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011 愛する人と共に
「どうか……どうかお願いします」
マーサの目は涙で滲んでいた。簡単にできない約束ではあるが、力になりたいと思う。
「ということがあったんだ」
夕方頃に帰ってきた瑛に話してみると、彼は何度か顎を撫でた。
「踊り子とどこで顔を会わせたんだ?」
「中庭です。美しい女人でした。彼女は結婚を決めた相手がいて、なんとかしてあげたいと勝手な約束をしてしまいました」
「困っている人がいれば放っておけないのは昔からの性分だろう?」
瑛はにやりとした笑みを見せる。出会ったときのことを言っているのだろう。
「実は、踊り子のマーサと話していて、過去のことを思い出してたんです。この件を相談しようとして、一番に瑛の顔が浮かびました」
瑛は口角を上げて頷いた。
「織は第五夫人から外れ、罪悪感を感じているんだろう」
「それは……あります」
「俺との婚約は破棄しようとしたのにな」
「それはっ……もう忘れて下さい。女人ではないのですから、仕方のないことです」
「俺は陛下にはならないから、別に男士を迎え入れても問題ないんだぞ。跡継ぎは作らないしな。……話は脱線したが、踊り子の件は確かになんとかせねばならない」
「どうにかなりますか?」
「考えはあるが、柏にも相談しよう」
それから瑛は柏を呼び、三人で話し合いを重ねた。
日が沈むと禧桜に酒宴の誘いがあった。
骨折した足を固定したまま向かうと、禧桜は一番奥の座に居座っている。隣には皇后がいた。
皇后は織を見ては顔を強ばらせた。織は堂々と席についた。
やましいことなど何もない。あるのは皇后だ。彼女が独断で織を獣化した禧桜の元へ送ったから身体の怪我に繋がったのである。
「異国から来た踊り子をお呼び致します」
十人の踊り子たちが登場した。マーサは真ん中にいる。彼女たちが踊り出すと、腕や足につけた鈴の音が小気味よく鳴る。妖艶に腰をしならせ、布が舞う。
舞う姿は人間の姿をした天女だ。天井高く踊り狂う長布は彼女たちの身体を時折隠し、艶麗に乱れた。
とりつかれたように、織は見入った。
やがて踊りが終わると、禧桜は惜しみない拍手を送る。
「良い、良い」
続いて他の者も拍手喝采だった。織も無意識に手を叩いていた。
「名前はなんとおっしゃるのですか?」
瑛が動いた。マーサに対し、興味深そうに質問をした。
「私はマーサと申します」
作戦を何も知らされていないマーサは目を伏せ、口元の布を上げた。顔を見られたくないと警戒している。
「瑛、彼女を気に入ったのか?」
「どの踊り子も素晴らしかったですが、特に彼女は目を引きました」
「それはいい。瑛は女人に興味がないのか、誰も娶ろうともしないからな」
「光栄でございます」
マーサは感情のない声で答えた。
「マーサよ、そなたは瑛をどう思うか」
「とても素晴らしい為政者だと聞いております」
陛下自らの質問に、マーサはか細い声で答えた。
「貴様、殿下の仕事ぶりを聞いているのではない!」
「やめろ。正直な感想で良いではないか」
禧桜は剣を握る衛兵を止める。
「ねえ、陛下。瑛の伴侶候補として、この国に居てもらうのはいかがかしら?」
それまで成り行きを見守っていた皇后が口を開く。
織が怪我をした件に思うところがあるのか、今日の皇后はいやにおとなしかった。それどころか瑛の味方につこうとする。織の知らないところで、何かひと悶着あったのだと考える。
「せめてすぐには帰らず、今日くらいは煌苑殿でゆっくりして頂きたいですな」
横から柏も口を挟んだ。禧桜に近い席に座る彼らは、関係性が判らないマーサであっても位の高い者たちだと理解しているはずだ。
織は遠くでことの成り行きを見守っていたが、マーサが目だけをこちらに向けた。踊りながら位置を把握していたらしく、目ざとい彼女に一瞬だけ思考が止まった。
だがすぐに織は頷く。大丈夫だと伝えるように、もう一度首を縦に振った。
「多大なる誉れでございます」
先ほどとは違い、マーサの声は震えていた。
女中と呼ばれているが、ただの見張り役だとマーサはうんざりした。
酒宴も終わり静寂が訪れた頃、彼女たちに捕まった。湯浴みをさせられ、下着の着用は許されず、金を縁取った着物を着ろと命じられる。
瑛と呼ばれる殿下は凛々しい目つきと整った目鼻は人目を引き、会場にいた女人たちの視線を釘付けにしていた。マーサに恋人がいなければ、彼女たちと同じように夢中になっていただろう。当の本人はまったく女人たちを見ておらず、織ばかり見ていた気がする。
「ここからはお一人で中へお入り下さい」
「判りました」
女中たちがいなくなってから息をつき、マーサは扉に手をかけた。
中は薄暗く、お香が焚かれていた。
「失礼します」
ほぼ聞こえないほどの声で呟き、震える一歩を踏み出した。
横から手が伸びてきた。避けようにも避けられず、恐怖心から目を瞑る。
「マーサ」
温厚な声で呼ばれ、恐る恐るまぶたを開けた。
「あなたは……織様」
「怖かったでしょう? もう大丈夫です」
彼は安堵していいと目で訴えている。吸い込まれるような暖かな瞳だ。
「どういうことですか? 私は瑛殿下と……」
「織から相談を持ちかけられたのだ」
暗闇から瑛も現れる。彼は酒宴での位の高さを表す冠もつけておらず、かといって閨での格好をしていいない。マーサが対等に話ができるよう、配慮がされている。
「瑛殿下から知恵をお借りしたのですよ」
「そのような……まさか……」
「陛下よりも先に瑛殿下がマーサを気に入るふりをして、今宵閨へ呼ぶという手筈を整えたのです」
「なんと、殿下自ら……申し訳ございません」
マーサは膝を折り、頭を地面につけた。
「よい。顔を上げろ。それよりも助けるにはこの方法しか浮かばなかった。お前は恋人と結ばれながら、他の男と閨を共にしたという嘘であっても事実として流れ、偏見や憶測の目を向けられる。耐えられるか?」
「そんなの全然構いません。また国へ戻り、彼と共に歩めるなら……」
マーサは強い意思のこもった目をしていた。
「それだけの覚悟があるのなら問題ないだろう」
「マーサ、本日は私の部屋で休んで下さい」
「何から何まで……このお礼は国へ戻った後、必ず致します」
「楽しみに待つとしよう」
愛する人が待っていてくれる──マーサの原動力は誰よりも強い。
結婚は男であれば妻を娶り、女は子を儲ける。課せられた宿命から外れた織は、これからの人生を思う。ここでは嫁を娶れという人はいない。だが村で皆が家族だったように、心の内を明かせ同じ家に住み、外では畑仕事もいい。できれば獣を飼いたい。家にいてネズミから守ってくれる猫がいい。
「私と同衾であることをお許し下さい」
「何を言うか。楽しみにしていたのだぞ」
「またそうやってからかいますか……。立場上、褒められたことではないのですから内密にお願いしますね」
「もちろんだ」
織の身体が細身とはいえ男だ。ふたり横たわってもまだ余裕がある。
織ははたと気づいた。隣の部屋にある織の仮部屋だが、布団も枕も同じものだ。元々寝床はない部屋であり、織が隣にくるために瑛が用意したと聞いている。
焼けつくような心は身体を熱くさせ、肌がしっとりと濡れていく。柔い箇所にも熱がこもり、織は寝たふりをして懸命に熱を静めた。
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