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年下の彼
7時27分、新幹線は、予定通り定刻に名古屋駅に着いた。
隣の彼は、言っていたとおり、私のキャリーバッグを棚から降ろしてくれた。
「ありがとう。あなたも、いい旅を」
そう言って、彼に別れを告げると、私は新幹線を降り、次の路線を探した。
ええっと、近鉄特急は…。
初めての駅で、どっちにいこうかしばらくキョロキョロしていると、また後ろから声がかかった。
「こっちですよ。1分くらい、歩きます。」
見ると、さっきまで新幹線で私の隣に座っていた彼が、不意に私のキャリーバッグを持って、私の隣を歩きだした。
「ええっ!? ちょっと、なんで?どういうこと?」
びっくりし過ぎて、混乱してしまっている私に、彼は白い八重歯を見せて、爽やかに笑った。
「案内しますよ。地元なんです。伊勢は。」
それから、近鉄特急を3回ほど乗り継いで、私たちは、9時33分に伊勢市駅に到着した。
「チェックインには、まだ早いですよね。」
彼はてきぱきと駅員さんに声をかけて、大きめの荷物が入るロッカーの場所を聞いて、そこに荷物を預けてくれた。
私が予約したホテルが、駅から徒歩1分のところなので、駅のロッカーが一番都合がよかったのだ。
「じゃあ、まず、どこ行きます?」
彼が、私の顔を覗き込むようにして、ニッコリ笑って言う。
「決まってないなら、俺がおすすめのコース、回りましょうか?」
おすすめのコースって…。
聞いていて、ついおかしくなって、吹き出して笑ってしまった。
「…えっ?」
なんで笑われたのかと、キョトンとしている彼に、私は言った。
「ごめんなさい。だって、あまりにも慣れてるから。いつもこんなこと、してるのかと思って。」
「あ、いや。そんなこと…。」
まだ、肩を揺らして笑っている私を、困ったように見下ろす。
「俺だって、こんなこと、はじめてだよ。」
あらら、落ち込んじゃった。
急にシュンとしてしまった彼の肩を、私はポンッと軽くたたいた。
「ごめんなさいね。本当は感謝してるの。あなたがいなかったら、無事にここまでたどり着けたかも怪しかったわ。」
本当に心からそう思う。でも───。
「でも、初対面のあなたを、どこまで信じていいのか、考えているだけ。」
すると、彼は自分の持っていたリュックから、一枚のパスケースに入った紙を取り出した。
「俺は、こう言うものです。」
それは、大学の学生証だった。
神奈川大学大学院2年 建築学部 防災工学研究室
上江田 優作(かみえだ ゆうさく) 24歳。
今より短めの髪が爽やかな、笑顔の素敵な証明写真。
わ、若いわ…。
その眩しい若さに、思わずクラっとなりながら、私は戸惑っていた。
どうしよう。そんなこといって、私は何も証明するものなんて、持ってなかったわ。
運転免許証…でもいいかな…。
「あ、ごめんなさい。私、免許証くらいしか、持ってなくて。」
私もカードケースから免許証を取り出して、彼に渡す。
「向坂 樹里…さん。」
「そう。新横浜駅の近くの整形外科で、看護師やってます。」
彼は、すぐに免許証を私に返すと、小さく笑って、私の目の前に、右手を差し出した。
「じゃあ、樹里さん。これから、よろしくお願いします。」
「こちらこそ。よろしくお願いします。」
彼の節くれだった右手に自分の右手を重ねて、ギュッと強く握った。
* * *
せっかく伊勢にきたんだから、まずはお参りでしょ。
ってことで、伊勢神宮の外宮から内宮へと、バスを使って移動しながら、一通り参拝していたら、終わったころにはもうお日様は高く登って、時刻は12時30分をまわったところだった。
優作くん(優くんと呼んでと言われたので、そう呼んでいる)が、小さい頃からお世話になっているというおかげ横丁の小さな食堂で、私たちはお昼を食べることにした。
「たくさんメニューあるけど、伊勢うどん、一択で。」
「…は、い。」
優くんに、意味深にそう言われ、古びたのれんをくぐり、店に入る。
確かに店の中には、壁一面に様々なメニューが貼られている。
「こんにちは~。おばやん、おる?」
優くんが大きな声で店の奥の方に声をかける。
「あら~、あらあら。誰かと思えば、優作じゃねえ。珍しやん。」
