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010 踊り子・マーサ
気づいているだろうが、瑛は口にしなかった。
実は湯浴みを終えた後、織は無味無臭の溶かした睡眠薬を全身に塗っていた。効き目はそれほどではないが、初めて口にする禧桜には十二分の効果があったようだ。
「獣になっている間、陛下には記憶がない。当然織を襲ったことも覚えていらっしゃらないはず」
「それが一番いいと思います。今回のことは、どうか内密にお願いします」
「ああ、もちろんだ。お前には酷だが、しばらく外へは出ずに安静にしていてもらう。家に帰るのも禁止だ」
「ずっとこちらにいろと?」
「俺の部屋に移動してもらう」
これには驚き、織は瑛の身体を押し返した。
「私はあなたの花嫁ではありません。それに仕事が……」
「隣の部屋は空き部屋だ。そこへ物を移したらいい」
「あなたの夜伽を隣の部屋で聞いていろとおっしゃるのですか」
「あいにく、女人を部屋へ呼んだことはない」
「それはそれで誤解されますよ……」
「跡継ぎなら山ほどいる。揉め事になる子を作る必要がないからな。お前と結婚したい気持ちは変わらないが」
「もう向こうへ行って下さい……」
「なんだそれは。気のない織だ」
不思議なことに、話をしていたらいくらか痛みが和らいだ。
入れ違いに医師がやってきて、これからの生活について話をした。
寝ている間にすでに瑛は話していたようで、完治するまでは瑛の部屋で過ごすようにと念を押されてしまった。
翌日に瑛の部屋へ移ると、すでに必要な荷物は移動されていた。
「織、入ってもいいか?」
「はい、どうぞ」
瑛の背後では、女中が食事の用意をしていた。
「調子はどうだ?」
「本日で三度目ですよ、殿下。昨日よりはすこぶる良いです」
「ならばこちらで食事にしよう」
自分で作った痛み止めを飲んだからか、衝撃を与えない限りはとても調子が良かった。
女中が出ていったところでふたりで食事を始めた。
「禧桜陛下のご様子は?」
「一度目を覚まされたが、また眠っていらっしゃる。命に別状はない」
「瑛、」
他の者の前では殿下とつけるが、ふたりきりのときは瑛と呼ぶのが常だ。これは瑛自身が望んだことである。
「禧桜陛下があのようなお姿になられるのは、いつからですか?」
「陛下の座についたときだと言われている。なぜこうなったのか誰にも判らない。病気とも、何かが乗り移ったとも言われるが……」
「病気であれば治療法があるはずです。今まで、同じ状況になった方はいらっしゃらないのですか?」
「いや、聞いたことがないな。前陛下も病気一つしなかった御方だ」
「……こんなことは私も初めてです」
「そうだろう。……お前には酷なことをした。落ち込むな、と言いたいが、俺の前ではいくらでも弱音を吐いてくれて構わないぞ」
「またそのような優しい言葉を……女人ではないのですから、すぐに立ち直ります」
「女人だろうが男士だろうが関係ないだろう。傷つくのに性別の問題を出すべきではないぞ」
「それは……そうですね。本当は少し、怖かったのです。覚悟して煌苑殿へ参りましたが、陛下といえど獣に服を引き裂かれて、死ぬだけではなく心までも切り裂かれると思いました」
「村では許嫁や好きな女人はいたのか?」
瑛は真剣に、まっすぐ見つめてきた。織は遠慮がちに首を振る。
「数日間でしたが瑛と出会い、圧倒されました」
「圧倒?」
「お貴族様だからか、瑛の資質だからか。とにかく、圧倒されたのです。胸が痛くて、しばらくは食事が喉を通りませんでした。何度かお見合いの話はあったものの、まとまったことはありません」
「それは嬉しい話だ。俺も織と会ってから、なかなか食事が困難になった」
瑛の口元は緩み、目尻が下がっている。
食事が喉を通らなくて何が嬉しいものか、と一言言ってやりたくなかったが、目の前の果物が美味しくてそれどころではない。
「織……」
瑛は肩から落ちそうになる羽織を織にかけ直した。
触れられた瞬間、獣に装束を引き裂かれた恐怖が蘇り、肩が上がる。獣とは対照的だ。瑛は無理やり脱がそうとはしない。それは男として織のプライドを守ってくれようとする行為にも見えた。
瑛の部屋にある本棚には、薬に関する本が並べられていた。日に日に増えていく本の数に、嬉しいが苦笑いを浮かべるしかない。
この国でしか手に入らない植物もあり、織は図鑑を含め本を大量に読んだ。
日が落ちる前にはリハビリついでに杖をつきながら外を散歩する。気になる植物は籠に入れて持ち帰り、医師に聞いては知識を得ていった。
庭の椅子に女性が一人座っていた。異国の踊り子とは珍しく、遠くから衛兵たちも凝視している。
頭にはフェイスヴェールを被り、口元が覆われていて目しか見えていない。細身でありながらしっかりとした筋肉があり、健康的な身体が薄手の布から浮き出ていた。
「道に迷われましたか?」
なるべく脅かさないようにと距離を取りながら声をかけてみる。
初めは訝しんでいる様子だったが、織の穏やかな口調に目に涙が浮かび、隣を空けた。
織は横に座ると、
「とても素敵な衣装ですね。お似合いです」
と笑顔を見せる。
「ありがとうございます」
「もし何かお困りなことがあれば、遠慮なくおっしゃって下さい」
「……実は今日にこの国へ二週間ほど滞在することになったのです。昨日は皇后の酒宴へ呼んで頂いたのですが、本日は禧桜陛下もいらっしゃるようなのです」
「禧桜陛下が?」
体調はよくなったのだろうか。もしやまた皇后が無理を言ったのではないかと、眉間に皺が寄る。
「誉れなことだと思いますが、禧桜陛下はたいそうな好色だと聞き、第五夫人として招かれる可能性があると……」
「皇后がおっしゃったのですか?」
「はい……。前にも第五夫人候補を何人かお呼びになられたようですが、全員陛下のお眼鏡に適わなかったと」
「そ、そのようですね……」
内心ひやひやした。まさかそのうちのひとりが目の前にいるなどと言えるわけがなかった。
「どうしよう……」
「ご結婚をされていらっしゃるのですか?」
「いいえ。ですが恋人がいるのです」
「それは素敵ですね」
「陛下に言い寄られでもしたら、この国から出してもらえなくなります。陛下の好みとか、ご存じないですか?」
「好みは……すみません、私にもよく判りません」
皇后も第二夫人も性格がまるで違う。一度第二夫人と会ったことがあるが、誰に対しても優しい言葉をかけられる清らかな心の持ち主だった。
「聞いて頂き、とてもすっきりしました。失礼ですが、あなたは……?」
「この国で薬師をしております、織です」
「まあ、薬師でしたか。申し遅れましたが、私はマーサです。そのお怪我は?」
「薬の材料となる薬草を摘んでいる最中に転んでしまい、当たりどころが悪かったのです」
事前に決めた嘘を本物に見せかけた。
「どうかお大事に」
「……先ほどの話ですが、どうにかなるとはお約束はできませんが、近しい方に相談をできるかもしれません」
瑛の顔が頭によぎる。殿下でありながらも友という立場であり、なによりたった数日であっても幼少期に一緒に過ごした事実は心の支えで家族に通じる繋がりを感じさせていた。それにふたりきりのときは敬称をつけないでほしいとも言われている。
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