泣いて、泣いて、その後は

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白い白い空間。 「ここ、どこだろう」 パパに連れてこられたこの場所は、とても広くて、ついにもと居た部屋に戻ることもできなくなってしまった。 「どうしよう…。このあとパパと約束があるのに」 呟いても誰も聞いてくれない。 「パパ…」 目に涙が浮かぶ。のどが絞まり、でも涙は落とすまいとしゃくりあげる。 「ひっ…。うー…」 どこからか自分と同じ声が聞こえた。自分以外の声を聞き、そちらへ歩みを進める。 「だあれ?」 曲がり角を曲がった先には、同じく真っ白な空間が広がっていて、ガラス越しに自分よりも年上の少女がしゃがみこんで泣いていた。 「どうしたの?大丈夫?」 声をかける。その少女はきれいな銀色の髪に紅い目をしている。その目には涙が浮かび、静かに揺れていた。 「どこか痛いの?」 ガラスに近づきながら声を出す。ガラスに手を当てじっと見つめていると、静かに、けれども確かな声が聞こえた。 「痛いの。誰か、助けて…」 「うん!助けてあげる!」 自分だって迷っている癖に迷いなく答えた私は、もと来た道を駆け戻る。パパならきっとあの子を助けてくれる。そしたらあの子と何をして遊ぼう。そんなことを考えながら、右も左もわからない角を何度も曲がった先に、 「パパ!」 やっと見つけた!かっこいい軍服を着たパパは、手に小さな機械を持っていて、私を手招きしている。 「パパ、あのね、あっちにね 「全くどこに行っていたんだ。早くこっちへおいで」 「うん。でもねパパ、あっちにね 「話なら後でちゃんと聞くよ。ひとまずこっちへおいで」 「ほんと?ちゃんとレナの話聞いてね?」 「もちろんだとも」 パパの手の中の機械が、きらりと鈍い光を放った気がした。 「こちら本部。A00機応答せよ」 「こちらA00機。乾度良好」 「本部より通達。本部へ帰還せよ。繰り返す、本部へ帰還せよ」 「A00機、了解」  無機質な命令を無線機が伝える。時刻は午後九時。すでに辺りは暗く、後方の部隊と交代をする時間だ。戦闘機に搭載されているレーダーは、周囲百キロ以内に敵がいないことを示している。操縦桿を強く握りしめ、右へ大きく旋回する。足元のペダルを強く踏み込めば聞きなれた音が響き機体が熱を帯びる。いつだったか聞いた『カミナリ』というものによく似た音。そんな思考もつかの間に、機体は勢いよく進みだした。 「A00機到着いたしました」 「確認いたしました。本部長がお呼びです」 「了解」 あれから約一時間後。無線機からの帰還命令に従い、北東二千キロに位置する本部基地へ帰還した。今日も今日とて、十時間以上の時間を共に過ごした戦闘機に束の間の別れを告げる。 「よぉゼロ!今戻りか?」 戦闘機から降り、ヘルメットを元の位置に戻したときよく聞く声に名前を呼ばれた。 「サンク」 「よ。昨日ぶりだな。にしても、なんだよそのツラは!俺らのエリート様がそんな死んだ魚みたいな顔してどうすんだよ!」 そう言いながら、サンクは俺の背をバシバシとたたき首に腕を回す。 「サンク……。お前は声が大きすぎる。もう少しどうにかならないのか……」 「どうにもならないなー。でも逆に、ゼロの声は小さすぎるぜ?」 サンクが苦笑いを浮かべる。その顔はいつもと変わらない。 「ゼロはもう今日は終わりだろ?俺の部屋でゲームしようぜ。アンも呼ぼうぜ?」 唐突な誘い。いつものことだし、いつも通りふらふらと誘いに乗ってもいいのだが、 「悪い。今日は本部長に呼ばれているんだ」 今日はそうもいかない。首に回された腕にわずかに力が入る。しかしそれを知ってか知らずか、サンクの顔には変わらず笑顔が浮かんでいる。 「へえ。そりゃ仕方ねえな。ま、早く終わったら来てくれよ。待ってるぜ」 「ああ。できるだけ早くいく」 「おお。待ってるぜ」  サンクがその特徴的な深緑色の髪をなびかせ走っていく。身長は百八十以上と、俺よりも高いはずなのだが纏う雰囲気は子供のそれと何ら変わらない。サンクの後ろ姿に背を向け、目の前の螺旋階段を目指す。本部、正式名称を中央前線作戦本部基地は、地下二階、地上五階建ての構造になっている。地下は、補給物資や軍機の保管庫、捕虜の生活区域。そして地上一階は戦闘機の発着施設が放射線状に八つ並び、二階には娯楽施設。三階と四階が居住区。そして最上階の五階は上層部、いわゆるお偉いさま方々の仕事場になっている。螺旋を描く階段を上り切り五階へ。深紅の絨毯が敷き詰められた廊下のつきあたりを目指して歩く。三分ほど歩いた先には、深紅で染められた扉が待っていた。 コンコン 「入りたまえ」 ノックをすれば、よく響く声が中から返ってきた。 「失礼いたします」 そう言いながらドアを押し開く。入り口から五メートル以上離れた場所にある大きな机。その机に座る本部長。そしてその背後には部屋の半分を占める大きな窓が連なり、果てしない荒野がそこから見える。 「お呼びと伺い参上致しました」 右手の拳を左胸に当て、左手を背中に回し頭を下げる最敬礼をとる。 「ああご苦労。君の活躍は聞いているよ」 机の上で書類をさばいていた手を止め、ゼロっくりとこちらに顔をあげる。 「今日来てもらったのは、一つ君に頼みたいことがあるんだ」 「はい。何なりとお申し付けください」 胸に当てていた手をほどき、背中に回し直立の姿勢をとる。 「ああ。ありがとう」 パンパン。 本部長が手をたたく。すると隣の部屋に通じる扉がゼロっくりと開き、中から二人の女が入ってきた。一人は長身で、本部長と同じような黒いスーツに身を包んでいる。もう一人はまだ子供で、銀の髪に、夜の海のような黒い目、季節外れな白いワンピースと対照的に真っ赤なチョーカーを身に付けている。 「ありがとうソワサ。こっちへ連れてきてくれるかい」 「はい。かしこまりました」 ソワサと呼ばれた女は、子供を連れて本部長のもとへ向かう。 「ゼロ、君にはしばらくこの子の面倒を見てほしいんだ」 本部長がにこりと微笑みながら告げる。 「はい……?」 「簡単なことだよ。君にはしばらく前線から引いてもらう。その代わりに、本部でこの子と一緒にいてくれ。ただしこれだけは守ってくれ。どんな時もこの子から離れてはいけない。わかったかい?」 淡々と必要最低限のことのみを伝える命令文。 「あ、あの……」 「ああ、部屋のことは気にしなくていいよ。流石に今の君の部屋で二人で暮らすには狭いからね。四階の端の部屋、四三五を使うといい。広い部屋だよ。自由に使ってくれたまえ」 「いえ、本部長、あの、」 「ゼロ。君がこの前線を支えていることも、君がそのことを自覚していることも、ほかのものが君を頼りにしていることも分かっているよ。でもだからこそこの子を頼みたいんだ」 「し、しかし……」 何が何なのか、 「ゼロ」 本部長の眼が細められ、先ほどまでとはうって変わって、冷たい声が発せられる。本部長が卓上で組んでいた手をほどき、机の引き出しに手を伸ばした。思わず身体を固くする。 「ゼロ。私と君は約束をしたね」 本部長の穏やかに見える笑顔とその奥の冷たい微笑みがブレて見える。 「私の言うことを聞いてくれるね」 指の先が冷たくなっていく感覚。この人には絶対に従わなくてはならないという本能。 「はい……」 喉の奥から絞り出すように機械的な声が耳を打つ。それが自分の声とはにわかには信じられない。 「そうだね。ではこの子を頼むよ」 その声を合図に、ソワサと呼ばれた女に背中を押されたのか、子供がこちらに走り寄ってくる。 「もう戻っていいよ。