彼に話しかけられたあの日から、私はほぼ毎日のように中村と帰路を共にしていた。別に約束をしていたわけではないけれど、中村が犬のようにちょろちょろと私の後ろを着いてくるのだ。  美咲さん、美咲さんと嬉しそうに私の名前を呼んでくるのは予備校内でも中村だけだった。顔馴染みの先生は私のことを藍田と呼ぶし、生徒たちはそもそも私に近づいては来ない。  別に睨んでいるわけでもないのに、私が視線をやると皆肩を震わせていそいそと視線の外へ逃げていく。 「暇ではないけど、忙しくもないよ」  普通、ということだろうか。初めは敬語で話していた彼は、いつの間にかタメ口で話すようになっていた。  私は先輩だの後輩だのといった上下関係は気にしないタチなので全く気にしていなかったけれど、彼は人との距離感が割と近い方だなとは思う。  彼の腕には、私の荷物が抱えられている。中村は意外と紳士なやつだ。予備校内でも男女問わず困っているものには手を差し伸べている。  もちろん私も例外ではなく、現に今も結構な重さのある、私の描き溜めた作品たちを駅まで運んでくれている。 「じゃあなんで私なんかに構うのよ。予備校での私のあだ名知ってるでしょ? 般若よ、般若」  私は生徒たちに影で“般若さん”と呼ばれていた。 「般若でも何でも、俺はかっこいい絵を描く人が好きなんだ。それにかっこいい人も好き。だから、美咲さんと仲良くなりたいだけだよ」 「あ、そう……」  なんだか照れくさくて、私は短く相槌を打ったあと再び前を向いた。彼の物言いは、ちょっとおかしいレベルでいつもストレートだった。  私が抱いた最初の印象である“変なイケメン”はあながち間違いではなかったと言えるだろう。  こいつの目的は何なのだろう。“かっこいい絵”といったって他の生徒より多少経験が多いだけで、私の絵は特別上手いわけでもない。  自分のことをかっこいいとも思わなかった。  それどころか、弱くて男に依存している、ダメなやつだと思っている。それは“かっこいい”とは真逆の存在だ。  今まで私に自分から近づいてきたやつは、皆揃いも揃って私の体が目当てだった。ひょっとして彼もそうなのだろうか。
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