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記憶
――目が覚めると、アレスは森の中の洞窟にいた。
服は纏っていない。裸である。アレスは体を起こすと、体にかけていた毛布を適当に纏い、一緒に眠っていたはずの友の姿を探す。アレスの対面、薪の燃えかすの前には人が横たわっていた痕跡だけ残っている。脱ぎ散らかした衣服も残っているから、そう遠くへは行っていないはずだ。
アレスが外に目を向ければ、探し求めていた友が背を向けて洞窟の外に座っている。友はアレスが起きたことに気付いた様子はなく、ただ静かに星空を眺めていた。
「オリオン」
アレスが友の名を呼べば、彼はゆっくりと振り向いた。
短く刈り上げられた黒い髪に、紺碧の海のような青い瞳。通った鼻筋に薄く開いた厚い唇。体つきは逞しく、狩人と言われなければ戦士と間違えそうである。
オリオンもやはり裸であり、体には毛布だけ纏っている。
「アレス。もう少し眠っていても良かったんだぞ」
凜とした顔つきに柔らかい笑みを浮かべ、オリオンは小さな笑い声と共にアレスに言った。
「いや、お前が起きているなら俺も起きる」
アレスは立ち上がると、頭の後ろを掻きながらオリオンの元に歩み寄った。
オリオンの傍らに並ぶと、腰を下ろして空を見上げる。
空には、目では追いきれないほどの星が輝いている。
「綺麗だろ? 今日は月のない夜だから、星が一段と輝いているんだ」
アレスの隣でオリオンが笑う。アレスはオリオンの横顔を一瞥すると、すぐに星空に視線を戻して頷いた。
「美しいな」
アレスの嘘偽り無い感想に、オリオンが満足そうに頷いた。
星空を眺めていると、アレスの意識は記憶の海に沈んでいった。。
軍神としての務めの合間に、オリオンと時間を過ごすようになったのはいつからだったか。何年も前の昔のことのようでもあるし、つい最近知り合ったばかりのようにも思える。正確な年数は、もう覚えていない。
覚えているのはオリオンと会話を交わしたのは、彼が狩人になってからだということだけである。
初めて出会った時のことを思い出す。あれはアレスが狼の姿をして森を駆けていた時のことだ。その日は鍛錬でアテナに負け、父ゼウスに叱責された。心の中を黒い感情の嵐がかき乱し、アレスは気分転換に狼の姿に変えて森を駆け回っていた。
獣の姿になって当てもなく駆け回るのは気分が良かった。この姿になれば、一時だけでも神であることを忘れられる。誰にも咎められることもない。誰も自分を指さし、陰口をたたく者はいない。
束の間の自由だった。
アレスが無我夢中で走っていると、一人の若い狩人の後ろ姿を見つけた。
どうやら獲った鹿を解体している最中のようだ。その背後から、一頭の熊がのそり、のそりと近づいていた。どうやら狩人を襲って鹿を奪うつもりのようだ。
(丁度いい)
いつもなら見捨てているが、今日のアレスは機嫌が悪かった。
アレスは獣の咆哮を上げて熊に襲いかかると、熊の喉に食らいつき、一噛みで熊を殺してしまった。ずしん、と熊の体が地面に仰向けに倒れる。
アレスは血で濡れた口を離すと、低く唸った。
不意に、ざり、と土を踏む音が聞こえた。
アレスがそちらを振り返ると、狩人が困惑した表情でアレスを見下ろしていた。
男の顔は美しく、纏っている気配から、アレスは目の前の狩人が神の血を引いていることを悟った。
「……貴殿は、いずこの神か?」
狩人はアレスに声をかける。狩人の声は低く、囁かれれば脳が蕩けてしまうであろう。
「そうだ」
アレスは獣の姿のまま、狩人の問いに頷いた。
狩人は表情を引き締めると、その場に跪き、頭を垂れた。
「――いずこにおわす神であるか存じ上げぬ無礼を、どうかお許し下さい。我が命を助けていただき、ありがとうございます」
感謝を述べた後も、狩人は頭を上げなかった。狩人の態度に、興味を持ったアレスは熊の亡骸の上に座ると、頭を上げるように言った。
「そなた、名のある狩人とみるが、名はなんと申す」
アレスの許しを得た狩人は、頭を上げてアレスを見つめると、静かな声で名乗った。
「私は海神ポセイドンとミノス王が王女エウリュアレの息子、オリオンです」
オリオンが自分の名を繰り返し呼んでいる声にようやく過去から現在に意識を引き戻したアレスは、隣に座るオリオンを見た。
「アレス、どうしたんだ。ボーっとしていたぞ」
「ああ……すまない。考え事をしていた」
アレスはオリオンに謝罪をすると、片膝を立てて膝の上に腕を載せた。
「……今日は本当に星が綺麗だな」
「ああ。ずっと見ていたくなるくらいだな」
「そうだな」
暫く二人で星空を眺めていると、ふと、アレスがぽつりと言った。
「……夜が永遠に続けばいいのに。そうすれば、争うこともなく、人々は永久に安寧の中にいられる」
アレスの言葉に、オリオンは心底おかしくてたまらいと言いたげに笑った。
「馬鹿。朝が来なかったら、みんな飢え死にしてしまうじゃないか」
「それもそうだな」
アレスはふっと小さく笑うと、オリオンを見た。
「オリオン。明日は何をしようか」
「何だ? 明日は宴があるからオリュンポスに帰るんじゃなかったのか」
「気が変わった。明日のオリュンポスの宴には参加しない。どうせ俺が参加すればせっかくのご馳走の味も落ちてしまうしな。何、普段から陰口ばかり叩くしか能がない神々への気遣いだ。明日はゼウスとヘラの結婚祝いだが、別に正妻の息子が参加しなくてはならない掟なぞない」
「おいおい、いいのか? 両親の大事な日に、俺みたいな野蛮な人間と一緒に居て」
「かまわん。息苦しいだけの神々の宴に参加するより、友と共に森を駆けるほうがいい」
アレスは歯を見せて笑った。アレスの笑顔につられて、オリオンも幼い子どものように笑った。
無邪気な子どもがいたずらを企んでいるように笑い合ったのは、ある夏の暑い夜のことだった。
――目が覚めると、そこは自分が居候をしているアパートの部屋だった。
アレスはのっそりと布団から起き上がると、額に手を当てて、先ほどまで見ていた夢野内容を反芻する。
あれは、まだエオスとオリオンが交際をする前の記憶だった。まだアレスとオリオンが友人だった頃の記憶だ。オリオンが、生きていた頃の記憶だ。
――ひどく、懐かしい夢だった。
アレスはそれだけ思うと、思い出の海から意識を浮上させる。額から手を離すと、立ち上がって部屋から出た。
まだ起き上がるには早い時間らしく、リビングに家主の姿はない。
アレスはベランダに出ると、手すりに寄りかかり、朝日が昇り始めようとしている世界を眺めた。
朝刊を配達するバイクの音。
犬の鳴き声。
鳥のさえずり。
夜が明ける前の世界は平穏だが不穏で、どこか寒く、孤独を感じる。
アレスはふと、隣を見た。当然の如く、そこには誰もいない。
アレスは誰もいない場所に向かって、夢の中で出会えた友の名を呼んだ。
「俺は、お前を――」
続く言葉は突然吹いた風に掻き消される。
風は生ぬるく、まるで人間の息のような気持ち悪さと、微かな血の香りと死の気配を孕んでいた。
「オリオン。俺は、必ずお前を」
手すりを強く掴み、アレスは唸るように呟いた。
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