わたし①

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わたし①

 病院のベッドの側に、そいつは現れた。そして、そいつは言った。  この薬を飲めば、おまえは幸せになれる。  その時のことは、今でも思い出せる。わたしは子どもの頃から体が弱くて、病院に入院していることが多かった。そんなわたしのことがうっとおしかったのか、父は母とわたしを捨てて家を出ていき、母がわたしの面倒を見てくれていた。母はわたしの前ではいつもにこやかにしていたけれど、わたしの見えないところで苦しんでいるのは、わたしには十分わかっていた。だからわたしは、よく思っていたのだ。  わたしなんていない方がいいのではないか。  もちろんそんなことを言ったら母は絶対に悲しむだろうから、口にしたことはなかったけれど。ただ、わたしの入院のためのお金で母がとても苦しんでいることだけは事実だった。  病院のベッドでわたしはいつも、そのことばかり考えていた。そんなわたしの前に、そいつは現れたのだ。  そいつがどういう存在なのか、当時のわたしには分からなかったけれど、今思えば、悪魔か何かだったのだろう。そいつに渡された薬を、わたしは飲むことにしたのだ。  そうしてしばらくすると、わたしの体はよくなり、退院することができた。それでも母と二人の生活は苦しかったから、わたしは、高校では学校に通いながらアルバイトをしていたし、高校を卒業した今は、大学に行かずに働いている。母は、わたしの好きなことをすればいい、行きたい大学はないのか、と言ってくれたけれど、わたしは働きたいのだと答えた。わたしを大切にしてくれた母に恩返しがしたかったからだ。少しでも早く、母に楽をさせてあげたかったのだ。それに、わたしには、時間がない。  思えば、あの薬を飲んで体がよくなるなんて、夢みたいな話だった。実際、医者も母も、体がよくなったのは奇跡だと言っていた。もしこれが小説なんかだったら、全てが夢だったという夢オチで終わってもおかしくないような話だ。でも、もしかしたら、その方がよかったのだろうか。そんなことはないと信じたいけれど。  あの時、わたしは契約をしたのだ。
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