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はじめての想い ~優作side~
彼女と、あんな別れ方をしてから、俺は何とも腑に落ちない想いを抱えたまま、日々を過ごしている。
医療保護入院をしている姉さんが、病院を抜け出したと両親から連絡を受けて、その翌朝、俺は名古屋へ向かう新幹線の中で、初めて彼女に出会った。
細く色白の華奢な両腕で、座席上の荷棚に自分のトランクを入れようと持ち上げたところだった。
プルプルと細い両手が震えていて、今にもトランクを落としてしまいそうに思えて、俺はとっさに声をかけた。
「手伝いましょうか?」
「…えっ?」
振り返った彼女を見て、俺は一瞬にして捕らわれてしまった。
緩くウェーブした栗色の髪。
透き通るような色白の肌。
見開かれた大きな黒目がちの瞳。
ドクンッと、胸が高鳴るのがわかった。
「荷物、上げますよ。棚に。」
言いながら、彼女の前に入り込み、トランクを持ち上げる。
「…あ、スミマセン。ありがとうございます。」
戸惑いながらも、トランクから手を離した彼女は、俺が荷棚に収めるのを見届けると、もう一度俺に会釈して、窓側の自分の座席に腰をかけた。
淡い水色の花柄のワンピースが、ふわりと揺れる。
俺は、痛いほど高鳴る鼓動に戸惑いながら、彼女の隣の座席に座った。
すると、そんな俺の隣で、彼女は納得したように小さくうなずいていた。
「あ、お隣だったんですね。」
俺が声をかけた理由を探していたのだろう。
確かに、彼女がトランクをしまわないことには、俺は座れない。だから、声をかけたんだなと納得したといったところか。
「───一人旅、ですか?」
そう聞いた俺に、彼女は曖昧に言葉を濁した。
「───ええ。…まあ。」
それ以上、聞いてくれるなと言ったように。
それでも、俺はさらに話すきっかけを求めて、もう一度聞いた。
「どこまで、行くんですか?」
一瞬、彼女は、答えるかどうか躊躇していたが、あきらめたといったように、小さく息をついて言った。
「───伊勢に。」
それを聞いて、俺は目をしばたかせた。
「いせ?」
俺は、信じられない思いで、もう一度聞いた。
「伊勢神宮の、伊勢?」
「…そう。」
「…ふぅ~ん。」
偶然にも、今から俺が向かおうとしている場所に、彼女も向かっている。
俺は、何でもないような顔をしながら、心では、大きくガッツポーズをしていた。
やがて、車内にアナウンスが流れて、新幹線は動き出した。
窓側の座席で、流れる景色を眺めながら、彼女は何かをしきりに考えているようだった。
時にクスッと笑ってみたり、切なげに大きな瞳を細めたりしながら。
俺は、そんな彼女をちらちらと盗み見るようにしながら、不意に、頬杖をついた彼女の左手の薬指に、鈍く光るプラチナリンクをみつけて、息をのんだ。
───結婚、してるんだ…。
それでも俺は、彼女をあきらめようという気持ちには、全くならなかった。
今考えても本当に不思議だが、彼女が人妻だとわかっても、俺の気持ちは、全く変わらなかったのだ。
こんなことを自分で言うのもなんだが、俺は正直、今まで女性に不自由したことはない。
中学生の時、初めて付き合った彼女も、告白は彼女からだったし、その後も、大体付き合ったのは、女性の方から言われて付き合うことが多かった。
だから、いつもの俺なら、人妻なんて、全くの対象外だったと思う。
でも、彼女にはなぜか、そんな理屈抜きに、強く惹かれてしまう自分がいた。
これが一目惚れというのなら、そんなことが本当にあるんだと、俺はつくづくそう思わざるを得ない。
それくらい、俺は、この名前も知らない彼女に、強く惹かれてしまっていた。
名古屋駅で、近鉄特急への乗り換えがわからず、キョロキョロしている彼女に、伊勢まで案内すると申し出て、半ば強引に伊勢まで同行し、伊勢市駅の前で、改めてお互いに自己紹介をした。彼女──向坂樹里さんは、俺より8歳年上の32歳で、新横浜駅の近くの整形外科で、看護師をしていると話してくれた。それから、伊勢市内を観光して、夕方、樹里さんが泊まるというホテルに向かうまで、俺は本来の目的を忘れてしまうくらい、本当に楽しく、二人の時間を過ごした。
いや、本当は、忘れてしまいたかったんだ。
姉さんを探すことなんて…。
昔は、あんなに明るかった姉さん。
