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彼の理由
おばあちゃんの美味しい料理を、二人で見事完食して、お腹いっぱいになった私たちは、おばあちゃんにお礼を言って、天婦羅とお刺身の分も含めたお金を払おうとしたけど、おばあちゃんが頑として受け取らず、仕方なくうどん二杯分のお金だけを支払って、お店を後にした。
後で聞いた話だけど、あの日、おばあちゃんのお店は、定休日だったんだそう。
どうりで、お客さんが誰もこないと思った。
あんなに美味しいお店なのに、お客さんが入らないわけ、ないもんね。
外に出ると、もう陽が傾きはじめて、辺りは気温も下がり、少し肌寒くなってきていた。
5月の半ば。
初夏とはいえ、海辺の街は、気温が下がるのも速いみたいだ。
「少し、寒くなってきたね。」
そう言って、優くんは、自分がかけていた薄手のジャケットを、私の肩にかけてくれた。
「いいよ。優くんが寒いでしょ。」
そう言うと、優くんが笑った。
「こう言う時は、黙って受け取ればいいの。男はカッコつけたいんだから。」
そっか。そうだね。
ずいぶん長い間、こんなに優しくされることがなかったから、私は優しくされることに、慣れていない自分に気付いた。
「ごめんね。ありがとう。」
ジャケットは薄手だったけど、私の心は十分暖かくなった。
陽が傾きはじめた午後のおかげ横丁を、食後の散歩がてら、二人でゆっくり歩く。
優くんは、いろいろと自分の事を話してくれた。
大学院のこと、仲良しの友達のこと、そして、将来の夢のこと。
今は一級建築士の資格を取るために勉強しているけど、それが取れたら、アメリカに行って、防災建築について、研究を深めたいのだそう。
「日本は、地震の国だから、自分の研究で、一人でも多くの人が地震や災害から守られるようになればいいな~って。」
そう語る優くんは、瞳をキラキラさせて、とってもいい顔をしてた。
イケメンっていうことじゃないよ。いや、優くんはイケメンなんだけど、そのいい顔じゃなくて、何て言うか、生き生きしたいい顔って、いうのかな。
「きっとできるよ。優くんなら。」
素直に、そう思った。
話をしながら、ゆっくり歩いていると、目の前が開けて、大きな川に出た。
「五十鈴川って、言うんだよ。」
優くんが教えてくれた。
昔は、遠くから歩いてお伊勢参りにくる人たちの、手足を清める川だったのだとか。
「今でも、清める意味で、参拝の前に川で手足を洗っていく人たちがいるんだよ。」
そんなことを聞きながら、私はゆったりと流れる雄大な川の水に、そっと両手を浸した。
───新しい一歩を踏み出す、勇気を出せますように。
そんな、思いをこめて。
それから、再びバスで、元いた伊勢市駅に戻った時には、もう夕方だった。
「遅くなっちゃったね。」
ホテルにチェックインするために、私は預けていたロッカーからキャリーバッグを取り出しながら、彼を振り返った。
「ありがとう。本当にお世話になりました。」
「…。」
優くんは、無言で首を横にふった。
「俺も、楽しかったよ。」
そして、当たり前のように、キャリーバッグを手に取る。
「ホテルまで、送るよ。」
予約していたホテルまでは、たかだか徒歩1分の距離。
私たちは、無言のまま、ホテルまで歩いた。
────その時。
「───優?優作?」
か細い女性の声が、私たちの後ろから聞こえた。
私たちが振り返るのと、その女性が、優くんに飛び付くように抱きつくのとが、同時だった。
「ごめんなさい。優作。私───。」
色の白い、ずいぶんと痩せた女性だった。
肩まで伸びた軽くウェーブした黒髪の間から、目鼻立ちのはっきりした整った顔立ちが見え隠れしている。
どこかで、見たことあるような…。
私がぼんやりそう考えていたとき、優くんは、少し苦笑いして、こう言った。
「やっぱり、こっちに来てたんだな。姉さん。」
とりあえず、チェックインをするために、私たちは、3人で、私が宿泊するホテルのロビーに来ていた。
「───悪いな。なんだか、巻き込んじゃって。」
優くんが、申し訳なさそうに頭を下げる。
「───そんなこと。巻き込んだって言うなら、私の方こそだし。」