ああ、部屋は階段を下りて反対側のつきあたりだよ」 「了解、致しました」 そう言い残し、本部長に背を向けて扉を目指す。子供がついてきているのは気配で分かる。 「失礼しました」 そう言いながら扉を閉める。子供は依然と後ろに立っているままでこちらから表情を読むことはできない。 (ひとまず、部屋に行くか……) そう思い、来た道を引き返していく。螺旋階段を一つ分降り、絨毯は敷かれていないものの歩きなれた廊下を、反対側のつきあたりを目指して歩く。そこには435と書かれたプレートがかかった濃紺の扉が待っていた。 「ここか」 扉を開けて中に入る。部屋の間取り自体は元の部屋と変わらないが、大きさは段違いだった。部屋の奥の大きな窓に、その左側にある大きなベット、そして窓を背にした大きなソファに対になっているテーブル。そのテーブルの横に、荷物の入った箱が無造作に置かれてあった。 置かれている荷物が入った箱の数は一つ。 (まずは荷物の整理か) そう考え部屋の中に入る。箱を開けると俺の制服と軍服が二着ずつ入っていた。それとつい昨日サンクが忘れていったカードゲームのカード…。箱に入っていたのはこれだけだ。 「おい、お前の荷物は?」 扉の前で立ち尽くしている子供に声をかける。 「……」 「おい」 「……知らない」 少しの間を開けて子供が答える。思えば初めて声を聴いた。 「そうか」 会話が途切れる。別に気まずいとは思わない。そもそも話すことがなければ話さなくていいと安堵できるほどだ。 (もう夜か) 部屋に備え付けられている壁掛け時計を見ると、時計の針はもうすぐ十一時を示そうとしていた。サンクとの約束もあるが、本部長にも言われた通り、明日からは本部でこの子供の面倒を見なくてはならない。何をすればいいのか全く分からないが、逆らうことはできない…。 (……寝るか) 何はともあれ休もう。明日になってからまた考えればいい。そう考え、箱が置かれていた隣のソファにゴロンと横になる。少し小さいがベットは子供が使うだろうしどこで寝ようと大して変わりはない。 「おまえも今日はもう寝ろ」 子供に声をかけ、ゼロはゆっくりと目を閉じ 「たのもおおぉ!」 バンッ! 予想外の大声が響き渡り、勢いよく飛び起きる。声がしたドアのほうに視線を向けると、子供が立っていたはずの場所に小柄な女が立ち、子供を抱きかかえていた。 「聞きました!聞きましたよゼロさん!なんで私を呼ばないのです!こんなに面白そうなこと、呼んでくれないと怒っちゃいますよ!」 「アン…」 子供を抱えている小柄な女の名前はアン。背は俺より三十センチほど低く、百五十にも満たないだろう。銀の髪に、血のような赤い目をしている。思えばなぜかこの二人は顔立ちがよく似ている気がした。 「よっ。面白いことになってるなゼロ」 いつもよりも数段楽しそうな顔で部屋をのぞいてきたのは、先ほど分かれたはずの、サンク。 「サンク、アン、お前ら何してるんだ」 「それはもちろん、世に奇妙な任務を任されたゼロを見に来たのですよ!この子がお世話を頼まれた子供ですか?」 「……ああ」 「そうですか!そうですか!はじめまして、私はアンと言います。あなたの名前を終えていただけませんか?」 アンが子供に自己紹介をする。アンに抱かれている子供は二人の突然の登場に唖然としていたが、おもむろに口を開いた。 「レナ……」 「レナ。レナちゃんというのですね!とてもきれいな名前…。羨ましいです!これからどうぞよろしくお願いしますね」 アンがにこりと笑いそれにつられたかのようにレナも笑った。俺とは違いアンは話すのがうまい。別に尊敬するわけでもないが、単純にどうやっているのかは気になる。 「俺はサンク。よろしくな。レナ」 サンクが部屋に入り、レナに向かって手を伸ばす。 「よろ、しく」 レナが手を握り返し、アンもサンクもにこりと笑った。 「何をしているのですかゼロさん!あなたも握手ですよ握手!」 そう言いながら部屋につかつかと入り、目の前で立ち止まったかと思うとレナの手をぐいと俺の方へ差し出す。 「レナちゃん。こんな無愛想で死んだ魚のような眼をしているゼロさんですが、これでも私たちの中では一番強いのですよ」 「おい」 「ですからぜひとも頼ってあげてくださいな。きっと力になってくれますよ。ね。ゼロさん?」 アンがにこりと笑いなおもレナの手を差し出す。これは手を出さなければ引きそうにない。ゼロはゆっくりと手を差し出し、優しくレナの手を握る。レナの手は予想よりも小さく柔らかく、触れれば壊してしまいそうだった。 「そうだゼロ。俺たちも明日から隣の部屋に住むことになったから」 「……は?」 「だから隣の部屋。いやー流石に四階は広いな!四階には基本お偉いさましか住んでないもんな。まあ、われらがエリート様は一応部屋は持っているが、ほとんど俺のところで寝てるから入ったこともねえし。っていうことで、隣の四三四が俺の部屋、その向かいの四三六が……」 「私の部屋というわけです!これから隣の部屋同士よろしくです!」 「いや、アン。お前とはもともと部屋は近かっただろう。にしてもなんで二人まで……」 「さあな。お偉いさまの考えはよくわからねえよ。あ、そうだ。ゼロに聞きたいことがあるんだよ。最近俺の戦闘機調子が悪くてよ。少しでいいから見てくれないか?」 「あ、ああ。それは構わないが」 ちらりと、子供、レナのほうを見る。一応任された身なので、 「大丈夫ですよゼロさん!レナちゃんはしっかり私が面倒を見ておくです!本部長にもゼロさんの手助けをするよう言われていますから!お任せください!」 「な?アンもこう言っているし」 「わかった。じゃあすまないがアン。少し頼む」 「お任せあれ!」 そうして、ゼロと呼ばれた人と、あとから来たサンクと呼ばれた人も出て行った。 「さてレナちゃん。何かして遊びますか?それともさすがにもう寝るお時間ですか?」 そして後に残ったのは、私とアンと呼ばれる人だけ。 「それとも何か」 急に、アンと呼ばれる人が私を持ち上げ見上げながら口を開いた。 「私に何か聞きたいことでもあります?」 先ほどとは違う少し怖さを感じる声。 「え、ええと、その……」 思わず声が漏れる。 「ああ!すみませんレナちゃん!怖がらせるつもりはなかったのです。反省しています。本当にすみません。ただ、きっとゼロさんのあの様子だと、何も話していないし聞いていないと思うのです。私でよければなんでもお答えしますよ」 どうやらこのアンという人は『いい人』のようだ。『あの人』たちともパパとも違う。 「あ、あの、アンさんは」 「アン。アンでいいですよ。アンおねえちゃんと呼んでくれてもいいです!」 「えっと、アン、おねえちゃん?」 「うんうん。何でしょう何でしょう?」 「えっと。ここはどこなんです?」 ……。 「ここ?ここってここですか?」 「はい」 「えっと、ここは、中央前線作戦本部基地、皆が本部って呼んでいるところですね。もしかしてレナちゃんは、ここがどこかわからなかったのです?」 「うん。」 「なるほどなるほど。すみませんレナちゃん。私からもいくつか質問してもいいですか?」 「質問?」 「ええ。簡単な質問です。もちろん答えたくなかったら、答えなくても大丈夫です!」 「うん。」 そういって、アンという人は私にいくつかの質問を始めた。 「いくつかの情報は手に入りました」 「で、結局レナは何なんだ」 「確証はありませんが、あの人の、本部長の娘、だと思います」 「娘!?なんでそんなのがここにいるんだよ!」 「それは何とも。彼女自身、記憶がおぼろげで、自分のことも私たちのことも知らないことが多いようです」 「自分のこともか?