伝令神

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伝令神

私とアレスさんは一緒に上野の国立科学博物館に来ていた。 アレスさんの希望で、一緒に上野公園内の施設を満喫すると決めていたのだ。 私は神話を好きになった影響で歴史にも興味が湧き、よく博物館や美術館に足を運んでいる。生まれ育った北海道から埼玉に引っ越してきた後は、博物館巡りと美術館巡りが趣味の一つとなった。 現在、私たちは動物の剥製エリアに来ていた。 「へえ……これが間近で見た日本の熊の大きさか」 「以前見に行った動物園だと檻の中での様子しか見えませんでしたからね」 熊の剥製を前に、顎に手を当てて夢中になっているアレスさんに、私はくすくすと微笑んだ。 アレスさんと一緒に上野公園に来るのは、今回が初めてではない。アレスさんに知識を教えている一ヶ月の間に、動物園に行ってみたいと言われたので上野動物園を案内したのだ。 初めてアレスさんと出かけたときは彼がトラブルを起こさないようにしなければいけないという思いと、これって推しとのデートになるのではと思ったが、始まってしまえばなんということはなかった。 動物に夢中になるアレスさんを見て居ると、こっちまで嬉しくなった。 推しが幸せな姿をしていると、こちらも嬉しくなる。 それから休日はアレスさんのリクエストを聞いて、二人でおでかけするようになった。 今日は新しく下ろした水色のワンピースを着ているんだけど、変じゃないかな。ちなみにアレスさんはいつものTシャツにジーンズ、日よけ用の帽子にサングラスをかけている。 「それにしても動物の剥製が多いな」 「ええ、一〇〇頭を超えるそうですよ」 「すごいな……よくこれだけの剥製を集めることができたものだ」 「本当ですよね。研究者や猟師さんの並々ならぬ努力があったのでしょうね」 「ああ、本当に。……名残惜しいがそろそろ出なければならないな」 「はい」 今日は科学博物館だけでなく美術館も楽しむ予定だ。名残惜しいが展示室を後にして、私たちは出口に向かう。 ふと、アレスさんが視線だけを後ろに向けた。 「どうかしましたか?」 「いや、なんでもない。気のせいだ」 私は首を傾げながら展示室を後にして、アレスさんと一緒にエスカレーターに乗った。 お昼は科学博物館内でとった。私はパスタを、アレスさんはカレーを注文する。 私たちは二人掛けのテーブルに腰を下ろして、対面の席に座って注文したものを食べながら話をしていた。 「上野は博物館が二つあるのか。もう一つの博物館はどんな博物館なんだ?」 「うーん、上野公園の奥にあるのであまり足を運んだことはありませんが……国立博物館は常設展よりも特別展のほうが有名ですかね。本館で展示されているものも素晴らしいのですが、展示されている数が少なくて……でも、たくさん国宝が見られますよ」 「そうなのか。それは是非行かないとな」 「でも今日は美術館もあるし、国立博物館はまた今度ですね」 「ああ。……それにしても、せっかくの休みなのにいつも俺の我が儘に付き合わせてしまって悪いな」 カレーをスプーンで弄りながら困った顔をするアレスさんに、私は慌てて手を振った。 「そんな! いいんです。アレスさんと一緒におでかけするの楽しいですから。……そうだ! 来月の夏休み私と北海道に行きませんか?」 「北海道?」 「はい。実家の仕事を手伝いつつ、北海道のアイヌに関する博物館や資料館を見に行きましょう。幸い私は運転免許を持ってますし。二風谷や白老に行きましょうよ」 北海道には美味しい物がたくさんあるから、アレスさんを連れて行ってたくさん食べさせてあげたい。ウニとかいくらとか。ミョウバンじゃなくて海水に浸かってる生ウニは本当に美味しいんだよね。 それにうちは畑と酪農をやっていて、兄が家を継いでいる。お義姉さんは現在四人目の子どもを妊娠しているし、両親も年老いているし大変だろう。絞りたての牛乳も飲ませてあげたい。 アレスさんは農業もやっていたそうなので、手伝って貰えたら幸いだ。 「アイヌに関する資料館か。面白そうだな。……そういえばまことってアイヌの血が流れているんだよな?」 