制服、芝生、翼の徽章

1/1
3人が本棚に入れています
本棚に追加
/2ページ

制服、芝生、翼の徽章

 第一に家を出たくて、第二に射撃がしたくて、第三にヘリに乗りたくて俺は陸上自衛隊に入った。最速コースといっても一兵卒な訳だが、工業高校の機械科を出たのも幸いし、新隊員教育隊の前期教育を終えると、航空学校の分校も、他のヘリ整備部署もある駐屯地に順調に配属された。  そこで後期教育を終えて自衛隊内部で通用する『モス』なるモノを与えられ、晴れて機体に触れても怒られなくなった。『ヘリ整備初級課程終了モス』という自衛隊内部で通用する免許のようなものだ。  ヘリは機種によって総飛行時間が違う。俺が配属された整備班はUH-1なる中型機の整備が仕事だった。だが新しい機体ではなく、UH-1を飛ばせる5500時間に近いギリギリの機体が全国の部隊から飛んできては置かれてゆく。そいつを整備しつつ、残り数時間を飛ばして消化し、ゼロアワーでエンジンその他、まだ使える部品等を外して検査や整備し各部隊に回すのだ。  消化飛行時には乗せて貰えた。乗る際には必ずドッグタグを首から下げる。映画なんか観ていると兵士は誰でもドッグタグ=認識票を下げていると思われがちだが、我らが親方日の丸はそこまで気前は良くなく、乗る人員だけしか認識票は持っていなかった。墜落炎上して黒焦げでも簡単に誰だか見分けがつけばいいのだから。  しかし日々の仕事は遊覧飛行ではなくヘリの分解である。外すのに面倒な部品は階級関係なくジャンケンで決めた。ヘリのスピードメータはマイル表示なのだが、廃棄のそれを直して自家用車に搭載している人もいた。演習部隊でなく機関だったので、のどかと云えばのどかだ。  マニアが欲しがりそうなジャンクは山ほどあったが、エンジンはバカ高いので使い捨てたりしない。エンジン班の人員がバラして組み直し、分厚いコンクリ壁に前の大戦の機銃掃射の跡が残るエンジン試験場で回して、異常が無ければ他の未だ飛べる機体に換装するのだ。  こういった作業をしていたので、何処かで「機が墜ちた」となると空気が変わる。  それはともかく、印象に残っているのは日航機123便の事故に派遣されたという機体を扱った時のことだ。  もう何年も経って、機の責任者たる機付長(きづきちょう)も何度も変わり、しっかり整備されている筈なのに、他の機体とは全く匂いが違った。どう拭いても取れないそれは何とも例えようのない匂い。    心地良い訳ではないので「匂い」と書くのも妙だけれど、俺は鼻腔に残るそれに対し、「生きていたんだ!」と叫ぶような想いを捉えたので、敢えて違う漢字を当てる気にはならない。  そんな整備屋のようなジャンク屋のような仕事は気に入っていたが、それも一期二年で終わりと悟っていた。マンモス駐屯地故に駐屯地司令は桜星3個の陸将だ。そのサポートと言えば聞こえが良いが、秘書なる茶坊主兼雑用係として総務部に異動が決まっていたのである。油染みた戦闘服から一転、制服で秘書室勤務だ。  行きたくねぇよと暴れても事態は変わらないので仕方なく粛々と異動した。すると、とんでもねぇ大物が客としてやってくる。大手重工業は軒並み兵器産業に絡んでいるので社長会長。アポも無しに司令がいない時を狙いすましたかの如く、県警本部長が表敬訪問にやってきて危うく追い返しそうにもなった。あとは今でもTVで軍事評論家としてたまに解説している御仁や事務次官殿など。  年末は湯呑み100個でも足らなかった。司令の強靭な膀胱に捧げ(つつ)!  そんな中でもぽっかりと時間が空くことがある。司令が賀詞交歓会etc.で出かけているとドライバー&俺の直属上司である副官もいなくなるのでエスケープだ。本当はもう一人の曹長と電話番なのだが、曹長の人の好さに付け込んで気に食わない仕事の憂さを晴らしに外でボケーっとしてくるのである。  大体さ、どんなに整備班の師匠に「歌え!」と詰め寄られてもカラオケで一曲たりとも歌ったことのない俺が、中●化薬に天下りした元司令に迫られて歌わされたんだぞ。曲は『憧れのハワイ航路』だったよ悪いか(幾つだろうね俺)。  まあ、そういうホストだかの役目にも慣れた頃に、表で日当たりの良い芝生に伸びていたら、隣にもう一人やってきて伸びた。飛行場地区で何度も顔を合わせていたので誰かは分かった。    駐屯地一と皆が認める超ド級の腕を持つヘリのパイロット。知らなきゃモグリだ。だが略綬とウィングマークがついているのは制服だった。飛行服じゃない。 「M三佐、どしたんスか?」 「あんたと変わらん」 「え、飛ばされ……もとい、異動っすか?」 