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梅雨の晴れ間の日曜日。
喫茶エス・コートには、11時のオープンと同時にお客さんがやって来る。
繁盛してて嬉しいけど、ちょっと大変。
お手伝いにも慣れて少しは戦力になれてると思う。
忙しい時間が過ぎ、時計を見たら14時。
もう少しでランチ営業が終わる。
店内のお客さんも減って来た。
私はいつものように厨房で洗い物をする。
すぐ近くには及川さんが居て。
手際よく、もう夜営業の準備をしてる。
会話は無いけど。
同じ空間に居られるだけで落ち着くんだよね。
「凛ちゃーん」
カウンターの方から私を呼ぶ柳さん。
……なんかニヤニヤしてる。いつも以上に。
「お客さんだぜ」
「私に?誰ですか」
「若いオトコ」
背後で音がした。
振り向いたら及川さんが菜箸をへし折ってる。
「あ……」
「洗い物と及川は、ほっといていいから」
「でも」
「早く出ろって」
「……はい」
柳さんに言われて渋々、ホールに出た。
私を呼ぶ男の人に心当たりは無い。
また何か嫌なことが起こりそう。
柳さんが指さしたサンルームのテーブル席。
そこに座ってる彼の姿に、私は安堵した。
「なんだ、智哉か」
幼なじみの栗林智哉。
家が近くて親同士が仲良しだから子供の頃からよく遊んでた。
中学までは同じ学校だったけど。
今はそれぞれ違う高校に通ってる。
彼は野球が強い私立高校に進学して、確か今は野球部の寮に入ってるはず。
「部活の練習は?」
「今日は休み」
「そうなんだ」
なんか智哉、また身体が大きくなった気がする。
私は成長が止まってるのに。羨ましい。
「どうしたの?なんか用事?」
「おじさんが」
「お父さんが?」
「お前の様子、見て来いって」
……なるほど。お父さん、私が柳さんの家に居候することにイマイチ納得してないって、お母さん言ってた。
だからって智哉を送り込むなんて。
「ごめんね。智哉、忙しいのに。私は見ての通り元気でやってるから」
「ならいいんだけど」
「いらっしゃいませ」
……来た。及川さん。大人だから智哉に余計なこと言わないと思うけど。
菜箸の件を考えると……ね。
私の不安を他所に、彼はにこやかに問う。
「凛さんのご友人ですか?」
「あ、えっと、幼なじみの智哉です。で、こちらは及川さん。ここの店員さん」
「及川です。はじめまして」
「こんにちは」
「あ、そうだ智哉。何か食べる?私、奢るから」
なんか私、ひとりで焦ってる。
別に悪いことしてないのに。
「いいよ。いらない」
智哉が感じ悪く言い捨てるから更に焦った。
「遠慮なさらず。何でもお作りしますよ」
「ここのメニュー、どれを選んでも美味しいから」
そう言って私はメニュー表を智哉に押し付ける。
少し迷ってから、智哉は遠慮がちに言った。
「パンケーキ。お願いします」
「かしこまりました」
及川さんは微笑んでるけど。
心の中はどうなんだろ。
「じゃあ、私まだ仕事があるから。智哉はひとりでゆっくり」
立ち上がろうとする私を及川さんが優しく制止した。
「あぁ。洗い物は私がしますから。凛さんは彼と話していてください」
「でも……」
「大丈夫ですから」
そこまで言われて席を立つのも不自然だし。
私は及川さんにお礼を言って座り直した。
智哉は冷たい水をひと口飲んでから何気なく口を開く。
「凛さ。うちに住む気ないの」
「うちって……智哉の?」
「そう」
想定外の提案だった。
そんなこと考えたことなかった。
申し出はありがたかったけど、私にその選択肢は無い。
及川さんと離れたくないから。
「……おじさんとおばさんに悪いから」
「うちの親は喜ぶと思うけど。おじさんもその方が安心だろうし」
それは、そうだよね。
お父さん的には。
「でも、ここなら学校も近いし。お手伝いすれば社会勉強にもなるし」
「……ふーん」
「……何、ふーん、って」
「どっち」
「何が?」
「どっちのオジさん」
「だから、何が?」
「凛が好きなの」
……何でわかるの!?智哉のくせに!