そんなことを話していると、若い女性のベルアテンダントが、案内にやってきた。
「お部屋まで、ご案内させていただきます。」
「あ、お願いします。」
とりあえず、二人には、ロビーで待っていてもらって、私だけ部屋に行くことになった。
エレベーターを最上階まで登って、高級そうな絨毯敷きの廊下を、ベルアテンダントは荷物を運びながら颯爽と歩いていく。
その廊下の中程まで行くと、
「こちらが、スイートルームになります。」
重厚な二枚扉をゆっくりと開いて、ベルアテンダントがその中に案内してくれた。
入ってすぐに広がる、明るいリビングには、白を基調としたシンプルモダンなソファーとテーブルのセットがあり、壁には大きな薄型テレビがはめ込まれている。その奥に、キングサイズのベッドが2台あり、その右側に、さらに10畳くらいの和室があった。
「こちらが、室内露天風呂になります。」
ベルアテンダントがそう言って、和室の奥に案内した。
「───わあ~、すごい。」
思わず声が漏れてしまった。
和室の奥に、室内備え付けの露天風呂があり、総檜の湯船に浸かって、伊勢市全体を見渡せるばかりか、さらにその先の伊勢湾まで見えて、まるで伊勢を一人占めしているような眺望だったのだ。
「すごい眺めですね。」
私が言うと、ベルアテンダントは小さく笑って頷いた。
「ここから見える夜景も、素晴らしいですよ。」
本当にそうだろうなあ…と思う。
その後、ミニキッチンや備え付けの設備の説明を終えると、ベルアテンダントは恭しくお辞儀をして、部屋を出ていった。
「お食事は、19時に、こちらの和室にご用意させていただきます。では、ごゆっくりお過ごしくださいませ。」
私もお辞儀をして、早速部屋のウォーキングクローゼットに荷物を一通りしまうと、階下のロビーで待っている優くんに電話をかけた。
「───あ、優くん?」
「うん。どう?大丈夫そう?」
「うん。夕食も三人分用意してくれるって。」
「そっか。ごめんな。無理言って。」
「全然。最上階のスイートルームね。じゃあ、待ってるね。」
そう言って、電話を切った。
ほどなくして、部屋のチャイムがなり、優くんとお姉さんが部屋までやってきた。
「───すごい部屋だな。俺、はじめてだよ。スイートルームなんて。」
言いながら、優くんはあちこち珍しそうにキョロキョロ見渡して、落ち着かない。
「奥に露天風呂もあるんだよ。」
そう言って、案内すると、その眺望に優くんも声をあげた。
「───わあ~、すげーな。」
少しずつ暗くなりはじめた伊勢市の街は、ちらほらと家々にあかりが灯りはじめ、遠く伊勢湾上空には、夕焼けが見えて、それはそれで美しい。
「夜景もキレイなんだって。」
私が言うと、優くんはうなずいた。
「なんか、伊勢市を一人占めしてるみたいだな。」
「私も、それは思った。」
笑って答えながら、私は、備え付けのコーヒーサーバーで、三人分コーヒーを入れて、リビングのテーブルの上に置いた。
「───どうぞ。お姉さんも、座ってください。」
砂糖とミルクのカゴも備え付けてあり、それもテーブルの中央に置く。
優くんとお姉さんは、二人掛けのソファーに並んで座った。
「すみません。私まで、お邪魔してしまって。」
お姉さんが、申し訳なさそうに頭を下げる。
「いいんですよ。今日1日、弟くんには、本当にお世話になったんです。だから、おあいこです。」
そう言う私に笑いながら、優くんは、コーヒーに一口、口をつけ、お姉さんを見た。
「───病院には、連絡したの?」
すると、お姉さんは、小さく首を横に振った。
「───連絡したら、またすぐ連れ戻されちゃう」
「───義兄さんは、知ってるの?」
「───。」
お姉さんは、両手で顔をおおった。
「知らない。あの人は、私の事なんて、気にしてもいないわ。」
「…姉さん。」
薄い長袖のブラウスから、細い青白い手首が見え隠れしている。
その左手首には、いくつも横に線を引いたような、浅黒い痣が見える。
私は職業柄、その痣に見覚えがあった。
───リストカット…。
カッターやナイフを右手に持ち、何度も何度も左の手首を切る。
キズがふさがると、また切る。
そうやって、何度も繰り返すため、皮膚が黒く変色して、痣になるのだ。
優くんは、少しため息をついて、私の方を見た。
