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ダメンズ製造女
よし。ガスコンロの火はついてないし、TVは消した。部屋の電気も消した。窓も全部閉まってる。
指差し確認をしながら、私、向坂 樹里(さきさか じゅり)は慌てて玄関先に向かった。
駐車場から漏れ聞こえる車のエンジンの音が、まるで急かしているようにけたたましく聞こえている。
早く行かないと、また不機嫌になっちゃう。
恐らく、車の中でも、不機嫌にタバコをふかしているであろう、自分の夫のことを考えながら、私は小さくため息をついた。
本当は、化粧ももっとちゃんとしたいし、服だって整えたい。
トイレに行ったら、それこそ遅いって怒鳴られるかな…。
夫と出かける時は、いつもこんな調子だ。
夫は、家の事をまるで手伝わない。
いや、違うな、手伝わないんじゃない。
自分の仕事じゃないから、やる必要がないと思っているのだ。
手伝うという概念は、たぶん夫の中には無い。
だから、こうやって出かける時も、いつも自分の事だけやって、先に車に乗り込み、エンジンをかけて、早くしないと行っちまうぞという、無言の圧力を私にかけてくる。
私は、玄関のカギをかけると、大きなランドクルーザーの助手席によじ登るように乗り込んだ。
夫は、鍛え上げられた太い二の腕をさらけ出すように袖を大きくまくると、くわえていたタバコの火を灰皿におとした。
「…どこ行けばいいんだよ?」
めんどくさそうに聞いてくる。
太めのサングラスが、浅黒い肌によく似合っている。
彫りの深い、整った顔立ち。
185cmをゆうに越える長身に、筋肉質なずっしりと逞しい巨体。
パッと見、プロレスラーかと思うその外見で、仕事は意外にも事務仕事だったりする。
少し前までは、自分も現場に出て、一斗缶をいくつも運んだりしていたと本人が話していたが、今は経営の方に専念しているようだ。
「いつものスーパーでいいよ。近いとこで。」
私が言うと、夫は無言で車を発進させ、また新たなタバコに火をつけた。
夫──向坂 健(さきさか たける)は、建築防水業の会社を経営している社長だ。
従業員は事務の人を合わせても5人という小さな会社だが、それなりに途切れずに仕事もあり、なかなか繁盛しているようだ。
私たちは、10年前、健が現場で足場から落ち、足を怪我した時に、その病院で私が看護師として働いていて、知り合った。
最初は、足の不自由な健を見るにみかねて、自宅がお互いに思いの外近所だったこともあり、「頼む。このとおり!」と、土下座でもしかねない勢いで、健に頼み込まれて、なかば、押しきられる形で、身の回りの世話をするようになった事から始まった。
そのうちに、「もう、家に住んじまえばいいよ。」
なんて言われて、同棲するようになり、結婚までいくのに、そんなに時間はかからなかった。
そんな感じで、知り合ってわずか半年で結婚。
それから早いもので、10年がたつ。
知り合った時、まだ24歳だった若者も今や35歳。そういう私も、今年で32歳。
10年という年月の中で、様々なことがあったけど、幾多の危機を乗り越えて、今もまだ夫婦として続いている。
ま、ほんとにギリギリだけど…ね。
私は、小さくため息をついて、車の窓から流れる景色を見るともなくみていた。
「─ああ。わかった。じゃあ、今から行くよ」
チラチラと私の方を気にしながら、健が小さく息をつく。
時刻は、17時45分。
買い物を終え、自宅に戻ってすぐのこと。
買ってきた食材を小分けにして保冷バッグに入れていた私は、またかと思った。
───また、彼女のとこね。
気づかないフリをして、作業を続ける私に、後ろから健が声をかけた。
「──ちょっと、現場で不具合が出たらしい。行って見てくるよ。」
「──はい。夕飯は?」
「この時間だからな。たぶん外で食べるよ。悪いな。」
「──はい。行ってらっしゃい。」
そさくさと出て行く夫を、笑顔で玄関まで見送る。
パタンと閉まった玄関に向かって、私はつばでも吐いてやりたい気分になるのを、必死で留めた。
なにが現場で不具合よ。ウソつき。
「……」
いや、今日は、本当に現場で不具合があったのかもしれない。
そう思う私もいる。
でもきっと、違うだろうな…。
そう思う私もいる。
キッチンに戻って、私は二つの思いに揺れながら、黙々と食材を冷蔵庫に片付ける作業に没頭した。