「な……なに言ってんの?別に、そーいうんじゃないから」
「まあ俺には関係ないけど」
何その言い方。感じ悪い。
「親に心配かけんなよ」
「……わかってる」
「お待たせしました」
及川さんがパンケーキを運んで来た。
トレイにはミルクセーキが2つ。
彼はそれを、智哉の前と私の前に1つずつ置く。
「あの……及川さん、これ」
「サービスです」
「智哉はともかく、私は」
「ごゆっくり」
……及川さん怒ってる。気がする。
愛されてるのは嬉しいけど、後が怖い。
「いただきます」
智哉は手を合わせて挨拶してから食べ始める。
おじさんもおばさんもしっかりした人だし、野球部も厳しいだろうから。
きちんとしてる。
パンケーキのいい香りがした。
少し溶けた四角いバターにメープルシロップ。
美味しそう。
「食うか?」
「え?」
「食いたいって顔してる」
……そんな顔してた?恥ずかしい。
「いい。いらない」
「遠慮すんなよ。ほら」
そう言って、智哉は小さく切ったパンケーキをフォークに刺して差し出す。
「……うん。ありがとう」
フォークを受け取ろうとしたら引っ込められた。
……からかってる?腹立つなー。
「食わせてやる」
「……は?」
「口、開けろ」
ちょっと待って。何それ。
「あぁ。さっきの……及川さん?に誤解されたくないか」
「……誤解とか。何の話?」
「俺の勘違い?」
「変なこと言わないでよ。私は別に――」
「じゃあ食えよ。ほら」
食べなきゃ及川さんのこと、お父さんに話すよね智哉。
彼には後で説明すればいい。
私は智哉が差し出したパンケーキを食べた。
……美味しい。いい焼き加減。さすが及川さん。
智哉を見たら、目を逸らされた。
照れてるの?だったら最初から、こんな意地悪しなくちゃいいのに。
「ごちそうさま」
「……ほんとに食うか?」
「智哉が食べろって言ったんでしょ?」
「……信じらんねぇ」
そこまで言う?
「智哉は。どうなの」
「何が」
「野球」
「あぁ、まあ順調」
「大会とかあるの?」
「あるけど……何で」
「観に行きたい」
「来るな」
何で拒絶する?
「……あぁ。彼女に誤解されたら困るか」
「彼女なんかいねーよ」
「え、そうなの?」
意外。智哉、普通にカッコいいし真面目だし爽やかだし。
モテてると思ってた。
「野球以外、興味ねぇし」
「相変わらずの野球バカ。だったら観に行ってもいいでしょ」
「……他人のフリすんなら来てもいいけど」
「何で」
「部の連中に彼女とか思われたくねーから」
なるほど。私みたいなのと付き合ってると思われたくないわけだ。
「わかった。じゃあこっそり観に行く」
そう言ったら智哉は試合の日程を教えてくれた。
ランチ営業が終わる頃、智哉は帰って行って。
私は柳さんに休みを貰えるか聞いてみた。
「別に構わねーぜ。行って来いよ」
「ありがとうございます」
「及川は俺が説得するから」
「……怒ってます?及川さん」
「怒ってるっつーか、拗ねてる?」
誤解したよね、及川さん。
私は恐る恐る厨房に入る。
彼は黙々と食器を洗ってた。
「あの、及川さん」
「はい」
「さっきのこと、なんですけど」
「何の話ですか?」
……怖い。けど、説明しなくちゃ。
「パンケーキの……」
「あぁ。気にしていませんよ」
「本当ですか?良かった」
「所詮、子供のすることですから」
……ん?