好きで好きで仕方なかった男性と、やっと結ばれて結婚し、幸せに暮らしているものと、家族みんなが思っていた。それが、3年前から、急にリストカットや睡眠薬を大量に飲むなど、自殺を繰り返すようになってしまった。
一人で家にいると、すぐに死のうとしてしまうため、閉鎖病棟に医療保護入院させることしか、俺たち家族には方法がなかった。
昨日、姉さんが病院を抜け出したと聞いて、俺はすぐに、行き先は伊勢だと思った。
伊勢は、俺たちの生まれた故郷であり、姉さんたち夫婦の思い出の場所でもあるから。
二人が初めて出会った場所。
そして、プロポーズされた場所。
沢山の楽しかった思い出、嬉しかった思い出に包まれて、姉さんは死のうと思ったのだろう。
───もう、見つからなくても、いいかな…。
俺は、心配する両親に、翌朝から姉さんを探しに行くことを告げながら、心では、そんなことを思っていた。
あれから3年。
義兄さんは、仕事が忙しいという理由で、今まで一度も姉さんの病院に面会にきたことはない。
三年間、一度もだ。
俺も、両親も、たぶん姉さんの自殺の原因は、そこにあるだろうことは、気付いていた。
そして、何度聞いても、その理由を話そうとしない姉さんに業を煮やした両親は、興信所に義兄の素行調査を依頼した。
───数日後、興信所から届いた結果に、俺たち家族は、絶句するしかなかった。
そんな時に、姉さんが病院を抜け出したという連絡がきたのだ。
俺は正直、もうこれ以上、姉さんを苦しめたくなかった。
楽にしてあげたいと思った。だから───。
だから、出会った彼女にかこつけて、姉さんを探さない理由にしたかったのかもしれない。
伊勢市駅の駅前で、偶然にも姉さんと鉢合わせした時、俺は何とも複雑な心境だった。
何事もなく、無事で良かったという気持ちは、もちろんあった。でも───。
ああ、死ねなかったんだな…。
そんな気持ちにも、なったのだ。
俺たちの事情に、半ば無理やり巻き込まれる形になったというのに、樹里さんは嫌な顔一つせず、俺たちを自分の泊まるスイートに一緒に泊まれるように、フロントに交渉してくれた。
あの晩、室内露天風呂から出て、浴衣に着替えた樹里さんを見た時、俺はすぐにでも押し倒したい衝動にかられ、それを押さえるのに苦労した。
樹里さんは、そんな俺の気持ちも知らず、無防備に湯上がりのしどけない姿をさらしている。
そんな彼女から、「いい思い出」という発言が出たとき、俺はもう、それ以上我慢できなかった。
「俺、思い出には、させたくないよ…。」
振り絞るようにそう言って、彼女を抱きしめた。
「樹里さん、好きだ…。」
言うつもりの無かった本音が、ポロッとこぼれた。
まだ、出会って一日すらたっていない。
ましてや人妻の彼女に…。
自分で、自分の行動が信じられなかった。
でも、もう抑えることはできなかった。
それでも、少しでも、本気で拒まれれば、止めようという理性はあったと思う。
でもあの時、樹里さんは拒まなかった。
俺たちは、何度も深いキスをして、何度も強く抱き合った。
そして、あの朝───。
「優くん、好き。私も大好き。」
確かに彼女は、そう言った。
あの、一度きりだけだったが、俺の聞き間違いではなかったと思う。
ましてや、演技などでもなかった。
女性の本心がわかるほど、俺は大人じゃないかもしれないが、あの時の彼女の言葉は、とても嘘だとは俺には思えなかった。
そして俺は、これ以上無いと思えるくらい幸せな気持ちで、朝食を食べ、姉さんと樹里さんと三人で、新横浜までの帰路についたのだった。
まさかあの後、あんな別れ方をするとは、夢にも思わずに…。
あの日から、早くも7ヶ月が 過ぎようとしている。
今日は、12月25日。
世の中は、クリスマスで街中浮かれているが、俺にとっては、念願だった一級建築士試験の合格発表の日である。
これに合格したら、俺はもう一度、彼女を探そうと思っている。
手がかりは、向坂 樹里という名前と、新横浜駅近くの整形外科で働いていると言っていた、本人からの情報くらい。
それでも俺は、彼女と別れた後、新横浜駅周辺の整形外科を全て探して、その中の一ヶ所に彼女が働いていた形跡を見つけた。
しかし、意を決して彼女に会いに行った時、彼女はすでにその病院を退職していた。
無理は承知で、病院の看護師たちに退職後の樹里さんの行方を聞いてみたが、知っている人はやはり誰もいなかった。
それでも、俺はあきらめきれず、彼女の旦那さんの会社にも、行ってみた。