アレスさんは私に配慮して、小声で私の出自二関して問いかける。 私は頷いた。 私の先祖は開拓時代に北海道に移民してきた本州の男性であり、当時にしてはかなり珍しい、先住民族を受け入れてくれる人だったらしい。彼は開拓の傍ら、一人のアイヌの女性と出会って恋に落ち、彼女を妻に迎えた。家族には大反対されたそうだし、自身も妻も生まれた子どもも差別に苦しんだそうだが、それでも彼らは激動と差別の時代を乗り越え、血を繋いでいき、現在もその血筋は続いている。 「でも私はアイヌの言葉をしゃべれなくて。祖母の母がアイヌの言葉を娘に教えまいとしたせいでしょうね。時代を考えると仕方の無いことですが」 「……自分の民族の言葉を後世に伝えられないっていうのは辛いよな」 「そうですね。でも、アイヌ語を後世に伝えようと努力してくれる人々がいる。それだけで救われた気持ちになります」 アイヌ語は消滅が危惧されている言語だ。それを残そうと、あらゆる人々が日々努力をしてくれている。それは罪滅ぼしなのかもしれないし、ただの知的好奇心かもしれない。 それでも構わなかった。私が後の民族に対して何も残せない分、他の人々が残してくれる。 「アイヌが出てくる漫画などのおかげでアイヌに対する目は変わったかもしれません。でも、人々の心に刻まれた差別意識を感嘆に変えることはできません。でも、たとえ差別されたとしても、アイヌであることを隠さねばならないとしても、私にとってアイヌは誇りなんです」 私の家は農家の家系だ。狩猟民族じゃない。それでも、山菜の時期が訪れると祖母が山菜の見分け方を終えてくれたし、祖母はアイヌ語を決して教えない代わりにアイヌの刺繍や料理を教えてくれた。家の物置の中には、先祖が大切に使ってきたアイヌの道具がある。 そういうものも、見せてあげたい。 「家のことを手伝っていただくことになっちゃいますけど、長期間の休暇が取れたら北海道に行くことになっているので、興味があれば是非!」 「うん。考えとく。ありがとうまこと」 アレスさんは笑うと、カレーを一匙すくって食べた。 科学博物館を出て、さあ次は美術館に行こう、というところで、その人影は私たちの傍を足早に通り過ぎ、立ち塞がった。 目元が隠れるようキャップを被り、さらにフードを被っている。目にはサングラスをかけており、髪は金髪。パーカーにジーンズ、スニーカーというありふれた格好をした外国人だが、纏っているオーラが違う。なんていうか、アレスさんに似ている……? 私がアレスさんを見ると、アレスさんは険しい顔をして目の前に立ち塞がる人物を見た。 私はもう一度目の前に立つ人物を見た。……見た目で分からないけれど、あれは女性? でも、体つきは男性っぽい。 科学博物館前には私たち以外誰もいない。いや、館内から出て行こうとする人はいるのかもしれない。私たちが邪魔しているだけで。 風が吹く。フードを被った人物はようやく口を開いた。 「――探したよ、アレス」 低く、怒気を孕んだ男の人の声に、空気がビリビリと棘を刺す。 空気が重い。息苦しい。肺が圧迫されて潰れてしまいそう。 アレスさんの名前を知っているってことは、ギリシャの神さまのひとり? でもなんで怒っているのかしら。 あまりの息苦しさに耐えられなくなりかけた瞬間、アレスさんの逞しい腕に抱きしめられた。 私がアレスさんを見上げると、アレスさんは大丈夫だと言い聞かせるように頷いた。 そして、フードを被った男の人に声をかける。 「なんの用だよヘルメス」 アレスさんが男の人にぶっきらぼうに質問する。 男の人――ヘルメスさんはフードを脱ぐとキャップとサングラスを外し、顔を露わにする。 美しく整った顔は怒りで歪んでいる。 「決まってるだろ。お前を連れ戻しにきたんだ」 「なんで」 「お前が勝手にギリシャを出て言ったのが問題だからだ」 「嫌だといったら?」 「――力尽くだ」 アレスさんとヘルメスさんは一歩も譲らない。このままでは本当に戦闘が行われてしまうだろう。 「あ、あの~」 場違いとは理解しつつも、おずおずと手を上げる。ここで戦闘行為をされてはまずい。 科学博物館は建物自体が国の重要文化財だし、絶対に人間が巻き込まれるし、警察が出動すればニュースになってしまう。 