お渡り

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お渡り

 日も暮れ、月も一番小さく空に上る頃、中庭の池をぐるりと廻る回廊を倭は足音も立てずに進んでいた。  足を止めたのは命様の部屋の前。下った御簾を黙って見つめる倭の耳に、鈴の音のようなリンとよく通る声が飛び込んだ。 「お館様?」  意を決したように、倭は御簾を右手で押し上げ月の光から逃れるように部屋へと滑り込む。 「ようやくお渡りいただけて、安堵いたしました」  部屋に置かれた行灯の仄かな明かりに照らされた命様は儚げで、触れればそこから崩れ落ちてしまいそうな錯覚に囚われ、倭は身じろぎ一つできずに立ち尽くした。 「まだ言葉も不自由ゆえに、お館様には知らず不肖を働いておりますれば、大変心苦しゅう……」 「あなたのせいではありません!」 倭は慌てて命様の言葉を遮った。 「渡りが遅れたことは、ひとえに俺の勝手都合です。あなたには何の落ち度もありません」  倭は早口でそうまくし立てた。 「お館様……少し私のつまらぬ話を聞いてはくださいませぬか」  そう言いながら、命様は倭に着座を促した。 「キヨが下がる前に用意してくれました」  まずは一献と命様に勧められた(さかずき)を、倭はグイッと飲み干す。それを見届けた命様はいきなり本題に切り込んだ。 「お館様はこの『夜伽の儀』を、なんと伝え聞いておられまするか?」
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