「彼は当てつけのつもりだったんでしょうけど」
「当てつけ?」
「私に喧嘩を売ろうなんて100年早い」
「……ちょっと待ってください。智哉は別に」
「凛さん」
「……はい」
及川さんは水を止めて手を拭いて、振り向いた。
「凛さんは人の好意に鈍感すぎます」
「そんなこと……ないと思いますけど」
「私がどれだけ貴女を愛しく思っているか分かりますか?」
言われたことが理解できなくて、私は答えられなかった。
「可能であれば貴女をこの家に閉じ込めておきたい」
「え……」
「私だけを見ていて欲しい」
……そんなこと考えてたんだ。
及川さんは大人だし余裕がある人だと思ってた。
「ですが、それ以上に貴女の幸せを願っています」
「……ありがとうございます」
「貴女が別の誰かを選んだとしても恨みません」
「それは無いです!私は及川さん以外に興味ありませんから!」
今度は及川さんがキョトンとしてた。
……今のどう考えても愛の告白だよね。恥ずかしい。
「あの、だから、その、智哉の野球の試合、観に行ってもいいですか?」
「凛さんは野球がお好きなんですか?」
質問に質問で返された。
許して貰えないかな。
「野球は父も好きですし、智哉の応援にもよく行ってたので……」
「そうでしたか」
「……ダメですか?」
「いえ。私も連れて行ってください」
それって……信用されてないってこと?
「違います。私も野球が好きなので」
「そうなんですか?」
「実は高校球児だったんですよ。私も」
「そうなんですか!?」
「そんなに意外ですか?」
失礼なくらい驚いてしまった。
及川さんの学生時代とか、考えたことも無かったから。
「甲子園にも行きましたし。これでも将来有望だったんです」
「そうだったんですか……」
将来有望な高校球児がどうして殺し屋になったんだろ。
いつか教えて貰えるかな。
「決まりですね。柳は私が説得します」
及川さんと柳さん、2人してお互いに説得しようとしてて。
仲良しだな、って思った。
◆
「じゃあ、店閉めて俺も行く」
柳さんの言葉に、私と及川さんは驚いた。
「んだよ。俺はダメなのか?」
「そんなことないですけど……」
「あー。俺が居たらイチャイチャ出来ねーか」
「そんなことしません!」
「どっちみち、俺ひとりじゃ店開けねーし」
「そうだな」
「ひとりで留守番すんのもな……って、何ニヤニヤしてんだ凛ちゃん」
「え?」
私、笑ってた?
「だって、3人でお出掛けしたことないから。何か、嬉しくて」
「あ、確かに。ずっとバタバタしてたもんな。よし!」
柳さんが手を叩く。
「試合見た帰りに、何か美味いモンでも食うか!俺が奢るから」
「本当ですか!?」
「珍しいな。ケチなお前が」
及川さん、柳さんに失礼だよ。
「たまにはいいだろ。凛ちゃんは何が食べたい?」
「えっと……」
私は迷った。
あまり高いものはダメだし。
普段あまり外食しないから美味しいお店も知らない。
「遠慮すんなよ。凛ちゃんに腹いっぱい食わせるくらいの甲斐性はあるからよ」
「じゃあ……ラーメン」
私の言葉に2人は驚いた様子だった。
女子高生が食べたがるものではないよね、うん。
「凛ちゃんよぉ。俺そんな貧乏に見えるか?」
「あ、違います!そうじゃなくて!」
「何か理由があるんですか?」
「……はい」
ちょっと恥ずかしかったけど。
私はラーメンを選んだ理由を話す。
「子供の頃、ですけど。智哉の試合を見た帰りに、うちの家族と智哉の家族でラーメンを食べるのが恒例で。なんか、懐かしくて」
「なるほど」
「だから、及川さんと柳さんとも一緒に食べたいな。と思いました」
私にとっては家族の絆の象徴。
及川さんと柳さんと、家族みたいになりたいから。
「いいですか……?」
恐る恐る確認する。
柳さんはともかく、及川さんはラーメンを食べるイメージが無い。
「イイに決まってんだろ」
「及川さんも?」
「もちろんです」
良かった……。
「凛さん」
「はい」
見上げた先の及川さんは、何故か困ったように笑う。
「私たちに遠慮することはありませんよ」
「遠慮なんて……」
「家族のようにはなれないかもしれませんが。私は凛さんの恋人です」
「こい……」
……そうなんだよね。恋人なんだよね。
カップルらしいこと何もしてないから忘れてた。
