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選択肢
静かなクラッシックのピアノ曲が流れる喫茶店の中で、私は、優くんの前に向かい合って座り、気まずい気持ちのまま、無言でうつむいていた。
まさか、こんなタイミングで、優くんに再会するなんて…。
伊勢に旅行に行ったのは、今から約7ヶ月前。
きちんと自分の問題と向き合い、前に進もうと決心した私は、夫の健さんと何度か話し合いをしようと声をかけた。でも 、健さんは相変わらず
「何を話すって言うんだよ。お前となんか、話すだけ無駄だ。」
という態度で、全く話し合いができなかった。
それで、私は悩んだあげく、実家の父を頼って、父に駅近くのアパートを借りてもらい、少しずつ引っ越しをはじめた。
そんな時だ、自分の体の異変に気づいたのは。
もうとっくにきているはずの月のものが来ていない。
それに時々感じるムカムカした気持ち悪さ…。
───まさか…ね…。
そうは思ったものの、生理はその後1ヶ月たっても来ず、とうとうしびれを切らした私は、産まれて初めて、妊娠検査薬を使うことにしたのだった。
検査薬の中央の窓に、二本の赤い縦線が出たとき、私は驚きと共に、嬉しさで胸がいっぱいになった。
思い当たるのは、あの日しかない。
私はこれから、大好きな人との子供を産んで育てることができるんだ…。
もう、とうの昔にあきらめていた夢。
たった一夜のつながりだったけど、彼は、10年かけても叶わなかった私の夢を、たった一夜で叶えてくれた。
彼には本当に、感謝しかない。
あの日、あんな別れ方をしてしまったけど、きっと今頃は、私のことなんか忘れて、一級建築士の試験に向けて、猛勉強しているだろう。
そう。彼の夢を叶えるために。
彼には、絶対に夢を叶えてほしい。
そのためには、私みたいな女と一緒にいてはダメなんだ。
「────。」
でも、そこで不安がよぎった。
私一人で、子供を育てることができるのだろうか…。
看護師とはいえ、産婦人科は、看護大学時代の病院実習で少し経験した程度。
子育てなんて、全くの未経験なのだ。
やっぱり、あきらめる?
心で、自問自答してみる。
でも、答えはとうに決まっていた。
───そんなこと、できるわけない。
私のお腹に、もう小さな命が宿って、一生懸命生きようとしているのだ。
そして、この小さな命を守れるのは、世界中で私しかいない。
そうだ。前を向かなきゃ。
この小さな命のためにも。
私は、まだ何の変化もない下腹部に手をあてて、一人考えていた。
こうなったら、恥も外聞も捨てて、頼れるものは何でも頼って、やってみるしかないな。
その前にまず、あの夫と決着をつけなくては。
私は、すぐに弁護士と両親に電話をして、妊娠した事を伝えた。もちろん、父親は健さんではないということも…。
弁護士さんからは、離婚後の出産でも、離婚後300日以内の出産であれば、その子供は元夫の戸籍に入るという法律があると聞かされた。
しかし、この法律は、令和4年に内容を大幅に改定された。確かに離婚後300日以内に産まれた子供は、元夫の戸籍に入るが、離婚後300日以内に母親が再婚した場合、子供は再婚した現夫の戸籍に入るとなっている。また、改定前には、離婚後の女性は6ヶ月の期間をあけないと再婚できない決まりになっていたが、改定後は100日に短縮されている。
つまり、産まれた子供を私と同じ戸籍に入れるには、離婚後100日以降で、200日以内に再婚する必要があるということだ。
再婚せず、子供を私の戸籍に入れるためには、元夫──健さんに「嫡出否認の訴え」を裁判所に申し立ててもらわなければならない。また、その場合私が浮気をして妊娠したことが健さんにわかってしまうため、私と浮気相手に慰謝料請求されてしまうだろうとも言われた。
私に関しては、慰謝料請求されても仕方ないと思っているけど、相手(優くん)は私が結婚しているという事実を知らない。そうなると、既婚の事実を知らなかったという証拠を提出できれば、慰謝料の減額あるいは回避できるケースもあると、弁護士さんは話していた。