二人の神さまの視線を受けてたじろぎつつも、私は提案した。 「もしよかったら何ですけど、ゆっくり話ができるところに移動しませんか? 立ち話もなんですし、聞かれたくない話であれば個室のある飲食店を用意いたしますので」 二人は黙っている。私が冷や汗を流し、唾を飲み込んでいると、先に折れたのはヘルメスさんだった。 「……そうだね。何も同盟国であるこの国の人間を巻き込みたいわけじゃない。君は事情を知っているようだしね。この馬鹿が逃げないように拘束しておいてくれる?」 「が、頑張ります」 私の細腕じゃアレスさんは止められないだろうけど、やれることはやろう。 ヘルメスさんは意気込む私を見ると、ようやく表情を和らげてくれた。 てくてくとゆっくりとした足取りで私たちに近づくと、私の右手をとり、にっこりと微笑んだ。 「それじゃあ、美術館に寄った後で美味しいお店に連れて行ってよ」 美術館を見学した後、私たちは個室のある居酒屋に向かい、そこで話をすることにした。 お座敷だけど大丈夫かな……と不安に思ったが、二人は楽な姿勢で座っている。 一通り注文した後、店員が去った後でヘルメスさんがお辞儀をした。 「まずは自己紹介を。僕はヘルメス。オリュンポス十二神の一柱で、伝令神をしている」 「お会いできて光栄です、ヘルメスさん。私は梅雨霧まこと。訳あってアレスさんの同居人をしております。……あっ、すみません。ヘルメスさま、でしたよね」 「ああ、呼び方は気にしてないからいいよ。僕たちが信仰される時代はとっくの昔に終わったことだしさ。まことちゃんって呼んでいい?」 「もちろんです。私は下々の者なので、どうぞお好きなように呼んで下さい」 店員が「失礼します」注文していた飲み物が運ばれてくる。 再び店員が去った後、私たちは乾杯をした。 ちなみに私はウーロンハイ、アレスさんはビール、ヘルメスさんは檸檬サワーだ。 私たちはお酒を飲みながら世間話をしたり、今までのアレスさんとの同居生活で不便だったことはないかなど聞かれ、答えたりした。 料理も来て、話が盛り上がり仲が深まったところで私はヘルメスさんに問うた。 「それで、ヘルメスさんはどうして日本に来られたんですか? 伝令のお仕事なんて大変でしょうに……」 「さっきも言ったけど、君がお世話してくれているそこの馬鹿兄貴を連れ戻しに来たんだよ」 私はアレスさんを見た。アレスさんは話を振られない限り、ずっと黙っている。 私はアレスさんの態度を不審に思いつつ、ヘルメスさんに尋ねた。 「アレスさんが仕事を放棄してバカンスに出かけたことですか? そりゃあ、仕事を放り出してバカンスに言ってしまったのは悪いことだと思いますけど。でも、申請とかはちゃんとされてるんですよね?」 私の言葉に、ヘルメスさんが思い切りしかめ面をしてアレスさんを見た。美しい顔が台無しだ。 「お前、まことちゃんと一ヶ月も過ごしてて、この子に何も説明してないの」 「……ちゃんと説明した」 「説明してないだろ肝心の部分を! 抜けてるだろ肝心の部分が!」 ヘルメスさんがジョッキを机に叩きつける。個室を選んで本当によかった。 ヘルメスさんは顔を両手で覆うと、私を見た。 「……まことちゃんの中だと、アレスは単に仕事を放棄して、バカンスにでかけたってイメージなんだよね?」 「はい」 「あのね、まことちゃん。僕が日本にきたのは、そこの馬鹿が“オリュンポス十二神やめてバカンス行ってきます”って書き置き残して、父さんに何の相談もせずに勝手に他の神に仕事の引き継ぎして逃げ出したからだよ」 ヘルメスさんがアレスさんを指さした。 私は目をパチパチと瞬かせてから、勢いよくアレスさんを見た。アレスさんは顔を背けた。 「アレスさんオリュンポス十二神やめちゃったんですか!?」 ヘスティアがディオニュソスにオリュンポス十二神の座を譲ったという逸話があるからオリュンポス十二神を抜けることには疑問はないが、推しがオリュンポス十二神を抜けるというのは聞き捨てならない。 私が食い気味に尋ねると、アレスさんは人差し指をつんつんと合わせてごにょごにょ言い訳をする。 