「ですから甘えてください」
嬉しいけど。私は甘えるのが苦手だ。
しっかりしなくちゃ、って。ずっとそうやって生きて来たから。
及川さんは優しいから私のワガママも笑顔で受け止めてくれる。
それがわかってるから、甘えられない。
嫌われたくない。離れたくない。
どんどん大きくなる想いが怖かった。
◆
試合当日の朝。
鉛色の空から止めどなく雨粒が降り注いでいた。
軒下には柳さんが吊るした、ちょっと怖い笑顔のてるてる坊主が揺れてる。
「あーあ。効果なかったなコレ」
「……はい」
ものすごく楽しみにしてたのに。
天気予報が的中してしまった。
「まあ天気のことは仕方ねーよ。また試合はあんだろ?」
「はい……」
「そんな落ち込むなって。な?」
「……はい」
お店は休みにしてしまったから営業できない。
今日は何して過ごそう。
「及川とデートでもして来いよ。雨の日のお出掛けも風情があっていいモンだぜ」
「でも……」
「俺のことは気にすんなって。独りは慣れてるし」
「柳さんは寂しくないんですか?」
結構、酷いことを聞いたのに、柳さんは平然と答える。
「まあ彼女とか欲しくないって言えばウソになるけどよ。もうトシだしな。若い頃みてーにガツガツしてねぇんだわ」
そうなんだ。
柳さんカッコいいし面白いし、その気になればいくらでも相手が居そう。
「及川は違うぜ。涼しい顔してるけどな。本当は凛ちゃんとイチャイチャしたくて仕方ねーの」
「そうなんですか?」
「アイツああ見えて女好きだから。若い頃は凄かったぜ。日替わりで違う女と――」
言いかけた柳さんの背後から、及川さんが腕を回して首を絞め上げた。
「凛に嘘を吹き込むな」
「じょ……冗談だって!本気にすんなよ!」
「週替わりだ」
マジですか。
まあ及川さんモテるから本当にそうだったんだろうな。
何で今は私だけなんだろ。
あぁ。遊び過ぎて大人の美人には飽きたのか。
だから私みたいな子供に興味があるんだ。
なんか、悲しい。
「……凛さん?」
「……え?」
「何処か具合が悪いですか?」
鋭い及川さんは私の変化にすぐ気が付く。
見たこともない女の人たちに嫉妬してるって思われたくなかった。
「……なんでもないです」
「何でもないことは無いですよね」
「本当に。大丈夫です」
早朝なのに玄関のチャイムが鳴った。
私は逃げるように応対に向かう。
引き戸のガラスに映る人影は男性だった。
甲斐さんかな。
「どうしたんですか甲斐さん。こんな朝早くに――」
戸を開けながら話し掛ける。
目の前には智哉が居た。
「……智哉。今日の試合、中止だってわざわざ知らせに来てくれたの?」
智哉は答えない。
怖い顔で私を見下ろしてる。
よく見たらずぶ濡れだ。
こんな雨の中、傘も持たずに来たの?
「どうしたの。何かあった?」
聞いたら突然、手首を掴まれた。
驚く私を引っ張って、智哉は歩き出す。
「……ちょっと、智哉!何するの!?放して!」
「帰るぞ」
「帰るって……」
「うちに来い」
ちょっと待って。
どうしてそうなるの?
「私は大丈夫だから!心配しなくてもいいから!」
「お前をこんなとこに置いておけない」
「何で!?どうしてこんなこと!」
「凛さん!どうしましたか!?」
騒ぎに気づいた及川さんが駆けて来る。
智哉は足を止めて振り向いた。
今まで見たことのない、鋭い目で及川さんを睨んでる。
「……凛さんを放してください」
「嫌です。凛は連れて帰ります」
「理由は何ですか」
私も知りたい。
智哉がここまでする理由を。
「それはあなたが一番わかってますよね」
智哉の言葉に及川さんは戸惑いを見せた。
「智哉……どういう意味?」
「嘘をついて凛に近づいた理由は何ですか」
「うそ……?」
「凛から聞きました。あなたは高校時代、野球部で甲子園にまで行った」
……それが嘘だったとしても。
それくらいで及川さんを嫌いにならない。
「気になって過去の記録を調べました」
「智哉……もういいから」
「及川という名前の選手は居なかった」
「だから智哉……」
「甲子園の優勝投手でプロ入り確実と言われながら姿を消した悲劇の球児。長谷川信一」
智哉の手には古い新聞記事のコピー。
そこには【長谷川信一】という名の凛々しい少年の顔写真。
「あなたですよね。及川さん」