健が、浮気しているかもしれない(いや、もうしているでしょう)と気づいたのは、2週間ほど前のことだった。
彼は、いつも電話がかかってくると、リビングから庭の方に張り出しているウッドデッキのバルコニーに出て、そこでタバコを吸いながら話すのだが、その日はそんな余裕もなかったのか、リビングのソファーでひそひそと話し込んでいた。
「大丈夫だよ。できてないって。」
リビングに入ろうと、そのドアに手をかけて、漏れ聞こえる夫の声に、私は耳を疑った。
「オレ、たぶん種無しだからさ。」
電話の相手は、取り乱しているのか、女性特有の甲高い声が漏れてくる。
「だって、10年一緒にいて、できないんだぜ。」
それは、私たちの間にできた、深い深い溝の原因だった。
ジュッと、灰皿にタバコの先を押し付けて、彼は平然とこう言った。
「──わかったよ。本当にできてたら、お前と一緒になるよ。」
私は、リビングのドアを開けることが、できなかった。
不妊症。
不妊症とは、生殖年齢の男女が妊娠を希望し、1年以上避妊せず性交を行っているにもかかわらず、妊娠の成立を見ない場合を言う。
その原因として、女性では、卵管閉塞、無排卵症、男性では、重度の乏精子症や無精子症がある。
結婚して3年たった頃、そろそろ子供が欲しいと、避妊具無しでセックスするようになったが、その後も一向に授からず、おかしいと思って、私は産婦人科で検査を受けた。
しかし、私の体には、異常は無かった。
私は、健にも検査を受けるよう話したが、面倒くさいと一蹴されて、終わってしまった。
しかし、健は、自分の方に異常があると認めているのだろう。
あんな発言が出るということは。
健は、あの後、深夜になっても、朝になっても帰ってこなかった。
* * * *
「───もう、涙も出ないわ。」
つぶやいて、私は玄関にカギをかけた。
時刻は、早朝5時20分。
今日は、仕事はお休み。
明日も休みなので、久しぶりの連休である。
旅行にでも行こう。
昨日の深夜。
不意に思い立って、支度をした。
どうせあの人は、待ってたって帰ってこない。
それなら、こっちはこっちで、好きに羽を伸ばさせていただきましょ。
大きめのボストンバックとキャリーバッグを引きずって、私は駅に向かって歩きだした。
置き手紙とかは、書かなかった。
どうせ、読まないから。
私がいなくなったことにすら、気づかないんじゃないの?
そんな不安すらよぎる。
まあ、それでも、いいか。べつに。
急にもたげた不安を打ち消すように、私はこれから行く旅行先に思いをはせた。
どうせなら、一度も行ったことない所に行こう。
一泊二日なので、そんなに遠出はできないけど、今回は一人だし、思う存分羽を伸ばしてこよう。
そう考えて決めた行き先は、伊勢。
今は5月中旬のオフシーズンだからか、けっこういい部屋が空いていて、私は迷わず予約を入れた。
新幹線もグリーン車にしたし、名古屋からの近鉄特急も有料席をとった。
めいっぱいお金をかけて、めいっぱい贅沢してやろう。
それが、自分にできる精一杯の復讐。
浮気したあの人への。
6時11分発の博多行のぞみ1号は、まだ人影もまばらで、静かな空気が流れている。
私は、新幹線のホーム内のキオスクでお茶とサンドイッチを買って、グリーン車に乗り込んだ。
ここからは、長い電車旅だ。
思えば、新幹線なんて乗るのも、本当に久しぶりだった。
私はウキウキする気持ちを押さえて、自分の座席を探した。
「…えっと、15のA。あ、あそこだ」
席は、わりとすぐにみつかって、私は自分の座席をチケットと見比べて確認した。
よし。間違いないな。
そして、持っていたキャリーバッグを座席の上の棚に挙げようとしていた、その時───。
「手伝いましょうか?」
不意に、後ろから、低い男性の声がかかった。
「…えっ?」
私じゃないよね。
そう思いながら、振り向くと、スラリとした長身の細身の男性が、私に向かって手を差しのべていた。
「荷物、上げますよ。棚に」
「…あ、スミマセン。ありがとうございます。」
横から、半分持ち上げていた荷物を支える形で、その男性は、軽々とキャリーバッグを抱えあげ、棚の上に乗せてくれた。
「降ろす時も、言ってくださいね。」
さわやかな笑顔でそう言う。
まだ20代半ばくらいだろうか。
ラフなポロシャツにダメージ加工の薄手のジーンズが良く似合っている。
私は、自分の席に座る前に、もう一度その人にお礼を言って、座席に腰をおろした。
