10 初めての香り(隆慶side)

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10 初めての香り(隆慶side)

即位してから初めて訪れた自分の後宮棟の中は、とても静かだった。 夜伽のある日の夜は、指名された側室の部屋までの経路は皇帝とその案内役以外の通行を禁じる通達がなされるのだと聞いていたから、別段驚きはしなかったが…僕が十歳まで出入りを許されていた祖父の後宮の廊下とは随分雰囲気が違うなと感じた。 我が国では、後宮に使われる棟は二棟ある。それを皇帝が代替わりする毎に交互に入れ替えて使う。使用されていない方の棟は、その間管理人が置かれ、改修工事などが行なわれ、再び美しい鳥籠の姿を取り戻す。そして、数年、或いは数十年先にやって来るであろう新たな花鳥達を待つのだ。 そして本来なら、僕の為に新たに開かれたこの後宮は、以前は曽祖父のものであり、次には父が渡る筈の棟だった。あの時、亡くなりさえしなければ…。 そこに僕が足を踏み入れる事になるなんて、何だか複雑な気分だ。 そもそも、僕には後宮なんて設備は要らなかったのだ。確かに世継ぎを作るのは皇帝の重要な義務の一つだが、既に人に対する関心を失ってしまった自分にそれが遂行できるとは思えない。足を運ぶ事も無い宮の為に予算を割くのも無駄だとすら考えていた。 それに、祖父には申し訳ないけれど、僕に子が出来なかったとしても、いざとなれば父の腹違いの叔父や従兄弟達が何人も居るから血筋が途絶える事は無いではないかとも思う。 僕には、愛していない相手を抱く事はできない。愛されていなくても、それは同じ事だ。そして、こんな僕を身分や権力抜きにして愛してくれる人なんか、どうせ現れない。 そんな風に斜に構えていた僕が、まさか自らこの場所に来ようと思う日が来るなんて…。 本当に、複雑だ。 後宮の真っ直ぐな廊下は、静まり返っているくせに煌々と明るい。濃い臙脂色の絨毯を踏みながら、女官の案内で進み、着いたのは、廊下の中ほどに位置する扉の前。 「こちらがユウリン様のお部屋でございます」 中年の女官が一言だけ言って、頭を下げながらその扉を開ける。部屋の中の明かりは消されていたが、入ってすぐのところに間接照明があり、足下を照らしてくれていた。 ふと部屋の奥から視線を感じて目を上げると、そこにはベッドがある。その傍にはもう1つ小さな間接照明があり、オレンジ色の薄明かりでごく僅かな範囲を照らしていた。 そして、そのベッドの上に、人影。 (あれが、ユウリン…) まだ直に顔すら見ていないのに、期待に心がふるりと震えた。 近づいていくと灯りに浮き上がる、美しい座礼。襟足よりも少し長い髪。その髪がかかる白く細いうなじには、オメガを示す黒い認証チョーカー。そして、僕の好きな果実の香りに混ざって、その果実の白い花が醸し出すような香りがする。とても良い香りだ。 ベッドの脇に立った僕は、その香りに良い心地になりながら口を開いた。 「面を上げよ」 僕の声にぴくりと肩を揺らした彼が、ゆっくりと顔を上げる。その顔を鮮明に見たくて、僕は邪魔な前髪をかき上げた。 「隆慶だ。よろしく頼む」 「…あ、…は、はい…ユウリンでございます…末永う、お願い申し上げます…」 とても澄んだ、甘口美しい声で彼は挨拶を返してくれる。視界を遮るものの無い状態で間近に見たユウリンは、とても綺麗だった。だが、その目は少しだけ驚きに見開かれているようで、僕はすぐに後悔する。 (失敗しただろうか…) やはり顔を見せない方がマシだったのだ。幼い頃から、この顔を見た人間は皆同じ反応をした。驚愕と畏怖が入り交じったような、そんな目で僕を見た。そして気を取り直すと、取ってつけたように世辞を並べ始める。 おそらく僕は、醜いのだ。だが、僕が皇族だからそれを口にできない。幼心にそれに気づいた僕は、しだいに顔を隠すようになった。そしてそうした視界の遮断は、内向的だった僕の気持ちの安寧に、とても役に立った。幼い頃から知っているミツクニは、僕のそんなところを全て知っていながらも変わりなく付き合ってくれた唯一の友人だったから…だから僕は、勘違いしてしまったんだと思う。 ミツクニだけは、本当の僕を知った上で気持ちを受け入れてくれたただ一人の人なんだと。 全部、僕の勘違いだったのだが。 そんな過去の苦い気持ちを思い出してしまいながら、僕は髪を戻した。そうしてしまうと、もう髪と髪の隙間という狭い視界でしか彼の姿を捉えられない。しかし顔を晒し続けるよりはマシだろう。こんな男を相手にしなければならない彼の精神衛生上も…。 少々悲しい気持ちになっていると、彼が言った。 「あ、あの…どうぞこちらへ…」 ユウリンの横、つまりベッドの上を丁寧な所作で指し示されて、少し動揺する。あ、いや、そうか。そうだな、曲がりなりにも夜伽に来たのだし。 動揺を隠しながら、僕は履き物を脱いでベッドに上がる。ユウリンの優しい声と仕草にドキドキしてしまって、顔が赤くなるのが自分でもわかった。こういった時にもこの前髪は便利なのだ。 ユウリンと人ひとり分の間を空けて向き合って座るが、嗅いだことの無い良い香りに落ち着かない。何か言わなければ、それらしい話題は…と思い巡らせるが、世の流行り廃りに疎い僕には、気の利いた話題を捻り出す事は難しかった。 少しの間、静寂の中で互いの息遣いだけが聴こえるといった時間が続く。 だが、それを破ってくれたのはユウリンの方からだった。 「あ、あの…今夜は何故、お…いや、私をお召し下さったんですか?」 それは質問だった。だが、その聞き方にも声色にも、全く嫌がって聞いているような様子は無くて、僕は少し安心したのだ。
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