俺たちのことも知らないとなると……」 「ええ」 「それはまあ、なんというか、厄介だなあ」 「ええ。とても。確実にわかっているのは、レナという名前。後は本部長に指示されたことだけです」 「指示?」 「ええ」 「なんて指示されたんだ?」 「それが」 「なんだ」 「ゼロさん」 「俺か?」 「はい。ゼロさんから離れるな。それだけだそうです」 「なんだよそれ…」 「はい。しかもレナちゃんの体の中、私たちと同じものが入っています」 「おいそれって!」 次の日の朝は早かった。 「ゼロさーん。おはようございます!今日から私たちも非番なのです!四人で少しお出かけしましょう!」 そんなことを叫びながら、部屋に入ってきた不届き者がいたからだ。ソファから体を起こしながら口を開く。 「アン…。今何時だと思っているんだ。まだ朝の五時だぞ」 「知っていますとも!ですが朝だからこそできることもあるのです。二階においしいモーニングがあるお店があります。そこに行きましょう!とっても混むので!早く!起きてください!」 「だからってこんな早い時間に」 「残念だなゼロ」 そう言いながら昨日とは違い眠そうなサンクが部屋に顔を出す。 「その店、二十四時間営業、モーニング、ランチ、ディナー、何でもある店だぞ」 どうやら被害者は俺だけではなかったようだ。サンクはあきらめたかのような目でそう告げた。その一言で俺はアンを説得することをあきらめた。 「んーおいしいです!レナちゃんこのパンケーキおいしいですね!」 「うん……」 時刻は七時。俺の部屋に不届き者であるアンが押しかけてきてから一時間後。俺たちは二階にある例の店、『シゼロシゼロ』に来ていた。本部の二階には様々な娯楽施設があるが、俺はあまり行ったことはない。アンやサンクは頻繁に言っているようだが…。俺が行くとしても、せいぜい新しい本を買いに来たりする程度だ。それにしても、聞いていたものよりも二階は広く、いつも行く本屋だけでなく、服屋、靴屋、レストランといった様々なものが豊富に置いてある。 「あれ?ゼロさん。パンケーキ食べないのですか?おいしくないです?」 「いや、そういうわけじゃない。ただ、朝食べるのが久しぶりなだけだ」 「おいおい、きちんと食べとけって言っただろゼロ」 「つい忘れるんだよ。腹も減っているわけじゃないし」 そんなたわいもない話をしながら、ゼロはゆっくりとナイフとフォークを動かす。俺が食べているのはいたって普通のバターにはちみつがかかったパンケーキ。サンクが食べているのは確かブルーベリーがのったもの。アンはチョコやらアイスやらがのっているもの。レナはイチゴやクリームがのっているもの。向かいに座るレナとアンはお互いのものを交換し合ったり、アンに至っては俺やサンクのものにも手を伸ばすしたりしている。 「おいアン。食べすぎだ。どんだけ食べる気だよ」 「む。いいじゃないですかサンク。ところで次はどこに行きますか?」 「ったく…。俺は、特にないけど…。ゼロは?」 「俺も」 「むむ。では二人とも私の買い物に付き合ってくださいね。昨日見て思いましたが、レナちゃんには服がないようで。今日だって昨日と同じものを着てもらっています。ぜひ新しいものを買いましょう!」 「え、わ、わたしは」 レナが何かを口にしようとする。 「ふふ、心配ご無用ですよレナちゃん。二人もいいですよね」 「ああ、俺は構わないぞ。むしろめいっぱいかわいくしてやろうぜ。な、ゼロ?」 もちろん異論はない。かわいくかどうかは置いておいて、何かしらの服がないと不便だ。首を縦に振ると、アンはにこりと笑い、自分の皿のパンケーキを食べ「早くいきましょう」とばかりにこちらを見つめ続けた。  『シゼロシゼロ』を出て、服屋に向かう。その道中でも様々な店に入り、アンもレナもよく笑っている。想像もしなかった穏やかな時間が流れている。こんなにに穏やかな時間を過ごすのはいつぶりだろうか。この感覚は、なんというのだろうか…。 「ね?ゼロさんもそう思いますよね?」 前を歩くアンが勢いよく振り返り、何かを俺に聞く。気づけば目指していた服屋にたどり着いており、サンクの手にはいくつかの買い物袋が握られている。話を全く聞いていなかった俺には一体何のことかわからないのだが…。 「レナに何色が似合うかって話だよ。俺は女の子はピンクとかだと思うんだけどな」 「いいえ!確かにピンクも捨てがたいですが、青や黒のシックな感じもレナちゃんには似合うと思います!ゼロさんはどう思いますか⁉」 そんなことを俺に聞かれても困る。俺のほうこそ服は今着ている制服と軍服しかもっていない。何がだれに似合うかなど…。 「レナ、に聞いてみるのはどうだ」 出てきた答えはまあ無難なものだったと思う。 「なるほど!それはいい考えで ブツンーー。 アンの声がいきなり途切れた。視界が暗闇に覆われ、意識が深い底へ落ちていく感覚。視覚、嗅覚、聴覚、味覚、触覚、五感のすべてがぶちぶちと音を立てて引きはがされていくようだ。何度も何度も数えきれないほど体験してきた感覚だが、慣れることはできない。許されない。暗闇に沈みながら、今度は反対に五感すべてが乱暴にぶちぶちと再接続されていく不快感。 体が急浮上していき、視界が白く染まる。誰かの泣き声が、聞きなれた泣き声が聞こえる。目覚めたとき見えたものは、見たことのない天井だった。 「あ、ゼロさん。目が覚めましたか?」 アンの声が聞こえる。少しけだるい体を起こし口を開く。 「アン。何が起きた」 「ええ。簡単に説明しますと、まあ事故です。一階でエンジントラブルが発生、それがちょうどゼロさんの真下で起きたらしく、ゼロさんの体が吹っ飛んじゃったというわけです」 なるほど。と納得できるようなことではないが、今はどうでもいい。 「それで急遽修復作業を実施しました。安心して下さい、私が行ったので記憶の欠損も五感の不具合も何もないと思いますよ。ですが一応ご確認を。どこか違和感のあるところはありますか?」 手を軽く握りしめ、また開く。首をぐるりと回し、肩をゆっくりと回す。 「ああ。異常はない。ただ」 「ええ。そのことで」 俺が今横になっていたのは昨日から俺とレナの部屋になった四三五のベットの上だ。そこから見えるソファの上にレナが座り、サンクが座っているのが見える。問題はそこだ。レナは嗚咽を漏らし、ぼろぼろと涙を流している。 「なんで泣いているんだ?怪我でもしたのか?」 「いえ、その、ゼロさんが吹っ飛ばされちゃったのを見て、どうも怖かったというか…。まあ確かに衝撃的な映像で……」 ………。つまりなんだ…。 「つまりお前が死んじまったのかと思ったんだよゼロ。レナは俺たちのことは知らないだろ?」 「…そういうことか」 そうだ。レナは俺のこと、俺たちのことを知らない。人は死を恐怖する、らしい。それがたとえ自分のものであっても、昨日会ったばかりの他人のものであっても。 「レナ」 名前を呼ぶ。ゆっくりとベットから立ち上がり、ソファに座るレナのもとへ。アンは少し寂しそうな顔で、サンクは仕方ないなとでも言いそうな顔で俺を見ている。レナのもとへ行き膝をつき、膝の上で固く握りしめている手をやさしく、できるだけ優しく包む。 「レナ。説明不足で済まなかった。きっと今から話す説明も俺はうまくすることができないと思う。それでも聞いてくれるか?」 今日の穏やかな時間を過ごさせてくれたお礼と、それを壊してしまった謝罪を。 「…うん」 レナはゆっくりとうなずいた。 「さあ、レナちゃんも落ち着いて、ゼロさんも生き返ったことですし説明タイムといきましょうか。本当は昨日のうちにすましておかなければいけないことだったのですけどね。