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もちろん、母さんが手を切ったとか、そういう悲鳴も聞こえなかった。
恐る恐る目を開けると、母さんは作業の手を止めていた。
「二週、間」
声に抑揚がない。
その表情は、うなじでまとめ損なった髪の毛に隠れて、よく見えなかった。
「そんなに長い間お邪魔して、ご迷惑じゃないかしら」
静かな、静かな声だった。
怒っているわけじゃない。かといって、予想以上の期間にあせったり、困ったりしているわけでもない。
俺には、その感情が読めなかった。
「そこも……許可取ったって言ってたから」
「──そう」
不意に悪寒が走った気がした。
「じゃあ行ってきなさい。くれぐれもあちらのご迷惑にはならないようにね」
「う、うん」
顔を上げた母さんは笑顔だった。だけどこのじっとりと冷や汗がにじむような感覚は、一年前から知っている。
あの──母さんの得体の知れない笑顔を見た時の感覚と同じだと、俺の直感が告げていた。
「じゃあ俺、優斗にも伝えてくるよ」
声は引き攣っていないだろうか。
極力不自然にならないようにダイニングを出て、階段を上がる。だけどたった二段上がっただけで、俺の足は止まってしまった。
壁に肩を預け、深く息を吐く。なんとなく、一瞬にして張り詰めていた糸が緩んだ気分だった。
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