向坂工業という塗装防水工事を専門に請け負う会社だった。
彼女の旦那さんは、プロレスラーのような屈強な体躯の、いかにも職人という感じの男性だった。
彼は、樹里さんと同じ職場で働いていた後輩だと言って近づいた俺に、忌々しいというように、小さく舌打ちしてこう言った。
「…どこに行ったかなんて、こっちが聞きたいよ。一ヶ月くらい前に、突然離婚届を置いて、いなくなっちまったんだから。」
「…えっ?」
すぐに、福岡県にあるという彼女の実家にも連絡したが、実家には帰っていなかったらしい。
「おかげで、アイツの両親には文句言われて、融資を打ち切ると言ってきてるし、散々なんだからよ。」
なんでも、彼女の父親は、九州を中心に有名ホテルやブライダル事業を展開している企業のCEOらしく、彼の会社にも、相当な額の融資をしてくれていたらしい。
「…そう、ですか…。」
俺は、心で自業自得だろうと思いながら、まだブツブツと文句を言っている彼に、とりあえずお礼を言って、会社を後にした。
実家にも帰っていないとなると、素人の俺が、これ以上探すのは難しくなる。
俺は、悩みに悩んだあげく、思いきって彼女の両親を頼ってみることにした。
なんと言っても、有名企業のCEOだ。
使える手駒は、確実に俺より多いはず。
もしかしたら、もう探し出しているかもしれない。
アポイントもない俺みたいな若造に、すぐに会ってくれるかはわからないが、断られても、会ってくれるまで、何度でも食い下がる覚悟はできていた。
とりあえず、さっき旦那さんから聞いた企業名を検索して、本社に電話をした。
「CEOの娘の樹里さんを探しているものです。アポもなく、本当に申し訳ありません。恐れ入りますが、CEOに取り次いではいただけないでしょうか。」
居留守を使われるか、丁重に断られるだろうとふんでいたが、意外にもあっさりと、CEOは電話に出た。
「…君は、樹里とはどういう関係なのかな?」
いきなり、渋い声でそう聞かれ、俺はどう話すか迷った挙げ句、本当の事を正直に話す事にした。
彼女が伊勢に旅行に行った時、一緒にいた者だと。
そして、どうしても、彼女に伝えたい事があって、探しているのだと。
必要なら、福岡まででも出向くつもりですと話すと、CEOは電話口で息をのんだ。
「…実は、今から横浜まで行く予定なんだ。その時、会えるかね?」
俺は、一も二もなく即答した。
「もちろんです。」
CEO───樹里さんのお父さんは、その日の正午過ぎには、新横浜駅に到着した。
「───はじめまして。先ほどは、お電話で失礼しました。上江田 優作です。」
出迎えた改札前で、そう言って頭を下げると、CEOは白髪混じりの頭をかきながら、その優しそうな目尻を下げた。
「…これはこれは、ずいぶんと男前なお出迎えだな。」
とりあえず駅近くの喫茶店に入って話そうということになり、俺は、自分の行きつけのコーヒーのうまい喫茶店にCEOを案内した。
「───なるほど。たしかにうまいな。」
CEOは、出てきたコーヒーに口をつけながら、小さくそうつぶやいた。
「豆はもちろん、焙煎にもこだわって、オーナーが仕入れているらしいですよ。」
俺は、言いながら、早速本題に入った。
「───樹里さんのご主人に会って、聞きました。一ヶ月程前に離婚届を置いて、家を出たと。」
「───。」
「樹里さんの居場所を知りたいんです。会って、どうしても伝えたいことがある。それには、CEOのお力を借りるのが、一番速いと思ったんです。」
俺は、椅子から立ち上がり、CEOに向かって深々と頭を下げた。
「お願いします。樹里さんを探すのに、どうかCEOのお力を貸して下さい。」
カチャッ…と、コーヒーカップをソーサーに置く音がした。
俺が顔を上げると、CEOは小さく息をついて、こう言った。
「…君と、樹里の関係を、もう一度聞かせてもらってもいいかな。」
俺は、包み隠さず正直に告げた。
「俺は、樹里さんを愛しています。ご主人がいることも知っていた。でも、止めることができないくらい、彼女を好きになってしまいました。」
「…。」
CEOは、少しなにかを考えるように、顎に手を置いていたが、やがて小さくうなずいて、こう言った。
「…わかった。君が娘を探すことに協力しよう。ただし、その前に一つ、やらなければいけないことがある。」
「…えっ?」
CEOは、自分のビジネスバッグの中から、一枚の写真を取り出した。