あまり隠してもいいことはありませんので!さてレナちゃん!昨日と同じ質問ですみません。 私に、いえ、私たちに聞きたいことはありますか?」 アンが隣に座るレナに質問をする。俺とサンクは、サンクの部屋から持ってきた椅子に座り、じっとレナを見つめる。 「…三人、は、人間じゃないの……?」 レナが口にした質問は至極まっとうなものだったと思う。それが、今から三十年ほど昔だったなら。 「ええ、まずはそこからですね。ゼロさん、私がお答えしましょうか?」 アンがちらりとこちらを見る。 「いや、俺が話す。レナ、俺たちは確かに人間じゃない。お前とは違う。俺たちは機械、AIだ。正確には、戦闘特化型人工知能、そう呼ばれるものだ」  今から約三十年前、世界中の資源がついに途絶えた。エネルギー源、食料、その何もかもが。世界の人口は約五割にまで減少し、各国政府は様々な手を尽くしていたが、為すすべなく、それが必然であるかのようなあっけないものだった。そこで、とある国の政府は至極当たり前な解決策をとる。つまり他国からの強奪。かねてより実装準備を行っていた、無人戦闘機による、簡単に言えば戦争だ。無人戦闘機、その名の通り、人は乗せない。そんなことをすればただでさえ少ない人口をより減らすことになる。乗るのは、俺たち戦闘特化型人工知能だ。数万回にも及ぶ戦闘シミゼロレーションをコンピゼロター内で行い、戦争に勝利するために作られた機械。寿命はない。病はない。怪我という概念はない。壊れれば直せばいい。そして、命という概念すらない。そうして作られたのが俺たちだ。しかし、情報漏洩は戦争の常。俺たちを作ったある国は情報を盗まれ、今ではほぼすべての国が戦闘特化型人工知能による戦争を行っている。そして俺たちが生まれてから三十年、まだこの戦争が終わる気配はない。  普段とは比べ物にならないほど長い時間話したにもかかわらず、まるでそれが当たり前かのようにすらすらと言葉を紡ぐことができた。 「レナ、これが俺たちだ。隠すつもりはなかったのだが、あえて言う必要はないと判断した。お前を驚かせてしまってすまなかった」 そう、これは俺たちのミスだ。俺たちは三人ともレナを見た時点で人間だと気づいていた。その時点で何かしらの説明を与えるべきだったのだ。レナはまだ子供なのだから。 「三人とも、死んだりしないの……?」 レナが消え入りそうな声でつぶやく。死ぬ。死ぬというのは……。 「レナちゃん。私たちに命というものはありません。壊れても直ります。さっきのゼロさんのように、足が飛び、腕が飛んでも血が出ることなく、直せば直ります。それが当たり前なのです。だから心配しなくて大丈夫ですよ!」 アンが笑う。そうその通りだ。俺たちは機械なのだから。 「で、でもそれはおかしいよ!」 レナが立ち上がり今までとは違った力強い声を出す。 「だって死なないって……。でも壊れるって、死ぬってことじゃないの……?ゼロさんたちにも命は…!」 「ないですよレナちゃん。私たちには命なんてものはないのです。あえて言うなら、体に埋め込まれている識別チップでしょうか?これがなくなってしまうと修理もできなくなってしまうのですよね。」 アンが冷静に答える。その通りだ。 「だ、だって、三人は怖くないの?戦争ってみんなで殺し合いをするんでしょう?死んじゃうかもしれないんだよ?それ、それなのに。」 「何言ってんだよレナ。そんなことは俺もゼロもアンもわかっているさ。それでもこれが俺たちの仕事だからな」 「で、でも」 なおもレナは食い下がる。 「三人とも怖く、ないの……?」 三人で顔を見合わせる。答えは一つだ。 「ないですね。」 「ないな。」 「ない。」 まるでそれが当たり前のように、それ以外の回答などありえない、考えることなどないかのように。だが、俺たちが答えたその時のレナの顔だけは、頭の中に残る。 「レナちゃん…?」 アンがレナをのぞき込む。しかしレナはうつむいたまま動こうとしない。俺たちからは、どんな顔をしているのかもわからない。三人で顔を見合わせる。こういう時どうすればいいのか、俺にはまだわからない。 「さ、何か飲み物でも買って来よう。ゼロ、一緒に来てくれるか?」 「ああ」 立ち上がる。 「ま、待って!」 その瞬間レナが声を上げた。 「ゼロ、さんはここにいて……」 レナは俺の服の袖をつかみ引き留める。 「あ、では私がサンクと一緒に行きますよ。さあさあサンク、行きましょう」 「あ、ああ」 アンがサンクの背中を押して部屋から出る。部屋には俺とレナだけが残された。レナは袖をつかんだまま下を向いている。 「レナ?」 「ゼロ、さんは……」 「レナ、ゼロでいい。急かしたりしないからゆっくり話せばいい」 膝をつき目線を合わせる。そういえば、どこかで、これと同じことをした覚えがある。あれは……。 「ゼロ……。ゼロさんは、痛くないの?」 「ああ。痛くない」 どこかで聞いたことがある質問。 「で、でも怪我をしたら痛いよ」 これも、懐かしい質問。 「俺たちに痛覚はないし、一定の衝撃を受ければ修復を行うために意識が自動的に切れるだけだ」 会話がそれ以上進むことはなかった。   「寝ちゃいましたね」 アンが小声で話す。 「そうだな」 あれから、アンとサンクが飲み物を持ってきてくれたのだが、十分もたたないうちにレナは寝てしまった。 「泣き疲れたのでしょうね」 アンが隣で眠るレナの頭を撫でる。 「とりあえずベッドに運ぼう」 サンクがアンを抱きかかえベッドに向かう。 「ゼロさん、レナちゃんと何を話したのですか?レナちゃんは……」 「いや、似たような質問をされただけだ。痛くないのか、と」 「そう、ですか」 アンが訝しげな表情をする。 「じゃあ結局、レナが何なのかはまだわからないってことだな」 サンクが椅子に座りながら呟く。 「ええ。彼女の目的も狙いもわかりません」 「正確には本部長の目的だがな」 「どうしますかゼロさん。作戦の決行は明日の夜です。すでに全機に通達済み。不安材料はありません。しかし……」 アンがちらりと俺を見る。その顔にはありありと不安が浮かんでいる。 「作戦に支障はない。たとえ正体が何であれ、ただの人間の子供にできる事なんて限られている」 断言。迷いは見せてはいけない。もう二度と間違えたりしない。アンやサンクだけではない。全機がそんな俺、『ゼロ』を望んでいる。 「ゼロならそういうと思ったよ。じゃあ俺たちは部屋に戻る。また明日、な」 「ああ」 「おやすみなさいゼロ」 そう別れを告げて、アンとサンクは部屋から出て行った。残されたのはベットで横になるレナと俺だけ。物音を立てないようにベットに近づき腰を掛ける。レナが目を覚ます様子はない。よほど疲れたのか、はたまたショックだったのか。 「ごめんな」 口をついて出た謝罪に愕然とした。口に手をやり、よろよろとベットから離れる。 (俺は、今何を言った……?) 足元がぐらぐらと揺れている感覚。 (これは、俺が望んだ道だ…) ゆっくりと後ずさる。 (たかが一日と少し過ごしただけの子供に……。) そのままソファに倒れこみ体を丸める。 「俺は……」 言葉が出てこない。何か、黒くて大きなものが胸にのり、俺のすべてを奪っていくような感覚。 (大丈夫。大丈夫だ。) ずっと昔に祈ることをやめた思いを口にする。 「大丈夫だ。」 瞼を閉じつかの間の眠りに落ちる。いつもは聞こえないはずの、自らの機械音が聞こえた気がした。 「ゼロ、ゼロさん。おはよう」 目を開けると目の前にレナがいた。心なしか目が赤いのは昨日の名残だろう。 「ああ。おはよう。よく眠れたか。」 「うん」 会話は普通。 「えっと、アンおねえちゃんとサンクさんは?」 