「それも地連(ちれん)」 「うーわっ、このご時世にご苦労様っす!」     今では自衛官募集所を地本(ちほん)というが、当時は地方連絡部で地連と呼んでいたのだ。  階級も何もかも違うが、周囲の目からしてみれば俺もM三佐も将来有望な位置に就いた、それなりのエリート扱いだった。妬まれ嫌がらせを受ける程。横一列の同期中で将来に渡り一番に昇任が約束された立場。一選抜というのだが、でも自分はヘリの整備で油まみれになっていたいし、M三佐も地連で新兵スカウトに血道をあげての昇任よりもヘリに乗っていたいと言っていた。  それから度々、俺とM三佐はそこで会って話すようになった。通信科の裏でちょっとした穴場には誰も来ない。  一緒に煙草を吸いつつ、色んな話をした。  M三佐が妻帯者だったかどうかは覚えが無いのだが、誰にもぶちまけられない事を密かに話す関係は、不思議なアンバランスさで揺れていて、それはおそらく俺の側だけじゃなかったと思っている。  だって背中合わせで凭れて芝生に座って喋ったり、ずっと黙っていたりだもんよ。  俺は2期4年で自衛隊を退官した。有望視されていながら全ての期待を裏切ったのは俺のせいだけじゃないと思う。まだケツの青いヒヨッコ隊員が見なくてもいいモノを見聞きした2年間で俺は腹一杯だったのだ。  民間(シビル)の風も強かったが自分で決めたことに後悔はなく、何もかもに納得していた。  同時にM三佐も異動した。そう遠くないが今までのような機関ではなく、遺憾なく力量を発揮できる、その腕が活きる部隊だった。おそらく希望が通ったのだろう。  その日は芝生でいつも通り煙草を吸い、雑談をしてから互いに挙手敬礼し、ニヤリと笑って別れた。  そして4年後の夏に俺は言葉も出ないほどの衝撃を受けた。  M三佐が乗ったOH-6Dが民間小型機と衝突・墜落――。  生存者、なし。  あの空気を俺は思い出したまま呆然としていた。OH-6Dは小型偵察機だ。何もかもがバラバラになって、お約束のように「民家近くで」とのメディアの非難を受けていた。機体主要部は炎上した為に乗員が飲酒していたかどうかの血液検査も不可能だったという。  三佐のままの階級は問題じゃない。ヘリパイは余程でないと指揮官にはならない。けれどM三佐はAH-1S(通称コブラ・攻撃ヘリ)のナイトフライトで国道の珍走団を超低空で追いたてチェーンガンのターレットを回し銃口を向けて、伝説となった程のパイロットだ。普通ならクビになるところを惜しまれ引き留められるほどの。  それに加えて機種それぞれにライセンスが要るが、どれも持っていたように思う。  駐屯地祭のデモフライトも判で押したように必ずM三佐が観客を沸かせていた。あとで調べて知ったが民間機のヘリパイの免許も取得していた。早期退職でも考えていたのだろうか。  それらは関係ないとして、だ。  あの近辺には飛行場が多数集中しているのだ。すぐ近くの駐屯地にいて、俺とも喋ったんだ。つまりそれらの事実と地理を知り尽くしていた筈のM三佐が、そこまですら保たせられなかったのなら、やはり接触ではなく衝突には違いない……未だに信じられないが。  けれど待ちに待った航空事故調の報告書に俺は今でも疑問を抱いている。  でも、ほじくり返して原因が変わっても「だからどうした」だ。  そう、お約束の如くメディアはヘリのテールブームが民家付近に墜ちたことを強調した。確かにそれは事実だった。しかしヘリの主要部はすぐ傍の道ではなく森林内で燃え尽きていた。乗員であるパイロットと整備員は、おそらくタグで見分けられたのだろう。  すぐ真下の道路なら捜索の必要もなく、救援も、もっと早かった筈だ。    だが制御不能となったヘリが、それでも救助して貰いやすい道路ではなく森林地帯に墜ち、燃えやすく柔らかに積もった落ち葉の地面にめり込んだ為に脱出もままならず機体もろとも燃え尽きた、これもひとつの真実である。  それが意味するところは、自衛隊員として、自衛隊のヘリパイとしての卓越した技量と誇り。それら全てがそこに示されていると思うのも、これまた俺個人の真実なのだ。  たったひとつの事実は永遠に分からない。これはもう仕方がない。  だが、そこで俺が俺個人の真実を大切に抱えてゆくことに、何の支障があろうか。  そう思ってずっときた。  それでも俺は何ヶ月かに一度、必ず事故調のpdfファイルを読んで両機の飛行ルートをシミュレーションし、M三佐の制服の胸についていた、脱落防止の糸のついたウィングマークを握り締める。                                  了
/2ページ

最初のコメントを投稿しよう!