朝を抱いて夜を泳ぐ

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久しぶりに会う父はかなり窶れていた。 恐らくまだ50代であるはずのその顔には深い皺が多く刻まれており、そのうちの数本の皺を作ったのは間違いなく私である。 「元気やったか。理子」 それは心配ではなく本題に入る前の導火線のようなものだということを私は理解している。 「普通」 「そうか、めっちゃ痩せたな。不健康そうや。最後に会ったのは去年のお盆か。もう1年くらい経つやん」 「痩せるのはある種の健康やろ。不要なものはなく必要最低限のものだけで成り立っている私の体は贅肉まみれのお父さんよりも不純物の少ない、本当の意味で生身の人間やわ」 私の口調が強かったのか、それとも反論されたこと自体に驚いているのか。 とにかく私の言葉は父の顔から表情を奪い取った。 思えば父に強く当たることなど人生で1度もなかった。 それは父のことを好いている根拠にはあまりにも不十分で、むしろその反対であり、また父に好かれるための1つの手段でしかなかった。 そしてそれは相手に伝わるものだ。 トンビは雨が降る直前、その高度を低くする。 彼らは分かるのだ。 理由や根拠などなく、本能で理解する。 人間にも同じような性質が間違いなくあるのだ。 しかし、ユカは違った。 ユカは策略のない愛を惜しみなく与えれる人だった。 だから両親はユカを愛したのだ。 私のことを「ユカ」と呼ぶ母に対して、1度たりとも叱責せず、黙ったまま眺めている父もやはりユカを愛していたのだ。 そんな私だったからこそ、強気な態度は父を驚かせた。 「そうか」 今にも消え入りそうな声量でそういうのが哀れな父には限界だった。 狭い三和土の上では余計な苛立ちを覚えてしまいそうで、私はリビングを顎で指し靴を脱ぐように言った。 狭いリビングにはピンクローターやディルド、電動マッサージ器などの大人の玩具が散らばっており、それらには私の白濁した膣液が付着しそのままの状態で放置され、その結果、白い覚せい剤のような粉がまぶされていた。 間違いなく視界に映り込むそれを無視する父はどこか情けなく、私は深く同情した。 「布団の上でいいよ」 私がそう言うと「わるいな」とボソッと呟き私の横にゆっくりと腰を下ろした。 私たちは何の変哲もない真っ白な壁をただ並んで見つめ、時計の秒針だけがその空間にまだ時間の概念があることを提示していた。 時計の秒針すらも意識の外に消えた頃 「母さんは癌だった。もって2年と言われた」 と震える声で言った。 「そっか」 そんな父に対して私の口調は驚くほど冷淡で、血の通ったものではなかった。 世界のどこかでは25kgにも満たない成人が飢餓に苦しんでいる。父の知らせはそういったものに近かった。 そのように実体なんてなく、触れれず、掴めない不幸は私の感情からすらりとこぼれ落ちるのだが、彼らはその際に私を形成している1部でもあるような、そんな大事な感情にまで手をかけ、道ずれにしようとするものだから厄介だ。 必死に自分を見失わらないように、ふるいにかけて、要らない感情だけを削ぎ落とすことに集中する。 その結果出来上がった沈黙に父のため息が混じり合い、室内の酸素がほんの少し減ったかのような息苦しさを感じる。 「ユカなら行ったんだろうけどね、残念だね、お母さんも」 口の開閉を最小限にそう言ったものだから、言葉は潰れ、聞き取りにくい日本語だっただろうけど、それでも父の顔から色が消えたのは「ユカ」という単語に過敏に反応する、父としての本能のようなものが残っているからだろう。 「そんなこと言うなよ」 どうせなら喉をかっぴらき、目を見開き怒鳴って欲しかったのだけれど、 父の声は情けないくらい細く、私の耳に届くのがやっとだった。 「帰って。私たちが共有できる感情は後悔と憎悪だけなの。それだけが私たちを家族たらしめてるの」 父の表情を覗き見しようと隣を見ると、相変わらず真っ直ぐと壁を睨みつける父がいて、その黒目は一瞬大きくなり、それから揺れ始めたものだから、そうなると私の中にいる獰猛な獣は過剰な攻撃を欲し始める。 「お前が1番気持ち悪いんだよ。私のことを『ユカ』って呼ぶお母さんよりも、それをただ黙って見て、どっち付かずの態度を取り続ける。でも伝わってくるんだよ、『理子が死ねばよかった。ユカが生きてればな』って思ってることくらい。それは純粋な願望であるお母さんの叫びなんかよりも、何倍も私の心を抉るんだから、キモイんだよ」 腹の奥がグルルと音を立てる。 私の声はシンクの横で倒れている安っぽいグラスを揺らすくらいに甲高く、張った空気を破裂させた。 何を壊したいのか、何を復興したいのか、何を信仰して、何を卑しめたいのか。 そんなものはとっくの前に分からなくなっている。 自分の感情にも死角は合って、そう言った場所に住み着く薄暗い感情に気がつけるのは、芽が出た時でも、蕾ができた時でもなく、まるで花火のような、そんな爆発を見せる、開花の瞬間である。 つまり、今だった。 「出てけよ、二度と何も望まないから、私に何も望まないで。これ以上絶望しないで、させないで」 悲しい色の絵の具で塗りたぐられたような、そんな世界に私は一人でいた。 目の前に見える景色は全てが偶像で、私が触れれる私すらも虚構の品で、そんな部屋で父の 「ごめん、ごめん」と繰り返す音だけが響いた。 父の謝罪は、私の生きる意味を根こそぎ消し去った。
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