時刻は午前五時。確かに昨日アンたちが来たのはこの時間だが……。 「そう昨日みたいに早く来られてもたまったもんじゃない」 そういってゼロっくり起き上がる。 「まあどうせ八時ごろになれば来るだろう。あいつらだって、今日も非番のはずだ。それまでもうひと眠りすれ、」 バン!! 「おっはようございますゼロさん、レナちゃん!さあいい朝ですね今日は何をしましょうか!」 前言撤回。今日も早い。 「やや!今日は二人とも起きているじゃありませんか!いいことですいいことです!」 アンはさも自分の部屋かのように入ってくる。が、昨日とは違い、サンクの姿はない。 「アンおねえちゃん、おはよう。えっと、サンクさんは?」 レナが口を開く。昨日に比べれはだいぶ緊張も和らいだようだ。 「はい、おはようございます!サンクですか?今日は少しお仕事があるようですね。あと、サンクさん、何て呼ばなくていいのですよ。サンクと呼んであげてください。きっとそのほうが喜びます!」 アンが笑う。つられてレナも笑った。 「ところでレナちゃん、なんだかお顔が赤くないですか?」 アンがレナの額に手を当てる。確かによく見るとレナの頬が少し赤らんでいるように見える。 「これは、少し熱があるかもしれません……。昨日の疲れが出たのでしょうか…。どうしましょうゼロさん」 アンが焦るようにこちらを見る。 「とりあえず、本部長に連絡を取ろう。話はそれからだ」 「わかりました」 アンはそのまま本部長のもとへ走っていった。 「レナ、お前はベットに入れ。何か飲むもの、確か昨日二人が買ってきたものがまだ残っていたな」 レナをベットに寝かせ、飲み物を取りに行く。熱があるという自覚が出てきたのか、レナはぐったりとしているように見えた。俺たちに病という概念はないに等しい。治療法すらわからない。安静にするべきということはわかるのだが……。 結局、本部長からの連絡があったのは午後三時を回ったころだった。 「すみませんゼロさん。本部長、ずっと会議をしていて忙しいみたいで……。今から連れて来てほしいとのことです。私も同行します」 「ああ。わかった」 この約十二時間、レナはほとんど眠ったままだった。たまに目を離しては飲み物を飲みまた眠りにつく、その繰り返し。それはまるで俺たちの自動修復機能中と似ていた。  レナを抱えて、本部長の部屋へ急ぐ。背に腹は代えられない。たとえあの人のことが怖くとも、今はそんなことを考えている場合ではない。そう自分に言い聞かせながら、足を速める。深紅に染められた扉に立ち浅く息を吐く。 コンコン 「失礼いたします。ゼロ、並びにアン、レナでございます。」 「入りたまえ」 中から声が聞こえる。その声はいつもよりも少し楽しげに聞こえる。なにか嫌な予感が、じわりじわりと胸に波紋を広げていく。 「失礼いたします」 ゼロがドアを押し開く。中の様子は前と変わらない。 「本部長、お忙しい中、申し訳ありません」 アンが最敬礼をしながら最敬礼をする。 「いやいや、かまわないよ。レナが熱を出したそうだね。新しい環境で少し疲れてしまったのだろう。君たちと違い、人間の子供はよく熱を出す。ベットで寝かせてやるといい。ああ、水分補給を忘れずにね。きっと明日にはよくなっているさ」 さらさらと、台本でも読むかのように本部長が答える。違和感、のようなものがある。あれは確か、五年前のことだった。前線を一部隊五人構成の計三部隊飛んでいたとき、背後からの奇襲を受けた。その奇襲を受ける約三秒前、首筋に冷たい何かを押し当てられているような、呼吸器官を誰かに絞められているような感覚が走った。ペダルを踏みこみ、エンジンを吹かし、ハンドルを上空に切った。逃げられたのは俺だけ。瞬間、その場所を敵の攻撃が襲った。その時の感覚が今ここにある。 「アン、レナをベットに寝かせてきてもらえるかな?ああ、ゼロは残ってもらえるかな。少し話があるんだ」 「はい。かしこまりました」 同時に頭を下げ、アンが俺の背中からレナを取り上げる。背中の熱がなくなり、同時に少し息をつく。 「失礼いたしました」 アンがレナを抱え上げ部屋から出ていく。扉が完全に閉まる音。本部長が机の引き出しに手を伸ばした。その行動、たったそれだけの行動に心臓を握られていると錯覚する。本部長は引き出しから、アレ、を取り出す。 ダメダ……。 「これを覚えているかな、ゼロ」 「は、い」 ソレハイケナイモノダ……。 「君にこれを見せるのは何年ぶりになるかな。懐かしいね。二十年ぐらい前になるのかな」 「は、い…」 自分の声が遠くから聞こえる。 マックラナヘヤ。ナカマガタクサンイタ。ミンナキカイノココロヲモッテイタ。オレイガイハ……。 「これのおかげで、君は優秀な機械になれたわけだ。素晴らしいことだよ、まったく」 「ソウ、デスネ」  記憶がフラッシゼロバックする。暗い場所だった。今思えば、俺たちの育成施設だったのだろう。皆そこにいた。機械の心を持つ俺の仲間。ちょうど十人いた。その中で、俺だけが異質だった。ある時、ネズミを殺す課題が出た。各自配られたネズミを、指示通りに手にしたナイフで殺すものだ。 「ねずみ、痛いよ…」 小さな俺が呟く。 「怪我、したら痛いよ…」 皆淡々と殺していく。指示の通りに、一切の手順を間違えることなく、的確に。俺は、できなかった。ネズミの目を見つめて、ナイフを持つ手の指一本、動かすことができなかった。周りの人間の大人たちは俺を見て落胆の色を滲ませる。その中で一人だけ、たった一人だけ、目の前のこの人はにやりと笑った。   それから少し、正確には十日経った時、俺だけが呼ばれた。皆と理由を話し合ったが終ぞ答えは出ることはなく、連れて行かれるままにみんなと別れた。皆は俺を笑顔で送り出した。  少し歩いた先、いつもとは違うきれいな扉の前で、大人の人間は立ち止まると、コンコンと扉をたたいた。そしてそのまま扉を押し開く。 「やあ、よく来たね」 その人は今と変わらない笑顔で俺を見ていた。 ネズミの課題のときに、俺の目の前に来てにやりと笑った人だ。 「君には、ある実験に協力してもらいたくて来てもらったんだ」 その人はそれだけ伝えると、部屋の電気を消した。するとその人が立っていた場所に光が立ち上り、ざらざらと定まらない映像を流す。目を凝らしてよく見ると、そこに映っていたのは、俺が先ほど出てきた部屋だ。皆がワイワイと話をしているのが見える。 「これは君たちの部屋で間違いないかな?」 首を縦に振る。間違いない。ついさっき皆が送り出してくれた部屋。 「さて、ここに一つのスイッチがある」 その人は、机の前に戻ると引き出しから一つのスイッチを取り出した。目立った装飾はなく四角い台に黒い丸がついていて、そこが押せるようになっているようだ。 「……と、……だよ!」 「…ったら、いいな!」 映像から声が聞こえる。それはあの部屋にいるみんなの声だ。だんだん音も映像も鮮明になっていく。 「だから!あいつが連れていかれたんだって!」 「でもなんでだよ」 「それをさっきからそれを話しているんでしょう?」 「俺が思うに、きっと昇進だよ」 「昇進ってなんすか?」 「よーするに、偉くなるんだよ」 「ええ?でもネズミ殺せなかったんだよあの子?」 「わかってないなー。俺たちとは違うってことが何よりも大切なんだよ」 「そんなもん?」 「そんなもんなの!」 「じゃあお祝いしないといけませんよ!」 …………。 そんな会話が聞こえる。 「みんないい子じゃないか。君のことをお祝いしてくれるみたいだよ」 こくりとうなずく。 「それでは本題に入ろう。今からこのスイッチを押す。君にはそれによって起こる変化を見ていてほしい」 なんだそんなこと……。 