それは、30代半ばくらいの、派手に化粧をした女性の写真だった。
「この女は、樹里の夫の愛人だ。」
「…。」
「もう3年くらい愛人関係にあるらしい。私は、この事実を樹里の夫に突き付けて、二人を離婚させようと思って、今日ここに来たんだ。」
聞けば、樹里さんの夫───向坂 健は、彼女と結婚して10年、浮気を繰り返してきたのだという。
その度にCEOは、樹里さんに離婚した方がいいとすすめたが、樹里さんはうなずかなかった。
「私が悪いの。だから、私が我慢すればいいのよ。」
そう言って。
俺は、そんな樹里さんの言葉を、どこかで聞いたセリフだな…と思って聞いていたが、それは、自殺を繰り返すようになる前の、姉さんの言葉だったことを思い出した。
姉さんもそうやって、自分の方を向いてくれなくなってしまった夫のことをやり過ごしていたのかと思うと、本当に胸が傷んだ。
「樹里の夫は、樹里と離婚すれば私からの融資を受けられなくなる。それで絶対に離婚はしないと渋っている。これは、私にも悪いところがあるんだ。私も健くんの本性を見抜けず、娘の夫の会社だからと、簡単に融資を承諾してしまったからね。」
言いながら、CEOは再びコーヒーに口をつけた。
「───実はね。君のことは、樹里から聞いていたんだ。」
「…えっ?」
驚く俺に、CEOは話してくれた。
「半年前、伊勢に旅行に行ったからと言ってね、わざわざお土産を持って、福岡の実家まで樹里が帰ってきたんだよ。その時にね。」
聞けば、樹里さんは、旅先の伊勢で出会った親切な青年として、俺の話をしていたらしい。
あの時、俺が話した大学の話しや、将来の夢の話を。
「うらやましいと言っていたよ。君の若さが ね。」
CEOは、カップをソーサーに置いて、俺を見た。
「…絶対に、夢を叶えてほしい、ともね。」
「…。」
白髪混じりの前髪の間から、CEOの優しい眼差しが、俺を見つめていた。
そのどこか樹里さんを思い出させる黒目がちの瞳が、俺をみながら静かに言った。
「一級建築士の試験は、もうすぐだったね。」
「…はい。今月の23日です。」
俺の答えに、CEOはこう提案した。
「まず、その試験に合格すること。そして、結果が出るまで、樹里のことを決して探さないこと。」
「…。」
「約束、できるかね。」
俺は、無言のままうなずいた。
「その間、私はあらゆる手段を使って、樹里を捜索しておく。そして、君が試験に合格した日に、樹里の居場所を、君に教えるとしよう。」
一級建築士の合格率は、わずか21%。
俺は、昨年一度受験して、見事に落ちている。
今年、合格できるかどうかは、正直五分五分といったところだ。
でも、そんなことを言っている場合じゃない。
俺は何としても合格するとCEOに誓って、頭を下げた。
「どうか、よろしくお願いします。」
午前10時。
パソコンの画面に、合格者番号が一斉に掲示される。
「…。」
俺は、祈るような気持ちで、その番号を上から順に確認していった。
俺の受験番号は、14582。
───14580、14581…。
「…あっ…た…。」
俺は、ホッとしてハァーッと大きく息をはくと、パソコンデスクの前で、一人小さくガッツポーズをした。
これでやっと、樹里さんに会える。
早速、CEOに電話をして、無事に合格したことを伝えた。
「そうか、おめでとう。よくやったな。」
CEOは、自分のことのように、俺の合格を喜んでくれた。
そして、とある病院の住所を俺に伝えた。
「───鶴見産婦人科という病院だ。今日の午後3時頃行けば、そこに樹里がいるはずだ。」
「…産婦人科…。」
俺は、とりあえずお礼を言って、その電話を切った。
樹里さんは、その産婦人科で働いているのだろうか…。
午後2時50分。
俺は、すっかりクリスマスムード一色の華やいだ街中を、教えてもらった病院へと急いだ。
───鶴見産婦人科。
俺の通う大学院の近くにある産婦人科だ。
思っていたより近いところに、樹里さんは働いていたんだな…などと心に思いながら、俺は産婦人科の前に到着した。
その時、病院の入り口の自動ドアが開いて、一人の少しお腹の膨らんだ妊婦さんが、ゆっくりと歩いて出てきた。
俺は、その妊婦さんの顔を見て、思わず息をのんだ。
「…樹里、さん…。」
「…優くん…。」
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