前掛けで両手を拭きながら、小さくて小太りのおばあちゃんが、店の奥から出てきた。
「まだまん、われげ行きやんのか。」
「ああ、今きたけな。うちのばやんには、後で顔出す言っとってや。」
急にお国訛りが出て、なんだか可愛い。
ニヤニヤして見ていると、少し赤くなりながら、優くんがふて腐れた声をあげた。
「何、笑ってんだよ。」
「笑ってないよ。」
私がそう言っても、照れかくしなのか、優くんはお店のおばあちゃんの方を見ながら、顔を隠して注文していた。
「伊勢うどん、2つね。」
「はいよ。」
おばあちゃんが厨房の奥に入っていくと、優くんは近くのテーブル席の椅子を乱暴に引いた。
「適当に、座って。」
「…ありがとう。」
「汚い店だけどさ、味は間違いないから。」
私の前の席に座りながら、優くんはそう言って、ニコッと笑う。
今さらだけど、優くんは、本当に整った顔立ちをしている。
茶色く光に透ける癖っ毛。
高い鼻梁に、少し垂れ目の大きな瞳。
顔は小さくて、スマートな8等身。
それに、人懐っこいこの性格。
大学とかでは、さぞかしおモテになることでしょう。
それがなんで、こんな30すぎのオバサンを相手に、観光なんかしているのか。
つくづく、不思議な気がして、私は彼の整った顔立ちを眺めるともなく眺めていた。
そもそも、彼は、私に会う前から伊勢にくるつもりだったのよね。
だから、私に行き先を聞いたとき、偶然にも一緒で、驚いていた。
彼は、なんのために、伊勢に来たのか。
地元だとは言ってたけど、さっきのおばあちゃんの反応からして、きっと久しぶりの帰省なのよね。
そんなことを考えていると、さっきのおばあちゃんが、厨房から出てきた。
「はい、伊勢うどん、2つ。」
甘じょっぱい醤油だれの香りがプーンと漂ってきて、食欲をそそる。
おばあちゃんは、うどんの器2つに加えて、刺し身の盛り合わせと天婦羅の盛り合わせもテーブルに置いていく。
「わあ、すげえ。」
優くんが、はしゃいだ声をあげた。
おばあちゃんは、一通りお盆にのっている小鉢などをテーブルに並べると、私の方をみて、丁寧にお辞儀をした。
「遠いとこ、よおおいでなして。たくさん食べてっておくんない。」
そう言って、私に向かってニッコリ笑った。
しわくちゃの、心のこもった、暖かい笑顔。
なんだか、胸がいっぱいになって、すぐには返事ができなかった。
「…ありがとう、ございます。」
やっとの思いで、おばあちゃんにお礼を言って、私は早速、初体験の伊勢うどんに箸をつけた。
腰のない、もちっとした麺に、甘めのだしのきいた醤油ダレがよく絡む。
「…ん。美味しい。」
見た目は、黒くて濃い感じのだし汁。
でも食べてみるとそんなにコッテリでもなく、ほどよい甘さで、後を引く美味しさだ。
「刺し身も食べてよ。天婦羅も。」
優くんが、あれもこれもとすすめてくる。
「うん。ありがとう。」
刺し身も新鮮で、なかでも鯛のような白身魚が、本当に脂がのって、甘くて美味しかった。
すると、それを見ていた優くんが教えてくれた。
「ああ、それは いさぎ だね。」
いさぎとは、伊勢湾近海でとれる珍しい魚らしく、ちょうど今の時期が旬なんだそう。
「ほら、伊勢に来たら、伊勢海老でしょ。」
優くんがいいながら、私の取り皿に大きな伊勢海老の天婦羅をのせてくれた。
「わあ、すごい。大きい。」
「まあ、まだこれでも、小さい方だけどね。」
頭の部分を折ると、味噌がこぼれんばかりに出てくる。それをとりあえず取り皿に置いて、ぷりぷりの身の部分を天つゆにつけて、ぱくりと一口。
とたんに口中に広がる甘いうまみ。
「はあ~、おいし~い。」
ため息が出てしまった。
久しぶりに、こんな美味しい食事を食べた気がする。
家での、一人きりで食べる食事は、帰ってこないあの人への思いもあって、本当に味気ない、寂しい食卓だった。
でも、今日は、そんな思いも忘れて、ただ目の前の美味しい食事を純粋に楽しむ事ができた。
「すごく美味しい。優くん、ありがとう。」
暖かい、心のこもった食事を、私に思い出させてくれて、ありがとう。
私の、心からの気持ちだった。
「良かった。やっといい笑顔見れたな。」
優くんは、そう言って、満足そうに笑っていた。
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