「壊れないでくれたまえ」 その人はにやりと笑うと、スイッチを押した。 一瞬だった。バタンバタン……。そんな音が聞こえた。映る映像に変化が起こる。さっきまで話していたみんなが一人、また一人と倒れていく。なぜかわからない。 「おっと話していなかったね。このスイッチは、君たち人工知能の生命活動を強制的に停止するものなんだよ。あ、もちろん君は除外しているし、これを押して機能が停止するのは君がいたあの部屋の者たちだけだよ。そこは安心するといい」 あんしん?安心できることなんか何もない。皆の、生命活動が、停止?それはつまり、 「死ぬ、ってことと……」 思わず口をつく。 「死ぬ?ああ、やはり君はいいね。とてもいいよ……」 分からない。頭が混乱する。つまり、つまり今から何をどうすればいい。 「な、なに!みんななんで倒れるの!」 「俺もわかんねえよ!」 「くそ、どういうことだよ!」 皆の声が聞こえる。わからない……。思わず視線が足元を向く。 「ゼロ!」 誰かに名前を呼ばれた気がした。顔を上げると、映像の中で立っているのは一人だけだった。お祝いをしようといってくれた子。ゆっくりと伸ばされた手は、こちらに助けを求めているようだった。 「いか、ないと……」 皆のところに行かないと。いかないと、いかないといかないといかないといかないと……。 映像に背を向け入ってきた扉へ急ぐ。目の前の扉は開かれていた。どこをどう歩いたかもわからなかった廊下だが、人工知能の脳は優秀に来た道を暗記していた。長い廊下を右へ左へ曲がる。そうしている間も、脳はさっきの映像を記憶し、心はさっきの映像を否定していた。長い廊下を抜けた先、あの部屋の前にたどり着く。作られた心臓は早鐘を打ち、作られた肺は酸素を求めてあえいでいた。 「皆!」 叫びながらドアを開ける。皆変わらずいるはずだ。そこに確かにいて、話していたお祝いとやらをしてくれる。そうだ、そうに決まって…… みんな死んだ そのあと真っ白な部屋に連れていかれた 後はよく覚えていない ひたすら観察 きちんとしないとみんな殺される みんなは何処 あの人たちは、あの人は俺を、俺たちを殺す力を持っている さからったらころされる おれががんばらないと おれがしっかりしないと おれがやらないと おれが、オレが、オレガ… 俺が皆を。 「さて、ゼロ。今これを君に見せたのには理由がある。何かわかるかな」 何を答えればいいかわからない。とにかくあれを押させてはいけない。俺がどうにかしないと。 「本部、長…。それ、そのスイッチは、…」 「ふむ。理由は分からないか。まあ仕方あるまい。ゼロ、私との約束を覚えているね?」 「は、はい。覚えています。だからそれを、」 「だが君は、約束を破ってしまったね」 ドォンー!! 爆発音が響いた。作戦開始だ。 今から五年前。俺はサンクと出会った。当時の俺は一人だった。誰とも必要以上のことは話さない。基地に帰っても食事もとらずただ眠りにつくだけ。もうこれ以上他者との関係を作ることを恐れていた。サンクは不思議な奴だった。よく笑いよく食べる。あとで聞いた話だが、昔訪れた人間の街で、人間に憧れを抱いたのだと話していた。人間は、笑い、泣き、怒り、喜び、食べ、話し、愛し、愛されて過ごしているのだと。俺もいつかそうなりたい、と。だがその夢が叶わないことを俺たちは知っている。俺たちは所詮ただの機械で、命じられた行動しかできない。それはサンクも同じだった。 「でもゼロ、お前は違うだろ?」 時間が止まった気がした。違う、俺は機械だ。皆と同じだ。確かそんな返答をしたと思う。気が動転していたせいかもうよく覚えていない。 「いーや、ゼロ。お前は違う。お前、死ぬのが怖いんだろ?」 怖くなんかない。俺は命令に従うだけだ。 「お前は俺たちとは違う。特別な存在だ」 そのあと俺は何と答えただろうか。もうよく覚えていない。結果だけ言うならば、俺はサンクに過去をすべて話した。 優しい仲間がいたこと。 皆死んでしまったこと。 俺が異常だったからそんなことになってしまったこと。 もう二度と大切な人を失いたくないこと。 だから一人でいようと決めたこと。 「だから俺、頑張らないといけないんだ」 しゃがみこんで子供みたいに泣きわめく俺を見てサンクは笑った。 「大丈夫。大丈夫だゼロ。お前は異常なんかじゃない。俺もお前の昔の仲間だって、言ったじゃないか。お前は特別なんだ。俺たちの希望なんだ」 ゼロはゆっくりと顔を上げる。笑っているように見えるサンクの顔は涙で滲んでよく見えない。 「俺、お前の戦闘記録見たことがあるんだ。覚えているか?背後からの敵の完全な奇襲を、お前は間一髪で避けた。しかもお前は、当時率いていた部隊に対して、逃げろって叫んでいた。それを見た時俺は震えたよ。俺たちは別に撃たれたって、仲間が死んだって、自分が死んだってどうでもいいと思っている。痛みもない、死の恐怖もない、ただ命令に従うだけ。そんな中でお前は、あの時、痛みを、仲間の死を、自分の死を、そのすべてを拒否して生きようとしたんだぜ?それのどこが異常なんだ!」 同じようにしゃがんだサンクはくしゃりと笑った。その目尻にはうっすらと涙が見える。 「なあ、俺たちで変えてやろうぜ?皆の当たり前を壊してやろう。お前が俺にやってくれたみたいに。俺はもう殺されるのも殺すのも、ましてや仲間が死ぬのも見たくないんだ。お前だってそうだろ?」 「わからない…。おれにそんなこと…」 「できるよお前なら。大丈夫。お前が自分を信じられなくても、俺はお前を信じる。だから、俺と一緒に皆を救おうぜ?」 それから俺たちは走り回った。仲間を集めるのはそう難しいことではない。皆命令すればそれに従う。だが俺たちがしたいことはそれではない。皆が今に疑問を持ち変えたいと思う、変えようと行動する。そうしなければ結局は変わらない。上層部にばれないように日夜声をかけ続け、遊びと称し集まっては作戦を練った。 「その作戦決行日が今日ってわけだ。くそ野郎!」 爆発音とともに床を思いっきり蹴り上げ、目の前の人間に突進する。意表を突かれたせいか、目の前の人間は思いっきり倒れこむ。男をうつぶせにし、馬乗りになり動きを封じる。今頃サンクやアンが全員を引き連れ基地からの脱出をしているだろう。 「殺しはしない。お前たち上層部は拘束し本国の城門近くに置いていく。以後お前たちと俺たちが関わることはないだろう。おとなしく拘束されろ。ああ、あとスイッチを押しても無駄だ。俺たちの頭をなめすぎたな。すでにアンが俺たちの体内にある機械を解除している。あの時お前が俺にしてくれたみたいにな。」 どうあがいても俺たちの力にかなうはずはない。幼いころに植え付けられた恐怖が消えたとは言えない。しかしそれでも俺を頼り仲間と慕ってくれる皆のためにも、その恐怖に立ち向かわなくてはならない。 「もうじきここにサンクがやってくる。無駄な抵抗はしないでもらおう」 ―俺は、俺たちは、もう誰も殺したくないのだから― 馬乗りになった男は、あれほどの恐怖を抱いた人間にも関わらず、ひどく弱弱しく見えた。 (ああ、こんなものか…) 基地で働いた仲間たちも、死んでいったかつての仲間たちも、戦闘機からみた敵軍の兵士たちも、そのすべてがこの男に比べれば明確に「生きていた」といえるだろう。表情は見えないが、きっとまだ逃れるすべを探しているはず…。 「ふふふ、ふふふふふ…」 あの時と同じ、あの恐怖が、不気味な声が、聞こえた気がした。男か叫ぶ。 「ふはははは、あはははははは。何を言い出すかと思えば、無駄な抵抗はするな?するはずがないだろう。