確かに似てるけど。
これが及川さんなら、プロ野球選手になる夢を蹴ってまで殺し屋になったことになる。
「失踪して偽名を使って生きているなんて、まともじゃない」
「やめて智哉……」
「目を覚ませよ凛。ここはお前が居ていい場所じゃない」
「お願いだからやめて!」
智哉の手を乱暴に振り解く。
涙で滲む視界。
智哉はとても悲しい顔をしてた。
「……ごめんなさい……私……」
「……わかった。好きにしろ」
吐き捨てるように言って、智哉は背を向ける。
智哉が心配してくれてるのは私もわかってた。
でも私は。
及川さんの傍に居たかった。
◆
雨に濡れて抜け殻のようにリビングに戻ったのに柳さんは何も聞かなかった。
及川さんに視線を向けた柳さんが自室の方へ歩いて行く。
柳さんに居て欲しかったな。
この状況で及川さんと2人きりは辛い。
タオルをかぶって力無くソファに座り込む。
及川さんが隣に座る。
どれくらい、そうしていただろう。
雨音が遠くなる。
及川さんが私の手を握った。
彼の温もりは優しかった。
「……凛さん」
「……はい」
「智哉さんが言っていたこと。全て事実です」
あの長谷川信一という少年が及川さんで。
プロ入りの話を蹴って失踪した。
それから殺し屋になって。
今は及川達彦として生きてる。
細かいことは分からないけど。
「大丈夫です。私は、それくらいで及川さんを嫌いになったりしません」
彼は安心したみたいで、表情が和らぐ。
「名前を偽ったことは申し訳なく思っています」
「何か事情があってのことですよね」
「……はい」
「気にしないでください。私にとって及川さんは及川さんです」
「凛さん……」
及川さんがジッと見つめるから恥ずかしくなった。
「凛さん」
「……なんですか」
「キス、してもいいですか」
「……ダメです」
「どうして」
……見られただけでこんなに恥ずかしいのに。
キスなんかしたら恥ずかしくて死ぬ。
私はかぶっていたタオルで顔を隠した。
たぶん耳まで赤くなってる。
「わかりました……凛さんが嫌なら我慢します」
「ごめんなさい……」
嫌われたかな。
こんなの恋人って言えないよね。
及川さんのことは大好きだけど。
先に進むのは怖い。
私が子供だから?
大人になれば平気になるのかな。
それなら早く大人になりたい。
大人になって、彼と結ばれたい。
そんなことを考えている私の肩を、及川さんは抱き寄せる。
「凛さん」
「……はい」
「いつか。全てをお話しします」
「……本当ですか?」
彼の手が遠慮がちに私のタオルを外し髪を撫でた。
「戻りたくても。もう、戻れませんから」
それって……どういう意味?
「知った上で凛さんが私を選んでくれるなら。結ばれたい」
いつになるかわからないけど。
私は及川さんの全てを受け入れられるだろうか。
……いや。受け入れたい。
何があっても。
彼と共に歩みたい。
「……凛さん?」
私は彼の胸に擦り寄った。
自分から甘えるのは初めてだった。
見上げたら及川さんは戸惑いの表情を浮かべてたけど。
私は構わず、唇を寄せる。
「雨止んだぜ。ラーメンだけでも食いに――」
戻って来た柳さんの声を聞いて、私たちは慌てて離れた。
微妙な空気感。柳さんは全てを察した。
「……わりぃ。邪魔したな。続きしていいぜ。俺、出掛けるから」
「大丈夫です!柳さん!居てください!」
「でもよぉ。及川、睨んでるし」
ほんとだ。及川さん、鬼のような顔してる。
あと1センチくらいだったよね。
我ながら大胆なことをしてしまった。
ブツブツと呪いの言葉を呟いている及川さんをなだめて、柳さんに明るく声をかける。
「私、カップラーメンでいいです。今日は家に居たいので」
「更に安上がりになってっけど」
「いいんです。みんなで食べれば何でも美味しいから」
「凛ちゃんがいいならいいけどよ」
「決まりですね!」
私が笑顔で言ったら、及川さんも笑ってくれた。
大丈夫。元通りだ。
綻びてなんていない。
私たちの日常は。
智哉もきっとわかってくれる。
私は幸せだって。
そう自分に言い聞かせて私は、お湯を沸かすためキッチンへ向かった。
【 続 】
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