また、元夫の協力が得られるなら、元夫が男性不妊の状態だったという医師の診断書を添付して「親子関係不存在確認の訴え」を裁判所に申し立てすれば、産まれてきた子供は、私の戸籍に入れることができるという。
どちらにしろ、元夫の協力が必要ということだ。
しかし、これについては、父が健さんにに交渉してくれることになった。
父は、健さんの浮気の証拠を興信所を使って調べていた。それを利用して、離婚と嫡出否認の訴えをしてくれるように話してみるというのだ。
慰謝料についても、私の相手には請求しないよう話しをしてくれるという。
私は、とりあえず頼れるものは全て頼ろうという気持ちで、夫との話し合いについては父にお願いした。
私は、私のできることを進めていくしかない。
それから私は、働いていた整形外科を退職し、産婦人科に行ったり、役所で妊娠の届けを出して母子手帳をもらったり、引っ越し作業をしたりと、日々忙しく動いた。
そして、引っ越し先のアパートをおおかた生活できる状態にできた日に、離婚届を置いて、自宅を出たのだった。
その1ヶ月後に、まさか優くんが私の父を訪ねてきていたなんて、全く知らずに…。
静かなピアノの音が、店内に流れている。
「…。」
二人とも、何から話していいのかわからず、黙ったまま、うつむいていた。
「───お待たせしました。」
ウェイターがコーヒーとココアをテーブルの上に並べ、トレーを持って立ち去っていく。
それが合図のように、優くんが重い口を開いた。
「…樹里さん。本当のことを言ってほしい。」
「───。」
「俺の、子だよね。」
私は、優くんの整った顔を見つめた。
優くんは、もう一度言った。
「その、お腹の子の父親は、俺だよね。」
私は無言のまま、小さくうなずいた。
「…やっぱり…。」
そう言って、優くんは申し訳なさそうにうつむいた。
私は、なるべく重くならないように、明るく言った。
「大丈夫だよ。優くんには迷惑かけないから。私が一人で育てるから。」
優くんが信じられないと言ったように私を見る。
私は精一杯の笑顔で言った。
「優くんには、本当に感謝してるの。あの旅行で、優くんは私に前を向くきっかけをくれた。そして、何より、この子を授けてくれた。」
優くんに、負い目を感じてほしくなかった。
あなたには、真っ直ぐに、夢に向かって歩いてほしい。だから…。
「だから、私は大丈夫。優くんは今まで通り、勉強がんばって。ね。」
精一杯の笑顔で、そう言った。
つもりだった…。
「───樹里さん。ごめん。」
フワリと、優しい力で、優くんが私を抱きしめていた。
そして、いつの間にか流れていた涙を、優くんの手がそっとぬぐってくれた。
「一人でがんばらせて、ごめん。」
「…優くん。」
「もう、離さない。俺、樹里さんがいないと、ダメなんだ。」
耳元で、優くんの優しい声が響く。
そこからはもう、涙が溢れて止まらなかった。
「───樹里さん。結婚しよう。」
静かな喫茶店の角の席で、一目もはばからず、私たちは抱きしめあい、何度もキスをした。
「ねえ、ママ。もうケイトったら、ひどいんだよ。」
ナーサリースクールから戻った長女の葵が、ふっくらした両方のほっぺを真っ赤にして怒っている。
「まあ、どうしたの?あおちゃん。」
ケイトという子は、最近仲良くしている同じクラスのアメリカ人の女の子。
葵は、私のところまで走ってきて、荒い息をはきながら、私の長いワンピースの裾に飛び付いた。
「もう、私、ケイトと絶交するっ!」
私は、思わず吹き出しそうになるのをなんとかこらえて、足元にまとわりついている娘の顔をのぞきこんだ。
「絶交」は、最近覚えた言葉らしく、何かっていうと絶交絶交と繰り返すので、ついおかしくなってしまう。
「…あおちゃん。大丈夫?ママに、お話ししてくれる?」
私が言うと、葵は泣きべそをかいた顔をあげて、コクンとうなずいた。
「…うん。」
と、その時。
「───ただいま~。あれ?誰もいないのかな?ジュリ~?アオイ~?」
玄関の方から、男の人の声がした。
とたんに、パッと満面の笑顔になって、葵が玄関に向かって駆け出した。
「パパだ。お帰りなさい。パパぁ~」
きっと、今まで友達とケンカしていたことなんて、もう忘れているんだろう。