「だってよう、俺いつまでも姉貴に勝てねえし、嫌味は言われるわ家族親族からの目線はいつまで経っても冷たいわ、なんでオリュンポス十二神の一柱なんだって言われるわで正直やめたかったんだよう」 「いやいやいやそれにしてもそんな突然……せめてゼウスさんに報告するとか! ていうかアレスさんの後継者って誰にしたんですか?」 「エオス」 「元カノ!?」 オーロラの語源にもなった暁の女神エオスはアレスさんと恋人だった過去を持つ女神だ。 確か神話では、アレスさんと仲良しな姿を妬んだ愛と美の女神アフロディーテが呪いをかけたのだという。エオスはアフロディーテの呪いによって人間しか愛せなくなり、アレスさんとは別れた……という話だったはず。 でも何でエオスさんを推したんだろう。元恋人で、呪われてしまったことの償い? それにしてはあまりに遅すぎるような。 アレスさんは焼き鳥の串を一本手に取った。 「軍神は二人もいらない。軍神は姉貴だけで充分だ。俺だってたまには羽を伸ばしてのんびり過ごしてえんだよ」 「そのせいで僕たちがどれだけ迷惑被ってるかわかってる? 父さんに至ってはアレスを連れて帰るまで戻ってくるなって僕とイリスに言ってるんだよ? とんだとばっちりだ」 「ならお前も日本でバカンスすりゃいいだろ」 「そういうわけにはいかないんだよこの馬鹿長男!」 ヘルメスさんは怒り心頭だった。綺麗な顔に血管が浮き出ている。あれ切れる一歩手前だ、多分。 やってきた店員が不穏な空気に耐えられず、注文品を置いてそそくさと逃げてしまう。 個室にして本当によかった……。 私はヘルメスさんの怒りを宥めようと自分が食べるために注文した唐揚げを全部捧げた。 ヘルメスさんは私の存在を思い出すと、長く息を吐いて怒りを静めた。 「オリュンポス十二神のもめ事に巻き込んじゃってごめんね、まことちゃん」 「い、いえいえ……むしろ私の方こそすみません。そんな大事だとは思っておらず……」 「まことちゃんは何も悪くないから謝らなくていいよ。謝るのはそこの馬鹿軍神だから」 アレスさんは何も言わない。 私はさっきから心臓と胃がキリキリと痛み出している。 「あ、あのう……アレスさん。一度お父さんに、ゼウスさんにお手紙を出したらどうですか? 何日には戻るとか、ちゃんと言っておけば」 「俺はオリュンポスには戻らない」 アレスさんははっきりとした口調で断言した。 私もヘルメスさんも声を揃えて「え」と聞き返す。 「だから、オリュンポスにはもう戻らねえって言ってんの」 「いやいやいや!」 私はねぎまを食べるアレスさんの肩を掴んだ。 は? オリュンポスには帰らない? 何言ってんのこの神さま。バカンスの意味をきちんと理解しておいでで? 私はヘルメスさんを見た。ヘルメスさんの怒気がやばい。 「せめて理由を話しましょうよ! なんでオリュンポスに戻りたくないんですか!」 「そりゃあ敵だらけの職場にすっと居続けるとか気が滅入るだろ。俺日本でのバカンスが終わり次第日本に移住して農家やるから」 「ちょっと!?」 答えているようで答えてない。そんなぼんやりした理由でオリュンポスに帰らないなんて言えるのかこの神さま。 ヘルメスさんが再び溜息を吐いた。ガシガシと頭を掻いて、私を見た。 「……まことちゃんのアパートって空き部屋ある?」 「はい、昨日隣人が引っ越して隣が空きました」 「ならいいや。僕とイリスそこに引っ越すから、もしアレスが心変わりするようだったら教えてね」 ヘルメスさんの言葉に、ねぎまを食べ終えたアレスさんが「おい」と声を掛ける。 「ったく、わかったよ。親父には手紙出してやるから、お前もうオリュンポスに帰っていいぞ」 「悪いけど本当のこと話してくれるまで帰らないから。ごめんねまことちゃん。こいつの心が変わるまでお世話頼める?」 「は、はい。最近物騒ですし、男の人がいるなら安心できますから寧ろオーケーです」 「まことちゃんがいいならいいや。……とにかく、そういうわけだから。お前逃げんなよ」 アレスさんに釘を刺したヘルメスさんは口を大きく開けて唐揚げを口に運び始めた。 ……明日から困ったことになったぞ、これは。 私は居酒屋の個室の天井を仰ぎ見て、これからの生活に思いを馳せた。悪い意味で。
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