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目立つことは好きでは無い。
注目されることは疲れるし、苦しくなる。
だから、私の斜め前に座る男に「あ、」と言われ指を刺された時は驚きや不信感よりも、めんどくさいな。という感情が真っ先に湧いてきた。
「ユカちゃんやん」
私は一瞬誰のことか分からなかった。
少しの困惑のあと、自分のことをユカと呼んでいることに気がつく。
その男の隣に座る女がタナカだったから、「あ、前に言うていたタナカの彼氏か」と瞬時に理解でき、それと同時に私をユカと呼んだことになんとも言えないモヤモヤが胸を占めた。
歳は私と同じか少し下くらいだろうか。
隣に座るタナカよりは上に見えた。
無精髭を生やしたその男は決して整っていると言える容姿ではなく、着ている服も寝巻きに近いものだった。
反して、タナカは濃いメイクにキラキラ光る石を耳につけ、手にはGUCCIのカバンを持っている。
コンビニバイトだけでは買える代物ではなさそうで、もしかしたら夜職でもしているのかもしれない。
「え、まじでファンなんですよ。可愛いです」
男は席を立ち、揺れる電車の中、ゆっくりと私の前まで歩いてきた。
その男は背が高く、ちょうど私の視線の先には男性器があった。
私のライブを見ながら、性器をいじるその男のことを想像するとどこかおかしくて、私は笑みがこぼれるのを必死に堪えた。
「やめてよ、ケンちゃん」
ヒステリックな声を車内に響かせ、立ち上がったタナカは男の手を引き、違う車両へと引きずっていく。
1度だけ舌打ちに似た音が私の耳に届いたが、それは直ぐに電車の走る音にかき消された。
貫通扉が閉まるその瞬間まで、ケンちゃんと呼ばれるその男は私のことをニヤニヤしながら見つめていた。
普段なら直ぐに視線を逸らす私だけど、今回だけはじっと見つめ返す。
それは私ではなく、ユカであるような気もしたが、よくよく考えるとユカならもっと優しい対応が出来ただろう。
(そもそも、あんなライブ配信をするわけがないのだが)
彼らが立ち去ると、次は左隣に座る女性の視線が気になり始めた。
不快感と、好奇心に負け、何となく隣を見返すと母と同じ年齢くらいのその人は
「あなた、有名人なの?」と尋ねてきた。
「別にそんなんじゃないですよ」
無理に口角をあげ、なるべく優しい声を作る。
「でも確かに整った顔してるわね、うちの娘とは大違い」
そう言って笑う女からはどこか上品さを感じ取れ、無性に腹が立つ。
右手をポケットに入れ、その中で爪が手のひらに食い込むほど強く握った。
「いえいえ、そんなことないですよ。私なんかよりも妹の方が何倍も美しくて、魅力的です」
手のひらの感覚が無くなるに連れて、私の作り笑いは自然になっていく。
「姉妹揃って美女なんだ。妹さんはおいくつ?」
「18歳です。彼女はお酒の味を知りません。きっとセックスの気持ちよさも知りません。天使ですからね。そういうのとは無縁なんですよ」
では。
本当はあと1駅あるのだが、私はちょうど停車した駅で降りることにした。
女の視線を背中で受け止めながら、死ねばいいのに。なんていう過激な発想を恥じた。
それからタナカのことを考えた。
あの女は今、どんな感情を飼い慣らしているのだろう。
いつか留めておくことができなくなり、放出された莫大なエネルギーは私の首根っこ目掛けて飛んでくるのだろうか。
なぜだか自然に笑うことができた。
それから私は走って家まで帰った。
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