朝を抱いて夜を泳ぐ

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「もう少しゆっくりしていきや」 玄関で靴を履く私に父と母は声を揃えてそう言った。 「今日バイトあるんよ。やから帰らなあかん」 解けた靴紐を結び直す。昨日靴を脱いだ時は解けていなかったはずだ。靴紐が勝手に解けるとは思えないが、この世界はそういう微妙な違和感で出来上がっていると言っても過言では無い。 本当はバイトはない。 2日か3日ほど泊まる予定だったから予め断っておいた。 昨晩、私は夢を見た。 起きた時にはすっかり内容は忘れていたが、その夢はあの日、テントの中で見た夢と同じものだった。 わかるのだ。 脳の海馬が記憶しているわけではない。体全体に、もっと言うのなら私を取り巻く世界に刷り込まれているのだ。 だが不思議とあの時のような恐怖はなかった。 いつも通りの目覚めだった。 けど、それは私がこの家から一刻も早く立ち去りたりたいと思う理由に相応しかった。 「じゃあね、また来るわ」 急いで作り上げた足元のブサイクな蝶々を見ながら、戸を開けて、そのまま親の顔は見ずに立ち去った。 駅までの道中、1度だけ靴紐が解けた。 私は道の隅っこにしゃがみこみ、今度は丁寧に蝶々を作り上げた。 ゆっくりと立ち上がるのはなるべく体力を使いたくなかったからだ。 「つかれたー」 そんなふうに言う人に対して 「なにもしてないやん」なんていう的はずれな返答をする人がいる。 そんなことはないのだ。 酸素を吸い、二酸化炭素を吐く。 そんな作業が疲れるのだ。 瞬きをする。 口に溜まる唾液を飲み込む。 そんな作業が疲れるのだ。 真っ青な空の下を、私はゆっくりと歩いた。 今すぐあの家から離れたかった。 だからこそ、ゆっくりと歩くのだった。
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