お前のような出来損ないに、この私が、この中央前線作戦本部基地本部長であるこの私が!お前のような失敗作に!」 ドカンッ―パンッ! 背後からの破壊音と乾いた発砲音。右肩を撃たれたと気づいたときにはもう遅く、身体がゆっくりと右へ傾き、拘束が緩まる。 「こいつを壊せぇ!」 拘束から逃れた男が喚き散らす。 銃器特有の金属音とともに、独特の緊張感が漂い、俺は自身の背後を振り向く。どうせこの男の仲間だ。俺たちに敵うわけが、 時間が止まった気がした。 「アン…」 まず銀の髪が見えた。はらはらと舞い散る雪よりも透き通る銀。その下にはいつもの赤い目が… 「……ゼロさん…」 聞き取れたその言葉は重く俺の心にのしかかる。銃のセーフティはすでに解除されている。使い慣れ見慣れたそのハンドガンの最大装填数は十七発。つまり残りは最大でも十六発…。 「アン!どういうことだ!作戦はどうした!」 アンに向かって叫ぶ。しかしアンは返事をしない。こんなことは初めてだ。その目にいつものような光はなく、まるで戦闘中のような空気が漂う。 「アン!返事をしろ!アン!」 「…ゼロさん。本部長の命令です。あなたはここで廃棄処分となります。どうか、無駄な抵抗はなさいませんように。」 アンが淡々と告げる。その様子はまさしく機械、そのものだ。銃を構えたままのアンがこちらへじりじりと近づいてくる。こちらは丸腰。いくらアンが非戦闘員の医療班とはいえ、機械の体にも限界はある。重要な器官を撃たれてしまえば、すぐに動けなくなるだろう。しかもアンは医療班。そういった器官を見極めるのはアンの十八番だ。ならばここは… パンパンッ!  乾いた音が二つ。足元に弾丸が飛ぶ。思わず、一歩二歩と後ずさる。 「ゼロさんならそう考えると思っていました。本部長を人質にしようといていましたね」 じりじりと距離を詰めるアン。残る弾は最大十四発。この距離で避けられるようなものではない。 「私と、戦いますか?」 アンが口を開く。そう。残された道はここから逃げるか、アンを壊すか。逃げ道は二つ。俺の背後の窓か、アンの背後の扉か。窓から逃げることは難しいだろう。背中を向けた瞬間に撃たれるのがオチだ。なら残す道は、 「戦うしかないんだろうな…。」 アンの目が鋭く光る。きっと俺も同じだ。 「アン。最後に聞く。理由を話す気はないか」 「ありません」 迷いのない答え。言葉を交わす間にも互いの距離は少しづつ縮まっていき、アンは這いつくばったままの男の横に立った。 「本部長。私の後ろへ。まだ部屋から出てはいけません。彼らはまだ基地内にいます」 「ああ、わかっているとも。さあ、早くあいつを壊せ」 その言葉を境に、再びアンの殺気が俺に向けられる。俺はじりじりと斜め後ろに移動しながら、机に近づく。 一瞬だけ、目があった気がした。 アンが引き金を引く。それより早く、俺は身をかがめ、机の下に逃げ込む。発砲音は三発。残り最大十一発。アンの軽く軽快な足音が聞こえる。タンっと机の上に軽やかに上るアンの気配。俺は机の下から左手を伸ばし、木が割れる音とともにアンの足をつかむ。流石にアンも驚いたのか、一瞬殺気が揺れる。アンの足をつかんだまま、全力で机を壁にたたきつける。ばらばらと机が壊れる音が聞こえる。煙が上がる中、アンは静かに立ち上がる。が、俺がつかんだ足は不自然な方向に曲がり、片足で立っている状態だ。 「アン…」 思わず手を伸ばす。 パンッ 発砲音が響き、左足が力を失う。 「これぐらいで、私を倒せると?いくら何でも舐め過ぎですよ。私だってあなたと同じ機械です。これ、ぐらいで、」 アンはそう言いながらも俺と同じように体を傾かせる。いくら機械でも足が動かなければ立てないし、銃の狙いも定まらない。 「アン」 パンッ 「来ないでください!」 叫ぶアンの手が震える。放たれた十発目の弾丸は、俺の頬をかすめ、背後の壁にめり込む。 パンッ 九発目の弾丸は、俺肩をかすめ、また背後の壁にめり込む。残り半分を切ったであろう銃を構えて、なおもアンは叫ぶ。 「なんで!なんで倒れてくれないの!」 叫ぶアンは小さな子供の様で。 「はやく…早く!」 その姿は、どこか懐かしいものに思えた。 「アン…」 撃たれた左足を引きずりながら、アンのもとへ近づく。 「そこを動くなぁ!」 背後から、男の声が聞こえた。反射的に振り向いたそこには、ぐったりとしているレナを無理やり立たせ、銃を突きつける高慢な人間が立っていた。目を離したすきにわざわざレナをここまで連れてきたのか…。 「この出来損ないの機械どもめ…。まあいい。アン、早くそれを撃ち殺せ。ふふ、ははははははは、無駄な抵抗はしないでもらおうか!」 汚い笑い声があたりを包む。視線を戻せば、機械の目に戻ったアンがゆっくりと銃を構えていた。 「アン…」 「しっかり当てろよ機械。外せばこいつにあたるからなぁ」 ぐったりとしたレナをゆらゆらと揺らしながら笑う。 「さあ!早く撃て!」 パンッ 乾いた音が響く。その音は大気を揺らし、まっすぐ、まっすぐに放たれた。 「ぐっ…」 低いうめき声が聞こえた。 「この、機械風情があ!」 喚き声とともに背後の男が崩れ落ちる。同時にレナも倒れそうになるが、 「よっと」 滑り込んだ俺が床にぶつかる寸前でレナを抱きかかえる。相変わらず熱い熱を感じながら、ゆっくりアンを振り返る。 「アン、ありがとう」 口をついて出た言葉に自分でも驚き、アンも目を見開く。その目からぼろぼろと涙が零れ落ちる。 「泣かないでくれよ。俺もどうしたらいいかわか パンッ 何度も聞いた乾いた音が耳を打つ。肩を撃たれたのだと理解しながら振り向けば、崩れ落ちたはずの男が銃を構え、笑っていた。にやにやと笑ったまま再度引き金を引こうとする男。機械の体の俺は、例え肩を撃たれたとしても、動くことはできる。それは理解していた。だが俺が動けば、アンやレナに弾が当たる可能性がある。それだけは、この機械の心でも耐えがたい。男の指に力がこもる。 パンッ やって来るはずだった衝撃が来ることはなかった。男の手から血が噴き出る。機械の体では決して見ることのない赤い血。 「こんなことをして許されると思っているのか機械風情が!」 男がみっともなく喚く。撃たれていないほうの手を懐に差し込み、アレを取り出す。恐怖の象徴だったそれは、今では意味もないただの箱。 「いい加減、死んでください」 静かな、まるで闇夜のように静かな声が響く。普段聞いていたあの明るい声とは似ても似つかない声。放たれた十二発目の弾丸は、男の脳天を撃ち抜き、俺の心に住み着いていた恐怖はここで幕を下ろした。 「アン、お前の目的は何だ」 型と足を撃ち抜かれ、痛みはないがレナを抱えたまま立ち上がることが難しい俺は、片膝をつきアンに問いかける。対するアンは、、ピクリとも動かない亡骸の横に落ちた、無意味な箱を拾い上げた。 「目的…ですか。そんなのゼロさんと同じですよ」 「俺と…?」 「ええ。同じです。ゼロさんと同じ。皆を助けたい」 「なら、 「その皆に、自分が入っていないことも同じ」 身体が、動かなかった。 「私、皆を助けたかったのです。もう誰も失いたくなかったのです」 「アン、お前は一体…」 アンがにこりと無邪気に笑う。 「じゃあお祝いしないといけませんよ!」 懐かしい声が聞こえた。 忘れるはずがなかった。 忘れることなどできなかった。 「お、まえは…」 「隠していてごめんなさい。私は、あなたと同じ。あの部屋で、あの場所で、あの悲劇を、見ていました」  忘れもしません。私たち、本当にうれしくて舞い上がっていたのです。あの子が選ばれた!今日はお祝いしようって。今日のごはん何かな、あの子にたくさん分けてあげようって。