すると、そのとなりに、当たり前のように彼も腰をおろす。
「あ、お隣だったんですね。」
なるほど。私が座らないと、この人も座れなかったわけね。
やけに親切だと思ったら、そんなことだったのかと、私が納得していた時、彼が聞いてきた。
「──一人旅、ですか?」
明らかに、不振そうな空気をはらんだ問いかけ。
「──ええ、…まあ。」
少し言葉を濁して、私はうなずいた。
通りがかりの彼に、私の込み入った身の上話をしても仕方がない。
それで、話は終わると思っていたのに、彼はさらに、私に話しかけてきた。
「どこまで、行くんですか?」
「…。」
答えるか、少し躊躇したものの、屈託のない彼の笑顔に、行き先くらい教えてもいいかと、小さく息をついた。
「───伊勢に。」
「いせ?」
彼は、驚いたように、小さく繰り返した。
「伊勢神宮の、伊勢?」
「───そう。」
「…へぇ。」
その時、アナウンスが流れて、ゆっくりと新幹線が動きだした。
私は、流れ出した車窓の景色を眺めながら、飛び出してきた自宅の事を思った。
夫は、もう帰ってきただろうか。
あの人は、私の勤務なんて興味ないから、一晩帰らなくたって、夜勤だとでも思うだけよね。
そう思ったら、少し気持ちが楽になっていた。
車窓に映る私の顔は、いつの間にか小さく笑っていた。
掃除しなきゃ、洗濯しなきゃ、あの人が帰るまでに、夕飯作らなきゃ。
毎日、毎日、そうやって、看護師という仕事をしながらも、家事も必死にやってきた。
それは、半ば、意地みたいなものだったのかもしれない。
子供がいない女の意地。
子供もいないんだから、家事くらい、まともにやってくれよ。
夫に、そんなにあからさまな嫌みを言われたことはないけど。
あの日々の生活の中に、無言の圧力がなかったか、といえば、それはあったと言うほかない。
それで自分は、外に女作って遊んでるんだから、全く男って、いい気なもんだよね。
あの、リビングでの、電話ごしの女の声を思い出す。
思い出したくもないのに…。
「早く奥さんと別れてよ!」
リビングのドア越しからでも、はっきりとそう聞こえた。
まるで、悪者は私だとでもいうように。
いや、私が悪いのかもしれない。
結婚して10年。
健の浮気は、これが初めてではなく、今までも何度かあった。
それでも、特に文句も言わず、見てみぬフリをしてきた。
それは、別れたくなかったというわけじゃなく、ただ単純に、争いが怖かったからだ。
口をひらけば、
「全く、ダメなやつだ。」
「そんなこともわからないのか。」
と罵られ、いつしか必要最低限のことしか、話さなくなった。
声をかけると、眉間にシワをよせて、迷惑そうにこっちを見る健の顔を、見ているだけで胸が苦しくなって、言いたい事の半分も言えない自分がいた。
なんで、こんな風になってしまったのか…。
それも全て、私が悪いのかもしれないと思う。
顔を合わせれば罵られて、謝ってばかりいる日々は、私の人格自体を全否定されているようで、私は全てにおいて、自分が悪いと考えるようになっていた。
そうだ。私が悪いんだ。
私は、車窓から流れる景色をぼんやり見ながらそう思う。
思えば、付き合っている頃から、健はその片鱗を見せていたのに。
気づかないフリをしてた。
そして、自分が我慢すれば、全て上手くいくと思って、いつしか反論も全くしなくなっていた。
「早く奥さんと別れてよ!」
頭の中で、けたたましい女の声がする。
もう、別れた方が、いいんだろうな…。
ボンヤリ、そう思う。
と、その時───。
「あ、今日はよくみえますよ。富士山。」
隣の彼から、不意に声がかかった。
私の方に身を起こして、ニコニコと窓の外を指さしている。
その指の先に目をやると、車窓の少し離れた山あいに、まだ頂上に少しだけ雪の帽子をかぶった雄大な富士山の頂きが、ゆっくりと流れていた。
「…ほんとだ。キレイ。」
思わず、声がもれた。
建物の間から、綺麗な麓の景色まで、ゆっくりと流れていく。
本当に富士山って、きれいだよね。
しみじみ、そんなことを思う。
すると、また隣の彼から声がかかった。
「食べません?」
キョトンとする私の顔の前に差し出されたのは、きれいに中の白い筋まで取り除かれた、甘酸っぱい香りのする、美味しそうな小ぶりの蜜柑だった。
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