「───俺が、伊勢に来たのは、姉さんを探すためだったんだ。」
それから聞いた優くんのお姉さんの話しは、とても他人事とは思えない、身につまされる話しだった。
優くんのお姉さん───高畑 詩織さんは、現在35歳。
結婚するまでは、ヘアメイクアーチストとして、有名なファッション雑誌に載るほど、けっこう有名な人だったんだそう。
どこかで見た気がしたのは、そのせいだったのかもしれない。
そんな詩織さんは、5年前───30歳の時に現在の旦那様───カメラマンの高畑 晃司さんと出会い、その翌年に結婚。
仕事も私生活も順風満帆と思われていた。
しかし、結婚から3年たった頃、詩織さんは、自宅のお風呂場で、手首を切って自殺しようとした所を発見された。
その後、何度も自殺を試みては、病院に運ばれ、仕事もできなくなった。
それでも、自殺をやめない詩織さんを、優くんたち家族は、精神科に医療保護入院させるしかなかった。
「義兄さんは、仕事が忙しいという理由で、姉さんが入院してから、一度も面会に来たことはない。」
優くんの、コーヒーカップを握る手が、小刻みに震えている。
「俺たち家族が、自殺の理由を聞いても、姉さんは絶対に言わない。でも…。」
優くんは、コーヒーカップをソーサーの上に置いた。
「…姉さんには、言ってなかったけど、両親が探偵事務所に頼んで、義兄さんの身辺調査をしてもらったんだ。」
静かに話す優くんの横顔を、お姉さんが信じられないと言うように息をのみ、目を見開いてみつめる。
優くんは、自分のリュックの中から、大きな封筒を取り出し、中身をお姉さんに差し出した。
「…義兄さん、他に事実婚している女がいたんだね。そっちに子供も二人いる。」
優くんが差し出した書類の中に、何枚か写真もあって、仲良さそうに家族で食卓を囲んでいる風景が撮されていた。
「…もう、やめて。」
お姉さんが、再び両手で顔を覆って、小さく声をあげる。
「…もう、言わないで。」
悲痛な声は、とても小さかったけど、その分、聞いている私たちの心をえぐった。
「…私が悪いの。」
お姉さんがそう言って、さめざめと涙を流した。
「私が死ねば、みんなが幸せになれるのよ!」
「───一昨日の晩、病院から、姉さんが病院を抜け出したって連絡があった。」
取り乱して、過呼吸を起こしたお姉さんに、鎮静剤の薬を飲ませて、部屋のベッドに寝かせながら、優くんは話しを続けた。
「たぶん、伊勢に行ったんだと、俺は思った。」
お姉さんは、早くも薬が効いたのか、スウスウと安らかな寝息をたてている。
その横顔を見ながら、優くんは言った。
「伊勢は、俺たちの故郷でもあり、姉さんたち夫婦の、思い出の場所でもあるから…。」
「───。」
お姉さんが入院している病院は、横浜にあるという。
病院を抜け出して、遠く離れた伊勢にきて、思い出の場所で、お姉さんは一体何をしようとしていたのか…。
「偶然とはいえ、今日ここでみつけられて、本当に良かったよ。」
優くんは、重たい息を吐くようにそう言って、私を見た。
「…本当はさ。」
優くんが、少し苦笑いして言う。
「もう、見つからなくても、いいかな…なんて、思ってたんだ。」
「…優くん。」
それは、本当に悲しい、切ないほど悲しい笑顔だった。
「…だってそうだろ。姉さんは、もう、十分苦しんだ。それなのに、こんなひどい現実を突きつけられなきゃいけないなんて。」
「───。」
何も、言えなかった。
テーブルの上には、何も知らない子供たちの屈託のない笑顔の写真が、書類の間から見え隠れしている。
ちょうど、三才くらいだろうか。
やんちゃそうな男の子と、その横に二才くらいの女の子が並んで写っている。
たぶん、お姉さんは、気づいてたんだと思う。
旦那さんの浮気と、相手の女性の妊娠に。
浮気は、される方にも問題があるとか言う人もいる。
何が原因かは、私たちにはわからないけど、お姉さんは、自分を責めて、責めて責めて。
そして、耐えきれずに自殺を繰り返すようになってしまったのだろう。
「私が死ねば、みんなが幸せになれるのよ!」
お姉さんの叫びが、何度も何度も私の頭の中で響いていた。
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