でもそんなことできなかった。ばたばたって、人形みたいに皆崩れ落ちていくんです。さっきまで笑っていたあの子が、飛び跳ねていたあの子が、手をつないでいたあの子が、次は私だって、怖かった。本当に怖かった。でも同時に早く私も倒れたかった。そしたらもう見なくて済むって。でもやっぱり、神さまっていうものは意地悪で、私はあそこに倒れている男のせいで生き延びてしまいました。それからは本当に、地獄のような日々でした。ゼロさんは観察対象だったのかもしれません。でも私は違った。私は実験対象だった。たくさんの人間を殺しました。たくさんの機械を、仲間たちを殺しました。ナイフで心臓を指し、銃で脳を打ち抜き、火で焼き殺し、水で溺れさせ…。本当にたくさん殺しました。だってそうしないといけないと思ったからです。おかしいですよね、殺しておきながらもう誰も殺したくないって思うなんて。 でも、ここにきて、この場所に来て驚きました。だってあの子がいたのです。少し不器用に笑う顔も、人間のような感情もすべてそのままに。 「ゼロさん。私がどれほどうれしかったか…」 目から涙があふれだす。背後では仲間たちが行っているであろう破壊の音がもうすぐ近くまで来ている。残された時間はそう多くない。冷静な脳はそれを理解しているものの、身体はなぜか動くことができない。 「アン、俺は、 「だからゼロさん。私はここで死にます」 冷静な声だった。 「皆さんの体の中にある機械は作戦通りもう取り除いています。あ、レナちゃんに埋め込まれていたものも、もちろん取り除きました。レナちゃんが来た夜に話し合いましたよね。この子の中に埋め込まれているもの。人間なのに、私たちと同じものが埋め込まれているって。それは昨日の夜に取り除いて、今の熱はたぶんそれによるものだと思います。だから安心して連れて行ってあげてください」 「待て」 「私はここを破壊してから行きます。すでに私たちの反逆は本国に伝わっていると思います」 「待てよアン」 「時間稼ぎに、痕跡は消して、そのあとに私もこのスイッチを押して死にます」 「待てと言っている!」 「だから安心して行ってください」 「アン!」 気づけば俺はアンに詰め寄り、大きな窓を背にしたアンは、俺を見上げるような形になっていた。 「なんで、お前が死ななきゃならないんだ」 絞りだした声は掠れていて、自分のものではないもののようだった。 「そんなの言ったじゃないですか。私大勢の人も機械も殺しているんです」 「俺だって同じだ!俺だって大勢殺した!数え切れない…」 「ゼロさん。それは殺さなければ殺される状況だったからです。仲間も自分自身も。でも私は違う。私は訳も分からず殺していたんです。ただ命令の通りに。自分がこれ以上辛くならないように。これの何が同じなのですか?」 言葉が出なかった。アンの目はまっすぐ俺を見ている。その目には決意以外のものは浮かんでおらず、手にはあの四角い箱がしっかりと握りこまれている。 「本当は、あなた意識を落としてからサンクに引き渡すつもりでした。そうすれば静かに死ねる、誰にも迷惑をかけない、そう思っていました。でもあの男が最後の命令を下しました。私にゼロさんを殺せって。無線が飛んできたときは息が止まるかと思った。でも、できなかった。初めて、命令に逆らいました」 アンがにこりと笑う。その笑顔に俺は、いつかのパンケーキを食べた日を思い出す。 「ではさよならですゼロさん。今日は、お祝いですね」 アンの指に力が入る。ゆっくりとボタンが押し込まれていく。俺はただ腕を伸ばすことしかできない。 「アン!」 自分から出たとは思えないほど大きな声。それにかかるように、小さな何かが視界の端に映った。 「助けてあげる!」 そう叫んだ小さな小さな少女は、アンに抱きつき、そのまま窓を割って落下していく。 「レナ!アン!」 窓から身を乗り出し下を見る。落下していく二人。アンはスイッチを押したのか?この高さから落ちればレナもアンも無事では済まない…!そんなまとまらない思考の中で鋭いエンジン音が鳴り響き、頬がかすめるほどの近くで見慣れた戦闘機が二人を追って落ちるように飛んでいく。誰かが身を乗り出して二人をつかみ戦闘機の中へ入れていくのが見えた。ずるずると膝から崩れ落ちた俺は、初めて安堵という感情を知った。 「おーい。ゼ―ロー!」 エンジン音とともに聞こえるその声はひどく懐かしく、窓から見えた親友の笑顔に笑みを返す。 「サンク」 「基地内はもう抑えたぜ!レナも気を失ってはいるが大丈夫だ!アンからスイッチも奪ったし、こっち来い!逃げるぞ!」 太陽のような笑顔の親友はこちらへ手を伸ばす。いつかの時のように手を握り返せば、しっかりと握りこまれ、そのまま戦闘機の中へ乗り込む。 「ゼロさん…」 アンが口を開く。その手にはもうあの箱は握られておらず、たったそれだけのことにひどく安心を覚える。 「アン。話はあとにしよう。俺も、お前も、疲れただろう…」 そう言いながら、俺は静かに目をつぶった。 「おい、ゼロ。いい加減起きろよ」 そんな声が聞こえ、ゆっくり目を開ける。目の前には透き通るような青い空。そしてサンク、アン、レナが俺の顔を覗き込んでいる。 「ここは?」 「国外です。中立地帯、と言いますか。深い森を超えなくてはたどり着けない場所なので、めったに人は来ません」 「そうか…」 ゆっくり体を起こす。いつの間にか撃たれた肩は直されていて、違和感もない。 「ゼロさん」 「ああ、アン。俺も話したいことが、 ゴンッ!! 「いったあ!」 頭に衝撃が走る。どうやらアンも同じらしく、頭を抱えてうずくまっている。顔を上げればサンクがこぶしを握っていた。 「この!馬鹿野郎ども!」 ぼろぼろと涙を流すサンクが叫ぶ。 「な!なんでサンクに殴られなきゃならないんですか!それに私は野郎じゃありません!」 「うるせえ馬鹿は馬鹿だ、この馬鹿!」 「な!そんなに馬鹿馬鹿言うほうが馬鹿なんですよ、馬鹿サンク!」 「なんだとてめえ!」 「サンクこそなんですか!サンクに私の何がわかるんですか!ゼロさんならまだしも、私はみんなを助けて死ぬんです!でないと、私のせいで死んだ仲間たち、私が殺した仲間たちにどう顔向けできるっているんですか!」 「そんなもん知るか馬鹿!」 ゴンッ 再度落とされる拳骨。 「そんなもん、できるだけ生きて、長生きして、死んでからごめんなさいって謝るしかないだろうが!お前はそうやって死んでいった奴らの分も生きて生きて、生き抜いて、どんなことをしても生き抜いていくんだよ!俺たちがお前を絶対死なせねえ!」 「っ…」 アンの目に大粒の涙が浮かぶ。その涙はボロボロと零れ落ちていく。それを見たレナはゆっくりとアンの手を握り同じように涙を流す。 「アンおねえちゃん、私、私ね、思い出したよ…。私、アンおねえちゃんを助けられたかなあ」 アンの目が大きく見開かれる。涙があふれだすその目には、もう暗い色は浮かんでいなかった。 「アン、俺だって同じだ、俺もみんなが助かればそれでよかった。お前と、同じだよ。でも俺たちはもう生きていくしかないんだ」 涙が頬を伝う。アンのほうに手を伸ばし、その頬に流れる涙を掬う。 「ゼロさん、サンク、レナちゃん…」 アンの目がしっかりと前を向く 「私、死にたくないです…!」 子どものように泣きじゃくるアンは、どこか懐かしく、思わずその小さな体を抱きしめる。 「そんなこと、あの時から知っているよ」 いつかの、泣くことすらできなかった子どもを抱きしめるように。 「今日はお祝いだな、アン」
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