葵は、リビングに入ってきた背の高い男の人にジャンプして飛び付くと、早速だっこをせがんだ。
「パパ。だっこして~。」
そのかわいいおねだりに、笑顔で葵を抱えあげながら、彼は私に向き直った。
「ただいま。樹里。」
そう言って、チュッと私の唇に触れるだけのキスをする。
すると、葵が大声をあげた。
「ああ~ずるい~!アオイもチュッてする~!」
「あぁ、ごめんごめん。」
そう言って、彼が葵のほっぺにチュッとキスする。
そうすると、なおさら大きな声で、葵が騒いだ。
「だぁ~めぇ~!!ほっぺじゃないのぉ~!!」
そんな娘に苦笑しながら、彼は言った。
「葵、お口のチュウは、これからできる大好きな人のために、大切にとっておくんだよ。」
「大好きな人?」
「そう。パパとママみたいにね。」
年齢を重ねて、ますます整った顔に磨きがかかった私の夫───上江田 優作は、今年で30歳になる。
そして、早いもので、私は38歳になった。
あの時、お腹の中にいた子供は、今年で6歳。もうすぐ小学生だ。
「さあ二人とも、手を洗ってきてちょうだい。ちょうどオヤツのアップルパイが焼けたとこなの。」
私が言うと、二人は
「はーい。」
と、元気よく返事をして、洗面所にかけていった。
あの再会の後、トントン拍子に話しが進んで私たちは結婚した。結婚式には、優作さんのお姉さんも、元気な姿で参加してくれた。お姉さんはあの後、旦那さんと離婚して、生きる事にしたという宣言通りすぐに閉鎖病棟を退院して、今はプロのメイクアップアーティストとしてがんばっている。結婚式の時の私の髪とメイクも、お姉さんが担当してくれた。
優作さんは、防災建築に力を入れている設計事務所で働くようになった。そして、5年目の春から、アメリカの支店に転勤になり、今は家族みんなでアメリカのサンフランシスコに住んでいる。
私と離婚した元夫───向坂 健さんは、あの時の愛人とは上手くいかず、今はフィリピンの女性と付き合って、ろくに仕事もせず、相当な額をフィリピンに貢がされているとか。そのおかげで、会社は倒産の危機だとか、風の噂できいた。
父があの時どんな交渉をしてくれたのかわからないが、元夫は慰謝料を私たちに求める事もなく、男性不妊の診断書もあっさりもらってきてくれた。
その上、弁護士さんが元夫と愛人に3年分の浮気の慰謝料請求をしてくれたので、私はお金に困る事もなく、無事に出産することができた。
一級建築士とはいえ、優作さんはまだ働き出したばかりだったので、本当に助かった。
そうやって、いろんな人に助けてもらいながら、私たちは今、幸せに暮らせている。そして───。
「───はい。今日は、二人に重大な発表があります。」
リビングのテーブルに、切り分けたアップルパイを置きながら、私は言った。
「えぇ~、なになに?」
葵が身をのり出す。
それを両手でおさえながら、優作さんが聞いた。
「一体どうしたの?そんなに改まって。」
私は、今日の午前中にもらってきた超音波診断の写真を二人に見せた。
「なんと、二人目ができました。」
「…。」
キョトンとする二人。
───え、うれしくない、の?
少し不安になった私に、葵が首をかしげた。
「ふたりめって、なに?何が二人目なの?」
そんな娘に、優作さんが言った。
「葵、葵がお姉さんになるってことだよ。ママのお腹の中に、葵の弟か妹がいるんだって。」
「ええっ!?ほんとにっ!?」
葵が驚いて私のお腹を見る。
「いつもと変わんないよ?」
言いながら、私のお腹をぺんぺんと軽くタッチしている。
「そんなにすぐには大きくならないよ。少しずつ、時間をかけて、大きく育つんだよ。」
優しく笑いながら、優作さんは、私の前に立った。
「…ありがとう。樹里。最高のプレゼントだよ。」
そう言って、私を包み込むように優しく抱きしめて、その唇で熱いキスをしてくれた。
「愛してる。樹里。」
優しい夫と、かわいい娘。
そして、新しい命───。
私は今、幸せだ。
「私も愛してる。優作さん。」
優しい愛に包まれて、私は溢れる幸せをかみしめた。
─────fin─────
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